風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

読書ノート2006.5

2006年05月31日 | 読書ノート
5.中国怪食紀行
小泉武夫著/「我が輩は『冒険する舌』である」
中国には10回以上行っている小泉さん、
食を心から愛する小泉さんの面目躍如・抱腹絶倒の一冊。
中国は国も歴史も広く古く、食文化も広い。


4.新落語的学問のすすめ
/桂文珍著・慶應大学の約4ヶ月の講義録。
関西大学での講師経験を踏まえ精選され、佳作である。
「ひるからは ちとかげもあり くものみね」
蛭、蚊、蜂、蜥蜴、蟻、蜘蛛、蚤が隠れている。


3. ローマ人の物語Ⅹ すべての道はローマに通ず・塩野七生著



はじめに
1.街道
・社会資本と訳そうが下部構造と訳そうが、インフラストラクチャーくらい、それをなした民族の資質をあらわすものはないと信じる。
・ローマ人の考えていたインフラには、街道、橋、港、新田、公会堂、広場、劇場、遠景闘技場、競技場、公共浴場、水道等の全てが入ってくる。ソフトのインフラになると安全保障、治安、税制に加え医療、教育、郵便、通貨のシステムまでも入ってくる。
・言語とは、現実があって、それを表現する必要に迫られた時に生まれる。
・ローマ人はインフラを「人間が人間らしい生活をおくるためには必要な大事業」と考えていたのではないか。

第一部 ハードなインフラ
・紀元前三世紀とは、偶然にしろ、地球の東と西で大規模な土木事業が始まった時代でもある。
 東方では万里の長城・秦の始皇帝時代に建設された長城だけでなく16世紀の明の時代の建設の長城までを加えるとその全長は5千キロにおよぶ。
 西方ではローマの街道網、前三世紀から後二世紀までの五百年間にローマ人が敷設した道の全長は幹線だけでも八万キロ、支線まで加えると15万キロに達した。
・ローマ街道とは、幹線ともなればことごとく一面に大石を敷き詰めた四メートルを超える車道と両側三メートルずつの歩道の計十メートルを幅を持ち、深さも四層からなる一メートル以上にもなるように設計されていた
・インフラがどうなされるかは、その民族のこれからの進む道まで決めてしまうのである。
・人間がローマ街道を行く速度を上回る早さで目的地に到達できるようになったのは、19世紀半ばから始まった鉄道の普及によってである。
・ローマ人はしばしば人間が人間らしい生活を送ることを、文明という一語で表現していた。
・ローマ時代のマイルとは1000歩に等しい距離のことであり、1.485キロ前後になる。
・ギリシャ人は書いている。ローマ人が創造した傑作は三つあり、それは街道、上水道、下水道、の完備である。

2.橋
・首都ローマに橋は、百万を超える人口を考慮してか幹線道路並みの幅を持つようになる。車道の幅は四メートル強は通常に使われる馬車の幅が1.5メートル前後であったので対向二車線であったと言える。
・神殿や広場や水道の工事は「ソチエタス」と言う私企業が入札制度によって請け負うシステムになってたが、街道と橋だけは実際に工事を行っていたのは軍団兵だった。

3.それを使った人々
・「ローマ軍はつるはしで勝つ」と言われたくらいで、兵士全員が「工兵」だった。
・ローマの街道網が20万にも満たない軍団兵だけで大帝国の安全保障が維持できた最大の要因だった。
・カエサルが転戦する地にはことごとく常時数頭の馬をプールしているスタティオネス(ステーションの語源)が線上の点のように配置されていた。
システムとは、衆に優れた力に恵まれた人のためにあるのではなく、一般の人々の力に合致し、その人々の必要性までも満たすものでなければならない。
・一日の行程ごとに諸々の設備を全て備えた「宿駅」が置かれた。
賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶと言うが、学ぶのは歴史と経験の両方でないと真に学ぶことにはならない。歴史は知識だがそれに血を通わせるのは経験ではないかと思う。
ローマ帝国が滅亡した後を暗黒の中世と呼ぶのは「パクス・ロマーナ」が失われたから、つまり外的への防衛、宗教と民族間の紛争防止、治安への保障の全てが瓦解してしまった時代である。
地図とは、情報の集積である。
・コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認し国教と認めたが他の宗教を禁じはしなかったが、紀元392年になってテオドシウス帝がキリスト教以外の全ての宗教は邪教であると決め、それらの異教の徹底的な排除に乗り出した。
・車輪外地回転すると鉄の多摩が落ち、それが10個になると少し大きな玉が落ちる、これを繰り返して踏破距離を測った。
十分に機能する道路行政は一貫した政治が行われる国家でしかなしえない。
法律もまた、立派なインフラである。

4.水道
・最初のローマ式街道を造ったアッピウスは水も自然に頼るだけでは不十分であり人工による安定供給システムの確立を目指した。=アッピア水道・紀元前312年。
・地下の坑道を通す距離のほうが長い。流水中の水の温度の上昇を抑えるためであり、水分の蒸発を防ぐためである。
・ローマ時代には水売りがいなかった。
・水もまた、水道・井戸・雨水の三つの選択肢を持ち続けた。
優れた武将は、組織作りの巧者でもある。
・アグリッパ(初代皇帝アウグストゥスの右腕・軍人)は紀元前30年内乱終結後、240人の奴隷[かつての敗者であるが専門家であった]からなる技術者集団を作った。アグリッパが死んだ跡この集団はアウグストゥスに遺贈され、奴隷から解放しただけでなく解放奴隷・一般市民・地方自治体議員という三階級を飛び越え騎士階級に昇格させた。
ローマ帝国とは、カエサルが青写真を引き、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが定着させた。 
 国営郵便制度を創設したのはアウグストゥスだが、ティベリウスは各宿駅ごとに警備兵を配置することで郵便や旅行者の安全を期した。
・紀元一世紀半ば、ローマへの総水量は百万立方mを越えている。人口100万として一人あたり1立方mで、現代の大都市と同水準である。
ローマの水道はながしっ放しで、共同水槽は約40メートルごとにあった。
 水をきれいに保つため
 下水道を充分に機能させるため
・水道代の一年の総計は、最高級アパートの一年分家賃の10倍以下であった。
・家まで水道を引くと料金が取られたが、申請手続きは複雑で許可が下りるまで時間がかかった。また、有効期限は申請者一代で相続譲渡は認められなかった。
・水道の水を盗んだものに対してはすさまじい楽の罰金を科した。最高は、84人分の軍団兵の年給に相当した。
・浴場の料金はパン一つと葡萄酒一杯の値段であった。兵士と子供はただ、奴隷も入浴できた。ハドリアヌス帝までは混浴であった。その後は時間によって男女が分かられた。
~充分な飲料水・下水道の完備・入浴=疫病の流行がローマではほとんど無かった。

4世紀キリスト教の拡大
 ・男までが腕を露わにしなくなり長袖の下着をつけ、公衆浴場の混浴は無くなり、浴場にあった裸体の彫刻も撤去された。

・紀元538年には、蛮族の侵入により、ローマに入る水道の水源地の取水口を自ら閉じた。こうしてローマ街道もローマ水道もメンテナンスされずに放置された。

第二部 ソフトなインフラ
1 医療
・ローマは長い間地下鉄がひかれなかった。~低いと遺跡に突き当たるから。
・同じ理由で駐車場が造られず路上駐車が多い。
ローマには長く専門の医師が存在しなかった。~家庭医療と神頼みである。
~家庭医療では家父長の権限と責任が重く大きかった。=予防医学とも言え、身体の抵抗力の強化=食事、適度な労働、じゅうぶんなすいみん、と衛生の保証。
・ローマには病気ごとの神がいた、疫病・発熱・腹下し・腰痛など。

カエサルの医療改革
医師と教師には一代限りのローマ市民権を与えた。~優秀な医師と教師がローマに来た。
・仕事を終えた後入浴し、身体をマッサージし、夕食を取るというライフスタイル。

ローマ市内に大病院を建てなかったのはなぜか?
 寿命がつきたならばじたばたしないと言う死生観~若者や兵士には徹底的に加療する。~墓を不浄なものとしないで幹線道路の両側に墓を造った。
 遺灰埋葬で墓は深くする必要はない。
 医療は公ではなく、私中心の概念(コンセプト)であった。
 「貧しいことは恥ではない、だが貧しさに安住することは恥である」(ペリクレス)
 「貧しき人は幸いなれ」(キリスト)
 キリスト教の「慈愛」は近現代になると「人権」に取って代わり、医療もまた「公」中心の担当分野と考えられるようになった。

2.教育
〈教育も医療と同じ公教育でなく私教育だった。〉
・カエサルはガリア人の家庭教師から学んだ。
・家庭教師料・私塾料=一ヶ月8アッシス[非熟練労働者日当10アッシス、公衆浴場料金成人男子0.5アッシス]
・ローマ軍団志願兵の選抜に際しラテン語の読み書き能力と計算力。
・小学校で学ぶ数学は分数計算まで、分数計算能力は絶対必須だった。属州税10分の一税、売上税百分の一税、相続税20分の一税
・小学校というと、私立の小学校と言うよりフォールムの一郭や屋根のある場所など、午後は公衆浴場=体育場・庭園があった。
・中等教育は、12~17才。
・高等教育は、17~20才で、弁護士・政治家の養成が目的。
・最高学府は、ローマにはなくアテネのアカデミア、エジプトアレクサンドリアのムセイオンであった。教育機関と言うより研究機関で、大学院大学様であった。皇帝の中でこの種の教育機関に学んだ人は皆無であった。学歴は無関係だった。この両機関には国庫から助成され、教授達は年金が支払われた。

初頭・中等・高等教育の公営はキリスト教の支配と共に進んだ。
・帝国の経済力がさかんであった時代には医療も教育も私営であったのに、経済力が衰えた時代に公営化された。ある一つの考え方で社会は統一されるべきと考える人々が権力を手中にするや考え実行するのは、教育と福祉を自分たちの考えに沿って組織し直すことである。
 ローマ帝国の国家宗教がなって後のキリスト教会がしたこともこれであった。そしてその半世紀後ローマ帝国は滅亡した。
 アテネのアカデミア、エジプトアレクサンドリアのムセイオンもまもなく廃校になった。疑いを抱くことが研究の基本だが、世の中は「信ずるものは幸いなれ」の一色になった。

 おわりに

 ローマ人の定義ならば、社会資本・基礎設備・下部構造を意味するインフラストラクチャーは「人間が人間らしい生活をおくるために必要な大事業」となる。

 【現代でも、先進国ならば道路も鉄道も完備しているので、われわれはインフラの重要さを忘れて暮らしていける。……水も、世界中では未だに多くの人々が、充分に与えられていないのが現状だ。
 経済的に余裕がないからか。
 インフラ整備を不可欠と思う、考え方が欠けているからだろうか。
 それとも、それを実行するための、強い政治意志が、欠けているからであろうか。
 それともそれとも、「平和(パクス)」の継続が保証され内からであろうか。】

 本巻は、このシリーズでは異色・傑作である。
 ローマが絶世期・輝ける世紀を迎え、(衰退に向かって)折り返しを迎えるかのような時期にこの巻、
「ローマ人の真の偉大さはインフラ=社会資本の整備にあった」と、
これまでの通年史の方法と全く異なり、インフラ=社会資本についてまとまって叙述されている。
 たくさんの図やカラー写真やが紹介され、ほとんど全ページ引用したいほどの記述である。各巻でまとまって述べられてはいるのだが、
 ・軍隊、軍備 ・税金 ・農場 ・工業 等の叙述にもう一巻必要=欲しいと思う。

 キリスト教=絶対一神教がローマ社会・人間の歴史に与える影響(よくない)を予感させる。


2.ローマ人の物語Ⅸ「賢帝の世紀」・塩野七生著

~ローマ帝国の輝ける世紀をもたらした、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス。

・トライアヌス[紀元98年~117年]は属州出身の最初の皇帝であった。
・ローマの興隆の要因は、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方にあった(プルタコス)

属州対策の原則
・税率を上げない
・インフラの整備~生活水準の向上
・地方分権の徹底

・敗者の神々までいて、それに“ローマ市民権”を与え、30万もの神を持つようになっていた。

・心の底からまじめに皇帝を務めたトライアヌスの治世20年であった。

ハドリアヌス[117年~138年]
・公正な税制とは、広く浅く税を課す制度、と言ってよい。
 関税:20分の一、売上税:百分の一、国有地借地料:十分の一、が定着していた。
・ハドリアヌスは通貨に自分の統治のモットー:寛容・融和・公正・平和を彫らせた。
・ローマ市史に接していて最も強く感ずることは、ローマ人の一貫した持続性である[塩野]
【ローマ軍】についてのまとまった記述。全文引用しておきたいほど。
・薔薇の花咲く島という意味の「ロードス島」
・古代ギリシャは「男の世界」であった。ギリシャ文化を愛すれば美少年への愛に行き着いてしまう。
フラヴィウス・ヨセフス(ユダヤ人)の書いた『ユダヤ戦記』が抜粋引用されているが、これも全文転載したいくらい。

・ローマ皇帝の責務は「安全」と「食」の保障である。だが安全のほうが優先する。人々は安全さえ保障されれば自分たちで自分たちが必要とする食の生産はできるのだ。
・135年からの「ディアスポラ」=離散~ユダヤ教を信仰するユダヤ人イェルサレムに住むことが禁じられた。20世紀半ばのイスラレル建国まで続く。
・ギリシャやローマ[多神教]の人々とユダヤ人[一神教]では自由の概念が違っていた。~ギリシャ・ローマ的自由には「選択の自由」もあるが、ユダヤ教徒・近代までのキリスト教徒にとっての自由には選択の自由は入っていない。神の教えに沿った国家を建設することだけがこの人々の自由なのである。

アリスティデス[26才のギリシャ人が建国を祝う記念講演(143年)]の話。
ホメロスは謳った。
ローマ人は傘下に収めた土地の全てを測量し記録した。その後で河川に橋を架け、平地はもちろんのこと山地にさえも街道を敷設し、帝国のどの地方に住まおうと往き来が容易になるように整備した。そのうえ、帝国全域の安全のための防衛体制を確立し、人種が違おうと民族を異にしようと共に生きていくための法律を整備した。これらのこと全てによってあなた方ローマ人はローマ市民でない人々にも秩序ある安定した社会に生きることの重要さを教えたのである。


アントニヌス・ピウス[138年~161年]~ピウスの意味=慈悲深い
祖先はローマに征服されたガリア人(南仏ローヌ河近郊)
・トライアヌス[至高の皇帝]、ハドリアヌス[ローマの平和と帝国の永遠]、アントニヌス・ピウス[秩序の支配する平穏]
・リーダーの条件~力量、幸運、時代への適合性
 ピウスの場合力量と訳すより「徳」と訳す方が適切かもしれない。
・「帝国の主になった今は以前に所有していたものの主でさえもなくなったと言うことだ」[ピウス]

・次皇帝-マルクス・アウレリウス(ピウスの養子)が父アントニヌスについて述べた文章が全文引用されているが、これも味わい深く全文引用したいほど。

再度、アリスティデス[26才のギリシャ人が建国を祝う記念講演(143年)]の話。
ローマは全ての人の門戸を開放した。それゆえに異人種・異民族・異文化が混ざり合って動くローマ世界はそこに住む全員がそれぞれの分野での労働にいそしむ社会を作り上げたのである。ここでは共通の祝祭日には皇帝が主催する祭儀が行われるが、民族別や宗教別にもそれぞれの祭儀が自由に行われている。このことは各人が各様に自分たちの尊厳と正義を怖じするのに役立っている。ローマは誰にでも通ずる法律を与えることで人種や民族を別にし文化を共有しなくても法を中心にしての共存共栄は可能であることを示した。そしてこの生き方がいかに人々にとって利益になるかを示すために数多くの権利の享受までも保障してきたのである。このローマ世界は一つの大きな家である。

・ギリシャ人の歴史は都市(ポリス)間の抗争の歴史であり、ローマ人の歴史は権力抗争はあっても都市間や部族間の抗争はなかった。

・トライアヌスとハドリアヌスは統治者としてその治世をまっとうした、アントニヌスは父親を務めることで一貫した。


1.コンスタンティノープルの陥落・塩野七生著[新潮文庫]


1453年5月29日、難攻不落と言われたビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルはオスマントルコの猛攻によって陥落した。
オスマントルコを率いたのは、21才のスルタン、マホメッド二世であった。
紀元330年ローマ帝国のコンスタンティヌス一世はビザンチウム=コンスタンティノープルを新しいローマとして遷都した。
コンスタンティノープルが陥落し、以降イスタンブールとなり、20世紀初頭までトルコ帝国は続いた。
ビザンチンという何となく東方の香りがするギリシャ正教国は、イスラームの前に滅ぼされた。
・おもしろかった。

5.20戸田公園駅周辺を歩く

2006年05月20日 | ウォーキング
戸田公園駅周辺を歩く

曇り空なので外出したが、昼前から真夏のよう。
昨日までは寒い位だったのに、急激な気温上昇はとても疲れたので、2時間ほど、予定の半分でやめた帰った。

戸田には昔、戸田城[城主:桜井直和]があったそうだ。
今日歩いたのは戸田公園駅西口と大宮バイパスに挟まれた狭い地域[東西約1キロ南北700m位]に過ぎない。
こんな狭い範囲だけ歩いただけで言うのはあまりにも乱暴だが、戸田市財政が唯一赤字でないのは倉庫や物流などたくさんの企業の法人税のおかげではないかと思う位、企業が多かった。
オリンピック通り、中央通りを歩いた。
大きな寺が3、4あり、氷川神社も大きかった。
倉庫街は昔は田圃だったのだろう。

埼京線戸田公園駅・西口
多福院[真言宗智山派]

右・馬頭観音菩薩、左・子育て地蔵


桂林寺[法華宗]

戸田市は倉庫街がたくさんあるが、この寺もオリンピック通り周辺の倉庫街にあった。ほとんど民家様。

妙慧寺

この寺もほとんど民家様であった。

氷川神社[古くから新曽村の鎮守様であった、と言う。
拝殿・本殿の扉が開いていて本殿まで筒抜けで参拝できた=これはとても珍しいことだ]

鳥居左には神楽殿もあり、境内は広い。
鳥居手前にも参道が続いている。
・夫婦柿[鳥居右側、この柿の木には雌型・雄型の二つの柿の実がなるという。
雌型は丸形、雄型は細形。
普通雄花には実はならないが、この柿は突然変異によって雄花にも実がなるのだという、ちょうど花が咲いていた]

・秋葉大神、稲荷大神、神明大神、八幡大神の四つがまとまって収められていた。


金剛院[真言宗智山派]


妙顕寺[大きい寺で古く大きい門と仁王門があった]

写真右の黒い部分は仁王門の柱。

観音寺[この寺も大きく立派な仁王門と本堂・阿弥陀堂・弁財天堂他があったが、写真は失敗した]ここでお昼を食べた。木陰にいるとかなり強い風が吹いていて涼しかった。

帽子を忘れ日射しが強く汗びっしょり、疲れたので観音寺前から西川口駅までバスに乗った。
バスは冷房が効きすぎて寒くシャツを着るしまつ。

5/12取手七福神ならぬ六福神

2006年05月12日 | ウォーキング
5/12取手七福神ならぬ六福神
七福神五の明星院は目前まで行ったのに、勘違いして素通りしてしまった、ザンネン。

駅からハイク・「春の取手散策『七福神巡り』」コースを歩いた。
JR常磐線取手駅出発。

七福神=『七福神の成立は室町時代に、“仁王経”の「七難七福」に基づいているといわれています。庶民に根付いたのは江戸時代に入ってからで、末期には各地で七福神詣が盛んになり、お正月の巡拝で一年の福徳を願うようになったのが七福神めぐりです』(以下『』は取手市HP引用)

①光明寺[寿老尊]『長寿の神様。千五百歳をこえた鹿を連れています。鹿は禄に通じるといい、鹿の肉 を食すると二千年の長生きができるとされ、「お前百までわしゃ九十九まで」と、笑みでいっぱいの姿は健康を授けてくれます。 ◆健康』


一本刀土俵入り像[長谷川伸ゆかり]


昌松寺

同入り口

とても手入れが行き届いている、七福神ではない。
とてもゆったりしているのでのんびりしていると、墓参りを終えて車で退出したご婦人が、ざわざ戻ってきて「門がとても古いので見てくださいね」とお声を掛けてくれた。ありがたくうれしい交流である。

②普門院[布袋尊]『布袋尊・実在の禅僧です。大きなお腹を出し、常に日用品を入れた布袋をかついで喜捨を求めながら歩き、人に弥勒菩薩の化身として尊ばれました。信仰心の厚い人には金銀財宝を限りなく与える神様です。◆幸福』

布袋尊



埋蔵文化財センター

開館中なのに展示物無し?

青柳鹿島神社


かたらいの郷
ここで昼食をしたが、よくわからない施設であった。

村社面足神社[おもたる]
参道

本堂

平成8年火災で焼失、14年再建、利根川を見下ろす高台に新たに造られた。

③明星院[恵比寿] 直前まで行ったのだが「大師霊園」と勘違いして素通りしてしまった。
『恵比寿・風折烏帽子をつけ、右手に釣竿、左手に鯛をもつ姿に描かれ、漁民の神様。笑顔は 「えびす顔」として庶民に人気があります。大漁を祈るうちに海産物の売買から市の神となり、商売繁盛の神となりました。◆商売繁盛』


④福永寺[毘沙門天]『毘沙門天・四天王の一人で北方を守護し、財宝を守る神様。また、苦境を乗り切る勇気と悪霊 を退治する力を与えてくれる神様。別名、多聞天。インドの軍神で武将姿の毘沙門天は日本の武将、足利尊氏なども信仰しました。◆勇気』




⑤東谷寺[弁財天]『弁財天・毘沙門天・大黒天はインド生まれ、福禄寿・寿老人・布袋尊は中国生まれ、恵比寿は日本生まれ。国を異にした神々が和合しました。弁財天=七福神唯一の女神です。学問・弁舌の神、弁才天として日本に入ってきましたが、 福徳、財物の神が加わって、弁財天と称されました。別名を妙音天、美音天。音楽の神様ともいわれ、琵琶をもって弾いています。◆学問』

門を造っていた。


急な階段を下り、利根川河川敷、鶯他の鳥が鳴く。初夏のような気温日差しだが、背中から吹く風は冷たい。河川敷を延々1キロほど歩く。

利根川の流れ

[海まで約82キロ地点]

⑥念仏寺[福禄寿]『福禄寿・中国では南極星の化身とされます。別名、南極老人。短身、長頭であかざの杖を持 ち、鶴と亀を従えた仙人で、年齢は数千年。福(幸福)、禄(生活と経済の安定)、寿(健康にして長命)の三徳をそなえた長寿安泰の神様。◆長寿』

本堂の扉はすべて開放され、本尊がお参りできる。これはうれしい。
防犯上からほとんどの寺で本堂は閉められている。
この寺は開放され、「土足でのぼらないでね」は禁止・命令ではなく、お願いのやさしさ。


旧取手宿本陣

茅葺き屋根、とてもよく保存され、内部を見学した。

⑦長禅寺[大黒天]『大黒天 インドの神様。日本に来て大国主命(おおくにぬしのみこと)と合体しました。有福の権化・勤労の神様、商売繁盛の神様です。頭巾をかぶり、大きな袋を肩にかけ、右手に打出の小槌を持って米俵の上に立っています。◆勤労』
急な階段の上にある。
三世堂


大黒天


取手駅すぐ、小高い丘の上にあり古刹である。

取手市は初めての訪問。古い街のようである。
駅は両口とも大きい。NECとキリンビールの大工場がある。
郊外に出ると水田地帯であった。
初夏のような気温、日射しだが、背中から吹く風は冷たい。
入浴したら腕が灼けていて痛かった。
利根川はゆったり流れているが、延々1キロの河川敷のウォークは、疲れも出てきたので単調で退屈だった。

取手市内も郊外も人通りはほとんどいない。
連休はほとんど仕事だったので、今週は休みが多く三回もウォークに出た。
とても疲れたが、楽しかった。


川越パートⅢ 5.9

2006年05月09日 | ウォーキング
昨日に続き川越の残りを歩いた。
一日で終わらないと思っていたが意外に早く終わった。

JR川越駅から、クレアモール[川越駅と本川越駅を結ぶショッピングモール]を通り、中央通りに入り、
熊野神社

写真右の建物、秋葉社と大鷲社という珍しい神社

蓮馨寺[れんけいじ]第5番・福禄寿

本堂正面に・おびんづるさま=インドから来たの僧像

境内に水子・子育て地蔵(たくさんの人がお参りした跡が残っていた)


法善寺[真宗大谷派]

境内に「虫食い奴」[瀬川嘉右衛門問大酒のみの石碑]酒を飲んでいる


行傳寺


雪塚神社[鳥居奥右建物]・三峯神社[鳥居奥左下小さい社]


長喜院[雪塚神社のすぐ左に隣接]

境内に「苦行の釈迦像」(インド、ラホール美術館の原寸大レプリカ)


養寿院


菓子屋横丁


六塚稲荷神社


見立寺[けんりゅうじ]・第6番布袋尊・浄土宗

境内に、旅立ちの法然像(13才)


新河岸川・高沢橋を渡って
観音寺(天台宗)


本応寺(日蓮宗)

仁王が守る力神門・奥が本堂・写真右は一切経蔵
一切経蔵(全ての教典が収まっている蔵)


再度、高沢橋を渡ってもどって
大連寺

境内に、災厄払稲荷社という珍しい神社があった。

大連寺入り口の門に隣接してすぐ左に
出世稲荷大明神[すごく小さい]


そのすぐ左に隣接して 高沢不動尊[真言宗醍醐派川越分教会]


再び高沢橋を渡って新河岸川沿いに
八坂神社[小さい社・写真撮らず]
熊野神社


栄林寺[僧洞宗]


十念寺[時宗]

境内に稲荷神社があった。

妙養寺

門は古く立派で、しまっていて入れず、違う入り口から入る。
そこにとても古い“七面堂”の社、名前の読めない社があった。

妙昌寺[日蓮宗・弁財天]


栄林寺、十念寺、妙養寺、妙昌寺はほとんど隣接していると言ってよいほど、いずれも古刹で大きい寺だ。

東武東上線の川越市駅前を通り、川越駅まで歩き、本日は終了。

4/19、5/8、5/9と三日間歩いた所は、東西2キロ、南北3キロの狭い地域だ。
三本の鉄道が走り、
この狭い地域を新河岸川が蛇行して取り囲む(南は流れなていないが)、
川越城は新河岸川を天然の堀としていたかのよう。(そうなのかわからないし、ちがうかもしれない)、南側はちょうど鉄道になっていて、川と鉄道で囲まれた所にたくさんの寺社・店が引きめいている。
土塀や蔵や格子窓の屋敷などが軒を連ねる。
銀行等の建物も古い時代を残している。
道路は決して広くは無く、路地が入り組んでいるが、古い町並みを残す努力が感じられる。
たくさんの寺社や観光名所、そして新しい店と古い店が同居し、
二つの大きな駅ビルとそれを結ぶショッピングモール、たくさんの学校もある。
新河岸川を越えると街の雰囲気は一挙に変化する。
農村ではないが急に華やかさが失せ、他の市の閑散とした町並みに変わる感じだ。

どちらかというと大きな神社は少なく、
寺の境内に小さな神社が併存していることが多いように感じた。

歩いていてあきなかった。

5/8川越パートⅡ

2006年05月08日 | ウォーキング
4/19に続き、川越に行った。
降り出しそうな曇り空であった。連休も終わり人通りはまばらだった。

JR川越駅
出世稲荷神社



喜多院
本殿

喜多院東照宮[仙波東照宮]4.19にも立ち寄った。
格子門の隙間から撮った。

鐘楼門

多宝塔

慈眼堂

木遣塚

大黒天

苦抜地蔵

厳島神社

五百羅漢[拝観料必要]

喜多院境内はとても広く、以上以外にもいろいろあった。
人は少なく、とても静かであった。

門を出たところに
白山権現


道路の向かいには、国宝・日枝神社[赤坂日枝神社の本社]

神社左後方は高台になっていて、6世紀頃の古墳。

川越歴史博物館

小さい博物館で、以前見学したので前を通るだけ。

成田山川越別院

境内広く、
えびす天

本堂正面から右に回廊を進むと
「おびんづるさま」[インドの僧]

縁結び七福弁財天[本堂右側]


浮島神社


冨士見稲荷神社

左建物は浅間神社 

その後、川越城富士見櫓跡をみて、
川越城本丸御殿


道路を挟んで
三芳野神社


三芳野稲荷橘神社・とても小さい


氷川神社

高さ15m、木製の鳥居としては日本最大とか、杉。
本殿

柿本人麿神社・右石碑は山上憶良歌碑


埼玉地方裁判所川越支部・検察庁を通り、
東明寺[時宗・一遍上人]

川越夜戦跡=1545北条氏との戦闘、北条が勝ち関東の覇権を取る。

広済寺(左:本堂、中:門、右:鐘楼)

境内に立派な金比羅大社、神仏合一。

埼玉県信用金庫川越支店の屋根の上の看板


重要文化財・大澤家住宅


川越まつり会館を通り、
川越時の鐘


薬師神社

シルバーガイドが研修していた。

川越市倉造り資料館


この通りは、店がこのような建物でずうっと続き、いろんな楽しい店がある。

埼玉りそな銀行


広済寺から川越駅に向かう帰り道、見たい寺社、面白い店などまだたくさんあるのだが、空模様がだいぶ怪しくなってきたし、写真もたくさん撮ったので、立ち止まらないで本川越駅(西武新宿線)、川越駅(JR・東武池袋線)へと歩いた。
川越市のこの街作りいつ頃からどのようにして行われたのだろうか。
ディティール(看板や店先や商品)もおもしろい。
古い造形・建物などを生かそうとしている。


川越はそんなに広くはないのだが、見る寺社も多いし映像的にもきれいで回りきれなかった。たぶんあと1.5回は必要かもしれない。

皇居一周

2006年05月04日 | ウォーキング
皇居一周 2006/5/3
[追加:他の日にも歩く]

有楽町駅構内の有楽大黒


日比谷交差点から馬場先門方向・右低い建物は帝国劇場・並木は銀杏と柳


祝田橋から桜田門方向・並木はユリノキと柳

左:ユリノキ、右:柳

ユリノキの花 ちらちらと咲き始めた、蜜が地面に落ちている。


旧法務省・向かいは警視庁


左:警視庁・旧法務省90度向かい、右側小さい三角は国会議事堂。


桜田門(警視庁・旧法務省90度向かい)


憲政記念館(加藤清正江戸藩邸跡)・国会前


憲政記念館内ヒメツメタゴの木[右下三角コーンに人がいる]


憲政記念館内日本水準点


三宅坂交差点から皇居(半蔵門方面)


社民党本部


最高裁判所


最高裁前銅像


国会議事堂


三宅坂から皇居(有楽町)


国立劇場


半蔵門[入れない]


イギリス大使館


乾門[入れない]


北桔橋門[きたはねはもん]ここから皇居東御苑に入る・通行証をもらい、返す


天守閣跡

楽部庁舎


汐見坂


百人番所


同心番所


大手門



平川門


平川橋


和気清麻呂像


和田倉橋


東京銀行協会ビル[古い建物の上にビルを建て増ししている]


桔梗門[入れない]


宮内庁


坂下門[入れない]


二重橋


日本工業倶楽部ビル[古い建物の上に新しい巨大ビルが乗っている]


東京駅丸の内口



日比谷公会堂で行われた憲法集会への参加後、
仕事の都合でパレードには参加できなかったので、皇居周辺を少し歩いた。
その後、日を改めて、一周した。
皇居は、約4㌔、信号が全くない、少しの勾配はあるが、ほとんど平だ。
江戸城が復元されるとおもしろい。
その頃は海岸線はおそらくずっと手前だっただろう。
八重洲等という地名はその名残では。
そうだとすると、高潮や津波の恐怖は相当ではなかったか。

皇居となって、天皇のすみかとなってこの一等地を占有している。
日本で唯一、姓を持たず住民票も持たずその住んでいるところは住所もないという。

だが、散歩地としては十分楽しめる。」

5.3憲法集会

2006年05月04日 | 学習
5/3憲法集会
日比谷公会堂・1時半~4000人

外の会場、中央の黒い部分がオーロラビジョン


昨年は開場時間間際に行って満員で入れなかったので今年は12時前に行ったのだが、既に長い列であった。
会場内2000人以上(定員2000プラス=空きは無し)、会場外の人数は分からないが2000人弱であろうか? 会場には入れない人にはオーロラビジョンというのか大型スクーンが用意されていたが、4000人位が予想されるのだから他の会場、例えば野音とかが用意されるべきだと思う。

仕事の都合でパレードには参加しないで、皇居お堀端を歩いた。

以下、ついで。
4.29連合メーデー