風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

蝉しぐれ・三丁目の夕日

2006年02月27日 | 映画
『蝉しぐれ』
全くの期待はずれ。原沙知絵・木村佳乃の美しさ、背景の野山の美しい映像だけが救い。
市川染五郎はきれいだけで、芝居もセリフも下手くそ、剣については全く下手くそ。
脇役人がベテランでうまいだけにその下手さが目立ってしまう。
その上ストーリーも下らないし、展開も遅くイヤハヤって感じ。
「たそがれ清兵衛」とは雲泥の差。


『三丁目の夕日』
これは期待していなかったが、普通作、ってかんじ。
何しろ全編CGと言う感じ、これは全くいただけません。
[背景はミニチュアらしいが]
舞台装置、背景にお金を掛けられないなら、そういう場面は入れないで、ストーリーや芝居で勝負すればいい。
最近の映画は、コンピュータグラフィックスに頼り過ぎ、映像に奥行き・迫力・リアリティが無く、興ざめだ。
茶川が老人でなく青年(=離婚された吉岡秀隆)、六さんが男性でなく女性、鈴木オートの社長が単純なガラッパチと漫画とはキャラがだいぶ変わった。
展開は早くないし、ストーリーも変、もっとコメディタッチに早い展開にすれば良いのになぁ。
辺見エメリーと結婚した木村祐一が出ていたり、薬師丸裕子はすっかりオバさんで、子役の小清水一揮が抜群にうまい、新人の堀北真希がかわいい、と楽しみもある。

久しぶりの池袋新文芸座で、二本立て1300円、立ち見もいる大入りであった。
ウォーキングには寒いので映画にしたが、映画二本はちょっときつくお尻がしびれてきた。昔は二本立ては普通だったが。

2006年2月読書ノート

2006年02月27日 | 読書ノート
3.『ローマ人の物語』[2]=“ハンニバル戦記”文庫版[上中下]塩野七生著

【ローマ軍団】
ローマ市民・35に分かれた行政区に所属。17~60歳男子は所有資産に応じ五階級に分かれる(無産者除く)。現役(ユニオーレス=ジュニアの語源)=17~45歳。予備役(セニオーレス=シニアの語源)=46~60歳。[将官は年齢制限無し]
執政官[冬=自然休戦期に市民集会で二人選出され、将官も選挙される]~一人の執政官は二個軍団で、合わせて四軍団、将官は24人(内10人は27歳以上10年以上の経験者、残りの24人は23歳以上5年の軍歴が必要)。
24人の将官は獲得票数の多い順に初めの4人は第一軍団。、次の三人は第二軍団、その次の四人は第三軍団、その次の三人は第四軍団、残りの10人は年齢順に配属された。
執政官・将官の選出・配属決定の後、35行政区から抽選で次の年の軍役者を出す四つの区を決める。
軍務担当の四つの区の男子は全員集まり、四つの区ごとにまず4人ずつ前に進み出[年齢体格など同じように]順次四軍団(1.2.3.4.2.3.4.1.3.4の順に)に配属され定員まで続けられる。残ったものは予備役となる。
一個軍団の人数は、歩兵騎兵合わせて4500人前後・全部で18000~20000。
騎兵は最多資産階級で、一軍団あたり300騎。
紀元前225年の軍事力
ローマ市民兵[歩兵20800,騎兵1200=22000]、同盟国兵[歩兵30000,騎兵2000=32000]
シチリア等属州防衛(ローマ市民のみ)[歩兵8400,騎兵400]
ローマ市民・30800、同盟国32000、現役予備役の割合を二対一とするとローマ市民の現役数は20万、同盟国は60万。

執政官の近衛兵は同盟国から選出され、宿営地では近衛兵が執政官を護衛した。
ローマ軍の一日の行程は25キロ。
ローマ人は肉食人種ではなかった。主食はパンかお粥。
夜間歩哨勤務中に眠ると事実上の死刑[両側に並んだ全員が棒で殴る]
最も軽い戦闘中の罰は、食料が小麦の変わりに大麦(馬の飼料=馬並みってこと)。
次は、宿営茅野作の外に宿営した。
最も重い罰は、集団で軍規に反す(総司令官に従わない)ことで軍全体から十人に一人の割合で犠牲者が抽選され、代表で鞭打ちの後斬首であった。(自分自身同罪でありながら同僚を処刑する)[十分の一処刑]

軍務中は無報酬が建前だったが、紀元4世紀初め頃日給が支給される様になった。
一日・歩兵4アッシス、百人隊長8アッシス、騎兵12アッシス、当時奴隷でも一日12アッシス稼げた。
従軍兵士の食糧の配給[同盟国には無料配布、ローマ市民兵は給料から差し引いた]。
ローマ市民歩兵小麦6モディウス(54リットル)、ローマ市民騎兵小麦18モディウス(従者分含む)馬様に大麦63モディウス。

この当時のローマ連合動員可能戦力:75万人。
古代では、鐙(あぶみ)は発明されていなかった。簡単な鞍だけだった。
そうだとすると生まれた時から乗馬になれていないとうまくは乗れない。
従って騎兵は社会的地位が高く裕福な家の私邸に限られてくる。
鐙は11世紀になってようやく普及する。

『天才とは、その人だけに見える新事実を、見ることのできる人ではない。誰もが見ていながらも重要性に気付かなかった旧事実に、気付く人のことである』(塩野)

15年に渡る「ハンニバル戦争」で国土の半ばを荒らされ、10万人以上もの兵士を失い、10人もの執政官・司令官を戦死させているローマであったが、スキピオは講和の交渉をした。
ザマで壊滅的敗北を喫したカルタゴに対し、復讐的制裁を行わず、戦争は犯罪であると言わずそこにはただ勝者と敗者がいるだけで、正義・非正義と分けてはいない。
ハンニバルを殺しもしなかった。
ローマン人の伝統は、敗者さえも許容するところにある。敗者の絶滅は、ローマ人のやり方ではない。武装を解いた敗者に対しては自らも武装を解いた心で対する。

マケドニアのフィリップス五世の言葉「自由な社会のあり方を進めているローマでは、奴隷さえも社会の構成員だ。何かあると彼らにさえ市民権を与える。公職にさえ就かせる。立派なローマ市民だと思って対していると一代前は奴隷だったなどと言うことは始終だ。結果としてわれわれは地からわいてくるのかと思うほどにいつも新手のローマ人と相対さざるを得ないことになる。このやり方でかくも強大になったローマ人に誰が勝てるというのか」

紀元前753年に建国してから600年以上もの間ローマは敗者であろうとも地上から抹消するようなことは一度としてやらなかった。
前146年にはコリント、カルタゴ、スペインのヌマンツィアを消滅させた。
これに対し、塩野はコリント、スペインは「蛮行」と言えない、という。ギリシャ全土・スペインは秩序ある平和をもたらした。
しかしカルタゴの滅亡は、新たなる問題〈ヌミディア=源アルジェリア〉の強大化に歯止めをかけることの余地を閉ざしてしまった、と。

一世紀に渡る、カルタゴ-ローマの争いは、ローマの覇権確立で決着がついた。


2.『ローマ人の物語』[1]=ローマは一日にしてならず(文庫版)[上][下]塩野七生著

【エジプトのファラオ:王自らが神、
メソポタミア:神と人間たちの間を間をつなぐ・神官的色彩が強い、
ギリシャ:豪族の首領という感じ、
ローマの王:神の意味をあらわさない、共同体の意を体言しその共同体を率いていく存在、終身だが世襲でなく、選挙によって選ばれる。】

【1月Ianuarius語源ヤヌスの神
 2月Februarius清めると言う意味から、この季節家畜を殺す
 3月Martus軍神マルスに語源
 4月Aprilis花開くという意味から
 5月Maius旅と商いの神マーキュリーから
 6月Iuniusユピテル神の妻か若者に語源
 7月Iuliusカエサルの出生月を記念、カエサル暗殺(紀元前44以前)は(3月から数えて)第5月と呼ばれた
 8月Augustus初代皇帝アウグストゥスを記念して、それまでは第6月
 9月September第7月の意
 10月October第8月の意
 11月November第9月の意
 12月December第10月の意
 英語はラテン語を直接の母体にしていないが、ローマ文明の強い影響を受けている】

【多神教=ギリシャ・ローマ:人間の行いや倫理道徳をただす役割を神に求めない。神々は人間並みの欠点を持ち、道徳倫理の正し手ではない。
一神教=ユダヤ・キリスト
教:それこそが神の専売特許なのである。神は完全無欠で、人間を正すのが神の役割。
ユダヤ教から派生したキリスト教は、モーゼの十戒中の第一[わたしの他に何ものをも神としない]だけはユダヤ教に忠実だがその他の戒律は全て多神教を取り入れたようだ。②刻んだ像を造ってはならない、③神と主の名をみだりに唱えてはならない。
 ローマ人は、神は守り神であり、守護を求めた。
 愉快な例・ヴィリプラカ女神=夫婦喧嘩の神。
 キリスト教では、守護神とするわけにかいず守護聖人とした。
 ローマには選任の神官たちが存在しなかった。巫女を除けば、最高神祗官から祭司に至るまで市民集会の選挙で決まる。
 ローマでは、狂信的でない故に排他的でも閉鎖的でもなかった、異教徒・異端の概念にも無縁で、戦争はしたが宗教戦争はしなかった。】
 
【人間の行動原則の正し手を、
 ・宗教に求めたユダヤ人
 ・哲学に求めたギリシャ人
 ・法律に求めたローマ人】

 「ブルータスとは、綽名で、意味は阿呆」
 「新しい文明は、なぜか周辺から生まれる」
 「紀元前6世紀頃のローマは東京都の十分の一程度の広さ」
 「紀元前500年頃ギリシャには、150ものポリスがあった」

 貴族と言っても生まれながらの貴族を意味したのは最初の頃だけで、エリートの意味が普通になる。

 元老院(セナートゥス)=S・P・Q・R「元老院並びにローマ市民」の頭文字で現在でもローマ市の告示に使われ、マンホールのふたにも刻まれている。

 ローマ人は地中海を制覇した後でさえも平然とバイリンガーを続けた。  
 ローマ人は同盟国に対し、貢納金や年貢金のような形の納税を求めず兵力の提供(自費での武装)を求めた。
 
 ギリシャでは奴隷は一生奴隷であった。
 ローマでは主人がそれまでの奴隷に報いるとか、貯め込んだ金で自由を買うことができた。この奴隷を解放奴隷と言い、その子の代になると市民権を取得できた。
市民の二重国籍も認めた。
政府の要職や元老院の議席を平民にも開放することで常に新しい血と人材を供給することができた。

【2000年も昔の人記した歴史書=ローマ観の方がなぜすぐれているか?】
 ①ローマの興隆の因を精神的なものに求めない。
~興隆や衰退の要因を感性的なことに求めない。=興隆の因は作り上げたシステムにある。
 ②それらはキリスト教の普及以前に生きた人が書いた。キリスト教の倫理観価値観から自由でいられる。
 ③フランス革命の「自由・平等・博愛」の理念、価値観に縛られていない。
 ④問題意識の切実さにあった。~「あれほど高度な文明を築いたギリシャが衰退しなぜローマは興隆を続けるのか?」
・ローマ興隆の要因は=宗教~人間を律するよりも人間を守護する型の宗教のローマでは狂信的傾向が無くそれゆえ他の民族に対し対立関係よりも内包関係に進む=他の宗教を認めることは他の民族の存立を認めるということ。
・ローマ興隆の要因は=ローマ独自の政治システム。
・ローマ興隆の要因は=敗者でさえも自分たちと同化する生き方。
知力ではギリシャ人に劣り、体力ではケルト(ガリア)やゲルマン人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣っていたローマ人がこれらの民族に優れていた点は、彼らの持っていた《開放性》=宗教が異なろうと、人種が異なろうと人種や肌の色が違おうと同化してしまった。

“ローマ人の物語”第一巻。
第一巻は全体のエッセンスのような感じがする。[もちろんまだ全部は読んでないが]
《ひとまずの結び》が、また、簡潔でとても良い。



1.『さらに・おとな は が の もんだい』五味太郎

日本橋七福神など

2006年02月25日 | ウォーキング
2/25神田・日本橋一帯・日本橋七福神を歩く。
[メモをなくしたので、写真説明など間違っているかも知れない]

JR神田駅
家内喜稲荷神社=微笑ましい名前の神社、ビルの陰にひっそり。


福田稲荷神社・これも小さな神社


福徳神社・・これも小さな神社


常磐稲荷神社・これも小さな神社[江戸橋]


出世稲荷神社・小さい神社で、ビルの谷間・階段踊り場の下


小網神社・日本橋七福神①


日本橋図書館・幼稚園・小学校[表側=古いが趣がある・裏側]


大観音寺


茶の木神社・日本橋七福神②・小さな路地にある


水天宮・日本橋七福神③・写真左下屋根付き建物は水天宮交番


松島神社・日本橋七福神④・5、6階建てのビルになっていた


浜町神社・スーパー一階に社務所があった。


次に向かう途中に“明治座”があった。


笠間稲荷神社・日本橋七福神⑤


末広神社・日本橋七福神⑥・とてもわかりにくかった


橘稲荷神社・UFJ銀行の敷地内だった


三光稲荷神社


富澤稲荷神社


椙森神社・日本橋七福神⑦・白い壁屋根がきれいだった・境内は駐車場だった


池州神社


宝田恵比寿神社・日本橋七福神⑧[なぜか]


身延別院


大安楽寺・江戸伝馬町処刑場跡地とか


千代田神社


竹森神社


玉尾稲荷神社


薬研堀不動院・川崎大師東京別院


毫攝寺東京別院・場所がわからなかった・通りかかった郵便職員に聞いてわかった
一階はガレージ、二階に小さな仏像がみえた。


金山神社・地図には載っていない、毫攝寺東京別院のすぐ近くだった


今日歩いたところは、神田・日本橋・小伝馬町・人形町の一部で東西2キロ南北1.5キロほどの狭い場所。
道路も片側4車線もある大きな道や4車線の一方通行、高速道路と大型車は入れない小さな路地がたくさん走る。所々更地や民家もある。
土曜日。官庁街は休みで、車も人通りも少なかった。
工事や掃除・窓ガラス掃除の人たちがたくさん働いていた。
小さな神社が大きなビルに押しつぶされそうに立っている。
ビルを建てる時大変だったろうな。
所有者は誰であったのだろう。壊したり売ることはできなかったのだろう。
階段を上ったところにあったり、階段の踊り場の下にあったり、
あまりに小さな路地で地図でもわかりにくく、うっかりすると見落としそう。
でも、手を合わして通る人を何人かみた。
いずれもきれいに掃除されていた。
境内が駐車場になっていたり、ビルの一角になっていたり、
でも、地域に根付いているように感じた。

神社はたくさんあったが寺は少なかった。
寺は浅草・上野方面にあったのかも知れない。

ウィークデーは違った街の雰囲気なのだろうな。
江戸時代の下町の雰囲気は随所に感じられた。
メモを紛失したのでどこかわからないが“金座通り”という地名が今も残っていた。

隅田川を渡ると街の雰囲気はずいぶんと変わったかも知れない。
京橋・八丁堀もおもしろいかも知れない。

狭い所だがたくさん歩き楽しかった。
【メモをなくしたので写真と説明があっていないかも知れない】

白バラの祈り

2006年02月20日 | 映画
『白バラの祈り』サブタイトル~ゾフィー・ショル、最期の日々~
2005年第55回ベルリン国際映画祭にて最優秀監督賞、最優秀女優賞、エキュメニカル審査員賞を受賞。
佳作だ。


銀座『シャンテ・シネ』。見たのは2月9日水曜だった。
女性デーと言うこともあってか客席はほぼ満席(85%)だった。
行く前はアメリカ映画で英語だったら興ざめだなと思っていたが、ドイツ語のドイツ映画で良かった。

ほぼ二時間セリフが飛び交う。
印象的なこと二点。
・ゾフィー達の処刑の場面で、ギロチンの刃が落ち、その後、真っ黒な場面がかなり長い間30秒ほどの長い時が、2回か3回続いた。
とても重要なシーンと思った。
これほど長い時間無言で黒の画面を続けるのはとても勇気がいることだと思うが、それは映像や、文字や、音などの説明以上にとても効果的と、思えた。
・判決の法廷で傍聴者や看守の表情が最後にはゾフィー達の言動に好意的だったように感じた。
 取り調べの検事も最後には無言ではあったが、そのような態度に変わっていたと思う。

この映画に緊張感を持たせ、成功させたのは、大学構内で「反ナチ」のビラまき(というかビラの放置)前後から処刑までのわずかな時間(逮捕後一週間で死刑)だけを映像に納めたことだ。
それ以前の出来事、例えば彼女たちの生い立ちや家族関係、戦争の現状、ナチスの犯罪、戦争の悲惨さ、逮捕後の彼女の家族達・大学などについて、いっさいと言って良いほどふれない(説明しない)で、逮捕後一週間だけを映し出す。
もちろん彼女のロマンスや、他のセンチメンタリズムもない、余分なものは全て削いでいる。
一週間、取り立てての劇的出来事や事件は起きない。

彼女たちの行動はレジスタンスというにはあまりにもつたなく、幼い。
大学内でビラをまくにしても、周到に調査・準備したとも思えないし、逮捕後への対策なども十分注意したとは思えない、また事件が発覚した現場でビラ配布をすぐ認めて逮捕されてしまったり、と。
また、ナチス下の警察が言論だけの取り調べで拷問をしないなどの疑問も残る。

戦前ドイツ共産党は大きな力を持ち、ナチスと拮抗していたが、ナチスの国会放火事件の謀略などで次第に力を失いほぼ壊滅させられ、多くの国民もナチスに熱狂した。
しかし、この映画の背景・ゾフィーたちに行動を促した「ドイツのソ連侵攻の失敗=ドイツ兵の大量の死」など、ドイツ国民も次第にヒトラーナチスへの幻滅や疑問が浮かんできていた。そうした時代の雰囲気が法廷・検事・看守たちのゾフィー達を見る態度への微妙な変化に表れたと感じた。

映画の最後のシーン=連合国軍の飛行機が「白バラ団についてのビラ」を大量にまく。私にはこのシーンは蛇足に思われた。
それまでのシーンが暗く緊張の連続、最後だけは希望に満ちて明るく、って感じで安っぽく感じた。
暗い画面、無音で、ただ「ビラがまかれた」とコピーを入れる方が良かったと思う。
これまで「白バラ団」のことは知らなかった。
白バラ団が、ヒトラーが蜂起で失敗した地、ミュンヘンで活動したことは、歴史のめぐりあわせなのか。




与野七福神を歩く

2006年02月07日 | ウォーキング
2.7与野七福神を歩く

昨夜来から未明にかけて雪。
しかし昼過ぎには14度との予報で昼食後出かけた。
15分ほどで暖かくなった。

JR埼京線与野本町駅
①弘法尊院(二度栗山観音)[弁財天]



②鈴谷大堂[毘沙門天]


写真右下(本堂内)が毘沙門天像。


・鈴谷天神社(円福寺に向かう途中、七福神ではない)
写真右端、矢雲稲荷神社。


③円福寺(真言宗智山派北明山)[布袋尊]

写真右下隅に布袋尊
きれいなトイレがあり、助かった。

・上峰庚申堂(円乗寺に行く途中、七福神ではない)


④円乗院[大黒天]

多宝塔
ぼけ封じ観音
とても大きくきれいな寺であった。
その他「送り地蔵」「地蔵菩薩立つ像」(三つ地蔵)などがあった。
大黒天像は公開されていない。

⑤天祖神社[寿老神]~与野公園内。像はない。


・武州与野銭洗弁天(与野公園内にある小さいが古そう、七福神ではない)


・御獄神社(正円寺に行く途中、七福神ではない)


⑥正円寺[福禄寿](像はない)

ちょっと変わっていて、名札様(門柱にはただ福禄寿とあった)や説明がない。

⑦一山神社[恵比寿神](像はない)

大きな神社、宮司宅もある。
樹木が鬱蒼と茂り、昼間でも暗い。

与野七福神巡りは、2時間、地図・場所もわかりやすく、歩きとしては申し分ない。
ここだけではないが、本尊は公開されていない。
それは致し方ないことだが、残念だ。

2.2南与野を歩く

2006年02月02日 | ウォーキング
2.2南与野を歩く[1.9回れなかった所]

埼京線・南与野駅
・日蓮宗妙行寺

大きな寺である。

道路を挟んだ境内に大かやと金比羅堂[与野新八景]がある。


・永福寺[真言宗智山派辨龍山]


・身形神社

写真右は自生する〈セイコノヨシ〉。民家一軒ほどの広さで、鳥居の朱が際だっている。回りは商店や住宅。

・八雲神社[神田小前]

何の木だろう。

・慶福寺[真言宗智山派安養山]

不思議な空間、周囲はブロック塀で囲まれ、中はかなり広い芝生の庭だが、何体かの地蔵と石碑だあるだけ、つぶれた子どものサッカーボールがあった、後はない。
墓地は、少し離れて所にある。

・大久保神社

荒川の自然堤防の上にある大きな神社で、たくさんの神社[氷川大社、八幡大社、琴平社、白山社、稲荷など]があった。

・観音寺[浄土宗]
大久保神社のすぐ近くにある、大きな寺であった。
茅葺きの古い堂があった。


・阿弥陀堂

農道のような路地にあった。
小さな寺であったが、屋外に便所があり助かった。

・東福寺

住職のいない、小さな寺で、JAの路地を入ったところにあった。

・大泉院[曹洞宗]


大きな寺で、門をくぐると、檀家から贈られた禅問答をする僧の像があった。

妙行寺、観音寺、大泉院、いずれもとても大きな寺で、住職と思われる住居が本堂より大きい、感じであった。
大泉院は、通りの名前にもなっている。
大きい寺・小さい寺、その違いはどのようにしてそうなったのだろう。
有力な檀家が居たり、有力者が建立したものは大きいのは理解できるが、
そうでは無いところでの差はどこから生じるのだろう。
宗派は関係して居ないように感じるがどうなのだろう。
神社も同様だ。

埼京線からかなり離れた所だが、畑はほとんど無い、住宅は広いが豪華という感じはしないものが多い。
埼京線ができる前は、ほとんど田畑だったのだろうな。

天気予報では暖かい、と言うことだったので出かけたが、
日は射さず、冷たい風が吹いていた。
でも、歩きにはちょうど良い、と言う感じであった。