9月27日/さて、いよいよ帰国である
ホテルにタクシーの予約を頼んだら、地下鉄ストのため明日10分前に電話してくれるという。案じながら寝た。
5時に起床し軽い食事をし6時20分にレセプションに行くと、タクシーが来ていた。
10ユーロであったがチップをはずんだ。
TGVは6時59分発なのだが、何番線からは15分位前にならないとわからない。
車窓は、雨みたいに濃い朝靄が夜明けの光の中で明けていく綺麗な農村の風景だった。
TGVは10分も遅れて着いたのであった。
シャルルドゴール空港はとても広いのでターミナル2の搭乗窓口まで簡単に行けるか心配だったが杞憂だった。
乗手続きは、ベトナムのビザがないことが問題のようでとても時間がかかった。
何人もの職員がやってきて相談してやっと搭乗手続きが終わり一安心。
荷物はベトナムでピックアップしないで成田直行となった。
12:25パリ発、ホーチミンには翌5:35着である。
ベトナムの入国手続きがまた一悶着であった。
係官がビザは?と聞く。トランジットだと言うとチケットを見せろと言う。
思わずチケットを見せてしまった。すると、乗り継ぎだから入国できない、と言う。
仕方なく、乗り継ぎ窓口に行くと、女性係官が乗り継ぎ[ホーチミン発は深夜0:05]まで長時間で大変ですねと言う。
私は、何とか入国できないかと粘ると、彼女はなんと「もう一度入国審査を試みたら」と言ってくれた。
ここでも「地獄で仏」であった。
先ほどとは違う係官のところで、今度は本物のチケットは見せず電子チケットの写しを見せると、入国OKだった。
こうして再びホーチミン市に立つことができたのであった。
まだ早いので空港の喫茶店で紅茶を頼んだ。
砂糖を入れるかと聞かれたので、要らないと言った。砂糖の入れ物を見ると小さいアリが徘徊していた。
ドンはかなり持っていたのだが、足りないと困るので10ドル両替し、
ヴァンギエム寺までのタクシークーポン[8ドル]を買って、観光に出かけた。
フランスでは朝晩は涼しく、日中は暖かかった。
ベトナムは、まだ夏。フランスから長飛行機だったので今日の観光は二つのお寺だけ、タクシー移動と決めていた。
ヴィンギエム寺
この寺は、日本に留学していたベトナム人僧侶が開いたそうだ。
鐘は、日本の曹洞宗の寺がベトナム戦争犠牲者の鎮魂のために贈ったもの。
ベトナムの仏教僧はアメリカのベトナム戦争に抗し平和デモをした。
また多くの僧が自らの体にガソリンを撒き火を付けて抗議した。
当時の南ベトナム大統領の弟夫人、ゴ・ジン・ヌー夫人はそれを「人間バーベキュー」と称した。
道路を挟んでこのお寺が その道路は
大きな交差点しか信号は無い、横断歩道はない。
人々は平然とこの道路を横断する、車である自転車は車道の真ん中をゆっくり走り、
方向転換する時バイクは逆走も平気である。
スピードは出ていないが、接触事故を私は見なかった。
車はクラクションの連打だ。
これは「バイクよどけ」ではなく、車が来ているヨと知らせる合図のように私は感じた。
私は最近は車は運転しないが、ベトナムではバイクの列の隙間を縫って道路に出るのすらむずかしいのではと思った。
近くの
ダンディン市場に行き、お土産の小物でも買おうと思ったのだが、場所がわからずうろうろ。
10m~20m歩くとバイクタクシーが乗れ乗れと騒がしい。
ベトナムでは車は右側通行、バイクが多すぎてタクシーを上手く止められない。
止まったのでホッとしてボサッとしていると運転手がドアを開けてくれた。
そうタクシーのドアは自分で開けなくてはならない。
交差点近くだったのでバイクから文句のクラクションの嵐であった。
市場はタクシーに乗る距離ではないほどのすぐ近くだった。
アオザイを作っていた
バイク以上のすごい熱気とバイタリティをこの市場で感じた。
生きたナマズやカエル、豚の頭や足など食べ物は何でも売ってるという感じ。
野菜も果物もあふれるばかりであった。
路地の奥は、昔の上野のアメ横のようにうずたかく積まれた商品で日中でも薄暗い、日常雑貨の店だった。
そこには日常のあらゆるものがそこで売られているように感じた。でも、あまり中までは行かなかった。
ベトナムでは路上での食事は普通である。
日本人が入浴の時使う小さいプラスチックの椅子のようなものに路上で座ってである。
日中は暑いので休憩する、そのぶん涼しい朝早くから仕事するようで午前中あちこちで食べている。
赤ん坊に乳を含ませながら自分も食事し、商売もする姿、その他市場の様子など魅力的被写体だらけなのだが撮るわけにはいかない。
私には買うものはなかったが、なかなか立ち去りがたく右往左往した。
ヤックラム寺はホーチミン市最古の仏教寺院で、かなりの郊外にあった。タクシーで20万ドン・1400円だった。
第一の門 第二の門
この寺に着く直前、ずいぶん遠いなぁ、と思った。降りる時運転手がここで待ちますか?と聞いてきた。
もちろんベトナム語で。雰囲気でわかった私は、待ってもらうことにした。
私は、お腹が減ったので食事をしたい、空港の近くで高くないレストランを紹介してくれと頼んだ。
彼は一度空港まで行って、Uターンして、ボーリング場のあるショッピングモールに連れて行ってくれた。
韓国人の経営のようで韓国料理やハンバーガーなどの店であった。
レストランに客は入っていないので、日本のラーメン屋のような一般の店に思い切って入った。
看板の文字は読めなかったが、どうもホーらしいのを注文した。
ビーフがトッピングされ1.6万ドン=112円だった。
生水はいけないのでお茶を頼んだ2000ドン=14円だった。
空港までのんびり歩いた。
さて、これから約10時間、空港で時間をつぶさなければならない。
塩野七生さんの『海の都の物語』3、4巻を読み、眠たくなったので長椅子で横になって寝た。空港はすいていた。
上着を着て寝たのだが、冷房の効きすぎで目が覚めた。
空港の外で体を温めていたら、タクシードライバーの勧誘が英語でしつこい。
こうして空港の中と外を座ったり歩いたり、時の経過をまった。
8時半頃だったろうかチェックインが始まった。
国際線ロビーには食堂とマッサージがある。
来た時はフットマッサージ[17$]、今度は頭・首・肩・足[30$]1時間コースでリラックスした。
その後、レストランで焼きそばを食べたが、おいしくなかった。お酒は我慢した。
レストランのやわらかいソファで、0:05発までゆっくりした。
飛行機の席はエコノミー席の一番先頭、壁に面したゆったり席であった。
すぐ飲み物サービスがあり、ワイン・ビール・ウイスキーなどフリーだったが水だけもらって一眠り。
うとうとして目が覚めると4時半、朝食であった。
食後一寝入りして目が覚めると成田であった。
成田は雨が降ったようで、緑が瑞々しく美しかった。
こうして長い旅が終わった。
10月11日リヨンで分かれた後、スペインまで足を伸ばしていた妻と娘が帰国した。
娘から請求書が来た。全て込みで約20万円強であった。
私たちは、贅沢な食事はしなかったし、
お酒は外ではほとんど飲まずホテルの部屋で飲み、お土産はほとんど買わなかった。
個人的に使ったお金を加えても22万円は行かなかったと思う。
ベトナムの通貨事情
ベトナムの通貨単位は“ドン”で、1万ドン=70円である。
昼食に食べたホーは1.6万ドン=約112円、紅茶がその倍であった。
私の乗ったタクシーは、15万ドン~20万ドン=約千円~1500円。
タクシーなどはメーターなのでわかるが、ホーの値段などはベトナム語で言われてもわからないので、
私は紙に書いてもらった。
10万ドン札もある。
ベトナム人の月収は100ドル=160万ドンと言われる。
空港などではドルもOKである。
だが、空港内は驚くほど物価が高い。
バイクと並んでベトナムドンは当局にとっても頭が痛い問題だろう。
財布は、お札でパンパン。デノミをしたいだろう。
携帯電話
私、妻、息子が携帯を持って行った。国際携帯の機種で特別な手続きは不要。
私は2500円、三人計で16000円だった。
さて、高いか安いか。だが無ければ不便で困ったことは確かである。
ベトナムのバイク事情は触れたが、それは驚きである。
それはあたかもベトナムとベトナム人のエネルギーの象徴のようにも感じる。
その数もさることながら、三人乗りは当たり前、四人乗り、道路横断のために逆走も普通、運転は実に巧みだ。
自転車も大きな荷物を積み、長い物干し竿を担ぎ平気で道路の真ん中を走っている。
確かにスピードはそんなに出てはいないのだが、これで事故が起きないものだと思う。
排気ガスがすごいので、みなマスクをしている。
女性の中にはとてもかわいいマスクをしている。
道路はいつも渋滞であり、そのうち物流・経済に支障をきたすだろう。
当局は、公共交通を普及させたいに違いないが、バイクの便利さを知ってしまった民衆がバイクを簡単に捨てるとは想像できない。
皆ヘルメットをかぶり、また路上駐車をして道路を塞いでいるバイクがないのを見ると、それらを厳しく当局が取り締まったのだろう。
バイクの駐車場が至る所にある。お寺の境内の多くが駐車場であった。値段を聞いて置くべきであった。
飲食店の入口には、ドアボーイがいてバイクで来た客のバイクを駐車場に運ぶのも彼らの仕事であった。
さて、以下は雑感である。
フランスでもベトナムでもトルコもそうだったが、昼間とても多くの人が路上や喫茶店でお茶している。
特に男同士が多いように思った。仕事をしゃかりきになってやっているという感じはしなかった。
フランスでは、夕方になると喫茶店特に路上の喫茶店は混んでいた。
日本人は紫外線を気にするが、外国人は外・日差しが好きだ。
冬物のオーバーコートを着て、戸外でお茶している。
食事はしないようで、飲み物だけで長時間おしゃべりしているようであった。
これはとてもおもしろい現象だと思っている。
パリ・リヨンの大都市で、大型スーパーは見かけなかった。郊外にあるのだろうか。
普段の買い物はどうしているのだろう。
小さなコンビニ的スーパーはかなりあった。
果物・野菜は量り売りが多く、バナナ1本、トマト1個でも買うことが出来る。
コンビニは見なかった。自動販売機はない。
日常生活品の物価は決して高いとは思わなかった。
日本人は早足で外国人はゆっくりと言われるが、パリではフランス人はとても早足だった。
路上などで体が少しでも触れると「ソリー」であった。
フランスでは、信号のない横断歩道で止まっていると車は必ず止まる。
フランス領だったタヒチでも同様であった。
また、外国人は薄着だと思っていたが、フランス人は色々で、Tシャツ一枚の人もいれば、
冬のコート・レザーの上着・ブーツと冬真っ盛りの人もいた。厚着の人の方が多かったように思う。
次は、物乞いの話題。
フランス、トルコは物乞いが多かった。
彼らは、ただ紙コップを前に置いて座っているだけ。
老若男女様々であった。
地下鉄構内・電車の中では楽器を演奏して、謝金を求める人がかなりいた。
ベトナムでは物乞いは目にしなかった。
フランスでは年齢に関係なく路上で平気で抱擁しキスする。
電車の中でいちゃつく中年も目に付いた。
フランスではトイレに困ること特には無かった。地下鉄の駅にトイレはなかった。
国鉄の駅にはトイレがあったが有料の所もあった。
電車内のトイレは汚く、清掃が十分ではなかった。
地下鉄・鉄道・空港では、エスカレーターはほとんど無かった。
また、点字ブロックは見かけなかった。
フランス語が読めない私には、実物が置かれているレストラン・ファストフード等はありがたかった。
食べ物のサンプルが店頭に置かれている日本のお店はなんと素敵な文化だと感じた。
日本の良い文化の一つに、『細かい配慮』がある。
このサンプルなどは典型。そのほか、駅名の表示=前の駅・この駅・次の駅は電車の来る方向もわかりとても良い、
駅の自動券売機は日本の方が使い勝手が良いのではないだろうか。
交通関係の電光表示、たくさんある交通信号・横断歩道も良い。
コンビニ、飲み物の自動販売機等は便利さもさることながら商品の値段の均一性と安さ。
道を聞く、これは一概に比較できない。日本でも外国人には日本人以上に親切になるだろうから。
今回も実に多くの人に道などを尋ねたが、言葉が通じないと言う表情で断られたのは一人だけで、
後の人は皆、自分の言語で、英語で、身振り手振りで教えてくれた。
パリの地下鉄では券売機がない出入り口があった。どこで買うのか聞いて上手く教えられない人がいた時、
通りすがった女性が違う改札口まで案内してくれた、どこの国でも沢山の親切に出会いましたよ。
さて、英語。
今回は、リコンファーム、切符購入・変更・ホテルのレセプション・場所を聞く・電車の中の会話・買い物など使う場面が多かった。
窮すれば通ず、とは言えるものである。
フランス人は英語を話しているのに、私の耳には英語に聞こえないと言うことが多々あったのではないかと今思う。
外国人に自分のなじみでない英語で場所や道を教えるのは容易ではない。
さて、今回のお気に入りは、
である。
これは番外だが、今回の旅で私が一番うれしく感じたのは、息子と私の関係である。
私はこれまでどうも息子を過小評価、見下すような態度が多々あった。
旅で私は沢山の失敗をしたのだが、
息子は決して私を責めたり馬鹿にすることなく、大丈夫かとやさしく声をかけてくれた。
そのおかげで私は落ち込むこともなく、とても穏やかに過ごすことが出来た。
老いては子に従えとは良く言ったものだ。
私が老いたと言うより、息子がとても成長しているのだなぁとつくづく感じた。
終わり