1/6(土)~19(金)アジア映画の輝きVol. 2
映画を通してアジアを見る
3回目/池袋・新文芸座 2007/1/13
『ディア・ピョンヤン』
ベルリン国際映画祭・最優秀アジア映画賞受賞/サンダンス映画祭・審査員特別賞受賞/山形国際ドキュメンタリー映画祭・特別賞受賞/第10回 韓国・プサン国際映画祭正式出品/2005年/日本/カラー/デジタルベーカム/107分/
撮影・脚本・監督:梁英姫(ヤンヨンヒ)
見たいと思っていた映画だ。
ヤン・ヨンヒさんは大日2世の映像作家。
朝鮮総連幹部の父母、そして、ピョンヤンで暮らす3人の兄とその妻子など、家族を10年に渡って撮り続けたドキュメンタリー。
総連幹部と言うことで北・ピョンヤンにかなり自由に出入りできるらしい。
父と娘の掛け合い漫才のようなおしゃべり(インタビュー)にさすがの「気取りの文芸座」にもかすかな笑いが生ずる。
ピョンヤンの兄たち家族は霜焼けができるほど厳しいというが、
室内も衣服も食事も立派で立派なピアノまである、どんな仕事をし、どんな生活実態なのか、は画面からは伝わってこない。
ピアノ演奏など長すぎて嫌みだった。
団らん撮影中に停電したのに平然といていたのは日常的なのだろうか。
最後になって、父親は軟化するがそれは年のせいだけではなく、昨今の情勢の変化が大きいのだと思う。
小型カメラしかもかなりの広角レンズでの撮影なのか建物などが円形になるのは惜しかった。
頑固な活動家の父親をここまで解放的にさせたのは、
両親のキャラ、末っ子で兄弟とは歳がうんとはなれ、唯一の娘という親子関係、
と思うのだが、ヤンさんの力も大きいと思う。
父親は総連幹部とだけ言うが、仕事や家計などは紹介されないが、かなり裕福と思われる。
そこいら当たりもさりげなく紹介し、ピョンヤン訪問などはもっとさりげなくし、
よりテンポある映像にしたらもっと良かったな、と思った。
重たいテーマをユーモア・笑いの中で描けたのはヤンさんの力なのだろうな。
また、母親の力かもしれないと思った。
『送還日記』
サンダンス映画祭表現の自由賞、キム・ドンウォン(金東元)監督
貴重な作品だ。だが映像がきたなく荒いのが残念だ。
映画としての評価は難しい。
例えば、この非転向政治犯が拉致工作員、破壊活動、暗殺スパイを任務とする人だとしたらどうなのだろう。
南からも同じように破壊工作員・スパイが北に潜入した。
だから、戦時下なのだから全てが許される、と言えるのだろうか。
あるいは、そうした「犯罪者」が刑を受けるのは仕方ないことなのだろうか、
当然なことなのだろうか。
朝鮮戦争以来北朝鮮とアメリカは戦争状態にある、
アメリカは犯罪集団どころではなくテロ国家としてベトナム・アフガニスタン・イラン・南米・アフリカと全世界で戦争と破壊をしている、
だからといって今日北朝鮮の拉致や覚醒剤が容認されるものではないだろう。
7.4南北共同声明以来紆余曲折はあるものの、何度が南北の対話・交流・統一が現実的になるかもしれないという時代はあった。
この映画の背景、映画を作った人々は、そうした時代、そう北から南下してきた労働党の地下・支部としてではなく、韓国内部で韓国軍事独裁政権への自主的抵抗民主祖国統一派として歴史に登場してきた人々=この映画にも登場していた徐京植(ソキョンシク)・徐勝(ソスン)さんや日本での「在日韓国民主統一連合」(総連系も入っているが)などではないだろうか。
韓国がアメリカの傀儡的で軍事独裁から民主的国家になったのはそんなに古くはなくつい最近のことだ。
非人道的なのは何も北だけでなく、南もアメリカも同様であった。
金日正のチェッチェ思想=主体思想は確かに歴史的意味があった。
つまり、それは、日本に帝国主義支配を受け、民族のアイデンティティを喪失しつつある時、アメリカ・ソ連・中国に囲まれた小国北朝鮮が自分の独自性を発揮するには主体的・独自的であることが何より問われた。
だが、ソ連・中国の狭間でその独自性主体性を発揮することは至難ではなかった。
活動実績のない金日成を革命英雄に作り上げ、その元に団結することは北にとって生き残りのための重要な政策だったのだろう。
主体思想はマルクス主義とも共産主義とも全く関係ない思想ではある。
さらに38度線で分断されたのは、日本の影響=つまり38度線の北は旧満州国軍の支配、南は日本軍の支配されていたことに依るという。
朝鮮半島の抱える難しさは、つまるところ韓国・北朝鮮の自己責任と言うより、
アメリカ・ソ連・日本・中国といった帝国主義・強大な社会主義の世界レジュームが押しつけたものだ、言える。
韓国と韓国社会がこうした映画をかなり自由に作ることができる社会になったと言うことなのだろう。
非転向政治犯がその生き方・考えを変えなかった一つは、
敵・攻撃する側の非人間性のあまりのひどさにあった、
つまりあまりの非人間性に拮抗する人の人間性はより豊かに広くなるのではないか、との監督のコメントは印象に残った。
そうかもしれない、と思った。
マインドコイントロールや狂信性や思想性にその根拠を求めることも出来るかもしれないが、弾圧があまりに非人間的残虐性を帯びる時、人としての良心・誇りがそれにうち勝つことが出来るかもしれない、との言い方はとても優しい。
だが、今の北朝鮮の現状を希望としては語ることは出来ない。
果たして、北は、南は、変わることが出来るのだろうか。
日本は、世界は憲法九条を必要としない社会を築くことが出来るのであろうか。
上映時間148分は何とも長すぎる。
必要ないと思われるシーン、長すぎるシーンも多々あった。
もっとテンポある編集の方が良いと思った。
本日の2本は見ていても大変疲れた。
現実はもっと重くつらいのだが。
「アジア映画の輝きⅡ」は19日まで、モンゴル映画も見たいが日程的に無理だろう。
考える映画も良いが、楽しく笑えるだけの映画も見たくなる。
映画を通してアジアを見る
3回目/池袋・新文芸座 2007/1/13
『ディア・ピョンヤン』
ベルリン国際映画祭・最優秀アジア映画賞受賞/サンダンス映画祭・審査員特別賞受賞/山形国際ドキュメンタリー映画祭・特別賞受賞/第10回 韓国・プサン国際映画祭正式出品/2005年/日本/カラー/デジタルベーカム/107分/
撮影・脚本・監督:梁英姫(ヤンヨンヒ)
見たいと思っていた映画だ。
ヤン・ヨンヒさんは大日2世の映像作家。
朝鮮総連幹部の父母、そして、ピョンヤンで暮らす3人の兄とその妻子など、家族を10年に渡って撮り続けたドキュメンタリー。
総連幹部と言うことで北・ピョンヤンにかなり自由に出入りできるらしい。
父と娘の掛け合い漫才のようなおしゃべり(インタビュー)にさすがの「気取りの文芸座」にもかすかな笑いが生ずる。
ピョンヤンの兄たち家族は霜焼けができるほど厳しいというが、
室内も衣服も食事も立派で立派なピアノまである、どんな仕事をし、どんな生活実態なのか、は画面からは伝わってこない。
ピアノ演奏など長すぎて嫌みだった。
団らん撮影中に停電したのに平然といていたのは日常的なのだろうか。
最後になって、父親は軟化するがそれは年のせいだけではなく、昨今の情勢の変化が大きいのだと思う。
小型カメラしかもかなりの広角レンズでの撮影なのか建物などが円形になるのは惜しかった。
頑固な活動家の父親をここまで解放的にさせたのは、
両親のキャラ、末っ子で兄弟とは歳がうんとはなれ、唯一の娘という親子関係、
と思うのだが、ヤンさんの力も大きいと思う。
父親は総連幹部とだけ言うが、仕事や家計などは紹介されないが、かなり裕福と思われる。
そこいら当たりもさりげなく紹介し、ピョンヤン訪問などはもっとさりげなくし、
よりテンポある映像にしたらもっと良かったな、と思った。
重たいテーマをユーモア・笑いの中で描けたのはヤンさんの力なのだろうな。
また、母親の力かもしれないと思った。
『送還日記』
サンダンス映画祭表現の自由賞、キム・ドンウォン(金東元)監督
貴重な作品だ。だが映像がきたなく荒いのが残念だ。
映画としての評価は難しい。
例えば、この非転向政治犯が拉致工作員、破壊活動、暗殺スパイを任務とする人だとしたらどうなのだろう。
南からも同じように破壊工作員・スパイが北に潜入した。
だから、戦時下なのだから全てが許される、と言えるのだろうか。
あるいは、そうした「犯罪者」が刑を受けるのは仕方ないことなのだろうか、
当然なことなのだろうか。
朝鮮戦争以来北朝鮮とアメリカは戦争状態にある、
アメリカは犯罪集団どころではなくテロ国家としてベトナム・アフガニスタン・イラン・南米・アフリカと全世界で戦争と破壊をしている、
だからといって今日北朝鮮の拉致や覚醒剤が容認されるものではないだろう。
7.4南北共同声明以来紆余曲折はあるものの、何度が南北の対話・交流・統一が現実的になるかもしれないという時代はあった。
この映画の背景、映画を作った人々は、そうした時代、そう北から南下してきた労働党の地下・支部としてではなく、韓国内部で韓国軍事独裁政権への自主的抵抗民主祖国統一派として歴史に登場してきた人々=この映画にも登場していた徐京植(ソキョンシク)・徐勝(ソスン)さんや日本での「在日韓国民主統一連合」(総連系も入っているが)などではないだろうか。
韓国がアメリカの傀儡的で軍事独裁から民主的国家になったのはそんなに古くはなくつい最近のことだ。
非人道的なのは何も北だけでなく、南もアメリカも同様であった。
金日正のチェッチェ思想=主体思想は確かに歴史的意味があった。
つまり、それは、日本に帝国主義支配を受け、民族のアイデンティティを喪失しつつある時、アメリカ・ソ連・中国に囲まれた小国北朝鮮が自分の独自性を発揮するには主体的・独自的であることが何より問われた。
だが、ソ連・中国の狭間でその独自性主体性を発揮することは至難ではなかった。
活動実績のない金日成を革命英雄に作り上げ、その元に団結することは北にとって生き残りのための重要な政策だったのだろう。
主体思想はマルクス主義とも共産主義とも全く関係ない思想ではある。
さらに38度線で分断されたのは、日本の影響=つまり38度線の北は旧満州国軍の支配、南は日本軍の支配されていたことに依るという。
朝鮮半島の抱える難しさは、つまるところ韓国・北朝鮮の自己責任と言うより、
アメリカ・ソ連・日本・中国といった帝国主義・強大な社会主義の世界レジュームが押しつけたものだ、言える。
韓国と韓国社会がこうした映画をかなり自由に作ることができる社会になったと言うことなのだろう。
非転向政治犯がその生き方・考えを変えなかった一つは、
敵・攻撃する側の非人間性のあまりのひどさにあった、
つまりあまりの非人間性に拮抗する人の人間性はより豊かに広くなるのではないか、との監督のコメントは印象に残った。
そうかもしれない、と思った。
マインドコイントロールや狂信性や思想性にその根拠を求めることも出来るかもしれないが、弾圧があまりに非人間的残虐性を帯びる時、人としての良心・誇りがそれにうち勝つことが出来るかもしれない、との言い方はとても優しい。
だが、今の北朝鮮の現状を希望としては語ることは出来ない。
果たして、北は、南は、変わることが出来るのだろうか。
日本は、世界は憲法九条を必要としない社会を築くことが出来るのであろうか。
上映時間148分は何とも長すぎる。
必要ないと思われるシーン、長すぎるシーンも多々あった。
もっとテンポある編集の方が良いと思った。
本日の2本は見ていても大変疲れた。
現実はもっと重くつらいのだが。
「アジア映画の輝きⅡ」は19日まで、モンゴル映画も見たいが日程的に無理だろう。
考える映画も良いが、楽しく笑えるだけの映画も見たくなる。