風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

浦和~北浦和を歩く

2006年01月29日 | ウォーキング
1月29日、浦和東側を歩いた。
寒い日が続いていたが、温かさに誘われ、JR浦和東口~北浦和を3時間歩いた。

・浦和本太の山神神社

住宅地にある小さい神社だが、木が鬱蒼と茂り、古い神社だった。

・本太氷川神社
立派な社務所のある大きな神社だった。


・真宗大谷派東本願寺浄土真宗一心寺

産業道路、駒場運動公園前にある。

・蓮昌寺

大きな寺である。駒場公園に隣接している。
本堂は小さいが、斎場は大きい。
写真左は親鸞像。
次の写真は、妙縁之塔、で、家族一族でなく個人の永大供養の個人墓、と言う。


・八雲神社


・日蓮宗顕昌寺

普通の民家様であった。

・天台宗元町薬師堂

北浦和駅の近く、住職はいない。境内でおむすびを食べた。

・浄土宗廓信寺

北浦和東口前の平和通りを与野に向かって歩くとあった。

・三嶋神社

神社は小さいが、境内は広い、写真右端の建物は集会所になっていてカラオケをやっていた。
木崎中学校の真ん前にある。

・天台宗青柳山普光院東泉寺

三嶋神社に隣接する。
本堂裏に大きな斎場があった。

・神明神社

小さな神社だ。親子が子ども自転車に乗って遊んでいた。

・天台宗明圓寺

かなり大きな寺なのに地図には載っていなかった。次の円満院に向かう途中にあった。

・円満院阿弥陀堂

おもしろい形をしている。墓はない。
道路を挟んで木崎小、産業道路だ。

古い街だと思うのだが意外に寺社は少なかった。
市立・県立の高校がいくつかあったが、いずれも校庭が広すぎるほど広い。
幼稚園を経営している大きな寺がいくつかあった。
畑はなく、ほとんど住宅街である。
ここから少し離れると畑になるのだろうか。

地図上の道路の幅と、実際のそれとがかなり違っていて、戸惑った。
寒い日が続いて運動不足だったので、久しぶりに歩いて気分が良かった。
でも少し疲れたので、計画より少な目で止めた。

2006年1月読書ノート

2006年01月24日 | 読書ノート
4.お金の思い出~石坂啓 
沖浦さんの重いテーマだったので軽い読み物にした。
石坂さんが大学を卒業し、手塚プロにアシスタントとして入社し、「一流」と言われ始める頃までのお金にまつわる=つまり貧乏暮らしについての断片的エッセイ集。
金持ちだった実家の会社が倒産し、一家で夜逃げし、本当に貧しい生活だったらしい。普通こういう話は成功談=つまり実家や、初めは貧乏だったけどくじけず頑張った、今日の成功は“私のガンバリ”みたいな自慢話が多いのだが、石坂さんの文章は、さらりとしていて、そんなことをみじんも感じさせない。
手塚プロがアシスタントを安くこき使う漫画制作会社ではなく、かなりの高給を払っていたことは「へぇ~」と言う感じがした。

3.瀬戸内の民族誌~沖浦和光 [岩波新書]
瀬戸内は古来から日本の大動脈であった。
しかし、海の民は身分制社会の底辺であり、「板子一枚下は地獄」という過酷な労働を強いられた。
今は、消えた「家船」[=船を家とし、漁業権を持たない、戸籍を持たない零細被差別漂流民]、「おちょろ船」[=ちょろ押し船=小舟で春をひさぐ人]の風俗を伝える。
・675年〈殺生禁断〉令が布告された。仏教の五戒第一律の「不殺生戒」にもとづくもので牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食することを4月から9月間禁じた。この禁止令が後代における「穢れ観念」による狩猟民・漁民差別の一つの端緒となった。
禁じられたと言うことは、これらを日常的に食していたと言うことだ。

【メモ】「ワタツミ神」~ワタ=海、ツ=助詞、ミ=霊。
【メモ】「一向」~ひたすら・純粋のこと、「一向専修(せんじゅ)」=ひたすらナミアミダブツを唱えて阿弥陀仏の大慈悲にすがり救われることを意味した。
16世紀には、商人、職人、海陸運送人、卑賤視されていた山の民・海の民・などにどんどん広がっていった。

竹の民[その一部は、サンカ・被差別民]、海の民[その一部は家船]は社会・生産の重要な位置を占めたが、律令制度下農本主義の非農民ということで、戸籍を持たず視され、差別を受けた。
いずれも文字を持たなかった。
その存在を示す資料はとても少ないという。
サンカ・零細漁民は次第に、陸上がり、定着するようになるが、その場所は被差別の近くで、だが、被差別部

落民からもその下とされ差別されたという。
明治以降は戸籍を持つことが強制され次第に歴史から消えていく。
30年前から沖浦さんはこの問題を取り上げているが、沖浦さんの本は図書館にはほとんど無い。
無くなった網野善彦さんは民衆の視点から中世史をとらえ返し風穴を開けたが、沖浦=網野のもっと論争があればよかったのにな~とつくづく思う。


2.竹の民俗誌~沖浦和光 [岩波新書]
竹は日本人に身近な植物で、日常生活品もたくさんある。
竹は南アジア・マレー半島周辺に自生したらしい。
竹の日本上陸は、そうした海洋民族の日本への渡来を示している。
しかし、竹を生活用具にしたのは、農民ではなく、土地無き被差別民であった。
または、河川や山に分け入るサンカと言われる漂白民であった。
沖浦の竹取物語の解釈はおもしろい。時の権力者の天皇一族に破れた隼人系=海洋系の人々の伝承という。
【メモ】
アニミズムと竹の霊力
・竹は三ヶ月で成竹となる、その異常な生長力
・竹の空洞の霊的空間~籠もると言う呪術的意味
・永世的生命力~一本の竹の15~20年だが、地下茎が次々と伸びて若竹を生育させ竹林全体としては途切れることなく続く。
・神秘的一斉開花~20年周期で開花するという。開花の理由はまだよく分からないらしい。花が咲いたからと行って種子ができる訳ではなく、地下茎で世代交代していく。
・竹林の強靱な地盤と神業的葉変わり~落葉期と新緑期がうまく重なり端境期が無く、常緑である。春先の紅葉を竹の秋と呼ぶ、竹の春は秋の季語。
・竹の精力~いろいろな薬用成分が含まれていて、漢方薬・精力剤として用いられてきた。葉芽には殺菌力がある。

〇ヒンドゥー教では全てのモノを浄穢の観念で価値・序列づけた。それをヒトの世界に適用したのがカースト制だ。

1.けったいなアメリカ人~米谷(こめたに)ふみ子

アメリカのユダヤ人脚本家[ジョシュ・グリーンフェルドで映画『ハリーとトント』などを書く]と結婚した米谷さんのアメリカの作家、映画監督、役者たちとの交友録、というより彼らの世界のエッセイ。
マッカーシズムでのエリア・カザンをめぐる『華やかなハリウッドで起こった大論争』、『ゴッドファーザー』脚本のマリオ・プーゾは興味深い。
だが、文章がなぜか翻訳調で読みにくい。

パッチギ

2006年01月18日 | 映画
1/17『パッチギ!』を見た。有楽町シネキャノン。

諸賞受賞記念と言うことでチケットは1000円。観客数は、15:50からといえ15名。

第79回キネマ旬報ベスト・テンで、▽日本映画ベスト・ワン「パッチギ!」▽監督賞 井筒和幸「パッチギ!」▽新人女優賞 沢尻エリカ「パッチギ!」などを受賞。
映画はおもしろかった。
しかしケンカが嘘っぽい。
映画にはリアリズムだけ求めはしないが、ブロック・鉄下駄・金属バットで殴り合ったら死んでしまうし、ひん死と思われる大けがをしても、次の画面では、絆創膏だけで登場、では興ざめ。
1960年代後半[この映画の時代]は、世界が大きく変動していた。
ベトナム反戦、パリ5月革命、中国プロ文革、そして朝鮮南北統一。
特に、朝鮮問題は日本人のありようを問うていた。
南北とも軍事独裁体制であったが、北朝鮮・共和国は世界の“悪”=アメリカと戦っている。他方韓国はそのアメリカのいわば属国、ということで、共和国の方に歩があり、“希望”の国であった。
在日朝鮮人は祖国共和国への財政支援と将来の帰国を夢みていた。
在日の人々も総連、民団と分裂・対立していたが、双方とも日々失われかねない在日3世・4世のアイデンティティ確立のために民族教育に熱心であった。

しかし、日本の右翼・保守(自民党)は、台湾・韓国派であって、共和国はいわば「敵」であり、ことあるごとに抑圧した。
東京でも、医学部ができる前の帝京高校は、とても評判の悪い高校で、近くにある朝鮮高校生徒への暴力事件を起こしていた。
帝京側が初めは悪いのだが、朝高も自己防衛を始め、暴力事件が日常化していく。
ケンカ両成敗と言うことにはならない。
なぜって、警察は日本人の見方だし、マスコミも正しくは報道しない。
いつしか、朝高は怖いというイメージが作られていった。
「イムジン河」の歌が放送禁止になる時代であった。
フォーク・クルセダーズのこの哀愁を帯びた歌は、当時多くの人に口ずさまれた。

時代は変わったと言うが、果たしてそう、いえるか?
北朝鮮の拉致事件が明らかになった時、在日朝鮮女子学生のチマチョゴリが切られ、汚された。

私が、一番印象に残ったのは、三人の朝鮮悪高校生の一人が日本人の暴力で殺され(直接の死因は交通事故だが)棺が彼の家に運ばれるシーンだ。
横のままの棺では、軒先がくぐらない。
縦にして軒先をくぐると、今度は入り口が狭くて棺が入らない。
掛け矢でドアを壊して入る。
このシーンには在日のそうした貧しい家に住まざるを得なかったこと、その悲しみ、それを強制した日本と日本社会への怒りへの象徴的表現、と私は思った。

下ネタはかまわないが、多すぎるとかえって興ざめになる。
セックスシーンも一カ所あったが、パンツ・オッパイなど見せる必要は全くない。

タイトルの“パッチギ”とは、「突き破る、乗り越える」という意味を持つハングル語で、「頭突き」の意味でもあるそうだ。
看護婦が主人公の彼女の出産の時、ケンカ中の彼を呼びに行く時に見せる華麗で、すごい“飛び蹴り”も“パッチギ”と言うのだろうか。
オダギリジョー、ハウンド・ドッグの大友康平、光 石研、笹野高司、余貴美子、前田吟、ぼんちなどお馴染みの顔が顔を出している。

崔洋一監督『血と骨』も在日を扱ったが、両方とも暴力シーンが激しく、これがかえって映画のシツを落としていると私は思うのだが、私としては『パッチギ』の方を押す。
『血と骨』の冒頭・最後のシーンは『ギャング・オブ・ニューヨーク』のパクリそのものだし、『血と骨』には何よりユーモアがない。
『パッチギ』の最後=後日談は必要なかった。
一人は朝鮮大学校に通学するが、一人は良きパパ、日本人の主人公は実家の坊さんをを継ぎ朝鮮人の彼女と恋人様、の映像は必要ない。
それがかつての日本の全共闘世代の今日の実像だとしても。
彼らのその後は、観客の創造力に任せた方が良い。

蛇足だが、女主人公・キョンジャの沢尻エリカが初々しくかわいい。


〇【男たちの大和】を昨年末見た。
試写券をもらったので見た。
映画としてはおもしろいが、全てが薄っぺらで、こんなモンだろうなと言う予想通りであった。
全編CGが多用されすぎで、映像に迫力=奥行きが無く、実物大で作ったと言われる大和もボール紙みたいな感じ。
ストーリーはありふれている。
息子を亡くした貧農の母親に、生き残った若者が戦士の報告に行く。
母親は「あなただけ生き残って」と彼を責める。
このセリフはリアリティなのだろうか。
私は、嘘っぽいな、と感じた。
違うセリフ、映像があったのではないか。



南与野を歩く

2006年01月09日 | ウォーキング
南与野~浦和 を歩く
2006年1月9日
埼京線南与野から与野・北浦和・浦和へと歩いた。
北日本では大雪寒波だが、風無く、暖かかった。

・大聖(日向)不動尊


・吉峰神社~民家の入り口みたいな小さな路地にあり、なかなか分からなかった。


・東神社[稲荷、御嶽、吉峰、八重垣神社もある]親子がひなたぼっこしていた。


・重圓寺


・大久保氷川神社[再建立された]


・瑞光山常楽寺

 
・布袋尊圓福寺[大きな寺であった]
 
 “おそうじ小僧”がかわいらしかった。
 

・さいたま芸術劇場


・天神社


・落合霊園東光寺


・下落合不動尊[地図に載っていなかった]


・中里大日堂[地図に載っていなかった]


・中里稲荷神社[中里大日堂の隣にある、間にブロック塀があった。地図に載っていなかった]


・二度栗山大師[大きな寺で、弁財天、出世開運稲荷などもあり、成人式を迎えた親子が弁財天前で写真を撮っていた]


・成就院


・仲宿弁財天[浦和駅近く、周囲は高層マンション、目前は京浜東北線線路]


南与野駅は初めて降りた。
首都高速大宮線・大宮バイパスは東と西を完全に隔て、コニュニティを分断してしまう。
100メートル行くのにとてつもなく大回りをしなければならない。
信号は少ないし、横断信号はなかなか青にならず、すぐ赤になってしまう。
歩道橋は急階段で、自転車を押して昇るのは大変だ。
老人、障害者は大変だ。

埼京線沿線は、家がどんどん建っている感じだ。
昔は田圃だった。今は、田圃、畑はない。
農業用水の名残か、水路が走るが、悪臭は放っていないが、生活用水が流されている感じだ。
道路整備は進んでいない。狭く、曲がりくねって入り組んでいる。

気になったのは家屋の貧富の差だ。

3時間良く歩いた、でも疲れはなく、気持ちよかった。

東浦和を歩く

2006年01月03日 | ウォーキング
東浦和を歩く
2006/1/3
正月早々歩いた。
家を出た時は暖かかった。
正午過ぎには風が冷たくなった。
歩いていると寒くはなかった。
でも、こんな日に“ウォーキング”はヤッパ変か。
車はたくさん走るが、人は歩いていない。

JR武蔵野線東浦和駅の北側をまず歩き→次に南側・→木曽呂→122号石神と歩いた。
子どもが小さい時は、何度も自転車で来たところだ。
歩いて見ると風景・印象は昔とは違っていた。
歩いた道は、旧道だった、んだろうな。
街道沿いにたくさんの神社があった。

・大間木氷川神社[広い境内であった]


・清泰寺[武田信玄の娘・見性院=家康の家来穴山梅雪の妻の墓がある]


・浅間神社[小さい]


・大牧氷川女体神社本殿


・附島氷川女体神社

「女体神社」は、なじみのない言葉であった。
二つ続いた。どんな意味があるのだろう。

・稲荷神社


・大聖不動尊


・鈴木家住宅[県議員宅]


・水神社

きれいな神社だった。
見沼用水の‘水’なのだろうか。
昔は、水が足りなくて困ったのだろうか。
水神社は初めて目にする。

・稲荷神社


・医王山薬王寺

落ち着いて、味わいある情景だった。

・阿弥陀堂


・首無し・手無し地蔵

吉峰神社は、行きは、分からず素通りであった。
帰路、吉峰神社かなと向かう途中、住宅地の真ん中に、この地蔵がひっそりと、でも、皆に祀られているな、って感じで、立っていた。
吉峰神社は、ここから10m位の所にあった。
1メートルくらいの笹藪の道の上にひっそりあった。
・吉峰神社


・妙延寺女郎仏

近所では、とても有名らしい。
きれいな建物、でも寺と言うより社、なのに‘仏’とは。

・二宮神社


・真言宗智山派真乗院〈神根中学校近く〉

とても広い。

・村社稲荷神社

白い犬が迎えてくれた。とてもおとなしく、狛犬みたいな感じだった。

・見沼通船堀の公園の竹林


真乗院から村社稲荷神社に抜けるのは大変であった。
間に、高速道路のインターチェンジがあったから。
抜けるのに10分はかかった感じ。
道路優先で、おそらく昔のコニュニティは完全に分断されたのだろうな。

東浦和駅での昼食はちょっと早かったので歩いたらそれからは全く食事所がない。
仕方なく、高速脇の「吉野屋」で‘すき鍋定食’を食した。
正月早々、寒い中、たくさん歩いた。15キロ位か。
これってかなりヤバイかな。
[でも、私には、運動不足だったので、よかった。]