土曜市の夜は大阪樟蔭女子大学マンドリンクラブの定期演奏会でした。
部員数が少ない中、がんばっていました。
今年はマンドリン四重奏を今年卒業の部員と演奏してくれました。
カルロ・ムニエル(Carlo Munier、1859年7月15日 - 1911年2月10日)
マンドリン奏者、作曲家。
に養育されました。
に入学し、ピアノ・和声・作曲を学び、19歳で卒業しました。
の前で『序曲ニ長調』などの自作の演奏を行い、賞賛の言葉を受けました。
マンドリン四重奏は、マンドリン2本、マンドラ、マンドリンチェロとギターのために作られています。
部員数が少ない中、がんばっていました。
今年はマンドリン四重奏を今年卒業の部員と演奏してくれました。
これがなかなかよかったです。
カルロ・ムニエル(Carlo Munier、1859年7月15日 - 1911年2月10日)
イタリア ナポリ生まれ、イタリア フィレンツェ没。
マンドリン奏者、作曲家。
それまでワルツ・セレナーデ・行進曲のような軽音楽の分野に限られていたマンドリンを、クラシック音楽の楽器として認知させるよう尽力し、マンドリン復興の祖と評価されています。
幼くして父母を喪い、母方の祖父のパスクワーレ・ヴィナッチャ
に養育されました。
ヴィナッチャ家は18世紀前半から続く楽器製作メーカーとして知られていて、パスクワーレはマンドリンに改変を加え、モダンマンドリンの祖の一人とみなされています。
ムニエルはヴィナッチャ家の人々からマンドリンの演奏を教わり、初めての作品の『マンドリンとギターのための3つのマズルカ』はおじのジェンナーロに捧げられています。
最初に音楽の手ほどきを受けたヴィナッチャ家の工房で成長したムニエルは、カルミネ・デ・ラウレンティス(1869年にリコルディから『マンドリン教則本』を出版したナポリの音楽家)からマンドリンとギターのレッスンを受けました。
15歳の時にナポリ音楽院
に入学し、ピアノ・和声・作曲を学び、19歳で卒業しました。
卒業後はナポリで演奏会を開くようになり、また最初の作品が出版されました。
それは『椿姫』と『清教徒』を2つのマンドリン、マンドラ、ピアノの四重奏に編曲したもので、後者はイタリア王妃に献呈されました。
22歳の時にフィレンツェに移り、そこで後半生を過ごすこととなりました。
フィレンツェではすぐにヴィルトゥオーソとしての名声を確立し、またマンドリン・ギター教室を開きました。
著名な生徒には王妃のマルゲリータ(1851-1926年)
がいます。
1890年に第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドリュートからなるマンドリン四重奏団を結成し、イタリア全土で演奏活動を行いました。
そのためこの形態のアンサンブルが一般的になることとなりました。
1892年には著名なヴァイオリニストのカミッロ・シヴォリが主催するジェノヴァ国際コンクールで四重奏団は一等賞を獲得し、さらに『協奏曲ト長調』で作曲・演奏の両方で金賞を獲得しました。
1909年10月、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869-1947年)
の前で『序曲ニ長調』などの自作の演奏を行い、賞賛の言葉を受けました。
1910年にマルセイユとアントウェルペンまで演奏旅行を行いましたが、フィレンツェに戻った直後に病にかかり死去しました。
最初の妻のルイーザは若くして亡くなり、ムニエルは『悲歌』を捧げています。
2番目の妻のアルミダとの間にはルイーザとエレナの2人の娘を儲けました
マンドリン四重奏は、マンドリン2本、マンドラ、マンドリンチェロとギターのために作られています。
マンドリン四重奏 op128