5.中国怪食紀行
小泉武夫著/「我が輩は『冒険する舌』である」
中国には10回以上行っている小泉さん、
食を心から愛する小泉さんの面目躍如・抱腹絶倒の一冊。
中国は国も歴史も広く古く、食文化も広い。
4.新落語的学問のすすめ
/桂文珍著・慶應大学の約4ヶ月の講義録。
関西大学での講師経験を踏まえ精選され、佳作である。
「ひるからは ちとかげもあり くものみね」
蛭、蚊、蜂、蜥蜴、蟻、蜘蛛、蚤が隠れている。
3. ローマ人の物語Ⅹ すべての道はローマに通ず・塩野七生著
はじめに
1.街道
・社会資本と訳そうが下部構造と訳そうが、インフラストラクチャーくらい、それをなした民族の資質をあらわすものはないと信じる。
・ローマ人の考えていたインフラには、街道、橋、港、新田、公会堂、広場、劇場、遠景闘技場、競技場、公共浴場、水道等の全てが入ってくる。ソフトのインフラになると安全保障、治安、税制に加え医療、教育、郵便、通貨のシステムまでも入ってくる。
・言語とは、現実があって、それを表現する必要に迫られた時に生まれる。
・ローマ人はインフラを「人間が人間らしい生活をおくるためには必要な大事業」と考えていたのではないか。
第一部 ハードなインフラ
・紀元前三世紀とは、偶然にしろ、地球の東と西で大規模な土木事業が始まった時代でもある。
東方では万里の長城・秦の始皇帝時代に建設された長城だけでなく16世紀の明の時代の建設の長城までを加えるとその全長は5千キロにおよぶ。
西方ではローマの街道網、前三世紀から後二世紀までの五百年間にローマ人が敷設した道の全長は幹線だけでも八万キロ、支線まで加えると15万キロに達した。
・ローマ街道とは、幹線ともなればことごとく一面に大石を敷き詰めた四メートルを超える車道と両側三メートルずつの歩道の計十メートルを幅を持ち、深さも四層からなる一メートル以上にもなるように設計されていた
・インフラがどうなされるかは、その民族のこれからの進む道まで決めてしまうのである。
・人間がローマ街道を行く速度を上回る早さで目的地に到達できるようになったのは、19世紀半ばから始まった鉄道の普及によってである。
・ローマ人はしばしば人間が人間らしい生活を送ることを、文明という一語で表現していた。
・ローマ時代のマイルとは1000歩に等しい距離のことであり、1.485キロ前後になる。
・ギリシャ人は書いている。ローマ人が創造した傑作は三つあり、それは街道、上水道、下水道、の完備である。
2.橋
・首都ローマに橋は、百万を超える人口を考慮してか幹線道路並みの幅を持つようになる。車道の幅は四メートル強は通常に使われる馬車の幅が1.5メートル前後であったので対向二車線であったと言える。
・神殿や広場や水道の工事は「ソチエタス」と言う私企業が入札制度によって請け負うシステムになってたが、街道と橋だけは実際に工事を行っていたのは軍団兵だった。
3.それを使った人々
・「ローマ軍はつるはしで勝つ」と言われたくらいで、兵士全員が「工兵」だった。
・ローマの街道網が20万にも満たない軍団兵だけで大帝国の安全保障が維持できた最大の要因だった。
・カエサルが転戦する地にはことごとく常時数頭の馬をプールしているスタティオネス(ステーションの語源)が線上の点のように配置されていた。
システムとは、衆に優れた力に恵まれた人のためにあるのではなく、一般の人々の力に合致し、その人々の必要性までも満たすものでなければならない。
・一日の行程ごとに諸々の設備を全て備えた「宿駅」が置かれた。
賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶと言うが、学ぶのは歴史と経験の両方でないと真に学ぶことにはならない。歴史は知識だがそれに血を通わせるのは経験ではないかと思う。
ローマ帝国が滅亡した後を暗黒の中世と呼ぶのは「パクス・ロマーナ」が失われたから、つまり外的への防衛、宗教と民族間の紛争防止、治安への保障の全てが瓦解してしまった時代である。
地図とは、情報の集積である。
・コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認し国教と認めたが他の宗教を禁じはしなかったが、紀元392年になってテオドシウス帝がキリスト教以外の全ての宗教は邪教であると決め、それらの異教の徹底的な排除に乗り出した。
・車輪外地回転すると鉄の多摩が落ち、それが10個になると少し大きな玉が落ちる、これを繰り返して踏破距離を測った。
十分に機能する道路行政は一貫した政治が行われる国家でしかなしえない。
法律もまた、立派なインフラである。
4.水道
・最初のローマ式街道を造ったアッピウスは水も自然に頼るだけでは不十分であり人工による安定供給システムの確立を目指した。=アッピア水道・紀元前312年。
・地下の坑道を通す距離のほうが長い。流水中の水の温度の上昇を抑えるためであり、水分の蒸発を防ぐためである。
・ローマ時代には水売りがいなかった。
・水もまた、水道・井戸・雨水の三つの選択肢を持ち続けた。
優れた武将は、組織作りの巧者でもある。
・アグリッパ(初代皇帝アウグストゥスの右腕・軍人)は紀元前30年内乱終結後、240人の奴隷[かつての敗者であるが専門家であった]からなる技術者集団を作った。アグリッパが死んだ跡この集団はアウグストゥスに遺贈され、奴隷から解放しただけでなく解放奴隷・一般市民・地方自治体議員という三階級を飛び越え騎士階級に昇格させた。
ローマ帝国とは、カエサルが青写真を引き、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが定着させた。
国営郵便制度を創設したのはアウグストゥスだが、ティベリウスは各宿駅ごとに警備兵を配置することで郵便や旅行者の安全を期した。
・紀元一世紀半ば、ローマへの総水量は百万立方mを越えている。人口100万として一人あたり1立方mで、現代の大都市と同水準である。
ローマの水道はながしっ放しで、共同水槽は約40メートルごとにあった。
水をきれいに保つため
下水道を充分に機能させるため
・水道代の一年の総計は、最高級アパートの一年分家賃の10倍以下であった。
・家まで水道を引くと料金が取られたが、申請手続きは複雑で許可が下りるまで時間がかかった。また、有効期限は申請者一代で相続譲渡は認められなかった。
・水道の水を盗んだものに対してはすさまじい楽の罰金を科した。最高は、84人分の軍団兵の年給に相当した。
・浴場の料金はパン一つと葡萄酒一杯の値段であった。兵士と子供はただ、奴隷も入浴できた。ハドリアヌス帝までは混浴であった。その後は時間によって男女が分かられた。
~充分な飲料水・下水道の完備・入浴=疫病の流行がローマではほとんど無かった。
4世紀キリスト教の拡大
・男までが腕を露わにしなくなり長袖の下着をつけ、公衆浴場の混浴は無くなり、浴場にあった裸体の彫刻も撤去された。
・紀元538年には、蛮族の侵入により、ローマに入る水道の水源地の取水口を自ら閉じた。こうしてローマ街道もローマ水道もメンテナンスされずに放置された。
第二部 ソフトなインフラ
1 医療
・ローマは長い間地下鉄がひかれなかった。~低いと遺跡に突き当たるから。
・同じ理由で駐車場が造られず路上駐車が多い。
ローマには長く専門の医師が存在しなかった。~家庭医療と神頼みである。
~家庭医療では家父長の権限と責任が重く大きかった。=予防医学とも言え、身体の抵抗力の強化=食事、適度な労働、じゅうぶんなすいみん、と衛生の保証。
・ローマには病気ごとの神がいた、疫病・発熱・腹下し・腰痛など。
カエサルの医療改革
医師と教師には一代限りのローマ市民権を与えた。~優秀な医師と教師がローマに来た。
・仕事を終えた後入浴し、身体をマッサージし、夕食を取るというライフスタイル。
ローマ市内に大病院を建てなかったのはなぜか?
寿命がつきたならばじたばたしないと言う死生観~若者や兵士には徹底的に加療する。~墓を不浄なものとしないで幹線道路の両側に墓を造った。
遺灰埋葬で墓は深くする必要はない。
医療は公ではなく、私中心の概念(コンセプト)であった。
「貧しいことは恥ではない、だが貧しさに安住することは恥である」(ペリクレス)
「貧しき人は幸いなれ」(キリスト)
キリスト教の「慈愛」は近現代になると「人権」に取って代わり、医療もまた「公」中心の担当分野と考えられるようになった。
2.教育
〈教育も医療と同じ公教育でなく私教育だった。〉
・カエサルはガリア人の家庭教師から学んだ。
・家庭教師料・私塾料=一ヶ月8アッシス[非熟練労働者日当10アッシス、公衆浴場料金成人男子0.5アッシス]
・ローマ軍団志願兵の選抜に際しラテン語の読み書き能力と計算力。
・小学校で学ぶ数学は分数計算まで、分数計算能力は絶対必須だった。属州税10分の一税、売上税百分の一税、相続税20分の一税
・小学校というと、私立の小学校と言うよりフォールムの一郭や屋根のある場所など、午後は公衆浴場=体育場・庭園があった。
・中等教育は、12~17才。
・高等教育は、17~20才で、弁護士・政治家の養成が目的。
・最高学府は、ローマにはなくアテネのアカデミア、エジプトアレクサンドリアのムセイオンであった。教育機関と言うより研究機関で、大学院大学様であった。皇帝の中でこの種の教育機関に学んだ人は皆無であった。学歴は無関係だった。この両機関には国庫から助成され、教授達は年金が支払われた。
初頭・中等・高等教育の公営はキリスト教の支配と共に進んだ。
・帝国の経済力がさかんであった時代には医療も教育も私営であったのに、経済力が衰えた時代に公営化された。ある一つの考え方で社会は統一されるべきと考える人々が権力を手中にするや考え実行するのは、教育と福祉を自分たちの考えに沿って組織し直すことである。
ローマ帝国の国家宗教がなって後のキリスト教会がしたこともこれであった。そしてその半世紀後ローマ帝国は滅亡した。
アテネのアカデミア、エジプトアレクサンドリアのムセイオンもまもなく廃校になった。疑いを抱くことが研究の基本だが、世の中は「信ずるものは幸いなれ」の一色になった。
おわりに
ローマ人の定義ならば、社会資本・基礎設備・下部構造を意味するインフラストラクチャーは「人間が人間らしい生活をおくるために必要な大事業」となる。
【現代でも、先進国ならば道路も鉄道も完備しているので、われわれはインフラの重要さを忘れて暮らしていける。……水も、世界中では未だに多くの人々が、充分に与えられていないのが現状だ。
経済的に余裕がないからか。
インフラ整備を不可欠と思う、考え方が欠けているからだろうか。
それとも、それを実行するための、強い政治意志が、欠けているからであろうか。
それともそれとも、「平和(パクス)」の継続が保証され内からであろうか。】
本巻は、このシリーズでは異色・傑作である。
ローマが絶世期・輝ける世紀を迎え、(衰退に向かって)折り返しを迎えるかのような時期にこの巻、
「ローマ人の真の偉大さはインフラ=社会資本の整備にあった」と、
これまでの通年史の方法と全く異なり、インフラ=社会資本についてまとまって叙述されている。
たくさんの図やカラー写真やが紹介され、ほとんど全ページ引用したいほどの記述である。各巻でまとまって述べられてはいるのだが、
・軍隊、軍備 ・税金 ・農場 ・工業 等の叙述にもう一巻必要=欲しいと思う。
キリスト教=絶対一神教がローマ社会・人間の歴史に与える影響(よくない)を予感させる。
2.ローマ人の物語Ⅸ「賢帝の世紀」・塩野七生著
~ローマ帝国の輝ける世紀をもたらした、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス。
・トライアヌス[紀元98年~117年]は属州出身の最初の皇帝であった。
・ローマの興隆の要因は、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方にあった(プルタコス)
属州対策の原則
・税率を上げない
・インフラの整備~生活水準の向上
・地方分権の徹底
・敗者の神々までいて、それに“ローマ市民権”を与え、30万もの神を持つようになっていた。
・心の底からまじめに皇帝を務めたトライアヌスの治世20年であった。
ハドリアヌス[117年~138年]
・公正な税制とは、広く浅く税を課す制度、と言ってよい。
関税:20分の一、売上税:百分の一、国有地借地料:十分の一、が定着していた。
・ハドリアヌスは通貨に自分の統治のモットー:寛容・融和・公正・平和を彫らせた。
・ローマ市史に接していて最も強く感ずることは、ローマ人の一貫した持続性である[塩野]
【ローマ軍】についてのまとまった記述。全文引用しておきたいほど。
・薔薇の花咲く島という意味の「ロードス島」
・古代ギリシャは「男の世界」であった。ギリシャ文化を愛すれば美少年への愛に行き着いてしまう。
フラヴィウス・ヨセフス(ユダヤ人)の書いた『ユダヤ戦記』が抜粋引用されているが、これも全文転載したいくらい。
・ローマ皇帝の責務は「安全」と「食」の保障である。だが安全のほうが優先する。人々は安全さえ保障されれば自分たちで自分たちが必要とする食の生産はできるのだ。
・135年からの「ディアスポラ」=離散~ユダヤ教を信仰するユダヤ人イェルサレムに住むことが禁じられた。20世紀半ばのイスラレル建国まで続く。
・ギリシャやローマ[多神教]の人々とユダヤ人[一神教]では自由の概念が違っていた。~ギリシャ・ローマ的自由には「選択の自由」もあるが、ユダヤ教徒・近代までのキリスト教徒にとっての自由には選択の自由は入っていない。神の教えに沿った国家を建設することだけがこの人々の自由なのである。
アリスティデス[26才のギリシャ人が建国を祝う記念講演(143年)]の話。
ホメロスは謳った。
ローマ人は傘下に収めた土地の全てを測量し記録した。その後で河川に橋を架け、平地はもちろんのこと山地にさえも街道を敷設し、帝国のどの地方に住まおうと往き来が容易になるように整備した。そのうえ、帝国全域の安全のための防衛体制を確立し、人種が違おうと民族を異にしようと共に生きていくための法律を整備した。これらのこと全てによってあなた方ローマ人はローマ市民でない人々にも秩序ある安定した社会に生きることの重要さを教えたのである。
アントニヌス・ピウス[138年~161年]~ピウスの意味=慈悲深い
祖先はローマに征服されたガリア人(南仏ローヌ河近郊)
・トライアヌス[至高の皇帝]、ハドリアヌス[ローマの平和と帝国の永遠]、アントニヌス・ピウス[秩序の支配する平穏]
・リーダーの条件~力量、幸運、時代への適合性
ピウスの場合力量と訳すより「徳」と訳す方が適切かもしれない。
・「帝国の主になった今は以前に所有していたものの主でさえもなくなったと言うことだ」[ピウス]
・次皇帝-マルクス・アウレリウス(ピウスの養子)が父アントニヌスについて述べた文章が全文引用されているが、これも味わい深く全文引用したいほど。
再度、アリスティデス[26才のギリシャ人が建国を祝う記念講演(143年)]の話。
ローマは全ての人の門戸を開放した。それゆえに異人種・異民族・異文化が混ざり合って動くローマ世界はそこに住む全員がそれぞれの分野での労働にいそしむ社会を作り上げたのである。ここでは共通の祝祭日には皇帝が主催する祭儀が行われるが、民族別や宗教別にもそれぞれの祭儀が自由に行われている。このことは各人が各様に自分たちの尊厳と正義を怖じするのに役立っている。ローマは誰にでも通ずる法律を与えることで人種や民族を別にし文化を共有しなくても法を中心にしての共存共栄は可能であることを示した。そしてこの生き方がいかに人々にとって利益になるかを示すために数多くの権利の享受までも保障してきたのである。このローマ世界は一つの大きな家である。
・ギリシャ人の歴史は都市(ポリス)間の抗争の歴史であり、ローマ人の歴史は権力抗争はあっても都市間や部族間の抗争はなかった。
・トライアヌスとハドリアヌスは統治者としてその治世をまっとうした、アントニヌスは父親を務めることで一貫した。
1.コンスタンティノープルの陥落・塩野七生著[新潮文庫]
1453年5月29日、難攻不落と言われたビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルはオスマントルコの猛攻によって陥落した。
オスマントルコを率いたのは、21才のスルタン、マホメッド二世であった。
紀元330年ローマ帝国のコンスタンティヌス一世はビザンチウム=コンスタンティノープルを新しいローマとして遷都した。
コンスタンティノープルが陥落し、以降イスタンブールとなり、20世紀初頭までトルコ帝国は続いた。
ビザンチンという何となく東方の香りがするギリシャ正教国は、イスラームの前に滅ぼされた。
・おもしろかった。