風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

わが友マキアヴェッリ

2006年11月26日 | 読書ノート
わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡/塩野七生著

・マキアヴェッリは1469.5.3生まれ。

・15世紀後半のイタリアはミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、法王庁国家、ナポリ王国が列強として連なる大国であった。
・『君主論』のモデルは、チューザレ・ボルジアであった。
・16世紀初頭の都市国家フィレンツェの人口は約50万人であった。
・プラトンやアリストテレスの時代の政治[ポリティカ]は、倫理[エティカ]と同じことであった。
・マキアヴェッリが指導者に求めた三大要素は
 ①ヴィルトゥ=力量・才能・器量、~元々の意味は生命力が最上の状態で発揮され  た時の人間
 ②フォルトゥーナ=運・好運、
 ③ネチェシタ=時代の要求に合致すること

・真のルネサンス魂はレオナルド・ダ・ヴィンチに体現されている。
・もともとその面の素質があったからその結晶である作品が生まれるのであって、環境はその素質を自覚させる役割しかもたない。
・マキアヴェッリ作喜劇『マンドラーゴラ』
・ある制度を維持したいと思えば、時にはその制度の基本精神に反することもあえてする勇気をもたねばならぬ~マキアヴェッリ

・ローマ法王が招集して成立する同盟は、普通、神聖同盟と呼ばれる。

・『君主論』:時代が変われば統治の方式もそれに応じて変わる必要がある。1513年。
・『政略理論』:共和制を維持したければ時には共和制の精神の反することもあえてする勇気をもたねば、共和制そのものをつぶしてしまう結果になる。1516年。
・『戦略論』:市民兵制度確立の必要性を徹底して論じる。1521年。

・1527年ドイツ・スペイン連合軍はローマ(バチカン)を陥落させる。現代ローマにバロック建築が多いのは、この時の略奪でルネサンス建築の8割が破壊された。ローマの人口は9万から3万に減った。
~フィレンツェはメディチ家が追放され、共和制に復帰した。マキアヴェッリは書記官に立候補したが落選した。その10日後、マキアヴェッリは病気で死んだ。58歳。
~1530年、フィレンツェ共和国は神聖ローマ帝国の手によって滅亡した。
以降、専制君主政が始まり実質的にはスペインの支配下に入り、反動宗教改革野荒らしが吹きまくり、ルネサンス時代は終焉した。
~1559年、マキアヴェッリの全著作は良きキリスト教徒には不適当なものとされ、禁書に指定された。

最後に「これを読み終えられた今、あなたにとってもこの男は、「わが友」になったでしょうか」と書いて塩野はこの本を終えたが、私のは今ひとつマキアヴェッリが魅力ある人物には感じられなかった。
・マキアヴェッリがルネサンスのまさに時代の渦中にいて、ミケランジェロに製作代金を届けたり、政治論だけでなく演劇の脚本まで書いていたことは知らなかった。
また、フィレンツェの大統領府の書記官(ノンキャリア)=課長クラスとして外国と交渉したりしたことも知らなかった。



父親たちの星条旗

2006年11月14日 | 映画
父親たちの星条旗 11/14.さいたま新都心MOVIX


この有名な写真=硫黄島すり鉢山に星条旗を立てた六人の兵士の中の一人の子どもが父親達の硫黄島の戦争とその後を回想する映画。、日本軍の抵抗はないだろうと言う主観的判断、つまるところ米軍上層部の失敗である。
日本軍にしたって、一日でも陥落を延ばせばそれだけ日本に役立つ・家族のために、なんてことで玉砕していくのは、集団的特攻精神だけであって、このことは日本の勝利に全く結びつかないだけでなく、敗戦を長引かせることにも、家族を守ることにも全くならなかったし、役立ったとも言えない。
上陸する前に徹底的に空爆・焦土とする作戦は、沖縄戦・日本大空爆につながり、沖縄戦は原爆投下やむなしと言う格好の理由すら与えたのだ。

硫黄島のこの戦闘も日本軍上層部の誤った判断意外の何ものでもない。
降伏して兵士を活かすことこそ真の勇気であったはずだ。
そうすることこそが日本の敗北を早く進めることに役だったはずなのだ。
こうした日米軍上層部の失敗により多くの兵士が死んでいった。
死んだことだけが悲劇なのではなく、そうした指導部の誤りに抗することができず、突撃は「仕方ない、正義は我にあり、愛国心だ」と信じ・信じさせられたまま死んでいったことこそが悲劇なのではなかろうか。
そしておそらく日本サイドから撮ったという『戦場からの手紙』と言う映画は、日本の兵士は家族のために戦った等と賛美され、この戦闘と戦争、そして何より指導者の無能・無責任さを美化・正当化してしまうのだろう。
おそらく日本の戦争責任を問う時、日本が侵略した地域への謝罪と責任と同時に、日本の支配者層・指導層が果たした日本国民への戦争責任と軍人としての能力のなさが問われなければならないだろう。

この映画・硫黄島の戦争・沖縄戦を思いながら、ベトナム・アフガン・イラクのアメリカの戦争を思った。
アメリカには戦争を本当に誤りだったという反省の日はいつ訪れるのだろうか。
・県民の日で映画館はすごく混んでいたがこの映画は20人位であった。
・特別上映というので1000円であった。

【以下余談】
今日は上尾の病院でインフルエンザの予防注射をした。
そのついでに映画を見ることにした。
映画館の近くで、ばったり「M.T.」さんに会った。
久しぶりであった。交流センターで勉強会だという。

映画まで時間があったので上尾駅前を少し散策した。
日乗院


胡桃下稲荷神社

掃除が行き届ききれいであった

日乗山遍照院

本堂では法要修行が行われていた


日本最後の清流四万十川と道後・足摺・桂浜ツアー

2006年11月02日 | 国内旅行
日本最後の清流四万十川と道後・足摺・桂浜ツアー
10月28日~30日・近畿日本ツーリスト・ツアー
10月29日
羽田発7時30分ほぼ満員であった。
8:45徳島空港着、あっという間であった、途中富士山がとてもきれいであった。
写真を撮ろうとしたがカメラが見つからず。

徳島空港ビル入り口のモニュメント


吉野川ハイウェイオアシスPAから、美濃田の渕


バスで、日本サンゴセンターへ。
初めから高知空港へ直行すれば良いのにと思ったら、名古屋からは高知への直行便ないためらしい。[名古屋から合流する人もいる]
赤珊瑚で作った壁画と白珊瑚で作ったライオン像。


桂浜・竜馬像

像の右側に工事様パイプ階段があり、それを上ると竜馬像の真横になる。

桂浜海岸はきれいで広いがただそれだけ、って感じ。
海に月が沈む時はきれいだろうが。
土佐は、ほとんどバスで素通りなので、少し残念であった。
幕末の竜馬達の息吹や、竜馬を初めとする英雄が生まれた風土を少しでも味わうことができればもっと良かった。

金剛福寺

境内に在る大師亀


足摺岬周辺を散策。

岬先端は、ずうっと太平洋が300度ぐらい円を描いていた。
夕方になり灯りがともった。

ホテル足摺園・宿。

29日

竜串海岸でグラスボート[船底がガラスになっていて海中の魚やサンゴを見ることができる]


シコロサンゴ。
妻はバスと船に酔ってしまって「見残し」の奇岩海岸の散策には行かなかったが、
艀に寄ってくるたくさんのヤリイカや魚を船長が説明してくれたそうだ。


竜串に在る、サンゴ博物館

写真右は添乗員の安藤さん