音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

もう家の無い子どもたちのクリスマス

2024-12-21 21:00:00 | 近代
金曜日くずはモールで私たちの仲人さんにやっとお歳暮…お年賀?を送りました。
もう熨斗無し。
いつも干支飾り。
他のものを送ったこともありますが、他のものは要らないそうです。

例年ならもう今頃は売切れですが、蛇は人気がないのか、まだたくさんありました。
それでも、人気のものはさすがに在庫が少ない。現品限り、最後の1個をゲットしました。
贈ってもらうようにお願いしたら、送料が本体の半額!
高っ!
でも仕方ないものね。時間も無いし…。
お願いしてきました。

AIさんに聞いたら、巳年は、蛇が脱皮を繰り返して再生し、餌を食べなくても生き続ける強い生命力を持つことから、新しい挑戦や変化に対して前向きな姿勢を示す年。

蛇は金運の象徴、「豊かさ」や「繁栄」を意味します。

巳年生まれの人は、努力家で、物事を成し遂げるための粘り強さを持っています。また、冷静沈着で分別ある判断ができ、感情を抑えて常識的な行動をとるため、内面では感受性が強く、人の気持ちを察して行動をとることも得意です。

ですって!亡くなった父が、巳年でしたが、確かに努力家で粘り強かった。
田舎の農家から、二宮金次郎ばりの努力で医学部に入ったそうです。
せっかく入ったのにアルバイトしながら勉強。
やり過ぎて体を壊し、お金のかかる医学部は断念し、教師になる道を選んだそうです。

来年はみんなにとっていい年になりますように🙏

クロード ドビュッシー(1862-1918年)フランス帝国サン・ジェルマン・アン・レー生まれ、フランス共和国パリ没

1914年、第一次世界大戦が勃発してエンマ

の息子(エンマの連れ子)のラウルが兵士として動員されたことなどを受けて、ドビュッシーは戦争を恐れるようになりました。

ドビュッシーは、9月に家族とともにアンジェに避難しましたが、1か月後にパリへと戻ります。

この時すでにドビュッシーの身体は病に侵され、大腸癌を発病していました。

この頃から「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手しますが、完成したのは3曲のみでした。

1915年、『12の練習曲』や『6つの古代碑銘』などを生み出します。  

3月23日に母が死去、同じ頃にエンマの母もこの世を去っています。 
これから数年後の
フォッシュ通りからの眺め。
1918年初旬、直腸癌により床から離れられなくなり、3月25日の夕方に息を引き取りました。55歳。

1905年から死去する1918年にかけて居住したパリ16区スクアール・ド・ラヴニュ=フォッシュ (Square de l'Avenue-Foch) 24番地の自宅でした。

1915年第一次大戦中の陰鬱な時代に
「もう家のない子供たちのクリスマス(Noël des enfants qui n'ont plus de maison)」は作曲されました。

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
Ils ont brûlé l'école et notre maître aussi.
Ils ont brûlé l'église et monsieur Jésus-Christ!
Et le vieux pauvre
Qui n'a pas pu s'en aller!

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
Bien sûr! papa est à la guerre,
Pauvre maman est morte
Avant d'avoir vu tout ça.
Qu'est-ce que l'on va faire?
Noël! petit Noël! n'allez pas chez eux,
N'allez plus jamais chez eux,
Punissez-les!

Vengez les enfants de France!
Les petits Belges,les petits Serbes,
Et les petits Polonais aussi!
Si nous en oublions,pardonnez-nous.
Noël! Noël!
Surtout,pas de joujoux,
Tâchez de nous redonner le pain quotidien.

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
Ils ont brûlé l'école et notre maître aussi.
Ils ont brûlé l'église et monsieur Jésus-Christ!
Et le vieux pauvre
Qui n'a pas pu s'en aller!
Noël! écoutez-nous,
Nous n'avons plus de petits sabots:
Mais donnez la victoire aux enfants de France!


わたしたちにはもう家がない!
敵がみな奪い去ってしまった
ちっちゃな私のベッドまでも!
学校も、先生も焼き尽くした
教会も、イエス・キリスト様も
そして、逃げることができない
かわいそうな貧しいおじいさんまでも!

わたしたちにはもう家がない!
敵がみな奪い去ってしまった
ちっちゃな私のベッドまでも!
おとうさんは戦争に行ってしまい
おかあさんは、死んでしまった
この残虐な仕打ちを見ることなく
これからどうすればいいの?
メリー・クリスマス。クリスマス。
やつらの家にはもう祝福がありませんように。
神様、やつらを罰してください。

フランスの子供たちよ。復讐を!
ベルギーの子も、セルビアの子も
ポーランドの子たちも。
かれら仲間たちを忘れてました お許し下さい。
メリー・クリスマス。クリスマス。
プレゼントのおもちゃはもうないけれど
日々のパンだけはどうかお恵みください

わたしたちにはもう家がない!
敵がみな奪い去ってしまった
ちっちゃな私のベッドまでも!
学校も、先生も焼き尽くした
教会も、イエス・キリスト様も
そして、逃げることができない
かわいそうな貧しいおじいさんまでも!
メリー・クリスマス。神様、お聞きください
わたしたちにはもう、履く靴すらないけれど
フランスの子供たちに、勝利をお授けください
美しい歌声ですが、子どもたちに深い心の傷を負わせた第一次世界大戦が、ドイツへの重い賠償責任を負わせ、第二次大戦でのホロコーストを産み、その傷がさらにガザの空爆に繋がり…。終わらない暴力の連鎖の中に未だにいる世界を思わずにはいられません。

本当の強さでお互いを赦し合う日は来るのでしょうか?
来なければ、行きつく先は
ああ!本当に来年はいい年にしなければ!






2024-12-20 21:02:00 | 現代
京都医療センター藤森駅で降りるとに、晴れていたのに小雨、というより霙(みぞれ)。
傘を持っていかなかったのでコートのフードをかぶって行きました。

寒い!

前に来た時、川にいた鴨の姿も見えませんでした。

学校帰りの小学生が年嵩の男の子に「雪降って寒いから、お前んち寄っていってもいい?」と聴いて「お前の家の方が近いやん。」と断られていました。
ぶっと吹いてしまった。
けれどなんだか気持ちはわかるなぁ。
寒いと人恋しいんだよね。
雪はあっという間にやみました。

武満徹(1930-1996年)日本東京都生没

1961年
1930年10月8日に東京市本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目)で生まれます。

父は鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めました。

山口県出身の母麗子は祖父が漢学者。女学生時代からコレスポンデンスクラブに入り、外国人と積極的に文通したり、軍部批判を声高にしゃべったりする女性でした。

父は玉突きやダンスの得意な、かなりの放蕩者だった。会社へはあまり行きたがらず、「将来、徹を絶対に会社員にしてくれるな」と口にしていました。
武満が後年会社員を目指したのは、父の言葉への反発からでした

生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡ります。

1937年(昭和12年)、小学校入学のために単身帰国、叔母の家に預けられ、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学、終戦まで7年間にわたって叔母の家で育てられました。

1938年(昭和13年)に父が病死。母は、父が亡くなった後上京するも、生計を立てるため武満とは別に暮らしたました。

叔母の家は「日本的に入り組んでいる家」(武満)で、株屋だった叔父はほとんど家に帰らず、道楽に明け暮れました。

年上の従兄が4人同居していて、下の2人に武満は影響を受けました。

叔母は生田流箏曲の師匠で、初期の習作的な作品「二つの小品」(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られるます。

1943年(昭和18年)、旧制の私立京華中学校に入学。
額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」でした。

在学中の1945年(昭和20年)に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員されます。

軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていたリュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」(Parlez-moi d'amour)を耳にして衝撃を受けます。

また戦争中は予科練を受験。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年でした。

戦後最初はサラリーマンを志していましたが、教練で点数が最低で「可」であったため、上級学級には進学できず、大学進学はあきらめ、同時に会社員もあきらめました。

終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接しました。

やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学でした。

京華中学校卒業後、1949年(昭和24年)に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)

作曲科を受験。

この時期の作品としては清瀬保二に献呈された「ロマンス」(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された「二つのメロディ」(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在します。

1950年(昭和25年)に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲「2つのレント」を発表して作曲家デビューします。

この曲は当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評されます。

この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、「2つのレント」の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品「妖精の距離」(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとりました。 

瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ「生きる悦び」で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲「遮られない休息I」(1952年)などの作品を発表しました。

「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけました。

これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレート(人や動物の声、鉄道や都市などから発せられる騒音、自然界から発せられる音、楽音電子音楽曲などを録音、加工し、再構成を経て創作されます)の手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられています。

前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される「さようなら」(1954年)、「うたうだけ」(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっています。

この間、私生活においては「2つのレント」を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香(劇団四季女優)
と1954年に結婚しました。

病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨

は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住しました。 

1957年(昭和32年)、早坂文雄(1955年没)に献呈された「弦楽のためのレクイエム」を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキー

が偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となりました。

1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための「ソン・カリグラフィI」(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための「マスク」(1959年)、フルート、テルツギター、リュートのための「リング」(1961年)などを発表します。

大阪御堂会館


で行われた「リング」の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになります。

この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品「樹の曲」(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品「テクスチュアズ」(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがあります。

この「テクスチュアズ」で日本人作曲家として初めてインターナショナル・ロストラム・オブ・コンポーザーズでグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がりました。

1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ています。

1962年(昭和37年)にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲しました。

1963年作曲「雪」Le neige
1963年は武満の「うた」がたくさん生み出された年でした。

この曲は映画「白と黒」の主題歌でフランス語の詞。詞を書いたのは美術評論家の瀬木慎一で、映画では岸洋子によって歌われました。

『白と黒』(しろとくろ)は、1963年の日本のミステリー・サスペンス映画。橋本忍のオリジナル脚本を堀川弘通監督が映画化しました。

雪 La Neige
Il neigeait, il neigeait
Quand il se fut eloigne
Elle pleure de nouveau
Apres la nuit blanche
Une autre nuit blanche

雪が降っていた、雪が降っていた
おとこが離れていったとき
おんなはまた泣き出す
白い夜のあとの
もうひとつの白い夜
**:**


ローナ・マギーフルートリサイタル

2024-12-19 20:57:00 | コンサート
ローナ・マギーフルートリサイタルに行って来ました。
京都アルティホール
ピアニストは石橋尚子さん。
伊藤公一先生もデュオで出演されます。

丹波橋から近鉄特急

…ではなく急行国際会館行きに乗っていきました。

ロビーにはすでに長蛇の列。
「あぅ!」と手を振ったのは伊藤公一セミナーで一緒だった今田聡美さんでした。
さとみんチャンネル

一緒に聞くことにしました。ラッキー!
プログラムはローナさん自身の言葉で書かれていました。
何を伝えたいのか?がはっきり伝わってきたので抜粋ですが転載してみます。

今回のプログラムは幻想的な要素を共通して取り入れたといいます。

マックス マイヤー オルバースレーベン(1850-1927年)

ファンタジー ソナタop17
フランツ リストに師事したトーン ポエム 第2楽章はシュテンドヒェン(セレナーデ)愛するひとに捧げる愛と優しさのの証の曲 シューベルトのシュテンドヒェンにインスパイアされました。

マデリーン ドリング(1923-1977年)

フルートとオーボエのための三重奏曲
イギリスで生涯をすごしながらラフマニノフ、プーランク、ガーシュインに影響をウケました。
1947年オーボエ奏者のロジャー ロードと結婚。彼のための曲を書くようになりました。
そのような曲の一つで1967年に書かれました。またブーランクの影響が色濃い曲です。

この曲はローナさん伊藤公一先生、石橋尚子さんのトリオで演奏されました。

外山雄三(1931-2023年)

ファンタジー1985.
日本を代表する作曲家のこの曲富久田治彦先生の演奏で聞いてとても感動し取り上げたそうです。

セザール フランク(1822-1890年)



ソナタ イ短調
1886年作曲オルバースレーベンの曲より数年後に作曲。

ヴァイオリン奏者イザイ

に結婚祝いとして贈られました。
愛は。簡単には手に入らない。
第一楽章 深い思索と探求。
激しく衝動的な第二楽章
最も個人的で激動的な「レチタティーヴォとファンタジア」を経て壮大な結婚の鐘が鳴り響く。
フランク自身結婚に両親から反対され彼らと完全に決別。
1848年のパリ革命のさなかようやく教会にたどり着いた。
音楽が人生そのものを語り始めます。 


アンコールはアレクサンドル グラズノフ(1865-1936年)
1898年バレエ音楽「ライモンダ」より間奏曲 ローナさん、伊藤公一先生、石橋尚子さんのトリオアンコール。
夢のように美しかった!


ポール タファネル
アレグレット1890年作曲

フィリップ ゴーベール
2つのスケッチよりSur la plaine

後一曲だけ
パラディスのシシリエンヌ

今田さんと帰り道、
「素晴らしかった!」
「しなやかな演奏だったね。」
「シシリエンヌとか何度も吹いたけれどあんなふうに吹いたことなかったわ。もっとていねいに表情豊かに吹けるってわかったよ〜!」興奮して言い合ってました。

ローナ マギーさんの演奏てドビュッシーの「美しい夕暮れ」



ガーシュインのララバイ

2024-12-18 21:46:00 | 現代
火曜日久しぶりに赤ちゃんのサポートでした。
実は赤ちゃんのお兄さんがインフルエンザから肺炎になり入院。
その後、赤ちゃんは腸炎にかかりという具合でお兄さんを保育園に送っている間赤ちゃんの保育という任務ができなくなっていました。

病児保育は制度上できないので、残念でした。
本当は子どもが病気の時こそ、助けが欲しいのにね。

ジョージ ガーシュイン(1898-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク・ブルックリン生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没

東欧系ユダヤ人の移民の子として、ニューヨークのブルックリンに生まれました。父親はロシア、母親はベラルーシからの移民でした。

初めてクラシック音楽に触れたのは、小学生のときに聴いたドヴォルザークの「ユーモレスク」でした。

父親はジョージが12歳の時、兄のアイラに音楽を学ばせようとピアノを買ぃましたが、文学肌のアイラがピアノを弾かなかったため、代わってジョージがこれに親しむことになりました。

13歳の時から正式にピアノを習い始め、また、ヘンリー・カウエルに和声を習うようになりました。

しかし、少年期はいわゆる不良少年で、女性関係も派手で、交際した女性を妊娠させたりといった騒動もありました。

彼は陽気な性格で、ティン・パン・アレー
ティン・パン・アレーにあった楽譜出版社
では、楽譜を売ることにも才能を表していました。

出世作となったのは、作詞家アーヴィング・シーザー(1895-1986年)


との共作になる1919年の歌曲「スワニー」
アル・ジョルソン(『スワニー』の楽譜カバー)
で、人気歌手アル・ジョルソンに気に入られて、彼が繰り返し歌ったことからヒットし、一躍人気となりました。

この頃ガーシュインは「子守歌」(こもりうた、Lullaby)を作曲しました。
弦楽四重奏のための作品。
訳さずに「ララバイ」とも呼ばれています。 

ガーシュインは、学生の課題曲として「子守唄」を 作曲しました。

彼の教師であるハンガリー移民のエドワード・キレニは、彼にクラシック音楽理論の徹底的な講義を授け、シェーンベルクやドビュッシーなど当時のヨーロッパの作曲家を紹介しました。

「子守唄」はガーシュインの最初の「本格的な」作品でした。

兄のアイラ・ガーシュインは、このカルテットが音楽仲間のプライベートな集まりで何度も演奏され、「いつも歓迎された」と回想しています。

この曲の主題歌は、1922年の失敗作ミュージカル『ブルーマンデー』のアリア(「誰か私のジョーを見た人はいるか」)の冒頭に使われました。

ミュージカル「ブルーマンデー」CD

このショーは失敗に終わりましたが、おそらくこのショーがきっかけでポール・ホイットマンが 1924年に『ラプソディ・イン・ブルー』を作曲することになりました。

約40年後、アイラは『子守唄』の原稿をハーモニカの名手ラリー・アドラーに見せ、アドラーが編曲したハーモニカと弦楽四重奏曲は1963年のエディンバラ音楽祭で演奏されました。

この曲は1967年にジュリアード弦楽四重奏団によってアメリカ議会図書館で初演され、弦楽オーケストラによる演奏も時折聞かれます。

New York: New World Music Corporation, 1968. Plate NW-1006-24(10)

この曲は多彩なハーモニーとシンコペーションのリズムが使われブルースや、ラグタイムを思わせます。

作詞家として弟ジョージと共に多くのヒット曲を世に送り出した兄のアイラ・ガーシュウィン
ジョージとアイラ
は「他の有名な作品と同列には扱えないでしょうが、私はこのチャーミングで慈しみを持った音楽が大好きです」というコメントを残しています。


ウェーバーのフルートトリオ

2024-12-17 21:06:00 | ロマン派
コンサートが一つ終わって、ずっと練習していたドップラーをとりあえず棚上げに。
次は。26日にやるフォーレのドリーから3曲、

クーラウのフルート二重奏op85第1楽章、ドップラーのアンダンテとロンド、またまたクーラウのトリオop119
、「カルメン」トリオ編曲、ウェーバーのトリオに未定の曲。

それから1月にはハープの発表会でフルートでビゼーのアルルの女のメヌエットとベルガマスク組曲、ハープとヴァイオリンで「カヴァレリアルスティカーナ」…遊んでは居られません。
とは言え基礎練。
頑張りま〜す。

カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826年)神聖ローマ帝国リューベック司教領オイティーン生まれ、イギリス ロンドン没 

フランツ・アントン・フォン・ウェーバーとウィーン出身の歌手であった2度目の妻ジェノヴェーファ・ウェーバーの3人の子どもの長男として生まれます。
ウェーバーは先天性の股関節障害を持って生まれ、4歳になるまで歩き始めませんでした。しかし、その頃にはすでに、彼は有能な歌手でありピアニストでした。

ウェーバーが生まれた次の年、父フランツは劇団を結成します。
そのため、幼いころからドイツ、オーストリア全土を回ることとなりました。

幼少の際、彼はこれといって特別な才能は見せませんでした。
しかし、9歳のときヒルトブルクハウゼンでヨハン・ホイシュケルから本格的な音楽教育を受け、才能を見せます。

その後も旅先で音楽教育を受け、ザルツブルクではミヒャエル・ハイドン(1737-1806年)

(フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟)、ウィーンでは、ウィーン音楽院の前身校でゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー(1749-1814年]

にも師事しています。

ザルツブルクでのカールの日々は、1798年3月13日に結核で亡くなった母ジェノヴェーファと、1798年12月29日にミュンヘンで1歳になる妹アントネッタの死によって暗い影を落としました。母の死後、父方の叔母アデライデがカールの世話を引き継ぎました。

1798年から99年にかけて初のオペラ『愛と酒の力』("Die Macht der Liebe und des Weins", J. Anh. 6)を作曲します。楽譜は、翌1800年に火事で消失しています。

1803年半ば、ウェーバーはウィーンで、マンハイム、ストックホルム、ダルムシュタットの重要な音楽学校の創設者であるアベ・フォーグラーのもとで勉強を続けました。
そこでジャコモ・マイアベーアとして知られるヤコブ・マイヤー・ベーアで、ウェーバーの親友となった。手紙の中で彼らはお互いを「兄弟」と呼んでいました。

1804年、ブレスラウ(現ヴロツワフ)のカペルマイスターに就任。しかし自身の理想主義的傾向や、父の投機的な性格が災いし、会計操作の問題に巻き込まれ、裁判では認められたものの、
民事法では借金を背負うことになり、2年後には楽長を退きます。

冷静になる副作用として、ウェーバーは日記をつけ始め、支出や通信をリストアップし、特別な出来事について時折コメントするようになりまし。

この年にエッチング用の硝酸をワインと間違え飲んでしまい、声が出せなくなりました(声を失うまではかなりの美声だったと言われています)。
その後カールスルーエ、ミュンヘンなどドイツ各地を転々とします。

1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力します。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させました。

1817年、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)

に移ります。
1817年11月4日シルヴァーナのタイトルロールを創作した歌手カロリーネ・ブラント

と結婚しました。

当時宮廷ではイタリア・オペラが主流でしたが、ウェーバーは自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑みます。

結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功します。
また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行いました。

1821年、ベルリンで『魔弾の射手』


が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てました。

この『魔弾の射手』を観て、ワーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われています。

この頃からウェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。

1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場

の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』
を作曲します。

そのとき彼は結核を患っていましたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していました)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化し、同年6月5日、ロンドンで客死。39歳でした。

コヴェントガーデンに面するセント・ポール教会に埋葬されましたが、
18年後の1844年12月、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったワーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらロンドンからドレスデンに帰還しました。

フルート三重奏曲 ト短調 作品63 J.259は1818-1819年に作曲されました。

1817年34歳のウェーバーは、ザクセンの宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)に移り、放浪生活から脱出、ここからウェーバーの快進撃が、はじまります。その頃の作品です。


中世風小組曲

2024-12-16 20:56:00 | 現代
日曜日は夙川公民館ホールで西宮ギターのコンサートでした。

この会とのお付き合いも長くなりました。今回は川原久美子さんとフランツ ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を演奏しました。

本庄さん、Hさんのギターデュオでリサフォンの「三千院」。

コントラバス安福さんとギター渡瀬さん

岡山からフルートとギターで参加のIさんご夫妻で「中世風舞曲」。
東京から参加のギター高木さんと「ニュー・シネマ・パラダイス」、

田郷さんとピアソラの「カフェ1960」を草津から参加のフルートOさんがデュオで。

サックスの増川啓寛さん、ピアノ古橋まりこさん、ギター古橋さんのトリオでアランフェス協奏曲。

などアンサンブルの出演者も増えて楽屋裏も和気あいあいとおしゃべりに花が咲き楽しかったです。

フランシス=ポール・デュミラック(1917−2014年)は

1917年5月20日、エニス・ジェミルとしてパリに生まれました。

1973年3月24日よりフランシス=ポール・デュミラックと名乗るようになりました。

パリ音楽院などで学び、ヴァイオリンをフィルマン・トゥシェに、指揮をイオン・コンスタンティネスコとビゴに、和声と作曲をオーベールとロパルツに師事しました。

第二次世界大戦以前は、パリ交響楽団、コンセルヴァトワール・コンサート協会、モーリス・ヒューイット四重奏団の第二ヴァイオリンとして活躍しました。

戦後は、バグダッド芸術アカデミー(1947-8年)、パリ国際音楽院(1948-51年)で教鞭を執りました。

さらに、いくつかの音楽院の院長に任命されました。
さらに、サン・ブリューク(1951-60)、ル・マン(1960-68)、クレルモンフェラン(1968-76)、サン・テティエンヌ(1976-81)の各音楽院の院長に就任しました。

シャトゥー、2000年代、左から右へ:マリー=フランソワーズ・ギレム(作曲家ルイ・オベールの孫娘)、彼女の父ピエール・ルドン(作曲家の義理の息子)、ルドヴィク・フロラン、音楽学者、エリアーヌ・ルジューヌ=ボニエ(音楽教師、オルガン奏者) )、巨匠フランシス=ポール・ドゥミラック(別名エニス・ジェミル)、作曲家、音楽院院長、ルイ・オベールの生徒、友人。

フルートとギターのための「中世風小組曲」
Petite suite medievale pour flute et guitare

第1楽章:シシリエンヌ
第2楽章:鐘の音
第3楽章:ロンサールの詩による一葉から亡き乙女に
第4楽章:ロンド



平和の君

2024-12-15 22:42:00 | バロック
土曜日枚方市文化芸術センターでヘンデルの「メサイア」公演を聴きに行ってきました。
生徒のSさんが毎年合唱で出演されていたのがコロナで中止。
一昨年、昨年はまだ様子見をされていて、今年は4年ぶりに参加されました。
私もいつもSさんを見に行っていたのでお久しぶりでした。

枚方市の「メサイア」公演は有志により2008年に始まりました。

それから毎年恒例となり続けてこられましたが、2018年は大阪北部地震で枚方市民大ホールが被災し中止。

2021年に新ホールが建設予定のため募集されず、
2019年は規模を縮小してメセナひらかた会館で公演。

2020年-2021年はコロナのため公演中止。

2022年からは新しく建った枚方市文化芸術センターの大ホールで公演再開されていました。

今回は合唱133人、オーケストラ48人に指揮者谷村浩さん、
ソリスト
ソプラノ矢野文香(あやか)さん、アルト郷家暁子さん、 テノール矢野勇志さん、バス大西遼さんの4人。

合唱指導は大西遼さん、練習時の伴奏ピアニスト安倍り麻さん。

たくさんの人の想いが集まったコンサートは約1500席が満員でした。

私も客席でヘンデル久しぶりに年末恒例「ハレルヤ」が歌えて幸せでした。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没
「メサイア」HWV56はチャールズ・ジェネンズが受難週の演奏会のために台本を書きました。

その後、アイルランドで慈善事業としてのオラトリオ演奏会の計画が立てられ、ヘンデルが招聘されました。

ヘンデルはこの演奏会のためにジェネンズの台本によるオラトリオを作曲しました。
速筆のヘンデルはこの大曲の楽譜を1741年8月22日から9月14日までのわずか24日間で書き上げています。

「メサイア」自筆稿、第2部最終曲「ハレルヤ」の終わりの部分。
1741年9月6日の日付を記す。
259ページ 上演時間 2時間半。

「メサイア」ついては以前に書いたので、
第1部 第12曲 「一人のみどりごが我らのために生まれた」(For unto us a child is born)

我らにひとりの男の子が与えられた。
政(まつりごと)は彼の肩に担われ、
その名はこう呼ばれるようになる、
「驚くべき者、弁護者、
 全能の神、
 とこしえの父、
 平和の君」と。
        イザヤ書9:5より。

メサイアについて以前書いたもの
ハレルヤについて以前書いたもの
https://blog.goo.ne.jp/m-fluteangel16/e/21a3499526c9eb9451f105664b73755d

一休さんとフィガロの結婚

2024-12-14 21:27:00 | 古典
今日は久しぶりに母のおつかいデイ。
朝9:30から、まず市役所に行って欠けた印鑑を廃止して新しい印鑑証明を取り、戸籍謄本をとって…。

一休寺がある京田辺市はあちこちに一休さんがいます。
それから京田辺市警察で

障害者駐車証明の更新。
それからいつものお漬物屋さん。

市久さん。『ここのは美味しいのよ。』と生徒さんやお世話になった方に配ります。
それから

銀行によって、お金を出し

小倉山荘で最近亡くなった母の友人にお供えするおかきを買いました。

小倉山荘はお正月仕様

小倉山荘のお隣Chat noirの猫さんがあたふたする私たちを見送ってくれました。

最後は近所スーパーでお買物。

遅昼を頂いて帰ったら5:00すぎていました。

市久さんのしば漬け…私も買ってしまいました。夜ご飯に

一休宗純(1394-1481年)伝 地蔵院(京都市西京区)近く生まれ、一休寺酬恩庵(京田辺市)没

紙本淡彩一休和尚像(重文)
母親の出自は不詳ですが、皇胤説に沿えば後小松天皇
後小松天皇1377-1433年
の官女で、父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があります。

三島の一休の母と伝えられる墓
一休は地蔵院の近くで生まれた後、6歳で出家するまで母(伊予局という)とともに地蔵院で過ごしたと伝えられています。

幼名は千菊丸、長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などとも号しました。
戒名は宗純で、宗順とも書きます。
一休は道号。

6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられます。

早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中でも評判となりました。

応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改めます。

ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休は自殺未遂を起こしています。

謙翁の死から一週間、石山観音に籠るも悟りが開けず近くの川に身を投げようとしましたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が制止、説得されて自殺を思い止まったといれています。

応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となります。

「洞山三頓の棒」という公案に対し、

「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

と答えたことから華叟より一休の道号を授かります。
「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指す。

応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟します。

華叟は印可状を与えようとしますが、権威を否定する一休は辞退しました。

その毅然とした振る舞いを見た華叟は、口では「ばか者」と言いながらも笑って送り出しました。

以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送りました。

文明2(1470年)、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会います。

文明6年(1474年)、後土御門天皇

の勅命により大徳寺の住持を任せられました。

寺には住みませんでしたが再興に尽力し、塔頭の真珠庵


は一休を開祖として創建されました。

また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵

を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになりました。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われました。

文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。
満87歳没(享年88)。

臨終の際の言葉は「死にとうない」でした。
墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈楊塔」と呼ばれますが、宮内庁が管理している陵墓のため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできません。廟所の建物は外部からでも見え。参拝は門の前で行います。

以下のような逸話が伝わっています。

印可の証明書や由来ある文書を火中に投じました。

男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいました。

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわりました。

これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものでした。

親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をしました。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしました。

正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩きました。

こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れだと言われています。

同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されています。

戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼び、江戸時代には、彼をモデルとした
『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となりました。

一休は能筆で知られる。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重されました。

著書(偽書を含む)に、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『一休骸骨』などがあります。

東山文化を代表する人物。
また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られています。

とんちとまでは言いませんが、身分の高いバルトロ伯爵の無理難題をスザンナや伯爵夫人と一緒にあの手この手で切り抜け、全員を幸せに導いていく「フィガロの結婚」のフィガロとスザンナ。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没
が、フランスの作家ボーマルシェ(1732-1799年)

が1778年に書いた戯曲を1786年オペラにしました。

オペラ台本
戯曲は封建貴族に仕える家臣フィガロの結婚式をめぐる事件を通じて、貴族を痛烈に批判し、たびたび上演禁止に遭いました。

特にルイ16世は

1754-1792年
「これの上演を許すくらいなら、バスティーユ監獄を破壊する方が先だ」

と激昂しました。
が、この戯曲に魅せられた人々からの強い要請を無視できず、ついには公演許可を出しました。

オペラはウィーンのブルク劇場

で1786年5月1日、モーツァルトが30歳の時に初演されました。

ある程度の好評を得ましたが、原作の貴族批判はおおむね薄められているとはいえ危険視する向きもあり、早々にビセンテ・マルティーン・イ・ソレル作曲によるオペラ『椿事』(Una cosa rara)に差しかえられてしまいました。

こうしてウィーンでは期待したほど人気を得られなかったものの、当時オーストリア領だったボヘミア(現在のチェコ)の首都プラハの歌劇場で大ヒットしました。

フィガロの結婚序曲冒頭部

バルトロ伯爵

は自分の領土の娘は結婚前に先に領主が初夜をしても良いという初夜権を復活して、フィガロの婚約者スザンナを狙っています。

フィガロ

スザンナ

困り果てたフィガロは良い案を思いつきます。

村の娘たちをすべて集めて初夜権を一度は廃止したお礼を言いに行かせます。
伯爵は仕方なく今後も廃止することを約束します。

一方マルチェリーナはフィガロの借金を盾に結婚を迫ります。
フィガロに一泡吹かせたい伯爵は彼女と組みます。

まだスザンナを狙っている伯爵に伯爵夫人

伯爵夫人
と組んで、小姓のケルビーノ
ケルビーノに扮したサラ・ベルナール
に女装させ伯爵を誘惑し、動かぬ証拠を掴もうとします。

しかし、そこへ伯爵が登場。
ケルビーノを慌てて隠しますが怪しまれます。

第1幕:伯爵の登場でスザンナの椅子の背後に隠れるケルビーノ(19世紀、作者不詳の水彩画)

すんでのところでスザンナが入れ替わり、ケルビーノは窓から飛び降ります。
それを伯爵の従者に見られますがフィガロがそれは自分だ。スザンナに会いに行ったのだと言いくるめます。

さてマルチェリーナは借金の証文に書かれたフィガロの結婚の約束を裁判にかけ、フィガロは敗訴します。
しかし、そこでフィガロが捨て子であったことを話すと、フィガロがバルトロとマルチェリーナの子どもであることがわかります。

結婚の約束は無効になりマルチェリーナとフィガロは抱き合います。
そこへスザンナがやってきて浮気をされたと誤解しますが、みんなの説明で2人が親子であることがわかり一安心。

さてスザンナと伯爵夫人は一計を編んでいます。
2人は衣装を取替え、伯爵に手紙を書き、暗闇で伯爵夫人はスザンナのフリをして口説かれ、動かぬ証拠をつかみ伯爵を懲らしめてやろうというのです。

フィガロはスザンナが浮気をしているという噂を聞き、嘆きながらも懲らしめようとしていると、伯爵夫人に扮したスザンナに会います。
復讐に伯爵夫人を口説こうと思いますがすぐに声でスザンナだと気づきます。
しかし、知らないフリをして口説き、スザンナを怒らせます。
気づいていることを知らせ、すぐに仲直りします。

一方伯爵は、知らずに伯爵夫人扮するスザンナを口説きます。

伯爵夫人は正体を知らせ、バルトロは謝ります。
伯爵夫人は赦し、フィガロとスザンナは無事結婚することができ、幕となります。

フィナーレ






工藤重典、榎田雅祥デュオコンサート

2024-12-13 21:03:00 | コンサート
12日は六甲ライナーセンターアイランドのラ・サーラ・ディ・オルフェオで「フルートデュオコンサート」でした。
出演は工藤重典先生と榎田雅祥先生とピアノの安達萌さん。

自らチェンバロを調律する榎田先生

前半はチェンバロ伴奏で
フランソワ クープラン(1668-1733年)


の「王宮のコンサール」シーゲル編曲を工藤先生が安達萌さんと演奏。

ロジェ ブールダン(1923-1976年)

の「Viva Aldi」を榎田先生。

この曲は。1976年52歳で亡くなったロジェ ブールダン()の作曲で、1965年イ・ムジチ合奏団が発掘して四季で世界的に大人気になったヴィヴァルディの作品へのオマージュ。
途中ジャズ風のところがあったりするおしゃれな作品でした。

ジャン マリー ルクレール(1697-1764年)


の「音楽の愉しみ」を二重奏でこれはバロックの大家の作品ですが、ヘインズのシルバーを吹かれる工藤先生と榎田先生の木管円錐管フルートが音量、音質がとてもよくあっていて不思議でした。
低音は円錐管の方が音が出ていたりしておもしろかったです。


ジャン ルイ トゥルー(1786-1865年)

の「愛の喜び」を榎田先生がトゥルー自身の作の木管8キーフルート、第2第3ヴァリエーションを円錐管フルートで、フィナーレをルイ・ロットのベーム式キーのフルートでと吹き替えられました。

これがとてもおもしろかったです。
8キーフルートは音量はあまりでませんが柔らかな美しい音色で、音程がキーによって違うので榎田先生、前に回したり後ろに回したり調整しながら吹いておられました。

円錐管は格段に音量がでます。 
木管なので柔らかな音ですが、伸びやかです。
最後のルイロットは金属ですが、さすが名器だけあって美しくまろやかな音色でした。

しかし、これを一曲のうちに吹き分けるなんてさすがです。

ルートヴィヒ ヴォン ベートーヴェン(1770-1827年)

の「セレナーデ作品8」を工藤先生が「榎田先生は博物館を開かれてもいいほど楽器を持っておられますが私は足元にも及びませんが楽器の色を替えて吹きます。ヘインズのシルバーで」
金よりも暗目の響きでベートーヴェンに合っていました。

最後はフランツ ドップラー(1821-1883年)

の「2つのフルートのためのソナタ 作品25」
これは金のヘインズと円錐管で演奏されました。

最後の楽章は「アンダンテとロンド」ですが、全部吹くと体力が持たないのか、聞いたことがないです。
私は初めて聴きました。
素晴らしい演奏でした。

アンコールはテオパルド ベームによるメンデルスゾーンとラハナーの主題による3つの二重奏曲 OP.33
より最後の楽章ラハナーの二重奏「私はあなたを愛しています」

アンコール2曲目は工藤先生がガブリエル フォーレ(1845-1924年)

の「夢のあとに」を演奏。

夢の饗宴。素晴らしいコンサートでした。
工藤重典チャシャネル

榎田雅祥チャシャネル


子育てサロンのクリスマスコンサート

2024-12-12 23:21:00 | 近代
火曜日は。いよいよ子育てサロンのクリスマスコンサート本番でした。
8:30集合で会場設営。

サロンのクリスマス飾りは地域の人からの寄付です。

電子ピアノも布とモールでスタッフのYさんか飾りつけてくれました。

驚いたことに10:00前には親子でたくさん来てくれていました。
いつもは10:15くらいからしか集まらないのですが…。

小さな子どものとのお出かけはいろいろ大変なのに…!!

『音楽のお姉さ〜ん!』
と、元気な声
「は〜い!」
歌の翼を吹いた後はバスフルートで

ブラームスの子守唄。

グラナディラ=アフリカンブラックウッドの頭部管でヘンデルのソナタと、絵本のコラボ。

ハンドベルを持ってもらって「きよしこの夜」をフルートと合奏。
Oさん手作りのクリスマスベルで「ジングルベル」フルートとピアノの拍子をとって

元気に演奏してくれました。

坂田さんから借りた楽器で「あわてんぼうのサンタクロース」
最後はグノーの「アヴェ・マリア」で

パラバルーン。

そしておたのしみ。
サンタクロースがサロンにプレゼントを持ってやってきてくれました

サンタさんありがとう💖
楽しんでくれたかな?
サロンに来てくれてありがとう💖

ブリテン男爵エドワード・ベンジャミン・ブリテン(1913-1976年)イギリス ローストフト生まれ、オールドバラ没

1943年「キャロルの祭典」op28を作曲しました。
ベンジャミン・ブリテンが作曲したクリスマスのための長編合唱曲で、三部合唱、独唱、ハープ用に作曲されています。

11楽章から成るテキストは、ジェラルド・ブレット編著『 The English Galaxy of Shorter Poems 』から取られています。

主に中期英語で書かれており、一部にラテン語と初期近代英語が使われています。

1942年に出版されたオリジナルの作品は、SSA(ソプラノ、ソプラノ、アルト)児童合唱団のために書かれました。 

1943年には、混声合唱団用にSATB(ソプラノ、アルト、テナー、ベース)の編曲版が出版されました。

楽章の多くは、子供たちの演奏のために歌詞がシンプルになるように、書かれています。

1942年にカナダからイギリスへ帰る船旅の途中で「聖セシリアへの賛歌」
と同様な形式の「7つのクリスマス・キャロル」を作曲しました。
後者は同年12月にノリッジ城図書室で初演されています。

その後、ブリテンはいくつかの曲を変更・追加して、1943年に「キャロルの祭典」を完成・出版しました。

初演は1943年12月4日、ロンドンのウィグモア・ホールて行われました。

「クリスマスの祭典」op28
1. 入堂 Procession

2. 主の降誕を歓迎! Wolcum Yole!

3. そのようなバラはない There is no Rose

4a. あの幼児が That yonge child

4b. 子守り歌 Balulalow

5. 四月の露のように As dew in Aprile

6. この赤子が This little Babe - 聖Robert Southwell, 1595

7. 間奏曲 Interlude - ハープ独奏

8. 凍りつく冬の夜に
In Freezing Winter Night - 聖Robert Southwell, 1595

9. 春のキャロル Spring Carol

10. 神に感謝 Deo Gracias

11. 退堂 Recession