
6月15日、弘前市最終日です。市内の散策はほとんど終わっているので、残すところは午前中早くで終わりそうです。
帰りの新幹線は14:38を購入していたのですが、午前中で散策は終わりそうなので、1本早くしたいと窓口に行くと、
13:52発に手数料無しで変更できました。「はやぶさ」は自由席はなく全席指定席なのでどうも行動が制約され、不自由です。
昨夜の青森駅はみどりの窓口は混雑していましたが、弘前駅は並ばずに出来ました。

駅構内の観光協会で電動アシスト自転車を借りて出発しました。
津軽藩ねぷた村に行きました。時間が余ったら入ることにしました。


東大宣寺・日蓮宗


弘前市仲町伝統的建造物群保存地区に行きました。
飛騨の高山や川越などを想像していたのですが、期待は外れでした。一角全体が伝統的建造物群保存と思ったのですが、
黒い門構えの家が数軒ありましたが、わずか4個の武家住宅だけが保存されていて、他は普通の民家でした。
公開は、10時からでしたので、後刻訪れることにしました。 安穏寺・本門仏立宗(写真を撮り忘れたようです。)
神明館 御志羅様(お祭りがあるのか手入れ、着飾りをしていました。)


絵馬堂


八幡宮 拝殿


稲荷 神輿


本殿


熊野奥照神社


板碑 本殿(放水銃が守っています。)




弘前市仲町伝統的建造物群保存地区 に戻りました。


旧岩田家住宅(300石の武士の家だったそうです。)




笹森家住宅(再建されたものです。)


旧伊東家住宅(藩医の家)


旧梅田家住宅




石場家住宅はお店です。 予想以上に早く終わったので「津軽藩ぬぷた村」に入りました。550円


観光客が一人でも簡単な説明と演奏があり、太鼓を叩かせてくれます。








その後10分間の津軽三味線の演奏(録画・録音禁止)がありました。 コケシ作りなどの実演もやっていました。


若いお嬢さんの、「変わり独楽」の実演は楽しいものでした。
喧嘩独楽、独楽の中に数個の機片があって回っている時は中にあるのですが回転が落ちてくると落ちて来る独楽、
独楽に穴が空いていて回るとぶんぶん音がする独楽、瓢箪形の独楽から小さい独楽が撥ね落ちて来る独楽、占い独楽などでした。




大石武流庭園 「津軽藩ぬぷた村」の入場料550円はほんと安いです。楽しめますのでお薦めです。

この日は、気温が少し高く、旅の疲れも出てきたので、弘前公園の木陰に入り早めの昼食、しばらく昼寝をしました。
弘前城の追手門の写真を撮り忘れていたので撮りに行きました。 弘前文化センター前の津軽為信像


早めですがホテルに帰り、預けていた荷物を引き取り、駅の喫茶店で電車を待ちました。 以下、弘前駅の「リンゴ」三点


今回は乗りませんでしたが、弘南鉄道弘南線の駅です。


13:01発の電車に乗り、新青森着13:52、13:42の新幹線でした。早い時間なのに70~80%の乗車率でした。
弘前市では「NEPUTA」、青森市では「NEBUTA」、方言の違いだそうです。
諸説あるようですが、農作業に「ねむたい」はダメ、ねぶたいを防ぐ、追い払う等の意味があったとか、
青森のねぷたは横に幅広く、弘前は扇形、五所川原は縦長の特徴があるそうです。
江戸時代中期に広く行われるようになり、今日のように豪華になったのは昭和30年代以降と言われています。
私は、祭り・花見には特別な関心・興味は無いので混雑した時期に訪れるつもりはありませんが…。
弘前市は、空襲を免れた歴史的城下町でした。旧市街地は城下町特有の遠くを見渡せない食違・丁字路・鍵手です。
JR弘前駅周辺は、まさに新市街地で、ちょっと前までは田んぼでしたが、今はそれが想像できないニュータウンです。
太平洋戦争で日本はアメリカの無差別大空襲の戦争犯罪を受け、多くの歴史的町並みが破壊されました。
もっとも明治維新で神仏習合・廃仏毀釈(神仏分離令他)などによってそれ以前に多くの寺と仏像などが壊されましたが…。
江戸時代の藩の城の多くも、陸軍などに接収され、破壊されました。
弘前は、そうした悲劇が避けられた珍しいところですが、明治時代に古い寺町が新寺町に移転され新しく作られた町です。
江戸時代のもう一つの寺町・禅林街は一宗派・曹洞宗の33の寺が一つの街を作る希有なところですが、
その多くの建物も最近になって再建されたもので、「歴史」の古さは強くは感じません。
街全体としては「歴史」ではなく、『ぬぷ(PU)た・リンゴ・弘前の桜』の町でしょうか。
寺町は、観光には便利ですが、街歩きには極めて趣きと変化を欠きます。
弘前には、キリスト教教会が各所にあって変化を醸し出しています。
さて、三内丸山遺跡。
私は、静岡県の登呂遺跡、東京の大森貝塚には行ったことがありますが、古代遺跡に特別の興味はありません。
登呂遺跡も広大でしたが、こちらは稲作の弥生時代、三内丸山遺跡は採集・狩猟時代の縄文時代と言われ、時代も古いようです。
寒さが苦手な私には、青森は寒く、実り豊かな土地とはとても想像できないのですが、きっと豊かだったのでしょう。
翡翠や黒曜石なども発見されていることから、陸路、海・船を使っての各地との交流もあったのでしょう。
気温は高くなかったのですが、日差しが強く思ったより疲れました。それも、歩きではなく電動アシスト自転車だったのに、です。
弘前・青森の旅をたっぷり楽しみました。 【弘前・青森の旅終わり】
私の、青森県の旅のブログは次です。 五所川原の旅、冬の弘前ほんの少し