風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

鴻巣散策

2005年11月27日 | ウォーキング
11/27鴻巣市内一部を散策した。
10:20~11:50約6キロ。

午前中のウォーキング。
約6キロ。
勝願寺。とても大きく立派な寺だった。
仁王門。


→日枝神社、地図では分からず、掃除をしている人に聞いたら、小さな路地裏にあった。近所では、山王様と呼ばれているらしい。


→金剛院。道を挟んで、富士山宮浅間神社その隣に名前の分からない神社があった。


→釛比羅神社(写真は無し)。

[下写真] こんなケヤキの巨木が鴻巣東小校庭に立っていました。


→法要寺の入り口。


→鴻神社。


埼玉県ろう者大会(2005.11.27)

2005年11月27日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
鴻巣市文化センターで、創立53周年埼玉県聴覚障害者大会が行われた。



午前10からの式典は欠席し、午前中(10:20~11:50)は鴻巣市内の寺社めぐりをした。
ろうあ連盟事務局長・石野富志三郎さんの話はとても良かった。
LO+LE100%(ローヴヒャッパー)の『手話ダンス』はおしゃべりがなければもっと良かった。
また、手話ダンスと言わないでただ“ダンス”と言った方がよい、と思った。


桜井さんのこと

2005年11月27日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
11/25 亜細亜大学手話特別講座=桜井清枝さんのお話を聞く



亜細亜大学では、聴覚障害者についての理解を深める生涯学習講座を開いている。
本来は15回通しの申し込みだが、特別に頼み入室を許された。
亜細亜大学には、聴覚障害を持つ学生が5名い、このことを契機に、聴覚障害学生へのノートテイクサービスの提供や、手話講座の開設、聴覚障害者への理解を深める生涯学習講座開設などを試みてきたということだ。

桜井さんのお話で、四つのことが印象に残った。

①福祉の原点
昔は、聴覚障害の私も、智恵遅れの人も、身体障害者も、それぞれ地域・社会の中でそれぞれが役割を持って、生活=共存していた。
それは、みんなが諍いを起こさず平穏と言うことではない。
相互はいろいろ軋轢があったり対立したり、もまれることは当たり前で、そのことを通していつか落ち着くところに落ち着く。
そんなことが私の福祉の原点だ。
今、障害者は、地域・社会から見えなくなっているのではないか。
福祉は何か特別なことではなく、そうした原点で考えていきたい。
白馬に聴覚障害者が観光に来た時、手話で案内・説明できる人がいると言うことは、観光で成り立つ白馬にとっては、これからは「売り」になります、よと説得しました。

②聞こえると言うことはどういうことか。聞者はろう者をどう見ているのか。
白馬村の村会議員への立候補は、薦めてくれる人がいてであったが、よもや当選するとは思わなかった。
少しでも聴覚障害のこと、福祉の原点のようなことを訴えられれば良いと思っていたら、当選してしまった、と言う感じでした。
白馬では、初めての女性村議の誕生であり、また初めての障害者・聴覚障害の村議の誕生であり、初めてのことがたくさんあった。
手話通訳者がどうして必要なのか、と言うことが理解されるには半年かかりました。
説得するには、言葉が必要ですが、同時に「聞こえると言うことはどういうことか。
聞者はろう者をどう見ているのか」ということは、説得に当たってとても大事でした。
[通訳保障は権利だ、というのはその通りなのだが、それだけを訴えるのでなく、『良いことを言われているけれども私にはわからない、お互いが理解し合うには通訳が必要だ』みたいな言い方は、相手には響くかもしれない。]

③言葉を磨く。
説得には言葉が必要ですが、相手に響き、訴える言葉は大事です。
人と人は、言葉と言葉でつながっています。
ならば、言葉は大事で、磨きをかけなくてはなりません。
話し言葉・手話の両方に磨きをかけました。

④一人のうしろにたくさんの人がいる。
今は、たった私一人のために手話通訳者がいますが、私の後ろには、手話通訳者を必要とするたくさんの聴覚障害者が続いています。

全体的な印象は、とても穏やかで、以前に増して笑顔がとても優しくなりました。


出会った人の名前:大塚ろう学校の橋本さん・亜細亜大学学生の野口さん。

講演後の交流会にも図々しく参加。
年配者は桜井さんと私だけ、その二人だけが「死と向き合う」と言うことを考えていた。
若い人は意識しないと言う。それは当然のこと。
ふたりが一致したのは、
「死んで行く身、失敗してくさったり、小さいことにくよくよしないで、今生きていることを大切にする、でも、わき目もふらないで頑張るのではなく、自分のペースで行くこと」
であった。





ろう文化宣言への意見

2005年11月27日 | ろう文化・白馬聴覚障害者のための里山紀行
ずいぶん前に書いたものだが、内容の訂正はない。
フロッピィだとなくしてしまうので、記録する。

 『現代思想』4月臨時増刊号は、「ろう文化」について特集している。
昨年(1996年)3月、木村晴美+市田泰弘の両氏は、「ろう文化宣言――言語的少数者としてのろう者」(以下「宣言」と略)を発表した。本臨時増刊号は、その宣言を受けて、賛否両論を様々な角度から掲載している。
 私の率直な感想は、その賛否の論争がかみあっていない、ということである。
 その原因は、まず議論の出発において基本的な用語の定義=意味・意義づけが共通のものになっていないことにあると思う。それは「宣言」がこれまで常識的=一般的に使用されてきた用語例えば、手話・日本手話・ろう者などをそのまま使って、その言葉にこれまでとは違う自分たちの思想や意義付けを与え、その両者を区別しないでそのまま使用していることにその要因があると思う。
 「宣言」の内容、使われる言葉の概念について、私は疑問や批判を覚えるところも多々あるが、それを越えて私が着目したいのは、「宣言」がろう者を、聴覚に障害を持ち、コミニュケーションの方法においてハンディを持つ、福祉の受益者と言う面が強い等々の外在的アプローチではなく、ろう者であることに自覚や誇りを持ち、自らのアイデンティティ(日本語になじみは薄いが、さしずめ私は“自分らしさ、自分は何ものなのか”という意味合いにおいてこの言葉を使っておく)を求め、それを育て、確立する“主体”としてとらえようとする方法に共感と同時にこれまでとは違うろう者像のアプローチを見るからである。
 結論から言うとその試みは充分に成功はしていない、というのが私の考えである。
 以下その点について説明する。

 少し長くなるが、「宣言」の神髄と思われる冒頭の文章を引用する。
「宣言」は言う、
【「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」――これが、私たちの「ろう者」の定義である。/これは、「ろう者」=「耳の聞こえない者」、つまり「障害者」という病理的視点から、「ろう者」=「日本手話を日常言語として用いる者」、つまり「言語的少数者」という社会的文化的視点への転換である。このような視点の転換は、ろう者の用いる手話が、音声言語と比べて遜色のない、“完全な”言語であるとの認識のもとに、初めて可能になったものだ。】と。
 「宣言」では、ろう者について、耳が聞こえないと言うことについて全く触れない。そのことは、自明なことでわざわざの説明が不用と言うことなのか、それとも全く関係ないと言うことなのかは、うかがい知れない。
 「宣言」の立場は、耳が聞こえないのは「病理的視点」であり、そのことは考えなくて良い、必要ないと言うことのようである。しかし、ろう者を、アイデンティの観点からアプローチする時、耳が聞こえないと言うことを、障害・病理ととらえるかの評価は分かれるとしても、ろう者が受けてきた社会的歴史的事柄は耳が聞こえないということと無関係ではないし、大きな位置を占めていると私は考える。この点については後述する。
 しかし、「宣言」の「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」との考えは、耳の聞こえる人でも、ろう文化を尊重し、日本手話を話すことができるならばろう社会の一員として認めようする閉鎖的ではない開放的なろう社会をイメージ、目指そうとしていることがうかがえる。
 耳の聞こえる人に対しこのような開放性を準備しているにもかかわらず、しかし、同時に、他方一度インテグレーションしたろう者に対しては、きわめて冷ややかな態度・拒否的感情を示しているように、私には思える。
 この二つの間の隔たり・乖離・不整合性について、私は理解に苦しむ。
 「宣言」においては耳が聞こえないことは、「障害」なのか、あるいは生理的=肉体的個性なのかは本質的ことではなく、問わない。つまり、耳が聞こえないことは、例えば、背が高いとか低いとか、男か女か、皮膚の色が黒いか白いか、というような生理的=肉体的個性の違いでしかないということだ、と言う。(したがって、ここで「障害者でないなら障害者手当を貰うのか貰わないのか、貰っているのに、障害者ではないというのは矛盾している、おかしい」という観点からの批判は、的はずれの批判、批判するための揚げ足取りのように感じるが、しかしそれは現実的問題でもあるので、別途検討する問題ではないかと、私は思う。)
 次に、自分たちの「社会的文化的視点への転換」は、「手話は完全な(日本語や英語と同じという意味において=増田)言語である」と言う認識を獲得したことにあると言うことについてである。
 私は、そのような転換=認識をどのように獲得できたのかと言うことこそが問題であり、重要なのだ、と考える。「宣言」が描いた新しいろう者像をどのようにして獲得したのかを「宣言」は触れない。このことに触れない「宣言」の立場は、私には、これまでの「誤った認識を改めろ」、「意識を変えろ」ということのように聞こえる。これだと、〈意識の問題〉だということだけになってしまう。
 私が言いたいのは、こうした認識の転換は手話が言語であると科学的に証明されたことに求めるのではなく、これまでのろう者のアイデンティティを求めての旅=主体確立の格闘があったからこそそのような変革も可能になったのだ、と言いたいのである。
 例えば、これまでろう者が行い闘って来た自己解放の歴史、他のマイノリティと言われる人々の運動(例えば、障害者解放運動、女性解放運動、解放運動、在日韓国・朝鮮人3世4世の運動、アイヌ民族の運動、さらに世界の第三世界解放運動や少数民族の運動、南アの黒人解放運動、アメリカの公民権運動や同性愛者の運動、等々)の歴史がなければそのような変革はなかったはずだ。
 私たちは、30年前の格調高い「ろう教育の民主化をすすめるために――3.3声明」を知っている。「宣言」は、この「3.3声明」とどう切り結んでいるのだろうか。
 また、突然、「自分たちは、ある種の『民族』なのだ」と言う主張と出くわし、他方、「インテグレーションした人は自分たち(ろうコミュニティの成員=増田)とは違う」という主張にぶつかり、とまどい、立ち止まざるを得ない。
 「民族」という言葉について、「宣言」は具体的説明をなんらしていない。
 私が思うに、「宣言」はアメリカのろう者の経験・運動を意識しているのだと思う。
 アメリカの黒人解放運動・公民権獲得運動は「民族」解放運動から多くのことを学んだ。学ばざるを得なかったという方が正確かもしれない。
 アメリカの黒人にとって、ベトナム民衆の戦いは人ごとではなかった。ベトナムに派兵された兵士の中に多くの黒人がいた。国内で差別され抑圧されて来た黒人が、今度は、自分たちよりはるかに体格は貧弱で、身なりもみすぼらしいアジアの黄色人種を侵略し殺戮するという現実に直面せざるを得なかった。
 軍事力・財力・国力・体力のない遅れたベトナムの民衆が、強大な軍事力を持ち、装備も優れた、常勝先進大国アメリカと真っ向から対決し、退却するどころか逆にそのアメリカをうち負かしている。しかも、自分たちは女・子供・老人までも無差別に殺している。
 このことは黒人達の倫理観・道徳観・良心、そして何より自分たちのアイデンティティーを大きく揺れ動かし、混乱させた。
 そして、物や金や力より、精神・志・大儀・正義を求める心理の方が何より強い、という単純ではあるが明快な真理を学んだ。
 抑圧され続けてきた黒人たちにとってそれは屈折しながらも翻って、自分たちの過去と現在を照射せざるを得なかった。
 ブラックパンサーのスローガンは「ブラック イズ ビュティフル」であった。「ブラック」、それはかつて自分の黒い皮膚を白くしようと、肌から血が出てもなお石で削って白くしようとした自分たちが一番嫌っていた色であった。それが一番美しい、この180度の自己の転換を勝ち取ったのである。
 マルコムXは、イスラームの息吹を黒人に注いだ。
マルコムXらの武装闘争の実践=失敗と敗北は、キング牧師に引き継がれていく。キング牧師はインド・ガンジーの“非暴力・不服従”を打ち出し、勝利する。こうした一連の運動の中で黒人達は、自分たちを「ある種の民族」と読んだ。そこには、ベトナムの奇跡=ベトナムの人々が自分たちを新しい「民族」=人民へと自分たちを育てた、これまでとは全く違った人間集団の新しい概念の発見・創造があったのである。こうして黒人たちは、自分たちをアメリカの多数者=支配者である白人とは違う、ある種の「民族」と読んだのだ。
【宣言が、自分たちが一番忌み嫌い、耳にするのもいやな「エタ・に栄えあれ」と結んでいることとあまりに印象深く似ている】
 アメリカのろう者の運動は、それまでも日本と比較にならないろう者の先進的運動の歴史はあったが、他のマイノリティの運動と比べてはまだまだ遅れていた。アメリカのろう者は、先陣を切った以上述べた黒人解放・公民権運動から多くを学んだ。黒人達が自分たちを「ある種の民族」としたことを受けて、ろう者も自分たちを「ある種の民族」と読んだ=名付けたのだと思う。背景には、こうした歴史と運動があったのだ、と私は思う。
 「宣言」は、私には、こうしたアメリカの特殊性・歴史性を無視して、そのまま結論というより言葉だけを取り入れてしまう安易さを感じる。
 アメリカの特殊性・歴史性というとき私は、先述したベトナム戦争に関わる歴史性と同時にアメリカは日本とは比較にならない多民族、多人種の国ということ、そのことから自己解放の運動は他者と自己の違いをはっきり区別=独自化しつつ、しかも同時に連帯=融合する事を目指す運動=歴史を持っているという意味で使っている。
 アメリカの経験を無媒介的にそのまま言葉だけ借りて説明することは無理がある。
まして、日本においては「民族」という概念はそれほど馴染みがないのだから。
 次に、私は、二つのことを思い浮かべる。
 一つは、「母国語を生得的に獲得する機会を失った、在日韓国・朝鮮人3世4世が自らのアイデンティティを求めて、母国語を獲得する格闘。
 二つは、親に普通学級に通うことを勧められたり、何らかの事情で手話を生得できなかったろう者が自己のアイデンティティとして手話を獲得したいと格闘する姿である。
 この両者は自ら選んで「インテグレーション」したのではないにもかかわらず、ろうコミュニティの成員足り得ない、と「宣言」の立場はいう。
 私は、「宣言」は、ろう者を、自己を受動的存在としてではなく、主体的存在として定立しようとしながら、言語プロパーにこだわるあまり自己の存在・問題の領域を極めて狭く限定してしまうという落とし穴に陥ってしまったのではないか、と思うのである。
 私は、そのような誤りに陥ったのは、ろう運動を歴史的反省・主体の形成=確立という視点を欠いて総括してしまう非歴史性、そして言語プロパーの視点のみに落ち込んでしまった方法にあると思う。
 さらにそうした誤りに陥ったのは、「手話は言語である」という主張を、手話が言語学的・科学的に研究され、深められることは重要ではあるが、学説や科学的に証明するという視点から根拠付けようとする方法的弱点に由来していると考える。
 ろう者が一人で孤立している間は手話は生まれない。二人、三人のろう者が偶然的に会っていれば、身振り手振りのコミュニケーションは生まれるが、やはり手話は生まれない。
 手話が生まれるには、集団としてのろう者が偶然的ではなく恒常的に社会生活を共同して行うという空間と場が必要である。
 ろう学校の誕生はその第一歩であった。しかし、戦前のそれは量においても質においても極めて限られたものであった。ろう学校に通うことができたのは、ほんの一握りの資産家の子弟=エリートだけであった。当然手話も地域性という制約を強く持っていた。
 本格的ろう者集団=手話の登場は戦後を待たなければならなかった。
 こうして本格的ろう者運動の歩みが始まる。
 当然、主体は未成熟であり、社会的歴史的制約は強く大きかった。
 社会には、ろう者は聴者より人間的に劣っているという強固な常識が存在し続けてきた。ろう者もその常識から自由ではなくとらわれていた。ろう者にとっては、自分がろう者であることは人には知られたくない秘事であり、手話は見栄えの悪い身振り手振りであり、恥ずかしく劣っているものと思い続けてきた。
 ろう者の運動は、直接的には社会に存在する差別と不平等に対して戦ってきたのだが、そのことは、同時に自分自身の内部に潜み、しみ込んだ「我々は劣っている」という劣等感や弱点と戦うことであった。
 「福祉をお願い」する運動であったとしても、それは、秘事である自分はろう者であることを明らかにする決断を迫った。同時にそれは自分自身の意識のこれまでのありよう=自分たちの奴隷根性つまり自分たちの劣等感、弱点を見つめ、それとの戦い、そうした自己を批判することを伴わずにおかない、痛み・苦しみを伴う、戦いであった。
 だからこそ、それは同時に「手話は恥ずかしい」から、「手話はすばらしい」という大転換へとつながり、「手話=自分たちの言語」の獲得となっていった。
 こんな分かり切ったことを長々と書いたのは、「手話は言語である」という発見・証明・認識・結論が大事なのではなく、それは、まさにろう運動の歴史の中で自らが一歩一歩、それこそ血がにじむような自己批判を通して勝ち取ってきたものである、ということを言いたいからである。
 「宣言」がろう者の主体を論じる以上、そうした自分たちのこれまでの運動を主体の確立、手話の獲得という視点から捉え返すということが基本に据えられなければならない、ということは以上のような事情からである。
 30年前の格調高い「3.3声明」とこうして結びつくのである。
 そうではなしに、認識の問題=つまり意識・見方を変えろという方法では、その立場に立たないなら、「見解が違うね」、ということで終わり、次に進まないと私は思う。
 また、手話・日本手話そのものの評価を自ら下げてしまう結果となると思うのである。
 しかし、「宣言」はこうした限界を持ちながらも、この「ろう文化宣言」が、生まれつきのろう者や日本手話を使うろう者が日々の生活の中で、日本語対応手話に抑圧されて来たし、現在も抑圧されている、と感じていることを公に問題を提起したこと、そして「手話は言語である」と改めて高らかに宣言したこと、またろう者の集団は言語をはじめ独自の文化を持っているのだと宣言したこと、等々の名誉と意義は決して小さなものでないことはいうまでもない。
 また、新しい問題の提起は、はじめからすべて完全ではあり得ないし、問題が極端=ラジカルに提起されざるを得ないと言うことも当然のことである。
 従って、私としては、こうした立場に立つのか立たないのか、双方の非難合戦ではなく、提起された問題は何なのか、課題は何か、が整理され、より豊かに議論され、実りある豊のものへと発展していくことを心から願うものである。




紅葉の北小金

2005年11月26日 | ウォーキング
11/26駅からハイキング“北小金に紅葉をもとめて”
8.5キロ11:00~13:45
JR常磐線北小金→
東漸寺

1481年開基と言われ、徳川家康が定めた関東十八檀林(学問所)の一つとされ、総門から本堂まで500メートルもあり、境内も広い

樹齢300年のしだれ桜


→玉屋
北小金駅から南口から真っ直ぐ伸びる通りは旧水戸街道の宿場街=旧小金宿・鈴木家はその時代の旅籠の原形を留める(外観のみ)

→慶林寺


→大谷口歴史公園
ここ一帯の支配者であった高城氏の居城跡、秀吉によって落城。
[昼食]

→広徳寺

境内の樹木・草花にその名前が一つ一つ印されていて、親しめた。
唐変木という木だという。


→幸田湧水
ここ幸田(こうで)は昔、谷津田で小さな湧水池があった。

→香取駒形神社


→聖徳太子の供養塔


→本土寺
源氏の流れをくむ平賀家の屋敷跡で、1277年領主の曽谷教信が法華堂として開堂。
拝観亮は500円だが、それだけの価値はあるかもしれない。花の寺として、あじさい、しょうぶ、紅葉など四季楽しめるという。参拝者はとても多かった。北小金駅までは一本の参道が直進し、10~15分。
五重塔


菖蒲池の紅葉


弁天堂の紅葉


→北小金駅

北小金は、松戸市の一角で、旧水戸街道沿いの古い街。たくさんの寺社がある。
道もけっこう広く、駅から離れても農地ではなく、市街地であった。
ウォーキングとしては、見所も多いが、所々ただ移動だけと言うところもあり工夫が必要。
わかりにくい所には、スタッフが立っていたが、掲示でも良い。
こちらは、遊びなのにすまない気になるから。
11月末というのに、暑いくらいで、上着は脱いだ。

11/19久喜ウォーキング

2005年11月19日 | ウォーキング
11/19久喜ウォーキング
11/19駅からハイキング“きやっせ久喜”参加,11:00~13:45 10キロ
→光明寺


→甘棠院(かんとういん)

[門の下の地面に足跡が掘られていた]

→千勝神社


→清福寺

[境内の冥土への手紙ポストはユーモア。樹齢500年をこえる30メートルの大いちょう(市天然記念物)]

→ふるさと農園久喜
[ふるさと農園収穫祭が行われていて、合流。手打ちうどん200円食す、食事]
→水と緑ふれあいロード
→天然温泉“森のせせらぎ なごみ”[砂むし風呂は珍しい、寒いので入らなかった]
→久喜総合文化会館[外観はバチカンのサン・ピエトロ寺院を模して造られた]


[何年か前に埼玉県ろうあ者大会が開かれた]
→作り酒屋「寒梅酒造」[寄らなかった]

久喜は、古い町のようだ。駅前から寺社がたくさんあった。
農園収穫祭は、参加者が少なくさびしい。手打ちうどんはあまりおいしくなかった。
天然温泉は、おもしろそうだが、寒いのでやめた。
久喜や栗橋もそうだが、私の家の2倍から3倍もある新しい立派な家がたくさん建っている。どう見ても農家とは思えない。

定年後、どこに住むか?
都市か、田舎か、海辺か、農村か、山村か、はっきり目標はないが、歩く中でヒントをもらおうか。
でも、久喜、栗橋のような農村では飽きてしまうだろう、と思う。

本日の前半は寺社等あり変化がありおもしろいが、後半は農道、用水路沿いで変化無く、ウォーキングとしては不満。
しかし、曲がり角や、立ち寄りポイントなどの表示はとてもわかりやすくとても良かった。
また、交通の危ないところは「歩こう会」と思われる人が交通整理に立っていて、御苦労様でした。
風が冷たかったが、寒くはなかった。
9キロの東口コース、14キロの西口コースもあるとのこと、温かくなったら来てみよう。

深川・月島ウォーク

2005年11月18日 | ウォーキング
11/18 人形町・深川・月島周辺を歩いた

[第8回東京メトロ沿線ウォーキング(11.12)]のコースをベースに歩いた。
11時~14時、約9キロ

(写真は相生橋から豊洲方向を見る)

日比谷線人形町駅→明治座前→浜町公園(加藤清正宮があった)→江東区芭蕉記念館前

→芭蕉稲荷→清澄公園→清澄庭園前→深川江戸資料館前通りにある深川公衆トイレはとてもきれいであった(下写真:右に隣接する店は確か蕎麦屋で、入り口はトイレと瓜二つであった)


(上写真は、江戸博物館前通りの土産物屋の看板)

→清澄通り一帯の寺社→深川不動尊(隣の深川公園で昼食)

→富岡八幡宮(江戸最大の八幡宮とのこと、立派な御輿や、横綱力士碑、都内最古の鉄橋などめずらしい)

→東京海洋大学(明治丸は校内にある)→相生橋→月島→佃島→佃大橋→八丁堀→堀部安兵衛武庸之碑→水天宮(周りは高層ビル・マンション)


→人形町

深川一帯特に清澄通りは寺が多い。
寺など下町の感じのする深川から、隅田川河口・越中島、月島、佃島になると超高層マンションが林立し、町の雰囲気が一変する。
八丁堀に入ると、企業ビルが立ち並ぶ。
箱崎インターチェンジを下から通ったのは初めてだ。
人形町も深川も、八丁堀もかつては下町であったが、現在は大きく様変わりした。
ウォーターフロントの超高層・高級マンションの眺望は定めしきれいだろう。
でも、地震や津波の心配はないのだろうか、人にとって住みやすいであろうか。
私は、住みたくない。
ウォーキングとしては変化があり、及第点だ。
平日で人通りもあまり多くなく、天候的には午前中はひんやりしたが、午後からは温かかった。
秋葉原は久しぶりに地下鉄乗り換えをしたが、相変わらずわかりにくかった。



中川憲一さんのこと

2005年11月18日 | 学習
11月11日(金)夜7時のNHKニュースに、中川憲一さんと前田道彦さんが5秒ほど登場した。
背負ったリュックから百万円の束を次々出す様はおもしろかった。
二人を含む17人は、27年前、1978年3.26三里塚空港管制塔を占拠した。デモ隊も空港予定地のゲートを突破し空港内に突入し、開港を阻止した。
17名という人数は、ベトナム戦争の大きな転換=アメリカの敗北へと続いた1968年のテト攻勢=南ベトナムでも解放勢力の一斉大攻勢とベトサイゴンのアメリカ大使館に突入・占拠した人数である[正しい数は22人、事前に捕まったり発見されて入れなかった人がいて17人になった]。
中川さんたちは、地下道に潜み、そこで食事をしウンチをし、マンホールを開けて、管制塔に突入した。
今年7月、損害賠償請求の時効直前、国は延滞金を含む1億円の請求をした。
その額は、元の額の倍以上115,214,903円になっていた。
請求しただけではない、職場での給料等の差し押さえに出たのである。



2005年11月本

2005年11月17日 | 読書ノート
7.『何もそこまで』~ナンシー関。タレントのヘンを綴る。息抜き。

6.『イラク 爆撃と占領の日々』~豊田直巳=岩波フォトドキュメンタリー
クラスター爆弾と劣化ウラン爆弾による破壊に残されるものは、アメリカを初めとする占領国(日本を含む)へのぬぐいがたい怒りだ。
同時にアメリカは、第二のベトナム後遺症=兵士の劣化ウラン弾による病と、精神の病と、国論の分裂だろう。
【メモ】原子力発電の燃料を造る際に、反応を活性化するために濃縮したウラン235が必要でその残りを劣化ウランという。ウラン238などを含み、密度の高い金属。ウラン235より放射能が弱いとされ、アメリカでは合金として使われる。


5.『ちんちん千鳥のなく声は』山口仲美

犬は、英語圏ではバウバウ、日本ではワンワンと聞き表してきた。そこには、聞こえ方・表音のし方にいろんな物が関係しているんだろうなとは、予想させる。
「日本人は、鳥の声をどのようなことばでうつしてきたのか。それらの言葉の背後には、日本人のどんな物の見方や生活環境がうつし出されているのか。」と山口さんは語る。
ニワトリは、カケロ、コケコー、コッカッコー、コッケイコー、とカ行音でうつす一般的なニワトリの声の歴史があり、室町から江戸時代にかけて、トーテンコー、トッケイコーとタ行音でうつすニワトリの声もあったそうだ。
英語ではcock a doorle doo、フランス語ではcoquericodo、ドイツ語ではkikeriki、イタリア語ではchiccirichi、ロシア語ではkykapekyというそうだ。[ニワトリだけ外国語が紹介された]
なぜ、そのように聞こえ、表現したのか、聞こえ方が変わったのはなぜか、表現の仕方が変わったのはなぜか、について説得ある説明はないが、歴史的変化、言葉遊び(掛詞、隠し言葉=隠喩)、言葉のリズム遊び、などいろんな楽しい紹介がある。
『中国の蝉は何と鳴く』は、著者の中国への日本語学教師として赴任した時の中国人との交流記録でとても佳作であった。
11月19日のTV“世界一受けたい授業”で山口さんが出演したが、気付くのが遅く見逃した、残念。


4.『続 あらすじで読む 古典落語の名作』野口卓著・柳家小満ん監修:気分転換


3.『神も仏もありませぬ』 佐野洋子
著者は、『100万回生きた猫』を書いた絵本作家。65歳。
重いテーマが続いたので、気分転換にと「笑える」と紹介されていた本著を選んだ。
でも、笑いも随所にあるが、隠されたテーマは重く、しんどい。
佐野さんは、老年=死に近づいている日常の小さな出来事を、フワリと語る。
“穏やかな死”をいかに迎えられるのか、なんて考えるから。
女言葉を使わないのがとてもいい響きだ。
食った、うまい、糞する、など。
魅力的文章、女性だ。


2.『サラーム・パックス』~バグダッドからの日記
サラーム・パックス著[サラームは、ペルシャ語(確か)で平和、パックスも平和、パックス・ローマと同じ使い方]

バグダッド・バーニングと同じ、インターネットのブログ。
「同性愛者で大酒飲みで、中学の頃にオーウェルの“1984年”を読んだ」20歳代と思われる男性。
前半は、興味を引かない話題があったり、かなりの皮肉屋で言いたいことが分からないこともあったが、アメリカが戦争を始めそうだと言う頃から俄然緊迫する。
戦争が始まる直前、彼がしたことは、
・家のすべての窓にテープ
を貼ったこと、
・庭に掘った井戸に手動ポンプを付けたこと、
・小型発電機様に60リットルのガソリンを買いだめしたこと、
・石油コンロを二つ買ったこと、
・避難部屋をつくったこと、
・親類用に部屋を二つ用意したこと、 であった。
2003年3月11日、リバーベンドという名前が登場したときは、とても感動した。
「自らを“国際社会”と呼ぶ国々は、ずっと昔に自分の責任に気付くべきだった。自分たちが科してきた制裁措置の本当の意味を、なぜもっと考えてくれなかったのか。兵器や人権侵害の報告に、なぜもっと早く耳を傾けてくれなかったのか。“イラクの民主化を支援する”というのが、なぜ、“イラクを爆撃する”ことになるんだ。これまでずっと長い間、非民主主義的なこの国のことなど気にもかけなかったくせに、なぜ今になって爆撃するのだ? 頼みたいのは、戦争の後何が起こるか、しっかり監視してほしい」には、頭をが~んとたたかれた思いだ。
3月24日から5月1日までネットに接続できず、中断、5月7日にその間の日記が書き込みされる。
酒井啓子さんの【解説】とても素晴らしい。
「サラームは世界を把握しているのに、世界はサラーム=イラクを正確に把握していないことに、彼は怒っている」
「結局、彼が強調するのは『外の人たちはイラクのことはわからない』ということだ。外の世界から勝手にイラク人のことをあれこれ同情しないでくれ」
「自分が攻撃しようとしている相手が、同じ歌を聴き同じ映画を見て、インターネットして、同じジョークに笑いながら一緒に酒を飲めるような『隣のにいちゃん』みたいなヤツだと、気がつきさえすれば、そいつに刃を平気で向けることなんか、できるはずはないんだ」、はそうだよね。
ジョン・レノンの“想像力”の欠如なんだよな。

【メモ】イスラム圏では、赤十字社の「十字」という言葉を避けて、イスラムの象徴である「三日月」を使い、「赤新月社」と名前を変えている。


1.『バグダッド・バーニング』~イラク女性の占領下日記、

著者:リバーベンド
著者は、24歳のイラク女性である。
GOOGLEのブログ[2003.8.17~2004.5.22]を日本の女性たちが翻訳・出版した。すごい感動である。
30年以上も前、雑誌『世界』に“韓国からの通信”が連載されていた。[1973年5月号から88年3月号]
著者は、TK生。それ以外何の紹介もなかった。
72年10月に戒厳令が布かれて以来の緊迫する韓国の政情、民主化を求める知識人の動き、民衆の声、金大中氏拉致事件を含む激動が生々しく報告された。
韓国の軍政時代、韓国内の民主化運動の真実を伝えたのは、日本の雑誌「世界」に連載された秘密通信「韓国からの通信」だけだった。
他にあったかもしれないが、大衆的には「世界」だけだった。
「世界」は、マスコミといえるほど大衆的ではないかもしれないが。
軍政が血眼になって追い、民主化運動の人びとには希望の灯となった通信の筆者は、当時東京女子大学教授であった池明観さんであることが明らかにされたのは、つい最近のことである。
池明観さんは1924年北朝鮮生まれ。ソウル大学卒業。東京女子大学で教鞭を取りながら「韓国からの通信」を書き続けた。翰林大学校翰林科学院日本学研究所所長を務めた。
私はほとんどこの通信を読むためだけに『世界』を毎月買っていた。
一般的にはかなりの年輩の知識人だと言われた。
身分が明らかになれば、即刻逮捕され死刑にされたことは確実だった。
当時の韓国は凄まじい反共国家であり、韓国国内の民主運動等の情報はほとんど知らされることなく、この“韓国からの通信”は数少ない貴重な情報源であった。
徐勝兄弟の消息など息を殺して読んだものであった。
時代は大きく変わり、ブログで瞬時に世界中に情報が伝わる。
私達がどんなにアメリカ一辺倒の情報に影響=洗脳され、現地イラクの人々の生活を知らないか、ということをこの本でつくづく思い知らされた。
今日のイラクは、遅れた国で、女性は抑圧され、大学教育など受けることないとされてきた。バグダッド・バーニングの原文は英語であり、このように英語を書けるインテリ女性はイラクにはいない、だからこのブログはでっち上げだというメールが数多く届いたそうだ。
著者のリバーベントさんは大学卒業後、一般企業に勤めていたそうだ。
バグダッド・バーニングのブログはまだ続いている。
日本語訳は、http://www.geocities.jp/riverbendblog/
原文は、http://www.riverbendblog.blogspot.com/









童謡のふる里・大利根散策

2005年11月13日 | ウォーキング
11/13『駅からハイク=童謡のふる里おおとねとふれあうふる里散策』
11時~14時、8キロ
JR栗橋駅→めだかの小径

→アスタホール・野菊公園

→ラベンダーの小径→「第10回ふる里まつり」=農業・商工・健康まつり→
童謡のふる里図書館ノイエ(開琴亭公園)
→栗橋駅
栗橋は二回目、町の名前は、大利根町。24平方キロに1.5万人が住み“たなばたさま”(笹の葉さらさら…)等の童謡を作曲した下總皖一が生まれ育った町で“童謡のふる里 おおとね”の標識が目に入る。
特別な観光場所はない。「第10回ふる里まつり」イベントへのドッキングだけ。
ほとんどのコースは、たんぼ道で変化がなく、単調。
しかし今日は参加者が少なかったのか、締め切り間近ののスタートだったせいか、は分からないが、行進状態でないどころか視界に入る人の数は10名って言う感じだったので、気分的には、落ち着いた。
ちょうど12時、「10軒農業センター」があり、そこに神社もあったので、その境内でゆっくり昼食をした。
歩かないと、ジャケットがないと肌寒いが、歩く時はワイシャツを捲るほどで、少し風はあるが、最高の天候だった。
農村ではあるが数戸が集まって・集落がつくられているわけではなく、農家らしきものはぽつんぽつんと点在する感じで、大道路沿いは今風の大住宅が軒を連ねている。
通り道にあった、保育園、特別養護老人ホーム・デイケア施設、障害者作業所・生活ホーム、図書館、アスタホール(公民館集会室の感じ)、文化体育館、総合福祉会館、保健センター等はいずれも新しく、かなり大きく立派で、2万人に満たない町でありながら、新住人・市民の生活を大事にしようというニュアンスが感じられたが、実際はどうなのであろうか。
農業をやるならいいが、そうでなければ私には退屈だろう。
駅西口は後発らしく、駅前には商店街は全くなく、一日500円の駐車場がたくさんあった。
「第10回ふる里まつり」の会場は広く、かなりの出店・ブースがあったが人数は500人位であったろうか。特に私には農作物コンクールがおもしろかった。
賞をもらった農作物は希望者に抽選で与えられるそうだがあまりに値段が安すぎる。
初めてみる立派なこんにゃく芋をしみじみみていたら、おじさんおばさんがこんにゃくは芋はこれくらい(中キャベツ大)になるまで3年もかかるんだよ、と教えてくれた。冬瓜などは一斗缶位あった。
めだかの小径にめだかはいないし、ラベンダーの小径のラベンダーの咲き具合もまばらで、ウォーキングコースとしては50点以下だが、人数が少なかったこと、大手根町というけれど、農村と町状態が入り交じっていて、まぁまぁってとこかな。
100の湯(とねのゆ=温泉とのこと、今回は入らなかった)は総合福祉会館内にある。市街は400円だったか。

浅草ウォーキング

2005年11月10日 | ウォーキング
11/10,11時~13:30,約8キロ
[東京メトロ浅草ウォーキングのコース]
銀座線浅草駅
→雷門→仲見世→[伝法院→浅草寺五重塔→浅草寺]
→浅草駅→はきもの問屋街→待乳山聖天(まつちやましょうでん)
→富士浅間神社(浅草警察署前=とても小さい)
→鷲神社(おおとりじんじゃ=昨日は11月酉の市だったそうだが、そのせいか分からないが、工事用のテント様で覆われ、興ざめ。近くのコンビニでは「熊手の宅配は受け付けない」と張り紙があった~“縁起物だから”とのこと)
→西徳寺→合羽橋道具街→東京本願寺→銀座線田原町駅
おもしろかったのは、浅草駅前に大きな“神谷バー”があったこと。
夜はきっと楽しそう。
浅草寺境内は広い、建物も大きい。
雷門・仲見世・浅草寺は、平日なのに大変なにぎわいであった。
浅草は、何回か来たことがあるが、ぐるっと回るのは初めて。
【前回は、浜離宮から水上バスで浅草に来た。】
浅草六区、花屋敷、浅草演芸ホールなど娯楽施設もあるが、こちらの方は人影が少ない。
はきもの問屋街、古着屋、革製品屋、合羽橋道具街、仏具街など独特の商店街がおもしろい。が、人通りは多くはない。
秋晴れで、日差しは暑いくらいで、上着を脱ぎ、Yシャツであった。
写真/上・仲見世、下・浅草寺

東京まちあるき・御徒町

2005年11月05日 | ウォーキング
11.5駅からハイク/
御徒町駅開業80周年ウォーク
11時~13:45、8キロ
【写真は、万世橋から交通博物館下からお茶の水駅方向】
JR御徒町駅→旧岩崎邸庭園[混んでいたので入らなかった]=入り口まで100メートル以上もある、煉瓦塀も立派だ
→湯島天神[菊まつりもやっていてにぎわっていた、境内も広い]
→神田明神[境内・建物も狭い]
→湯島聖堂[平日は公開されない大成殿は天井が高く広い、その割に展示・祀られているものは少ない、小さいくそのアンバランスがおもしろい。孔子などを祀るのは珍しいと思うのだが、堂なのだろう。お茶の水駅から3分という距離ながら昼でも暗い木々の陰であった]
→交通博物館[見たことがあるので入らなかった]
→万世橋からは秋葉原の電気街の高層建物が
→JR浅草橋横を通って→鳥越神社→鳥越おかず横町
→佐竹通り商店街[佐竹通り商店街トリビアによると日本で二番目にできた商店街とか]→JR御徒町駅
都心ながら、人数・ウォーカーもあまり多くなく(遅い時間なので)、天気も良く、歩くと小汗、木陰に入るとヒンヤリし、快適であった。
岩崎邸煉瓦塀の無縁坂から東大病院・東大と続く一帯は東大だけがあまりに広大な敷地と緑を独占していることに違和感を覚え、東京医科歯科大・湯島聖堂に至ると少し雰囲気が変わり、万世橋付近では秋葉原の高層電気街と代わり、浅草橋・御徒町に入るとチマチマした商店街・下町というように町の雰囲気が次々と変化し飽きなかった。
学生時代を過ごしたお茶の水界隈であったので懐かしさもあった。

湯島聖堂