風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

長野(善光寺・白馬)、甲府を歩いて来ました。八方尾根編

2012年09月28日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
9月16日、第12回企画「聴覚障害者のための里山紀行」に参加しました。

8時、白馬村役場・白馬村保健福祉ふれあいセンター前に集合です。 白馬村村長・太田紘熙さん、  桜井清枝さん
  

9時過ぎ、二回のバスのピストン輸送でゴンドラリフト八方駅に移動しました。(往復2600円)

ゴンドラリフト八方駅(標高773m)                      足湯があります。
 
うさぎ平テラス駅
 
兎平駅(標高1400m)アルペンクワッドリフト
  
 
黒菱平駅・鎌池湿原(1680m)                   蛇紋岩(とても滑りやすい石です)の山道
 
 
第二ケルン(円錐状の標識)(2005m)                 八方ケルン(2035m)
 
第三ケルン(お金持ちが結婚記念に作ったケルン、昔は個人で作ることが出来たそうです。)(2080m)
 
八方池(2060m)
 
 
この先(唐松岳、不帰ノケンなど)は、本格的登山となります。
 
                                     リフトからの眺望

午後3時15分頃、村役場前に戻り解散となりました。

八方尾根の植物


今年のガイドも、白馬村マイスターの吉沢敏江さんです。植物の名前は正確ではないかも知れません。
八方尾根の道は狭いので、花澤さんの生の説明を聞くことができないのは残念でした。
八方尾根は何回か訪れてるのですが、今回が一番人出が多かったです。
気温はおそらく15度程で、少し肌寒い位でしたが、歩くとちょうど良かったです。日差しは強かったです。

今年の参加者は、作年より少なかったです。いつも参加している顔なじみのリピーターの参加者が少なかったです。
9月中旬、連休という日程、八方尾根コースということが関係しているのか、その他なのか、その事情はわかりません。
前日の"星空を見る会"は、雨のため、今年も星々を見ることは出来ず、「宮沢賢治にまつわる星々」のスライドを見ました。

ろう者の東京中野のHさん、三重のTさんと岩岳荘で相部屋で、楽しかったです。10時過ぎに寝ました。   
要約筆記サークル"ころぽっくる"、手話サークル"雪ぼっこ"の活躍は目を見張るものがあります。
白馬村保健福祉ふれあいセンターの中に、手話サークル紹介のコーナーがありました。ガラス越しできれいに撮れませんでしたが。
 
今回、山梨県と福井県から新しい参加者がありました。
私は、手話は久しぶりでしたので、十分な会話は出来ませんでしたが、楽しみました。
相部屋になった、中野のHさん、三重県のTさんはすぐ、私のレベルにあわせてくれたのでした。
三人は、この夜はアルペン山荘に宿泊でした。三人で赤ワインのボトルを開けて、楽しみました。

食堂にある桜井さんの本棚には、この一年でまた新しいマンガがたくさん増えていました。
私は読んでいないのですが、山のマンガ『岳』まであるのには驚きました。谷口ジローさんのマンガも増えていました。
私の好きな、亡くなった佐野洋子さんの話題になると奥の本棚から彼女の絵本を探し出して来て、
彼女のエッセイや絵本、宮沢賢治の絵本などについてお話ししました。
克士郎さんの体調も良くなり、声の張りと大きさが復活して嬉しかったです。              【9月16日終わり】

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翌日の9月17日は初めの計画では、甲府に向かう予定でしたが、霜降宮切久保・諏訪神社のお祭りをみました。
朝食まで少し時間があるので散歩しました。
切久保交差で                                                              半鐘の符号が記されていました。
  
 
お祭りの様子 大変なにぎわいでした。連休で帰省した人や観光客も多いようでした。
 
 
 
 
  
 
 
 

以下は、作年撮った切久保神社一帯の写真です。普段は、ご覧のように閑散としています。
  
  
 
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お昼過ぎ、白馬の道の駅に行って土産を買いました。
白馬からの上り特急電車の指定席は満席でしたが、甲府までは一枚だけ空いていました。(5030円)
穂高辺りからは自由席のある1~6号車は混雑で車内販売が出来ないと車内放送がありました。
白馬駅発14時38分発"あずさ26号"に乗り、甲府に着いたのは17時01分でした。
白馬駅                                  車窓から[ウトウトして目が覚めると、木崎湖か青木湖]
  【9月17日終わり】

聴覚障がい者のための白馬里山紀行

2011年10月05日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
白馬に住む桜井清枝さんから「聴覚障がい者のための白馬里山紀行」のお知らせを戴いたのは、まだ残暑厳しい8月の中頃でした。
桜井さんは日本で初めて地方議員になったろう者で、毎年秋、聴覚障がい者のための白馬・塩の道紀行を企画し、実行してきました。
この数年、私は海外旅行に行っていたため参加できず、久し振りの参加となりました。
帰りに、松本市を訪れました。白馬編と松本編に分けました。

9月30日朝8時新宿駅前発のバスで出発しました。
途中双葉SAと梓川SAの二箇所でトイレ休憩があり、白馬八方駅に着いたのは定刻の12時40分でした。
高瀬川                               信濃大町駅                              車内には、トイレもあります。
  
安曇野辺りでかなり強い雨が降ってきました。
ロープウエイに乗り、その後白馬八方尾根自然研究路をトレッキングして八方池まで行く予定でしたが雨のためあきらめ、
桜井さんのお宅を訪れ、桜井さんご夫妻とビールを飲みながら長い時間お話しました。
しばらくして数年前お会いした山梨・北杜市のKさんが訪れ四人で更に団欒しました。
宿泊した岩岳荘
 
Kさんと私は同い年、相部屋になりました。
Kさんはお父さんの転勤に伴って品川・釧路・確かもう一つは静岡のろう学校に通い、その後大阪の聾学校の先生になりました。
定年退職後、星と山好きが高じて山梨県の北杜市にお家を建ててしまったそうです。
かつての同窓生や各地の友人が泊まりに来られように広い家を作ったそうです。
Kさんはとても博識で、20ヵ国ほどの国々を訪れたこともあるそうで、二人で海外の旅行のお話や、
ろう学校の様子や、現在の生活のことなど二人でああだこうだと話しました。
分からない手話については筆談や絵などで穏やかにお話しできました。

10月1日
朝、切久保集落を散歩しました。
  
 

霧降宮諏訪神社
 
 
                     かやふき美術館(お店)
   
白馬連山大日如来像
  
朝食
 

白馬村市役所に集合しました。(8時)
手袋を付け、上下の合羽を着ても寒かったです。でも雨ではなく晴れで本当に良かったです。
時間があったので、回りを少し歩きました。
平川神社八幡宮                         白馬護国神社
 

白馬里山紀行の開始
白馬村村長・太田紘熙さんのご挨拶    ガイドの花澤敏江さん  桜井清枝さん
  

バスで出発地まで行きました。
  
今回は、これまでの"民俗学者・田中欣一さんの塩の道紀行"の歴史・民俗編と異なり、花澤敏江さんの"植物"編と言う所か。
【植物の名前は、メモの誤記などで間違っているかもしれません。】
  

旧八峰キレット(切戸=日本語)小屋[八峰にあった山小屋をここに移築した。] 
  
ここで昼食をとりました。豪華なお弁当に味噌汁付きでした。
私は、長野の難聴協会の人達と一緒にお弁当を食べました。
五竜スキー所など[旧八峰キレット小屋前からの眺望]
 

夜は、「星を見る会」の予定でしたが、曇り空だったので、地元の星空を見る会の案内で星座のDVDなどを見ました。


10月2日 [日曜日]
朝、切久保集落を散歩しました。帰り道、散歩していたKさんと偶然出会ったので二人で桜井さんさんの家に行きました。
観音原石仏群
   
 
 
桜井さんのペンション・アルペン山荘と山梨の友人・Kさん
 

久し振りの手話でしたが、ろう者は私の手話レベルに合わせてくれるので何とか交流できました。
今回は全国から25人の参加者がありました。聞者は私を含めて2名でした。
川口市のN夫妻とSさんほか多くがリピーターでほとんど顔なじみでした。
その他大勢の地元の手話サークル・要約筆記サークルのメンバーの参加がありました。
簡易テントのトイレも用意したそうですが、写真を撮り忘れたのは失敗でした。
草花の説明は先頭は手話と要約筆記、後ろの人にはスタッフが説明が書かれたカードを置いて行きます。
昼前後にはだいぶ暖かくなりました。
紅葉はまだです。
歩き派の私としては、歩く距離が短かったのがちょっぴり不満でした。
桜井克士郎さんともずいぶんお話ししました。しばらく体調を崩していましたが、今は調子がよいそうです。
「聴覚障がい者のための白馬里山紀行」費用は、バス代・昼食弁当代・保険代など3500円。
民宿・岩岳荘、1泊2食付8000円。

白馬発10時4分→松本着11時47分(1110円) 松本駅に近くなると首都圏のラッシュ電車並みの混雑でした。
 
この後、旅は松本市内散策と続くのですが、それは稿を改めましょう。

以下は、これまでの私の白馬についてのブログ
 桜井さんの亜細亜大学での講演
 白馬散策
 第6回聴覚障害者のための『塩の道 紀行』2006-09-17
 第7回聴覚障がい者のための塩の道紀行 2007/10/21
  栂池[つがいけ]自然園を歩く 2007/10/22
 第9回聴覚障がい者のための白馬里山紀行・その帰りに永平寺参拝 2009/10/4
その他、手話サークルで1回、個人で2回。                                    

第9回聴覚障がい者のための白馬里山紀行・その帰りに永平寺参拝

2009年10月08日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
10月4日『第9回聴覚障がい者のための白馬里山紀行』が行われた。
昨年は、ピースボートに乗っていたので参加できなかった。
今回は、のんびり旅行にした。

10月3日・白馬まで
10月3日午前大宮発の『あさま567』で長野、                     長野から『しなの12』で松本  

松本から『あずさ55』で白馬に行き、そこから岩岳・切久保までのんびり歩いた。


白馬駅                               白馬駅を背に、緩やかな上り坂をしばらく歩いて左路地を入ると“みみずくの湯”がある。

もどって、八方に向かって歩くと、白馬交番           白馬でなくなった人々の慰霊碑     捜索対策センター

さらに坂を上ると、八方バスターミナル・ゴンドラ・リフトの入り口。  赤枠はジャンプ台・八方尾根

方々に、庚申塔・庚申塚・地蔵・観音像などがある。昔多くの人がここで亡くなったのかもしれない。

八方口にある温泉と足湯

姫川
  

岩岳の湯は夏シーズンは終わり、閉じていた。ここから切久保集落はじきである。

今夜は、岩岳荘に宿。

10月4日・第9回聴覚障がい者のための白馬里山紀行
今回のコースは、岩岳から浅間山、塩の道千国街道・切久保集落=里山地区を主に歩いた。
出発は、岩岳新田バスセンターから。白馬村村長、ガイドの田中欽一さん、桜井清枝[すみえ]さん。


                                  珍しい四角の茎

戦国時代の狼煙台・そこに祠が[浅間山]

      観音原石仏群で遅い昼食となった。周囲に西国33番、秩父34番、板東33番計百の観音像が立つ。


米の生産調整のためソバが多く作られている[今年まで助成金が出るそうである]

解散地近くの新田集落[荷継場]の石仏群と秋葉神社など

お別れのご挨拶


雨が心配されたが晴れであった。
今回は長靴の準備をしたが、使わなかった。
桜井清枝さんが日本で初めて聴覚障害者地方議会議員になったニュースを知って、
手話サークルと聴覚障害者協会の仲間と、桜井さんご夫婦が経営する“アルペン山荘”を訪問したのは、
2001年の10月であった。その後、一人で、妻と一緒に、この“聴覚障がい者ための塩の道紀行”に何回か参加してきた。
この紀行の特徴はなんと言っも、全国各地からの参加とリピーターの多さにある。
私にも顔見知りの人が増えた。
手話サークルと要約筆記サークルと里山グループの輪の広がりとその豊かさは目を見張るものがある。
この地のろうあ運動の歴史は知らないが、ここまで育てたのは桜井さんの大きな力があったことは確かだろう。

民俗学者の田中欣一さんも素敵な人だ。
田中さんは日本と日本人の現状を反省するには「不況は良い」なんて平気で言う。
世界で一番歩かなくなった民族は日本民族だ、歩かない民族は滅ぶ。
都会信仰ばかりで里山を忘れるのはダメだ、人間は動物であることを忘れてはいけない、などという。
まさに、生き字引・その博学さは驚きです。
ただ、話し出すと止まらないのは困りものですが。

切久保神社と桜井さんのアルペン山荘


以下は、私の白馬についてのブログ
 桜井さんの亜細亜大学での講演
 白馬散策
 第6回聴覚障害者のための『塩の道 紀行』2006-09-17
 第7回聴覚障がい者のための塩の道紀行 2007/10/21
  栂池[つがいけ]自然園を歩く 2007/10/22
第9回聴覚障がい者のための白馬里山紀行はここで終わりとし、。
10月5日からは福井・永平寺を訪れたので、ページを改めます。 

第7回聴覚障がい者のための塩の道紀行

2007年10月24日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
第7回聴覚障がい者のための塩の道紀行  2007/10/21



今回は、新潟県側を歩くことになった。
歩き始め地点が遠くなったため、白馬村役場前集合は8時と早かった。
白馬村村長がご挨拶をした。
マイクロバスで明星山麓に向かう。

出発前の風景。


明星山

標高1188m、岩はヒスイ。
明星山はロッククライミングのメッカで、この日も三人がトライしていた。
ケアしている人に教えられて肉眼でかすかに見えたが、写真には写らない。
明星山は太古にはニューギニアから分かれたと言われる。
ヒスイは翡翠と書き、また翡翠はカワセミとも読む、それは磨くと川蝉の羽の色になるからと言われる。
明星山の翡翠は、三内丸山遺跡、吉野ヶ里遺跡などでも発掘されている、と言う。

ヒスイのモニュメントと田中欣一さん


高浪の池[周囲1kmの静かな湖]

高浪の池の神社


ここから、山道に入る。

ナメコ

生きているナメコを見るのは初めて。
一昨日雨が降り、道はかなりぬかるんでいた。
最近は人も通らない・下草刈りも行われないため、古道かどうかわからない箇所もあった。

大峰峠の地蔵

昔は、道端にたくさんの地蔵や庚申塚があり、人々の安全を祈った。
立てられた所は行き倒れがあったところが多いという。
今日、人が交通事故で亡くなって立てられるのは地蔵が多いと言う。
ここで、昼食となった。
長野のろう者・難聴者と一緒になった。

ガイド風景

左は要約筆記、右は手話通訳、真ん中は田中さん=今年から携帯マイクとなった。
手話サークルの吉沢さんが草花を紹介してくれた。
[黒モジ、黒花フキおろし=四角い茎の草、紫式部、木通・通草=あけび、などなど]

長命水

弘法大師が開いたとされる。

ここまでは最後尾で歩いたので、
ここから、田中先生と話しながら先頭で歩いた。
田中さんは、
「人類にとってここ百年だけが乗り物の時代で後はずっと歩きの時代だった」
「歩かなくなった民族は衰退する」
「1950年代から山村の崩壊・道の崩壊が始まった」
「廃村・廃校を日本列島に赤で記すと真っ赤になる」
という。
私は、神仏混交・多神教の日本と世界の多数派である一神教について話した。
田中先生のモチーフは良寛上人=土着信仰と言う。
80歳を超えてなお全国を歩いている田中欣一さんである。

今回、歩いた時間距離は短かった。急勾配もあり、また足場が悪かった。
だいぶ肌寒かった。
ウォーキングシューズだったが、トレッキング・長靴の方が良かった。
田中先生は長靴を持参していた。

夕飯風景

この夜は、聞者は私一人、後はろう者で夫婦二組と男性三人だった。
始めはゆっくり話してくれていたが、飲むほどに早口となり後半は大変であった。
明日は早起きでないので遅くまで話した。

アルペン山荘と桜井さんご夫婦[写真を取り忘れた、これは、2006年6月のもの]



昨年までは、里山塾が主催であったが、
今年は、手話サークル・要約筆記サークル・里山塾の共催となったそうだ。

“塩の道紀行”参加者と分かれる時の決まり文句は、
「来年も元気でお会いしたいですね」。

第6回聴覚障害者のための『塩の道 紀行』

2006年09月17日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
2006.9.16

前日9/15、新宿9時発ハイウエーバス・13:30八方着[乗客は15人ほど]。
手打ち蕎麦屋でビールと上手い蕎麦で昼食、
倉下の湯をとおり、岩岳の湯[一人500円]に浸かる。
男湯は他に客がなく、ゆっくり、女湯は地元のご婦人一人だけ。
しばらくしずんだら汗も引っ込み、40分ほど歩き、
アルペン山荘に着いたのは4時半頃だろうか。
夕食の時、妻は克士郎さんの世界各地旅行・世界の織物などについてのうんちくを聞いていた。

翌・9/16朝、目が覚めると6時半であった。お酒を飲んで爆睡であった。
8時に宿を出て、白馬村役場に集合、
白馬の小学校は運動会のようであった、
役場奧に平川神社があったので写真を撮った。


マイクロバス2台で北小谷駅に向かう{約30分}。
ガイドは、田中欣一さん/日本思想史・民俗学者/72才で先頭を元気に歩く。




小麦平→牛首→島温泉→
塩の道→天神道入り口

→石造物群

→城の越
→三峯様

この高台を降りたところ=茶店跡で昼食。
立派なお弁当、小振りのトマト、みそ汁、漬け物、差し入れのデザートのブドウ、の昼食であった。
小雨が降っているので40分ほどで出発した。

→天神道→砂山
明星山:ヒスイがとれる石灰岩の山


カラムシの葉/ありふれた草木だがこの茎の皮を剥ぎ、糸を紡ぎ、織ると丈夫で光沢のある布が織りあがるという。
絹と麻の中間の強さ・光沢と言われるそうだ。

そのほか、「ひきおとし」と言う四角い茎の草木を紹介された。
四角い茎の植物は他にも結構あるらしい。
湯原、少し早くついたのでバスを待つ間交流する。
[左から二人目は桜井さん]

→[バスに乗り]道の駅/小谷(午後2時半)
ここでトイレやおみやげを買った。
その後、3時再びマイクロバスで白馬村役場に向かう。
4時前に解散となった。

バスの道すがら、国道沿いで温泉のボーリングが行われていた。
かなり掘り当てるという。
昔からひなびた温泉がたくさんある。

この日の天候は、時折ぽつりぽつりと雨が来るが、降る時間も短かく傘を差すほどではなかった。
暑くもなく寒くもなく長袖シャツ一枚でちょうど良く、とても快適であった。
ただ、いつ降ってくるかもしれないのでちょっと慌ただしくはあったが。
道幅が40センチ位しかないところ、急勾配のか所、滑落したら大けがと言うところもかなりあり、またぬかるんだ所もたくさんありと、距離は長くはなかったがかなりハードな行程であった。
スタッフを含め60人ほどの参加者であった。
聞者もろう者もおり、遠くは大阪・奈良のろう者が参加した。
男・女・高齢者・若者が入り交じっていた。
この集まりの特徴はリピーターが多いことだ。
すっかり顔なじみの人が多い。
歩く道は絶景でも美景でもなく、ごくありふれた山道だから、
塩の道古道そのものが魅力と言うよりも、
60~70人の小規模で、急がない・競争しないウォーキングというのが心地よいのかもしれない。
ろう者にとっては、通訳が付く利点はあるがそれ以上に、
ろう者が大きな顔をできる集まり=主人公、ということに大きな意味があるのではないだろうか。
私にとっては、木の葉の音や風の音が聞こえ・楽しめ、人の話し声が聞こえない・うるさくないその静かさこそが最高だ。
駅からハイキングなどは、話し声がとても騒がしいし、レースでもしているかのような慌ただしい人が多っかたり、マナーなしの人が多いのでヘキヘキだから。
ガイドなし、一人では恐くて歩けない。
手話をあまり見慣れない妻は、ふと目をやると手話が行き交い、それが少しうるさく動き・目障りと感じたようだ。
私は私と話していない人の手話は見ないし、人の姿より景色や歩く道を見ていることが多かったように思うのでそうは感じなかった。
妻は、その違いは手話を見慣れいるかいないかの違いではないかと、言う。
そうかもしれない。
また、この集まり、事前の準備がしっかりできているからだろうか
手話サークル・要約筆記サークル・里山塾の人々が裏方で、出しゃばらない=あれこれの指示がないことがゆったりした空間を作りだしている。
滞りなく準備万端計画通りでは進行がギスギスしてしまう、
それがないのは、ちょっと頼りないようだがとても心地よい。

夕暮れ小雨の白馬駅/夕方5時半頃だがほとんど人がいない、
また駅前なのに準備中のお店も。

バスの時間は4時半で、前回慌ただしかったので、今回は電車で帰ることにした。
白馬駅発17:57分なので、駅前の白馬ロイヤルホテルのお風呂に入った。(650円)
男湯は一人、女湯も一人だけだったそうだ。
雨が少し降る露天風呂であつくなくのんびりゆっくり浸かり楽しんだ。
駅前の食堂で蕎麦でビールを飲んで時間をつぶし、
白馬→信濃大町(乗り換え)→松本特急→長野新幹線と乗り継いで帰宅した。
[それぞれ約一時間]
JR大糸線はまことにローカル線だが、車両はとてもきれいでゆったりしている。
一両・二両のワンマンカーでドアは自分で開ける。
昼間だと車窓を楽しめる。

今回、妻がやっと参加してくれた。
一人だと何となく怪しく思われるのだが、二人だとかなりわがままにお酒を飲めてとても良かった。
風呂から上がっては、宿については、のどが渇いては、電車に乗っては、と、ふたりで飲んでいた。



白馬散策

2006年06月04日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
6月1日~4日と白馬に行って来た。
白馬村のNPO法人里山塾が“塩の道古道を歩く”を企画したのだが、参加者が少なく中止となった。
「思いたったが吉日」と出かけることにした。
桜井さんが白馬村村議に当選したニュースを聞いて、
手話サークルで早速、桜井さんのアルペン山荘に行って、泊まった。
その翌年、妻と日帰りで八方尾根トレッキング。
『聴覚障害者のための塩の道紀行』に二回参加し、今度は5回目の白馬であった。
こんなにリピートするのは珍しい。
白馬は、高い山々が身近に取り囲んで迫っているのだが、圧迫感はなく、ゆったり覆い包んでいるという感じがする。

6月1日、白馬村に向かう
新宿高速バス、9時出発、乗客はたったの四人、渋滞無く予定の10分前の13時20分に白馬八方駅着。
桜井さんの“アルペン山荘”まで約5キロを歩くことにした。
日射しは強いのだが、時折吹く風は冷たいほど、心地よい汗を流しながら、
白馬大橋[松川にかかる]から白馬連峰[写真では雪のため白いので写っていない]を見る。


途中、「倉下の湯」があり、
岩岳方面のトンネルを抜けると、「岩岳の湯」がある。


岩岳宿を抜けると、切久保集落の目印・火の見櫓が目に入る。
切久保庚申塚

写真を右に回ると


その目と鼻の先に、霧降宮切久保諏訪神社[産土神社]がある。

その本殿


そこから、アルペン山荘まではすぐだ。
アルペン山荘

その右にもう一つ建物がある。

夕方、桜井清枝さんと近くのせせらぎに“クレソン”=オランダガラシを摘みに行く。

クレソンは、ほんのりしたからさ・苦みがあり、とてもおいしくたくさんいただいた。
フキやワラビや名前を聞いたが忘れたたくさんの手づみの山草をいただいた。
この夜は、桜井克士郎さんとたくさんお話しした。
克士郎さんは、私より10才ほど先輩で、山口県出身で東京の大学を出て、いろんなことを経験し、海外旅行もたくさんし、料理の勉強をし、清枝さんと知り合って、最初は白樺湖でペンション業を始めたそうだ。
清枝さんとのなり染めのことなども聞いた。
清枝さんは漫画も好きで、壁一面天井まで本棚があってそこに漫画がぎっしり、貸本屋ができそうなほどで、千冊以上もあるのではないだろうか。
[ほとんどは息子さんの所有だそうだが]
“じみへん”のことを知っていて、それも「なかなか面白い」なんて女性はあまりいない、それだけで楽しい。
“わたしんち”も好きという。
もちろん漫画以外にもたくさんの本が積まれている。
また、壁には、お友達の描いた絵や、ろう者のアーチストから送られた年賀状などがたくさん飾られている。
それに克士郎さんが海外旅行[アジアやアフリカや中米が多いそうだ]で手に入れられた民芸品などがたくさん陳列されている。
清枝さんは昔、デザイン会社に勤務していたこともあったそうで、ご夫婦とも絵が大変好きなのだが、私は興味が無くこの点では話が弾まなかった。

6月2日黒部ダム
JR大糸線白馬駅から信濃大町駅へ。
信濃大町駅


バスで、扇沢駅へ。

看板の後ろは残雪。

扇沢からトンネルの中を通る“関電トンネルトロリーバス”で黒部ダム駅へ。
トロリーバスは日本ではこの黒部ダムにだけだそうだ。
扇沢駅での展望、真ん中の低いところが白馬山。


その途中、ダム貯水側

黒部ダム底

ダム上

画面奧側は、歩いてきた方向で黒部ダム駅方向。

ここから歩いて黒部湖駅に向かい、
ここからトンネルの中を通る“黒部ケーブルカー”で黒部平に行く。


“立山ロープウェイ”で大観峰へ。

大観峰からの眺めはあまりよくない。
時間があれば立山トンネルを抜けて室堂に行くとかなりの絶景が楽しめるらしいが、時間がないので Uターンした。
黒部ダムでは中国人が多いのには驚かされた。
若い人が多いが、年配者も子どももいる。
昼ご飯は〈おやき〉にした。

電車で白馬駅の一つ先信濃森上駅に向かう。
無人駅。

アルペン山荘までのんびり歩くことにした。
約3キロ位か。

途中、新田に神社・伝行山堂があった。


その脇に急な階段、

息を切らして登ると崩れそうな古い祠があった。

この地は塩の道の荷継場で尾花道とも言われ、白馬村の新田であったようだ。
大雨が降ると鉄砲水に襲われ大変だったらしい、とは克士郎さんの談。
克士郎さんの話を伺って、祠が小高い丘の上にあるのは、水に浸からないためかな、
なんて思った。
丘を降りると、そこから白馬駅方向が美しく望めた。


この夜は、桜井さんの隣人[といっても三百メートルは離れているか]の高杉さんご夫婦も見えて、五人でお酒をたくさん飲み、たくさん話した。
高杉さんのご主人は大学出の大工さん、奥さんは美術科専攻の画家で要約筆記者でもある。
ご主人は大阪、奥さんは愛知出身。

6月3日白馬村内を散策
桜井さんご夫婦に、車で、白馬村内を案内してもらった。
飯盛神社


長谷寺[ちょうこくじ]・飯盛地区・とても古く大きい。

杉の大木を撮したのだが失敗した。

曹洞宗・貞麟寺[神城地区]

禅寺で、とても落ち着いている。
本堂は、新しくつくられ、ヨガの教室やイベントや催しものなどに無料で貸し出されているそうだ。
参道。

境内、枝垂柳[周囲5m、高さ16m、推定樹齢400年、桜の寿命は長くはなく、400年は珍しい、と清枝さんが教えてくれた]。

写真後ろ姿は桜井清枝さん。
桜井さんご夫婦はここに墓地を購入済みのようだ。

さのさか・朝海湿原

花の季節にはもう少し日数が必要とのことで、咲いている花はほんの少しだった。
湿原中央を通り過ぎると木陰でとても涼しい。
狭い湿原で30分位で一周して戻る。

神城の上田さんの所に寄る[昨年、塩の道紀行で泊まったところ]。
上田さんは、今年は[紙マルチ農法][かるがも農法]に挑戦するのだと、明日来るかるがもの家を一生懸命に造っていた。
上田さんの家『ラ・花梨館』

花梨館の前からの眺望

上田さんの紙マルチ農法の田圃・写真は桜井清枝さん


この後、おそばを食べる。
後の予定はないので私だけビールを飲み、アルペン山荘にもどり昼寝した。
この夜は、清枝さんとたくさんお話しした。
清枝さんは旭川出身でその後、千葉に引っ越しし、千葉県内の聾学校に転校したそうだ。
私も桜井さんもそんなに高齢では無いが、
しかし、明日死んでしまうかもしれない、だから「今を大事にしたい」、
といっても、わき目もふらずにという気負いを持たないで、
くよくよしないで生きたいね、
と言うようなことに共感して、
手話やろう者のことなどについてお話しし、とても楽しかった。

6月4日
白馬八方駅9時の高速バスで帰京した。
八方からはたった二人の乗客だったが次々に乗り、12、3人になったろうか。
渋滞は全くなく予定より10分早く、13時20分に新宿に着いた。

のんびりと楽しい旅であった。
同時に、私の手話の関わりについて、重い問題を投げかけられた旅でもあった。
今年9月16日には、『聴覚障害者の塩の道紀行』が計画されている。
参加したい、と思っている。

では、最後に桜井さんのご紹介。
 




立教大学公開セミナーに参加して

2005年12月08日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
12月5日、立教大学大学院・比較文明学会総会・公開セミナーに参加した。
《音の無い音楽は可能か》がテーマであった。
この表題はすこぶる刺激的で、何か新しい視点でも提起してくれるかと、ワクワクしながら参加したが、内容は極めてお粗末、まさにガク=「羊頭狗肉」であった。

私の期待は大きく裏切られた。
何ら新しい視点の提起も、発想もない、と言わざるを得ないのです。
これが大学院博士課程修了者のお話なの?って感じ。
30分という短い時間で、このテーマについて一定の見解を述べるのは難しいことは差し引いても、あまりにも「お粗末」でした。
その上、話し方がへたくそ、というより仲間内に話すような口振りで、何とレジメの配布すらないのです。
要約筆記が付いたのですが、手話通訳は付かないのです。
要約は必要で、手話通訳は不要の説明も全くありません。
事前申し込みではないのですから、聴覚障害者が参加したらどうしたのでしょうか?
ホント信じられない不思議さでした。
無料だから仕方ないではすまされません。
開始時間も遅れ、その謝罪・説明もないのです。

講師は、伝音性難聴と感音性難聴について説明したのですが、
伝音性難聴をボリューム=デシベルのレベルでの障害、
感音性難聴を、音の波長=ヘルツについての障害、
という説明は、いささか乱暴に感じます。
伝音性難聴は、外耳から入った音を聴覚神経に伝える過程で生じる障害、
感音性難聴は、確かに音の波長に関する障害も含まれますが、聴覚神経に関わる障害の両方を指すと私は思います。
従って、伝音性難聴の場合は、補聴器の使用や鼓膜などの医学的治療で一定程度改善される可能性があります。
感音性難聴の場合は、それとは異なって、今日の医学的治療・技術では改善は難しく、人工内耳はその改善の可能性を占めているとも言われますが、それはまだむずかしくはっきりしない、と私は、思っています。

一口に聴覚障害といってもその内容はさまざまです。
私は、大きく、ろう者と言う概念を先天的聴覚障害者=産まれてから音を聞いたことがない人、聴覚障害者と言う概念をろう者・中途失聴者・難聴者・加齢による難聴=身体的に聴力に障害を持っている人、として把握し、使い分けて、その言葉=概念を使用します。

中途失聴と言っても何歳で失聴したのか、と言うことは重要です。
では、3歳の時高熱で、失聴した聴覚障害者の場合、音を聞いたという記憶がありますが、その聞いた種類はとても限られていて、音を概念的に把握=記憶してると言えるでしょうか?
18歳で失聴した場合は、音をかなり概念的に記憶していると思います。

先天的ろう者の場合、音を聞いたという記憶があるのか・無いのか。
例えば、母親の胎内にいる時は聴覚に障害が無く胎内で聞いた音は記憶されるのか。
母親の胎内にいる時すでに、聴覚に障害があって、音を全く経験したことがないとき後天的に音を概念的に把握できるのか。
と言うことは問題になり得るのか? どうか。
こんなことは全く関係ないこと、それとも思考に値いすることですか?

講師加藤さんの結論は、「音楽」=「遊び」だから、「音のない音楽は可能だ」と結論づけます。
しかし、加藤さんは、「音楽」、「遊び」の概念について、全く説明しないで話しを進めます。
そして、話に進展にともないその言葉の意味・内容が変化するのですが、変化の説明もないのです。
「竹竿屋」の音声も音楽だし、クラシックも、歌謡曲も、手話ダンスも、手話パフォーマンス、パントマイムも、リズムがあったり、体が動けば全てが遊び=音楽と言うことになるのです。
そうだとすると、音楽=ダンス=運動=遊び、
だから「音のない音楽は可能だ」と言うことでおしまいです。
そんな簡単な説明でよいのでしょうか?
そんな簡単な世界なのでしょうか?
それらを論理で説明説得するのではなく、
『例えば』という、例示の提示で、説明=論証してしまうのです。

「雪がしんしんと降る」
シンシンとはどういう音なの?、はよく話題になります。
いろいろな考えはありますが、
このシンシンはしーんしーんという「音のない音」と言う解釈もありますし、
深々・森々・津々という情感的・映像的という解釈もありえます。
また、「雨だれがポタポタ落ちた」
このポタポタは、擬音語なのでしょうか、それとも情景説明なのでしょうか?
それは、おそらく情景と音の感じ(=実際の音ではない)とが入り交じった表現ではないでしょうか?

では、視点を変えて、
手話は、視覚言語と言われます。
その視覚言語である手話に、詩的=韻=音声を含んだ表現はあるのか?
「雪がしんしんと降る」のしんしんが音とした場合それは手話で(ろう者は)どう表現するのでしょうか。
「彼はわんわんと泣いた」のワンワンを手話ではどう表現するのか。
ろう者は、聞いたことのない音を手話でどう表現するのか?
と言うアプローチはどうでしょうか。

手話ダンス・手話パフォーマンス・パントマイムは、いわゆる「音楽」ではないと私は思います。
手話詩は、韻詩より映像詩です。
つまり音声ではなく視覚的詩です。

音楽=遊びと短絡的結論はなんら重要ではないと私は思います。

大学院の公開講座と言うので大いに期待したのですが、これが大学院のレベルなのと残念でした。

しかし、始まるまでに時間があったので、護国寺駅で下車して、護国寺をみて、池袋を経て立教大学まで、ウォーキングできたことがせめてもの慰めであった。

埼玉県ろう者大会(2005.11.27)

2005年11月27日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
鴻巣市文化センターで、創立53周年埼玉県聴覚障害者大会が行われた。



午前10からの式典は欠席し、午前中(10:20~11:50)は鴻巣市内の寺社めぐりをした。
ろうあ連盟事務局長・石野富志三郎さんの話はとても良かった。
LO+LE100%(ローヴヒャッパー)の『手話ダンス』はおしゃべりがなければもっと良かった。
また、手話ダンスと言わないでただ“ダンス”と言った方がよい、と思った。


桜井さんのこと

2005年11月27日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
11/25 亜細亜大学手話特別講座=桜井清枝さんのお話を聞く



亜細亜大学では、聴覚障害者についての理解を深める生涯学習講座を開いている。
本来は15回通しの申し込みだが、特別に頼み入室を許された。
亜細亜大学には、聴覚障害を持つ学生が5名い、このことを契機に、聴覚障害学生へのノートテイクサービスの提供や、手話講座の開設、聴覚障害者への理解を深める生涯学習講座開設などを試みてきたということだ。

桜井さんのお話で、四つのことが印象に残った。

①福祉の原点
昔は、聴覚障害の私も、智恵遅れの人も、身体障害者も、それぞれ地域・社会の中でそれぞれが役割を持って、生活=共存していた。
それは、みんなが諍いを起こさず平穏と言うことではない。
相互はいろいろ軋轢があったり対立したり、もまれることは当たり前で、そのことを通していつか落ち着くところに落ち着く。
そんなことが私の福祉の原点だ。
今、障害者は、地域・社会から見えなくなっているのではないか。
福祉は何か特別なことではなく、そうした原点で考えていきたい。
白馬に聴覚障害者が観光に来た時、手話で案内・説明できる人がいると言うことは、観光で成り立つ白馬にとっては、これからは「売り」になります、よと説得しました。

②聞こえると言うことはどういうことか。聞者はろう者をどう見ているのか。
白馬村の村会議員への立候補は、薦めてくれる人がいてであったが、よもや当選するとは思わなかった。
少しでも聴覚障害のこと、福祉の原点のようなことを訴えられれば良いと思っていたら、当選してしまった、と言う感じでした。
白馬では、初めての女性村議の誕生であり、また初めての障害者・聴覚障害の村議の誕生であり、初めてのことがたくさんあった。
手話通訳者がどうして必要なのか、と言うことが理解されるには半年かかりました。
説得するには、言葉が必要ですが、同時に「聞こえると言うことはどういうことか。
聞者はろう者をどう見ているのか」ということは、説得に当たってとても大事でした。
[通訳保障は権利だ、というのはその通りなのだが、それだけを訴えるのでなく、『良いことを言われているけれども私にはわからない、お互いが理解し合うには通訳が必要だ』みたいな言い方は、相手には響くかもしれない。]

③言葉を磨く。
説得には言葉が必要ですが、相手に響き、訴える言葉は大事です。
人と人は、言葉と言葉でつながっています。
ならば、言葉は大事で、磨きをかけなくてはなりません。
話し言葉・手話の両方に磨きをかけました。

④一人のうしろにたくさんの人がいる。
今は、たった私一人のために手話通訳者がいますが、私の後ろには、手話通訳者を必要とするたくさんの聴覚障害者が続いています。

全体的な印象は、とても穏やかで、以前に増して笑顔がとても優しくなりました。


出会った人の名前:大塚ろう学校の橋本さん・亜細亜大学学生の野口さん。

講演後の交流会にも図々しく参加。
年配者は桜井さんと私だけ、その二人だけが「死と向き合う」と言うことを考えていた。
若い人は意識しないと言う。それは当然のこと。
ふたりが一致したのは、
「死んで行く身、失敗してくさったり、小さいことにくよくよしないで、今生きていることを大切にする、でも、わき目もふらないで頑張るのではなく、自分のペースで行くこと」
であった。





ろう文化宣言への意見

2005年11月27日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
ずいぶん前に書いたものだが、内容の訂正はない。
フロッピィだとなくしてしまうので、記録する。

 『現代思想』4月臨時増刊号は、「ろう文化」について特集している。
昨年(1996年)3月、木村晴美+市田泰弘の両氏は、「ろう文化宣言――言語的少数者としてのろう者」(以下「宣言」と略)を発表した。本臨時増刊号は、その宣言を受けて、賛否両論を様々な角度から掲載している。
 私の率直な感想は、その賛否の論争がかみあっていない、ということである。
 その原因は、まず議論の出発において基本的な用語の定義=意味・意義づけが共通のものになっていないことにあると思う。それは「宣言」がこれまで常識的=一般的に使用されてきた用語例えば、手話・日本手話・ろう者などをそのまま使って、その言葉にこれまでとは違う自分たちの思想や意義付けを与え、その両者を区別しないでそのまま使用していることにその要因があると思う。
 「宣言」の内容、使われる言葉の概念について、私は疑問や批判を覚えるところも多々あるが、それを越えて私が着目したいのは、「宣言」がろう者を、聴覚に障害を持ち、コミニュケーションの方法においてハンディを持つ、福祉の受益者と言う面が強い等々の外在的アプローチではなく、ろう者であることに自覚や誇りを持ち、自らのアイデンティティ(日本語になじみは薄いが、さしずめ私は“自分らしさ、自分は何ものなのか”という意味合いにおいてこの言葉を使っておく)を求め、それを育て、確立する“主体”としてとらえようとする方法に共感と同時にこれまでとは違うろう者像のアプローチを見るからである。
 結論から言うとその試みは充分に成功はしていない、というのが私の考えである。
 以下その点について説明する。

 少し長くなるが、「宣言」の神髄と思われる冒頭の文章を引用する。
「宣言」は言う、
【「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」――これが、私たちの「ろう者」の定義である。/これは、「ろう者」=「耳の聞こえない者」、つまり「障害者」という病理的視点から、「ろう者」=「日本手話を日常言語として用いる者」、つまり「言語的少数者」という社会的文化的視点への転換である。このような視点の転換は、ろう者の用いる手話が、音声言語と比べて遜色のない、“完全な”言語であるとの認識のもとに、初めて可能になったものだ。】と。
 「宣言」では、ろう者について、耳が聞こえないと言うことについて全く触れない。そのことは、自明なことでわざわざの説明が不用と言うことなのか、それとも全く関係ないと言うことなのかは、うかがい知れない。
 「宣言」の立場は、耳が聞こえないのは「病理的視点」であり、そのことは考えなくて良い、必要ないと言うことのようである。しかし、ろう者を、アイデンティの観点からアプローチする時、耳が聞こえないと言うことを、障害・病理ととらえるかの評価は分かれるとしても、ろう者が受けてきた社会的歴史的事柄は耳が聞こえないということと無関係ではないし、大きな位置を占めていると私は考える。この点については後述する。
 しかし、「宣言」の「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」との考えは、耳の聞こえる人でも、ろう文化を尊重し、日本手話を話すことができるならばろう社会の一員として認めようする閉鎖的ではない開放的なろう社会をイメージ、目指そうとしていることがうかがえる。
 耳の聞こえる人に対しこのような開放性を準備しているにもかかわらず、しかし、同時に、他方一度インテグレーションしたろう者に対しては、きわめて冷ややかな態度・拒否的感情を示しているように、私には思える。
 この二つの間の隔たり・乖離・不整合性について、私は理解に苦しむ。
 「宣言」においては耳が聞こえないことは、「障害」なのか、あるいは生理的=肉体的個性なのかは本質的ことではなく、問わない。つまり、耳が聞こえないことは、例えば、背が高いとか低いとか、男か女か、皮膚の色が黒いか白いか、というような生理的=肉体的個性の違いでしかないということだ、と言う。(したがって、ここで「障害者でないなら障害者手当を貰うのか貰わないのか、貰っているのに、障害者ではないというのは矛盾している、おかしい」という観点からの批判は、的はずれの批判、批判するための揚げ足取りのように感じるが、しかしそれは現実的問題でもあるので、別途検討する問題ではないかと、私は思う。)
 次に、自分たちの「社会的文化的視点への転換」は、「手話は完全な(日本語や英語と同じという意味において=増田)言語である」と言う認識を獲得したことにあると言うことについてである。
 私は、そのような転換=認識をどのように獲得できたのかと言うことこそが問題であり、重要なのだ、と考える。「宣言」が描いた新しいろう者像をどのようにして獲得したのかを「宣言」は触れない。このことに触れない「宣言」の立場は、私には、これまでの「誤った認識を改めろ」、「意識を変えろ」ということのように聞こえる。これだと、〈意識の問題〉だということだけになってしまう。
 私が言いたいのは、こうした認識の転換は手話が言語であると科学的に証明されたことに求めるのではなく、これまでのろう者のアイデンティティを求めての旅=主体確立の格闘があったからこそそのような変革も可能になったのだ、と言いたいのである。
 例えば、これまでろう者が行い闘って来た自己解放の歴史、他のマイノリティと言われる人々の運動(例えば、障害者解放運動、女性解放運動、解放運動、在日韓国・朝鮮人3世4世の運動、アイヌ民族の運動、さらに世界の第三世界解放運動や少数民族の運動、南アの黒人解放運動、アメリカの公民権運動や同性愛者の運動、等々)の歴史がなければそのような変革はなかったはずだ。
 私たちは、30年前の格調高い「ろう教育の民主化をすすめるために――3.3声明」を知っている。「宣言」は、この「3.3声明」とどう切り結んでいるのだろうか。
 また、突然、「自分たちは、ある種の『民族』なのだ」と言う主張と出くわし、他方、「インテグレーションした人は自分たち(ろうコミュニティの成員=増田)とは違う」という主張にぶつかり、とまどい、立ち止まざるを得ない。
 「民族」という言葉について、「宣言」は具体的説明をなんらしていない。
 私が思うに、「宣言」はアメリカのろう者の経験・運動を意識しているのだと思う。
 アメリカの黒人解放運動・公民権獲得運動は「民族」解放運動から多くのことを学んだ。学ばざるを得なかったという方が正確かもしれない。
 アメリカの黒人にとって、ベトナム民衆の戦いは人ごとではなかった。ベトナムに派兵された兵士の中に多くの黒人がいた。国内で差別され抑圧されて来た黒人が、今度は、自分たちよりはるかに体格は貧弱で、身なりもみすぼらしいアジアの黄色人種を侵略し殺戮するという現実に直面せざるを得なかった。
 軍事力・財力・国力・体力のない遅れたベトナムの民衆が、強大な軍事力を持ち、装備も優れた、常勝先進大国アメリカと真っ向から対決し、退却するどころか逆にそのアメリカをうち負かしている。しかも、自分たちは女・子供・老人までも無差別に殺している。
 このことは黒人達の倫理観・道徳観・良心、そして何より自分たちのアイデンティティーを大きく揺れ動かし、混乱させた。
 そして、物や金や力より、精神・志・大儀・正義を求める心理の方が何より強い、という単純ではあるが明快な真理を学んだ。
 抑圧され続けてきた黒人たちにとってそれは屈折しながらも翻って、自分たちの過去と現在を照射せざるを得なかった。
 ブラックパンサーのスローガンは「ブラック イズ ビュティフル」であった。「ブラック」、それはかつて自分の黒い皮膚を白くしようと、肌から血が出てもなお石で削って白くしようとした自分たちが一番嫌っていた色であった。それが一番美しい、この180度の自己の転換を勝ち取ったのである。
 マルコムXは、イスラームの息吹を黒人に注いだ。
マルコムXらの武装闘争の実践=失敗と敗北は、キング牧師に引き継がれていく。キング牧師はインド・ガンジーの“非暴力・不服従”を打ち出し、勝利する。こうした一連の運動の中で黒人達は、自分たちを「ある種の民族」と読んだ。そこには、ベトナムの奇跡=ベトナムの人々が自分たちを新しい「民族」=人民へと自分たちを育てた、これまでとは全く違った人間集団の新しい概念の発見・創造があったのである。こうして黒人たちは、自分たちをアメリカの多数者=支配者である白人とは違う、ある種の「民族」と読んだのだ。
【宣言が、自分たちが一番忌み嫌い、耳にするのもいやな「エタ・に栄えあれ」と結んでいることとあまりに印象深く似ている】
 アメリカのろう者の運動は、それまでも日本と比較にならないろう者の先進的運動の歴史はあったが、他のマイノリティの運動と比べてはまだまだ遅れていた。アメリカのろう者は、先陣を切った以上述べた黒人解放・公民権運動から多くを学んだ。黒人達が自分たちを「ある種の民族」としたことを受けて、ろう者も自分たちを「ある種の民族」と読んだ=名付けたのだと思う。背景には、こうした歴史と運動があったのだ、と私は思う。
 「宣言」は、私には、こうしたアメリカの特殊性・歴史性を無視して、そのまま結論というより言葉だけを取り入れてしまう安易さを感じる。
 アメリカの特殊性・歴史性というとき私は、先述したベトナム戦争に関わる歴史性と同時にアメリカは日本とは比較にならない多民族、多人種の国ということ、そのことから自己解放の運動は他者と自己の違いをはっきり区別=独自化しつつ、しかも同時に連帯=融合する事を目指す運動=歴史を持っているという意味で使っている。
 アメリカの経験を無媒介的にそのまま言葉だけ借りて説明することは無理がある。
まして、日本においては「民族」という概念はそれほど馴染みがないのだから。
 次に、私は、二つのことを思い浮かべる。
 一つは、「母国語を生得的に獲得する機会を失った、在日韓国・朝鮮人3世4世が自らのアイデンティティを求めて、母国語を獲得する格闘。
 二つは、親に普通学級に通うことを勧められたり、何らかの事情で手話を生得できなかったろう者が自己のアイデンティティとして手話を獲得したいと格闘する姿である。
 この両者は自ら選んで「インテグレーション」したのではないにもかかわらず、ろうコミュニティの成員足り得ない、と「宣言」の立場はいう。
 私は、「宣言」は、ろう者を、自己を受動的存在としてではなく、主体的存在として定立しようとしながら、言語プロパーにこだわるあまり自己の存在・問題の領域を極めて狭く限定してしまうという落とし穴に陥ってしまったのではないか、と思うのである。
 私は、そのような誤りに陥ったのは、ろう運動を歴史的反省・主体の形成=確立という視点を欠いて総括してしまう非歴史性、そして言語プロパーの視点のみに落ち込んでしまった方法にあると思う。
 さらにそうした誤りに陥ったのは、「手話は言語である」という主張を、手話が言語学的・科学的に研究され、深められることは重要ではあるが、学説や科学的に証明するという視点から根拠付けようとする方法的弱点に由来していると考える。
 ろう者が一人で孤立している間は手話は生まれない。二人、三人のろう者が偶然的に会っていれば、身振り手振りのコミュニケーションは生まれるが、やはり手話は生まれない。
 手話が生まれるには、集団としてのろう者が偶然的ではなく恒常的に社会生活を共同して行うという空間と場が必要である。
 ろう学校の誕生はその第一歩であった。しかし、戦前のそれは量においても質においても極めて限られたものであった。ろう学校に通うことができたのは、ほんの一握りの資産家の子弟=エリートだけであった。当然手話も地域性という制約を強く持っていた。
 本格的ろう者集団=手話の登場は戦後を待たなければならなかった。
 こうして本格的ろう者運動の歩みが始まる。
 当然、主体は未成熟であり、社会的歴史的制約は強く大きかった。
 社会には、ろう者は聴者より人間的に劣っているという強固な常識が存在し続けてきた。ろう者もその常識から自由ではなくとらわれていた。ろう者にとっては、自分がろう者であることは人には知られたくない秘事であり、手話は見栄えの悪い身振り手振りであり、恥ずかしく劣っているものと思い続けてきた。
 ろう者の運動は、直接的には社会に存在する差別と不平等に対して戦ってきたのだが、そのことは、同時に自分自身の内部に潜み、しみ込んだ「我々は劣っている」という劣等感や弱点と戦うことであった。
 「福祉をお願い」する運動であったとしても、それは、秘事である自分はろう者であることを明らかにする決断を迫った。同時にそれは自分自身の意識のこれまでのありよう=自分たちの奴隷根性つまり自分たちの劣等感、弱点を見つめ、それとの戦い、そうした自己を批判することを伴わずにおかない、痛み・苦しみを伴う、戦いであった。
 だからこそ、それは同時に「手話は恥ずかしい」から、「手話はすばらしい」という大転換へとつながり、「手話=自分たちの言語」の獲得となっていった。
 こんな分かり切ったことを長々と書いたのは、「手話は言語である」という発見・証明・認識・結論が大事なのではなく、それは、まさにろう運動の歴史の中で自らが一歩一歩、それこそ血がにじむような自己批判を通して勝ち取ってきたものである、ということを言いたいからである。
 「宣言」がろう者の主体を論じる以上、そうした自分たちのこれまでの運動を主体の確立、手話の獲得という視点から捉え返すということが基本に据えられなければならない、ということは以上のような事情からである。
 30年前の格調高い「3.3声明」とこうして結びつくのである。
 そうではなしに、認識の問題=つまり意識・見方を変えろという方法では、その立場に立たないなら、「見解が違うね」、ということで終わり、次に進まないと私は思う。
 また、手話・日本手話そのものの評価を自ら下げてしまう結果となると思うのである。
 しかし、「宣言」はこうした限界を持ちながらも、この「ろう文化宣言」が、生まれつきのろう者や日本手話を使うろう者が日々の生活の中で、日本語対応手話に抑圧されて来たし、現在も抑圧されている、と感じていることを公に問題を提起したこと、そして「手話は言語である」と改めて高らかに宣言したこと、またろう者の集団は言語をはじめ独自の文化を持っているのだと宣言したこと、等々の名誉と意義は決して小さなものでないことはいうまでもない。
 また、新しい問題の提起は、はじめからすべて完全ではあり得ないし、問題が極端=ラジカルに提起されざるを得ないと言うことも当然のことである。
 従って、私としては、こうした立場に立つのか立たないのか、双方の非難合戦ではなく、提起された問題は何なのか、課題は何か、が整理され、より豊かに議論され、実りある豊のものへと発展していくことを心から願うものである。




〇白馬・塩の道紀行(10/2)

2005年08月25日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
〇駅からハイキング〈2005.6.18〉=水元公園菖蒲まつりと葛飾柴又めぐり10.5キロ、3時間
〇駅からハイク(2005.5.28)=港風景と町並み散策を楽しむ春の横浜ウォーキング=根岸駅~本牧山頂公園~三渓園~中国街~港の見える丘公園~山下公園~伊勢佐木長者町・11キロ・3時間
〇(2005.5.21)駅からハイキング“隅田川の橋めぐり・第2回”〈上野ー馬喰町館〉11キロ、約3時間。晴天。たくさんの参加者であった。
〇“塩の道紀行”2005/5/15

14 日9時新宿発高速バス、みみずくの湯に浸かり、電車[白馬ー神城]、徒歩25分の、花梨館。宿の前は一面水田、その遙か彼方に、雪渓の白馬の尾根が続く。宿主の上田夫妻は、とても素敵な人であった。12年前に脱サラして、白馬に入り、その後白馬村議を6年間やる。奥さん2年前に白馬の住民となる。それまでは、白馬には大阪から通い。辻本選挙を手伝ったり、憲法擁護の活動をしたり、ペシャワール会の活動をしたり。
翌日は、雨であった。個人なら雨中ハイクはしないが…。昨年のリピーターが何人もいたのには驚いた。八王子の小松原、遠藤夫婦、与野の正木、入間の森田秀子、中野の星野、横浜の三浦夫妻、足立の岩井、青砥の春田、長野の村田信二さんと話した。ガイドの田中欣一さんともたくさん話した。桜井さんとはあまり話せなかった。
〇中国国宝展 2004/11/15 東京国立博物館
〇紬の里・結城まつり(2004/11/14)
結城市ははじめて。結城小学校は結城城の跡地で、堀跡などが残っていた。
寺・神社が数多くのこり、古い城下町を伺わせる。
曇天で、寒かった。
〇白馬・塩の道紀行(2004/10/2)
第4回聴覚障害者のための塩の道(千国街道)に参加した。
白馬村村議桜井清枝さん(聴覚障害者)呼びかけ、里山塾主催。
2日9時集合なので、前日、岩岳荘に宿泊。
大阪、東京、八王子のろう者・聞者と同宿で、たくさん話した。
桜井さんご夫婦ともたくさんお話しした。