風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

黒石寺・中尊寺と奥州仏教美術特別拝観~その一

2008年05月25日 | 国内旅行
黒石寺・中尊寺と奥州仏教美術特別拝観
2008/5/23~24 クラブツーリズム『歴史街道』


5/23・一日目
大宮8:46やまびこ、水沢江刺11:10、バスですぐ黒石寺へ。


黒石寺
「蘇民祭」で一躍有名になったあの黒石寺。
岩手県水沢にある。東北地方で最も古い時代の開山と言われる。
JR水沢駅から車で20分、かなりの山の中にゆったりたたずむ。




薬師堂

日光・月光菩薩立像

増長天

薬師如来座像を収める[本来は本堂内なのだが保存のためここに安置されている。右:薬師堂]

薬師如来座像


鐘楼と庫裏の土塀


妙見堂


瑠璃壺川

蘇民祭の時は、下の川で身を清めて境内に入る、と言う。
蘇民祭騒動については触れない。
女性住職がユーモアたっぷりに説明してくれた。
往時は、48の堂塔伽藍が立ち並んでいたと伝えられる。


正法寺
黒石寺のすぐ近く、奧の正法寺と言われ、曹洞宗のお寺である。

全景
 

惣門


本堂[法堂]、日本一の茅葺屋根[間口約30m、奥行21m]
 
修行僧

本堂内

本堂西[左]の間

本堂東[右]の間:涅槃図

本堂を横から


座禅堂


庫裡と鐘楼

韋駄天

茶釜[蓋は群馬県の茂林寺に飛んでいったのでないという]


開山堂[位牌堂]、真ん中は道元禅師(開祖・石川県永平寺)


宝物庫[観世音菩薩座像が安置される=保存のための建物]


仏殿跡[左は座禅堂、座禅堂の右に本堂が連なる]


熊野大権現堂


白山堂[右は庫裡]



中尊寺
中尊寺は奥州藤原氏が庇護した。
この一帯は合併で奥州市となった。
中尊寺を要する平泉町はその名がなくなるのを嫌って合併に加わらなかったという。

金色堂


経堂


芭蕉像


旧覆堂


西谷坊


釈迦堂


白山神社能楽堂


白山神社茅の輪[祓いの輪]


弁財天堂


阿弥陀堂


讃衡蔵[宝物展示場]


鐘楼


峯薬師堂

薬師三尊


本堂


観音堂


弁慶堂



仙台市内
仙台市内に戻りホテル[仙台エクセルホテル東急]に入る
五時近くになっていたが、仙台城祉を散歩した。

広瀬川[大橋から]


仙台市博物館周辺
魯迅像

魯迅碑

林子平像


青葉山公園内[仙台城]
仙台城城郭


護国神社


土井晩翠碑


伊達政宗像


仙台市内を臨む


仙台市内の繁華街・一番町買い物公園プランドームをぶらぶらした。
仙台名物は牛タンらしいが蕎麦屋に入った。
金曜夜のためかものすごい人通りであった。

次の、二日目に続く


黒石寺・中尊寺と奥州仏教美術特別拝観~その二

2008年05月25日 | 国内旅行
黒石寺・中尊寺と奥州仏教美術特別拝観・二日目
 

双林寺
曹洞宗のお寺

双林寺本堂

本堂庇



本堂脇の収蔵庫に保存のため安置されている
薬師瑠璃光

持国天王

増長天王

地蔵尊


鐘楼


姥杉[樹齢1200年と言われる]



高蔵寺

阿弥陀堂[日本最古の木造建築と言われる]
 

説明するご住職


薬師如来座像


阿弥陀如来座像[阿弥陀堂本尊]


佐藤家住宅[中規模程度の農家の屋敷跡]


大蔵寺
福島駅から車で10分くらいだが、道の狭い山の中にあって、
大型観光バスは入れないので、タクシーに分乗した。
全景

左:赤線囲いは足尾神社、その右に大わらじ、その右奧が観音堂、中央は地蔵堂

大わらじ

きっと山岳信仰もあって、昔信者は足の健康を願って使い古したわらじ供養したのだろう。
以前は麓ででわらじを編んで運んだが、
現在は高齢化のため運ぶのが大変なので、上で編むという。

観音堂★
 
観音様

天井には、坂上田村麻呂の東北平安の絵が描かれていた。

奥の院[昔は、ここに千手観音が安置されていた、再建されたもの]


観音堂[収蔵庫]

千手観音

【昔は、観音堂★は神社の拝殿のような位置に当たる、本殿が奥の院にあたる、
そこに千手観音が祀られていたが、千手観音は保存のために収蔵庫に安置された。
この寺には朽ちかけたたくさんの木造仏像がたくさんある。】

東北地方は何回か来たことがあるが、仙台は初めてだ。
バスでの移動距離もかなりあった。
二日目は再度北上した、コース取りは失敗だ。
東北も広い、そして、ほとんどが水田・農村地帯であった。
新幹線はトンネルが多かったが、高速道路にはトンネルは皆無であった。
市町村の合併で、古い地名がどんどんなくなり、知らない地名になっていた。
農村で田んぼばかりなのに、市である。

東北の寺は関東・西国とはかなり趣が違っていた。
茅葺の屋根、最古の木造建築、一木作りの仏像などいずれも歴史的価値が高いと思うのだが、
多くが手入れが行き渡らず、仏像は朽ちていた。
どの寺も、仏像も修理・保護されているとは思えなかった。
明治期の廃仏毀釈・神仏習合[仏教弾圧]もかなり影響したと思える。

僕は、東北地方の歴史は全く知らないが、
平泉・奥州藤原氏は砂金と馬などで独自の経済力を持ったようだ。
想像でしかないが、その藤原氏も奥州全域を支配していたのではなく、
平泉という交易上のほんの一部を北方勢力に認められていたに過ぎないのではないだろうか。
その奥州藤原氏も源氏に滅ぼされた。
だが、源氏の権力・支配はほんのわずかであった。
寺はかなり古くに開かれたのだが、その後、維持できず衰退したのだと思う。

おそらく藤原氏登場以前も以後も東北地方は、
仏教=農耕西日本文化と土着東方異文化=アイヌ民族との軋轢・戦いの歴史だったと想像する。

仏教史観からすれば、東北は遅れた文化だが、
仏教勢力は東北の一時侵略に成功したが、だが維持できず撤退したのではないだろうか。
東北の独自の宗教・文化が勝ったのではないだろうか。
東北地方には、「隠し念仏」の文化が残っていると聞く。
私は良く知らないが、それらのことも関係してるのだろうかと思った。
多くの寺が何度もの火災にあっているのは、失火と言うより焼き討ちにあったのだと思う。
その後、再び戦国武士が登場する。
武士は農耕文化の担い手でもあり、仏教の担い手でもあった。

仙台の町はほんの一部を歩いただけだが、
道路は碁盤目状で、新しく綺麗であった。
地下鉄建設で、ケヤキ並木の一部が切られたそうではあるが。

今回、埼玉の平山さんと仲良くなった。
私より少し年上だが、穏やかな人だった。
行動は共にしなかったが、帰りの電車も添乗員が隣同士にしてくれ、
お酒を飲みながら帰った。

【以下余談】
平泉・中尊寺は世界遺産登録を申請していたが、23日継続審議となったそうだ。
世界遺産登録されることが良いのか悪いのかは分からないが、現状では難しいと思った。
金色堂などは再建されたものだし、ただちょっと古くて広いだけ、と言う感じだ。
宝物庫[讃衡蔵]の展示物もそれほど多くはないし、
建物の説明や順路ガイダンスなども親切ではないし、
パンフレットは地図もなく全く味気ない、
それに何より、自然と歴史建築物のダイナミックな融合でもないし、
って感じであった。

映画・最高の人生の見つけ方

2008年05月16日 | 映画
映画/最高の人生の見つけ方/The Bucket List
2008/5/16



エドワード(ジャック・ニコルソン)とカーター(モーガン・フリーマン)は病室で相部屋になる。
エドワードは大金持ちで、その病院のオーナーなのだが、二人部屋なのだ。
彼は金儲けのため、自分の病院の病室は全て二人部屋にしてしまっていたのだ。
カーターは清教徒みたいな自動車整備工だがインテリ、
二人は末期ガンで、余命半年と宣告される。


映画の原題=“The Bucket List”のBucketはバケツで棺桶のこと、
つまり、死が近い人の“やりたいことのリスト”のこと。
スカイダイビングしたり、エジプト・インド・アフリカ・ヒマラヤを旅したり、
万里の長城をバイクで走ったり、タツゥを入れたり、
世界一の美女とキスをしたい、死ぬほど笑いたい、など、
金に糸目をつけずに冒険する。

シリアスに深刻にならず、ハチャメチャするのは何とも痛快で、楽しい。
リアリズム?そんな無粋な。

『死ぬほど笑いたい』は、
エドワードは世界最高のコーヒーは“コピ・ルワク”だと自慢しているのだが、
それは、インドネシアに住むジャコウネコの一種が食べたコーヒー豆が、
消化されずに糞と共に出て、それから作られた高価なコーヒーのことらしい。
カーターがそのことを暴露して、二人は大笑い。
葬式は、火葬がいいとか、土葬がいいとかを話し合ったり、
『世界一美女とキスしたい』は、
音信不通だったエドワードの娘の子ども=孫であったり、と。
見ず知らずの人に親切にする、とか、など。
悪いことをしない、セックスシーンなし、もよい。
説教じみてないのが何よりいい。
だが、スポーツカーのクラッシュ、ライオン狩りでライフルを撃つなどは余分かな。

シリアスなニコルソンは鬼気迫る怖さで、それもいいが、
コミカルなニコルソンはもっといい。
ニコルソンもフリーマンも坊主になるのも楽しいしが、
ニコルソンはがん患者と言うにはちょっと太めなのも愛嬌。

アメリカでも、日本で言う団塊の世代、ベビーブーマー世代がリタイアし出した。
彼らの新しい文化、価値観・死生観がこの映画に反映している、と僕は思う。

私は、The Bucket List ではないが、この秋ピースボートに乗る。
そのため、この一月から英会話の勉強をはじめたが、
この映画では、ずいぶん聞き取りができた。
ウッディ・アレンの映画も好きだが、彼のセリフは機関銃みたいなところもあるが、
ゆっくりしゃべっているので、聞き取ることができた。
Sound good、とか、take a hot bath、May I ask~? など簡単な言葉だけど、
10%位は理解できたと、うれしい。

この映画は、人生とは何か?、とか、死期を迎えてどう生きるのがよい、とか、
自分ならどうするか、は実はどうでも良いことで、
映画のドタバタ的展開とほとんど四人と言っていい出演者のセリフを楽しむ、
と言う見方でいい、と僕は思うよ。
速いテンポの1時間37分。
でも、日本のタイトル=最高の人生の見つけ方、は何とも大げさ、
もっと軽く、ポスターにある『一生分笑う』じゃどうだろ。
                           

映画/光州5・18

2008年05月14日 | 映画
映画光州5・18 2008/5/13

 


映画の原題は、華麗なる休暇=軍の作戦名に由来しているとのことだ。
待望していた映画だ、期待に違わなかった。
涙なくして見られない。

映画の冒頭、主人公のタクシードライバーは、延々と続く田園風景の並木道を進む。
そのあまりの美しさは、やってくる悲劇を予感させる。

1979年10月、朴正煕大統領が射殺された、
その政治的真相は未だ謎だが、朴軍事独裁政権の崩壊は、
「ソウルの春」とよばれる全国的な民主化を求める国民運動が盛り上がった。
だが、軍を掌握した全斗煥は民主化運動を抑えるため、80年5月17日、金大中氏らを連行した。
これに対し、光州市では戒厳令撤廃と金大中氏釈放を求める大規模なデモが起き、
軍は市内各所で武力弾圧・無差別発砲を開始した。
当時、この軍はドラッグを飲んで弾圧に向かったと一部ささやかれた。
それは、弾圧の方法があまりにも常軌を逸していたからだ。
全斗煥は、大統領に就任、軍事独裁を続けた。
金大中氏は死刑を宣告され、多数の民主化運動家が投獄された。
その後、全斗煥と盧泰愚は、内乱罪で起訴され、無期懲役、懲役17年の判決を受けた。
アメリカ政府・日本政府も全斗煥と盧泰愚を支持し、報道も十分ではなかった。
「光州事件」の真相は今なお闇の中で、死傷者の数も今なお定かではない。


この写真は映画のラストの一コマだ、
主演の女性だけがカラーで後は白黒、
そして、彼女だけが笑っていない、
生き残ったのは彼女だけなのだ、この結婚式の写真も実際にはなかった。
日本の女優・ともさかりえ似のイ・ヨウオンは綺麗でとてもうまい、
彼女は、父や恋人を思い、支えるだけの女性ではない、共に戦う民衆である。
監督のキム・ジフン37才で、この映画は長編2作目だそうだ。
配給は、シネ・カノン(社長~李鳳宇)。

シネカノン有楽町2丁目は出来たばかりで、今回初めて入場する。
席数150強の小劇場だが、50人を超える入場者だった。

韓国は、長期間、アメリカの半占領下・軍事独裁政権であった、
韓国民衆は、厳しい弾圧を受けながら絶えることなく民主化運動を進めてきた。
対北対峙の現実は、民主化運動はアカ・北スパイと言われ、暴力的苛烈な弾圧を受けた。
そして、それは徴兵制と相乗して、運動を先鋭化・軍事化させもした。
しかし、中国・日本・アメリカ・軍事独裁政権への韓国民衆の
自主独立・統一・抵抗・民主の運動は、絶えることはなかった。
そしてそこに流された人々の涙と誇りは、
韓国民衆のアイデンティティを新しく作っているに違いない。
かつて韓国民衆のアイデンティティを語る得る上で『恨』は欠くことはできなかった、
今もそれは大きいと思うのだが、
韓国民衆の自主独立・統一・抵抗・民主の運動の精神・誇りはそれと並ぶのではないかと僕は思う。
映画はもちろん運動をドキュメント、語ることではない、
父娘、母息子、夫婦、兄弟、先輩後輩、恋人同士、チンピラなど、
つまりそれはほとんどの民衆の姿なのだが、彼らの生き方そして別離を描いている。
愛する者[家族]のために戦うという、今はやりの言葉が使われていないのがなにより良い。
だが、その人々の内面まで描けているかと言えば残念ながらそうではない。
まあ、それはあまり求めまい。
人々は、大儀・時代の精神と共に生きた、と言うことだ。
「銃より恐い物のは何か?人間である」とは市民軍の隊長[ヒロインの父親]の言葉だが、
銃より強いのも人である、とこの映画は伝えている。
私の思い入れは強すぎるのかもしれないが。

シネカノンは1000円のシニア料金がある。
今週・来週と見たい映画があと2本ある。

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ピースボート船内見学会
実はこの日は、ピースボート船内見学会があった。
当初の計画では、その前に周辺をウォーキングする予定であったが、
台風が来ていたので、映画にした。
映画の後の見学会で忙しかった。

これがクリッパー・パシフィック号、かなり老朽化している。
大きいのかそうでないかはわからない。
長さ約200m、幅24m、8F建て、乗客定員は1300人だそうだ。
船室も、スポーツジムもかなり狭い、これで3ヵ月はきついかもしれない。
だが、行くことにした。
見たいと思っていた売店、ランドリー室などは開放していなかった。

横浜港大さん橋

この地は初めて訪れたが、床は船の甲板を思わせる木製。[横浜港HPより転載]

横浜港大さん橋国際線ターミナル待合室


赤煉瓦倉庫と横浜方向


横浜開港記念館


横浜開港記念館・資料館=旧英国総領事館


ピースボート出発まで3ヵ月余である。

高崎を歩く①~全国都市緑化ぐんまフェア

2008年05月08日 | ウォーキング
高崎を歩く①~全国都市緑化ぐんまフェア 2008/5/5



安王寺


大信寺


本元寺


善念寺


正法寺


法輪寺


大雲寺


法華寺


光徳寺

この北側に中央公民館・図書館などがありその公園で昼食をとった。

得利稲荷


長松寺
 

恵徳寺


大国神社

この右に恵徳寺が隣接し、左に高崎神社が隣接している。

高崎神社


覚法寺


玉田寺


姉妹都市公園入口


もてなし広場=第25回全国都市緑化ぐんまフェアメイン会場

中央のタワーのような建物はなんと市役所。
 壁面緑化
 

高崎城東門[史跡公園]=左は乾櫓


群馬シンフォニーホール


諏訪神社


高崎駅前ロータリー


天気は良くなかったが出かけた。
高崎市内を歩くのは初めてだ。
高崎は室町時代和田氏の和田城があったが、豊臣秀吉の小田原攻めの時に滅ぼされ、
その後、家康の家来井伊直政が和田城を拡張し高崎城となった。
第25回全国都市緑化ぐんまフェアが開かれていて、街のあちこちに花が植えられていた。
いろいろな催し物も行われている様だが、人通りは少なかった。
メイン会場で花々を眺めていると雨が降ってきた。予定の四分の一程残っていたが帰った。
歩いた場所はほんの一部で、市街地、再開発されたようで、道路も建物も新しい。
城址跡は官庁街と公園であった。
寺は大きくはないが小さくもなかった。
城下町特有の、昔の名残のようなもの、例えば稲荷神社や小さな神社がないように感じた。
この一帯は少し高台になっていて、左側は川岸の低地となっている。
おそらく線路の反対側は、農村地帯となっているのではないだろうか。
それにしても、本当に人影がない。
店も閉まっている店が多かったし、
二つのお寺で法要をしていたが、いずれも10人以下であったし、
神社参拝者も一人、二人であった。
花フェア会場も天候に恵まれていなかったが本当に少なかった。

次の【高崎を歩く②~少林寺達磨寺・上野国一社八幡宮・高崎】に続く

高崎を歩く②~少林寺達磨寺・上野国一社八幡宮・高崎

2008年05月08日 | ウォーキング
高崎を歩く②~少林寺達磨寺・上野国一社八幡宮 2008/5/6
昨日に続いて歩いた。
今日はまず、群馬八幡駅からスタートした。高崎から上越本線[~横川間]で二つ目。
一時間一本のローカル線、だがかなりの混雑であった。
往きは2両、帰りは5両だった。


少林寺達磨寺[黄檗宗=おうばくしゅう]
三門
 
門をくぐると急で長い階段だった。

釣り鐘のある門・招福の鐘[手前側が本堂、奧が階段]、この下を通る。

本堂
 
達磨堂内部[本堂の左]

ブルーノ・タウトの碑

洗心亭[ナチスに追われたタウトは日本に亡命し、ここに住んだという]

禅師が本堂に向かっていた、法衣には達磨禅師の絵が。

関東ふれあいの道[三門の右の小道]


達磨寺、ブルーノ・タウトについては
http://www.daruma.or.jp/
タウトと禅寺、しかし京都ではなく高崎であった。
達磨寺のホームページによると、哲学堂の井上房一郎が達磨寺を紹介したとか。
黄檗宗の達磨寺はあちこちで中国らしさを感じる、ゆったりしている。
はじめは、このまま帰る予定であったが、ここまで一時間弱かかってしまい、
次の電車に乗るには慌ただしいので、もう一時間ここで過ごし、
12:20の電車で八幡宮に行くことにした。

上野国一社八幡宮


二門

門の両側に一対の像があった、こちらは右側

本殿

本殿横の壁

本殿背後に『裏神さま=縁結びと安産』

疫齋神と言う珍しい名の祠があった

地主稲荷[信仰の印として赤旗を寄進するらしい・一枚二千円]・祠は二重になっていて、中に古い祠があった。

この他、天満宮・山王宮[日枝神社]などがあった。

孫を連れた初老のご婦人が遊んでいた。
その子ども、私が珍しいのか、顔をじっと見て立ち去らないので、
「バイバイ」と手を振ると、おばあちゃんに「バイバイは?」と促されて帰った。

境内の木陰で昼食をとった。涼しい風が吹いて気持ちよかった。
かなり大きい神社だが、一時間ほどいたが来たのは数人だった。
八幡宮と達磨寺は間に碓氷川を挟んで対称にある。両方ともちょっと高台にある。

大聖護国寺[八幡宮の右に隣接]


高崎市内


電車に乗って高崎に戻る。昼時であったが電車はかなり混んでいた。

高崎市美術館

左の木立が高崎哲学堂[高崎出身の画家・井上房一郎の家があったところ、哲学堂と呼ばれる]

東京中野の哲学堂公園とは関係がない。
ここは何人かが訪れていた。

愛宕神社


日本山妙法寺


小万地蔵尊


竜広寺
 

頼政神社

内村鑑三の碑[内村鑑三は高崎の出身とのこと]

クリスチャンの内村鑑三の碑がこの古い神社内にあるのは不思議な気がした。

高崎公園


ここらで、場所が分からずうろうろしていると、警官に声をかけられた。
むかついたが、じっと我慢して、
「お寺巡りをしている」と地図を見せると、暑いので気をつけてだと。
大きいお寺の場合、建物は遠くから分かっても、入口が分からないことがある。
墓地は塀で囲まれていて入れないので、一回りすることもあり、
そのうち路地が入りくんでいてとんでもない方角に出てしまうこともある。

光明寺


興禅寺

興禅寺地蔵堂[興禅寺の敷地の外にある]


向雲寺
 

高崎市役所前の城址公園の木陰で一休みして帰路についた。
この市役所、いかにも場違いと言った感じ、思い切って高崎城天守閣様にすればいいのに。

もう少し花を見て帰ろうかとも思ったが、時計を見ると、
昨日とほぼ同じ時刻、大急ぎで駅に向かった。
発車3分くらい前に間に合うがとても混んでいて、やっと座れた。
14:17発小田原行きの特別快速であった。
15両だが、始発の高崎で満員、しかも、大宮までほとんど降りないのであった。
連休だから混んでいたのだろうか、それともいつものことなのだろうか。
30分ほど爆睡であった。

達磨寺は味わい深かった。
タウトについての説明も随所にある。
高崎には、有名な高崎観音がある。
達磨寺と同じ河岸段丘にあるし、以前行ったことがある、歩きでは遠すぎる。
時間があれば、線路の反対側にも行きたかった。
おそらく市街地ではなく田畑ではないかと思う。
達磨寺は人がいたが、後はほとんどいない。
道を聞こうと思ってもちょうどいい人はいないのである。
昨日は曇天、今日は記録的な乾燥、そして暑かった。

深谷を歩く

2008年05月01日 | ウォーキング
深谷を歩く 2008/4/29


14世紀後半、関東管領の山内上杉憲顕が国済寺周辺に北関東の新田氏の勢力や一揆などを抑えるために開いた。その後、深谷上杉家は秀吉に滅ぼされ、江戸時代に一時再興されたがその後、廃城となった。

瀧宮神社・駅前にある大きな神社


円受院


西島稲荷神社


清心寺


萱塚稲荷神社


瀧宮神社


天手長男[ナガオ]神社


呑龍院


諏訪神社

とても小さな祠、このような祠が町中にたくさんあった。

大円寺


正覚寺


三高院


福寿院

このお寺の境内の木陰でお握りを食べた。洒落たベンチがあった。

長福寺


東源寺


稲荷神社[社務所はこの6~7倍大きかった]


富士浅間神社[別名=智形神社]

・みかんの花咲く丘の碑[加藤省吾作詞]私の大好きな童謡でこれまで瀬戸内の風景とずっと思って来たが、
戦時中、加藤は両親と共にこの地に疎開し、静岡の地を思って歌ったという。


深谷城址公園[右建物は文化会館]

右に、富士浅間神社。

管領稲荷神社


高台院


願誓寺

この左に市役所が隣接している。

西運寺


西蔵院


瑠璃光寺

立派な仁王像であった。
 瑠璃光寺本堂、左に薬師堂への回廊が続く。
 
 写真左下にブランコがあり、楽しい親子が遊んでいた、
 私が帰り際、会釈するとその親子は大きな声で「今日は」と返してくれた。
 とても広い境内で、いくつかの伽藍も現存している。

荒神社

 ブルーの囲いは、蚕影神社という珍しい名前の神社
 

国済寺・黒門[禅寺である]

 三門
 
 本堂
 
 上杉氏歴代の墓
 
 茶室
 

JR深谷駅
 
実業家渋沢栄一は深谷の出身であり、
その渋沢は明治20年に日本煉瓦製造会社の工場をつくった。
その煉瓦は、司法省(現法務省)・日本銀行・赤坂離宮・警視庁・東大学・東京駅などに使われ、
深谷駅舎は東京駅をモデルに数年前に改築された。
だが、煉瓦の種類・色はだいぶ違う、明治期のそれは朱色に近いが、
深谷駅舎のは紫がかっている。
酒の工場にも使われたようで、市内に何カ所かあった。
深谷駅舎は東京駅モデルで興ざめだという人もいるようだが、
今日、どの駅舎も同じ様でおもしろみ、特色がないなか、
煉瓦で深谷らしさを出そうとしたのは、ユニークでシャレだと私には楽しい。

深谷市を訪れたのは、初めて、渋沢栄一とならんで深谷ネギで有名だ。
丈が少し短く、その分太く肉厚で甘みがあるネギだ。
人口は15万人ほどで、面積はかなり広いようだ、歩いたのはその一部で、
市街地・住宅地で、田んぼ・農地は少なかった。
それでも結構時間がかかった。
酒造工場の高い煙突・赤煉瓦がいくつかあり、印象的だった。
車はたくさん走っているのだが、人通りはほとんどない。

瀧宮神社と言う名の神社が二つあった。
水への祈りなのだろう。
日照りに困り水を求めたのだろう。
川はあるが、大きくはない。
また、稲荷神社が各所にあった。
いずれも大きくはなかったが、歴史があり、また手入れも行き届いている。
その名の通り、稲=農耕・豊饒を祈り、住民の祭りの中心だったのだろう。
また、本当に小さな祠も随所にあった。
それらは、この地が古からの農村、しかもかなりの人々が住んでいたことを教える。