風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

79回ピースボート、出発

2013年08月31日 | 79回ピースボート
第79回ピースボートについて、現地からブログを発信して来ましたが、時間の制約があって、ごく短くしか作成出来ませんでした。
7月12日帰国し、時間の余裕がありますので、詳しく記そうと思っています。
このブログは、2013年7月15日に作成しました。最終のブログが完成したのが8月31日でした。
そこで、読みやすくするために、順番を入れ替えましたので、日付を変更しました。

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4月1日
第79回ピースボートの航路

横浜を出て、西に進みます。赤道より南には行きません。

妻が、横浜港まで見送りに来てくれました。
8時過ぎ家を出て、赤羽駅で赤羽始発電車に乗り換え、座って行きました。
10時頃関内に着き、タクシーで大桟橋に向かいました。タクシー代は710円でした。
10時半集合でしたが、ちょっと前に着き、全く並ばず受付しました。
出国手続きは10秒で終わりました。
部屋に入ると荷物が部屋の中に届いていました。

 
荷ほどきをしているとランチの時間になりました。

12時半、甲板に出て妻の見送りを受けました。
 
13時定刻通り、何の前触れも無く、船が滑り出しました。
 
船は船首を前に停留しているので、タグボートが後ろ横に引っ張り少しずつ岸壁を離れました。
 


14時半からオリエンテーションがありました。乗客は850人ほどだそうです。
若者が三分の一、後は高齢者といった感じで、70代・80代も多く揶揄を込めてさしずめ船上老人ホームという感じの印象でした。
その後、船内の案内があり、参加しました。
5時半から夕食でした。
夕飯は、午後5時半からと7時半からの二部制でした。私は早い組でしたが、遅い組に変えてもらいました。

レッドワインを2杯いただきました。一杯300円でサービス料が15%で、345円でした。
席は、自由に選べず、入場順に案内されます。後にこれに私は悩まされました。
相席になった人々が良いときもあれば、とても不快な人と相席になったときは最悪だからです。
年寄り4人、若者4人の8人のテーブルに案内されました

さて、部屋の広さは、約3m×5mで、うち3×3mがベッドルームスペース、2m×3mの所に、タンスと洗面所があります。
バスタブはありませんが、私は困りませんし、十分なスペースがありましたが、カーテンの巾が狭いです。
  
タンスの中に、セキュリティボックス(右写真左下)があるのですが、ボックスが固定されていないのでボックスごと運び出すことが出来るのです。
そのことを、レセプションに文句を言いに行くと、「24時間モニターで監視しているから大丈夫です」との返事に、
私は、呆然として、二の句が告げずすごすごと引き下がるのみでした。
もっとも、ホテルの「セキュリティボックス」も決して安全では無く、もし無くなっても客の自己責任です。
今回、私は、大型段ボール3箱と大型スーツケース一つを宅急便で送り、
その他に小さいスーケース一つと小さいリュックサックにパソコンを入れて自分で運びました。
かなりたくさんの荷物となりました。
船旅は、どんなに荷物が増えても、宅配便で送れるので良いです。
私は、一人部屋ですから部屋もタンスも一人締めですが、四人部屋ですと足の踏み場も無いことでしょう。
多くの人は洗濯物も室内の干します。窓も無い部屋もあります。
多くの人が、「まるで牢屋だ」と言っていました。
夕食後、9時から「出航記念パーティ」がありました。
赤ワインを一杯飲みました。
英語の先生や、通訳の人とお話ししました。しかし誰だったかは思い出せません。
10時過ぎに部屋に戻り、眠りにつきました。
1時過ぎトイレに起き、朝6時に目が覚めました。
ベッドが少し柔らかすぎるのと、船はやはり揺れるので、必ず夜数回目が覚めました。

4月2日
朝食は、4階レストランが日本食、9階リドデッキが洋食です。
両方ともバッフェスタイルです。食べ物の種類は豪華とは言えませんが、野菜・果物たっぷりで十分です。
4階には、チーズが無いので、私はまず9階でチーズとヨーグルトと小さいパン一切れを食べ、
その後4階の食堂で、日本食を頂きました。ホットミルクが無いは不満でした。
提供される日本茶は全くおいしくないので、持参したマイマグカップと緑茶のティーバッグで飲みました。
10:00~11:00 避難訓練
 
14:30~15:00 ウイルス注意のパソコン説明会、一番怖いのはウイルスに感染したUSBやSDカードの貸し借りです。
17:00~17:30 船長主催のウエルカムパーティ

19:20~20:30 夕食


午後ジムでダンベルを使って上半身の筋トレをしました。
ジムは、とても狭くウォーキングマシン1台と数台のマシンとベンチが二つあるだけでした。
ダンベルは、種類が少なく、ポンド表示でした。昼過ぎから大雨にあり、狭いジムは満員でした。
パソコン説明会の後、甲板でウォーキングをしました。
10階甲板が運動スペースになっているのですが、とても狭いです。
回周できるのですが、階段を上り下りすると1周250mほどでは無いでしょうか。
以降私は、ウォーキングはマシンを使わず甲板を歩きました。
強い風が吹く日が多く、日差しが強い日も寒い日もありましたが、雲や空や波を見ながら歩く方が楽しかったからです。
イルカやトビウオなども見ることがありました。
ウエルカムパーティでは、多くの人が着飾っていました。私は、普段着でした。
シャンパン(発泡ワイン)は2杯いただきました。
夕食のテーブルで香港で降りる中国人三人と同席となりました。
一人は、40歳代の青年で、日本語はぺらぺら何度も日本に来たことがあるそうで、見るからにお金持ちそうでした。
後の二人は、学生で、一人は医学生、もう一人は18歳の大学生でした。
フリーのワインが一杯サービスされました。18歳の学生は未成年で飲まないというのでもらいました。
もう一杯ワインを注文し飲みました。ワインは300円+サービス料45円、計345円とリーズナブルです。
寝る前にスクラッチをたっぷりしました。そのおかげか寝付きが早かったです。

4月3日(水)
昨夜は10時半に床に入り、6時半に目が覚めましたが、30分ほどうつらうつらしました。
カーテンを開けると太陽が照っていました。
しかし、波が高く、船は前後左右に大きくゆったり揺れます。
テーブルの上の物は移動しませんが、船酔いしそうな揺れです。
今朝も朝食は日本食にしました。キャビンに戻ると揺れが一層激しくなったので、1時間ほどベッドで横になりました。
今日から、様々な講演会や企画が始まりました。
私は、あれこれ欲張らず、基本は英会話とジムとウオーキングに絞ろうと思っています。
ところが、講演会の初めが、中東問題の高橋和夫さんなので、聞くことにしました。
高橋さんの講演は、放送大学のDVD上映と高橋さんのお話でした。
お話は、テレビのニュース番組の久米宏などのキャスターなどのエピソードの紹介でとても退屈でした。
私は、中東問題の歴史と現状について知りたいと期待したのですが、以後参加しませんでした。

昼からは、30分間の体験ピラティス、社交ダンスがあり、参加しました。両方とも多数の参加者出足の踏み場も無いほどでした。
社交ダンスは、ブルースの基本ステップを習いましたが難しい物です。
オーバーランドに出かけて、欠席したためとGETクラスの時間が重なったので以後は止めました。
船はやはり揺れていますが、気分は悪くないので、室内で下半身の筋トレを1時間しました。
昨日今日と下着を洗濯しました。かなり大きいバケツと洗濯板を持ってきたのは正解でした。
クリーニングサービスはかなりの量でも700円で良いのですが、戻るのが3、4日先と言われていたのですが、
朝出すとその日のうちに戻ってくるので、このサービスを利用することにしました。
シャワーは決して広くはないのですが、お湯の出や排水もいいです。
私は、椅子を持ってきたのでのんびりシャワーをしています。
パソコンに、リラクゼーション系の音楽やクラシックをたくさん入れて来ました。
また、千円ほどで買った来た小さいスピーカーの調子が良く、これは大成功で、十分楽しみました。

4月4日(木)
昨夜0時、1時間の時差(1時間戻る)が生じました。
昨夜も、ストレッチを1時間ほどして就寝しました。以降これは習慣になりました。
夜中かなりの揺れでトイレに2度起きました。
朝5時半頃目覚めましたが、床の中でうつらうつらしました。
1時間の時差があるので、実際はまだ4時半だからです。
今日は忙しい一日でした。
8時半からダンス教室があるので、7時に食堂に行くと大変な混みようでした。
ダンス教室はかなりの人気でした。昨日に続きブルースのステップを教わりましたが、簡単では無いです。
初心者は余計な力が入り、ステップが大きすぎる嫌いがあります。
約45分ほど体を動かし、汗をかきました。
9時半からは香港(中国)への入国書類の署名がありました。
2カ所署名するだけなのですが、その順番待ちが長蛇の列でした。
10時から1時間、GETのオリエンテーションがありました。
途中抜け出して、香港入国書類署名をしました。
11:20から、香港からのツアー“自然遺産・張家界と武陵源を行く6日間の旅”の説明会があったのにすっかり忘れ遅刻して参加しました。
この中国ツアーは、私が想像していた以上の中国事情で、それは私の常識を遙かに超えていました。
米ドルが使えるとは限らない、ホテルの両替事情もどこまで可能かよくわからない、
ホテルは連泊なのですが鍵のかからない荷物は安全が保証されないというし、デジタル鍵も安全とは言えない、とも言われました。
私は、大・中二つのスーツケース用意してきたのですが、鍵がかかるのは特大の方なので、それを使うことにしました。
このツアーは、シンガポールで夕方船に合流するのですが、私はその夜出発のスリランカへのオーバーランドツアーに参加しています。
申し込みしたときは、スリランカツアー出発時刻に間に合わないことを想定し、荷物は両ツアー分を用意し、
遅れそうなときはツアー途中離脱して自力で船のたどり着けと言うことでした。
そこいら当たりの事情を聞こうと思うのですが、レセプションは大混雑で申し込んでから2時間後やっと聞くことが出来ました。
現状では、ほとんど問題は無いのですが、万一帰船リミットまでに戻れないことを考えて、
荷物はスリランカの分まで用意した方が良いと言われました。
途中でツアーを離脱しなければならない事情などは、ツアーコンダクターの方から指示があると言うことなのでひと安心でした。
14:30からはGET有料講座受講生への説明会がありました。
オーバーランドツアーなどで欠席した場合は、1回20分間の補講があるというのは朗報です。
私は、4、5回欠席するので良かったです。
ただ、今回GETの先生はアメリカ系が多く、英国系が少ないのが残念です。
アメリカ系英語は本当に耳障りに私は感じているからです。
イギリス系では、ジャパンですが、アメリカ英語ではジャァパァーンと極端に“ア”が強調され、
また、Rの発音はイギリス英語ではほとんどアですが、アメリカ英語ではアールと巻き舌的です。
明日は、クラス分けのための面接があります。
その後、洗濯やシャワーをしました。
小さなミスを沢山しています。
カードキィーを部屋に忘れるのはしょっちゅうです。セキュリティボックスの暗証番号の設定ミスや、
アフタヌーンティーで椅子にウインドブレーカーを忘れてきたり、ミーティングを忘れたり、
でも今のうちにミスをしておくのは今後にとっては良いかもしれないと思っています。
夕食後、21時から1時間、「リピーターパーティ」があり、ドリンクはフリーというので出席しました。
50~70人位もいて驚きました。
ワインを2杯いただきました。何人かのスタッフが挨拶に来ました。
夕食前にウイスキーを2杯、食事の時ワインを1杯とちょっと飲み過ぎですかね。

4月5日
深夜、窓から光りが差し込み目が覚めました。雷でした。かなりのせん光でした。
自然の光りで目が覚めるように、カーテンは閉めないで寝ています。
でも船の揺れはそれほどではありませんでした。
今朝も8時半からダンス教室があったので、7時過ぎに朝食を取りました。
ダンスは、けっこう難しいです。講師のせいにしてはいけないのですが、教え方は上手ではないです。
動きを一つ一つ分解し、こつを教えてくれるととてもわかりやすいと思うのですが。
それから、ジムで1時間の上半身筋トレとマシンが空いたので、30分のウォーキングをしました。
気分がすっきりします。
明日から、六日間の中国武陵源へのオーーランドツアーと六日間のスリランカオーバーランドツアーが始まるので、
荷物の準備を昨日からしています。
荷物は決して多くはありません。スーツケースが大きいので、スカスカですが仕方ないです。
鍵がかかる方が良いと言いますが、3桁のデジタル鍵など、10分もあれば開けることが出来るので、気休めに過ぎないのですが。
ふと窓の外を見ると貨物船が見えました。
天気は相変わらず、時々雨、時々大雨です。
今日は、GETのクラス分けのミーティングがありました。
私は、質問によどみなく応えることが出来てしましました。
これが結果的には良くなく、私は上級クラスに入ってしまったのでした。   
次回は、香港から中国・武陵源へのオーバーランドツアーです。           【続く】

79回ピースボート、香港から武陵源 1

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月6日



最初の寄港地は、香港でした。
香港入港は、未明でした。
 
 
 
 
 
朝食

私は、『張家界と武陵源を行く6日間』のオーバーランドツアーを申し込んでいました。
武陵源は湖南省北西部にあるカルスト台地です。
1億万年前は海でしたが、自然の変化によって峰が林立し、奥深い谷間のある奇異な地形が形成されました。
1992年にはユネスコによって世界自然遺産に登録されました。
2009年航海されたジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター』(Avatar)の背景にこの武陵源が使われました。

10:30下船、バスで香港市内をあちこち通って市内観光をしましたが香港は、特別な意味ある観光スポットは無いようで、
町中お店という感じでした。
でも街じゅうが市場の感じのハノイは歩いてとても楽しいですが、香港は無機質なショッピングモールみたいで、
私にはあまり興味がわきませんでした。1時間もしないうちに見終わってしまいました。
狭い土地で関税の無い世界は、イギリスにとっても中国にとっても魅力だったことはわかるのですが、
でも、私には何か欲望だけが渦巻くとてもバブルだけの感じで、私には魅力ある街とは思えませんでした。
11:30市内のレストランで飲茶の昼食。
次から次に慌ただしく料理が出て来て、とてもゆっくり食事を楽しむ雰囲気ではありませんでした。
  
  
煙草は灰皿があるとこだけです。                          地下鉄工事現場
  
その後、バスで国境を越えて広州飛行場へ(4時間半)向かいました。
陸路、香港を出国し中国に入国するのですが、チェックはほとんど無く、拍子抜けであっという間でした。
広州飛行場                               17:00レストランで夕食
 

広州発20:05=CZ3381便を定刻に出発し、張家界空港に定刻の21:40に着きました。
広州空港での搭乗手続きは国内線なのですが、かなり厳重でした。
かなりの割合でスーツケースが開けられて検査され、また金属探知機のゲートを出た後も、人の手でマシンを使って検査が行われました。
広州空港はとても広いです。
バスで、ホテルに向かいました。ホテルは5星の豪華なホテル・張家界青和錦江国際酒店でした。
遅い時間でしたが、久しぶりにバスタブにつかりました。私は、一人で使用です。



4月7日(日)
ホテルで朝食、9:00ホテル出発、武陵源自然風景区入り口
 
入場券チェックは、登録した指紋を読み取るのですが、何とも性能が悪くすぐ滞ってしまいました。
   
トイレはきれいでした。                       ポストがあちこちにありました。
  
入り口                                  ロープウェイで天子山自然公園の岩針峰観光
  
 
公園内は、シャトルバスで移動
  
  
  
                                      絶景ポイントは、写真屋が占拠
 

 
                                             「商品に触って傷が付いたので買え」と言う店員と客が路上で大げんか
  
 
コンピューターを使ってのお土産屋、大繁盛です。
 
絶景ポイントは名前が付けられています。 メモしましたがわからなくなりました。
 
 
  
名前を書いてくれます
  
賀龍像(張家界出身)                          民族衣装を着ての写真撮影は大人気でした。
 
 
 
 
 
清掃とペットボトルの回収は良く行われていました。       これは男性トイレ
 
  
12:00山頂のレストランにて昼食                 籠に乗せて運んでくれるサービス
 
  
 
  
路上パフォーマーは中国にもいました。写真を一緒に撮ると、追っかけてきてチップを要求していました。
   
 
 
 
 
 
  
  
アバターの模型が展示されています。
 
 
 
 
ここは出口です。                            百竜天梯335m、エレベータ2分
   
 
街に戻って、スーパーに寄ってくれました。
 
 
 
 
17:30ホテルの市内レストランで夕食

                                                               中国人は賭け事が大好きなようで
   
部屋にランケーブルがあるのでアクセスを試みたのですが、全く通じませんでした。
この日は歩いた距離は、大変なものでした。                       【続く】

79回ピースボート、武陵源 2

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月8日(月)      孫悟空の活躍した火焰山の名が付いています。



張家界青和錦江国際酒店ホテルで朝食
  
9:00ホテル出発し、武陵源自然風景区に向かいました。
呉冠中(画家) 
 
 
張家界森林公園入り口                        このパフォーマー、客が金を払わないともの凄いスピードで追いかけました。
  
ロープウェイで張家界風景区観光
  
                                    六苛閣
 
道は険しいです。篭は180元(2700円ほど)でした。
  
 
  
 
  
                         五指峰
   
懐かしい人々の名が、華国峰  王光美                              江沢民
  
結婚記念写真
   
12:00山頂レストランで昼食
 
地質公園                                  自然遺産のマーク
 
 
 
 
 
   
石に刻まれている白い物は化石です。
   
銭基深の名が
 
 
  
お茶の試飲(ショップ)                      夕飯
  
ホテルのインターネットは、朝も夜も不通でした。 

4月9日(火)  宝峰湖 観光



ホテルで朝食 今日は、遊覧船で奇峰に囲まれた宝峰湖観光などを訪れました。
宝峰湖入り口
  
宝峰寺入り口
 
 
寒いので、売り子達はこたつに入っています。
      
土家族の女と男が出て来て歌います。
  
  
  
 

12:00市内レストランで昼食            猿が人間の顔を観察
  
  
 
アジア最大の鍾乳洞・黄龍洞 それぞれの岩に名前が付けられているのですが。
  
  
鍾乳洞内を船で移動できます(3km)。              千枚田
 
  
  
  
  
 
                                     鍾乳洞を出たところに旧民家がありました。
 
                                     近くの新興観光地(ショッピング案内)
 
砂絵のギャラリー
  
 
ホテルに戻り、ホテルのレストランで夕食、中国の元が残っていたので、ビールを2本飲みました。
中国のビールは2.5%とものすごく低アルコールで決して美味とは言えませんでした。
部屋に帰って、持参したウイスキーをちびちび飲みました。

今朝、ダメ元でインターネットのアクセスを試みると、なぜか通じたのでした。
しかしその速度はかつてのADSLほどでのスピードでした。
それでも、通じたことはとても良いことで、そ大急ぎで、ブログの第一報を発信し、またいくつかのメールを送信しました。
何かパソコンの設定に問題が、このまま使えないかもしれないとの思いに襲われかかっていました。
やはり、インターネットは必要で、便利で、いいですね。
中国人の日常のネット事情はわかりませんが、また、フェイスブックなどオープンできないサイトがいくつかありました。
ホテルのサーバーに問題があったのでしょうが、この事情が国家による規制なら民衆の不満や怒りを抑えることは出来ないでしょう。

4月10日(水)
今日は、移動日です。
5:45起床、6時に朝食を取り始め、6時半までのんびりたっぷり頂いていたのですが、集合時間が7時なのを思い出して、
慌てて部屋に戻り、チェックアウトしました。
全員がバスに乗ったのですが、バスは出発しませんでした。
30分ほど、ホテル側が、ホテルの備品を持ち出していないかをチェックしていたのでした。
シャンプーなどのアメニティグッズは持ち出して良いのですが、
ランドリーサービスの袋や、ホッチキスなどはホテルの備品なので返却するか代金を支払わねばなりません。何人かいました。
バスで、張家界空港に向かいました。約45分。
 
 
10:15発の広州行きに乗り(25分遅れ)、広州には(1CZ3382便・時間45分)、定刻10分遅れの11:45に着きました。
こんなわずかなフライトなのに軽い朝食が出てきました。
私は、コーヒーと水だけいただいて、食べませんでした。
空港外にあるレストランでランチ。350ccのビールが20元と高かったが飲みました。
5000円を中国元に換え、約100元1500円が残りましたが、中国は訪れることもあるだろうと、持ち帰りました。
妻への高価で無いポシュエットのお土産とハウスキーパーへのお菓子を買いました。
18:30発のシンガポール行き飛行機ですが、15時と早い搭乗手続きでした。
また、セキュリティチェックは厳しいのですが、出国手続きはスムーズでした。
電子機器、携帯の充電器や、充電式電池、トランスなどは預け荷物としないで、手荷物にした方が良いとのことです。
特に、充電式電池は預け荷物にすると没収されることがあるようです。
搭乗開始予定の17:50まで1時間ほど空港内を運動のために歩き、さらに時間が余ったのでパソコンでメモを記録しました。
シンガポールまでは約4時間(CZ351便で4時間)→シンガポール着22:30、バスで、ホテルに。
24:00シンガポールのパークロイヤル・オン・キチェナーロードホテルにチェックイン
立派なホテルでランケーブルと無線LANの二つがありました。
このツアーは、次のシンガポールにまだ続くのですが、シンガポールは項を改めることにします。
無粋ですが、このツアー代金は、128,000円+一人部屋35,000円=163,000円でした。         【続く】

79回ピースボート、シンガポール

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月11日(木)
シンガポールの新名所マリーナ・ベイ・サンズ

ホテルの部屋から
  
昨夜は遅かったので、遅い朝食と11:30のホテルチェックアウトでした。
時間があったので、1時間ほどインド人街を散歩した後、ブログを作成したり、メールをチェックしました。
 
  
 
 
シンガポール市内観光をしました。
サルタンモスク
 
  
ムスリムは礼拝する前に体を洗って清めてモスクに入ります。             女性は2階で礼拝できます。
  
アラビア通り
 
   
  
 
  

マリーナ・ベイ・サンズ は巨大な三本の柱のようなビルの屋上に船の形をした建造物が乗っかっている奇妙なホテル・ショッピングモールです。
 
 
中に入ると、
 
そして、エレベーターに乗るとあっという間に展望台へ。(入場料は20シンガポールドル)
 
 
プールのあるこちらは別のチケットが必要のようです。
 
展望台のトイレはきれいでした。
  
シンガポールの新しいランドマークですが、こんなビルに果たしてどんな意味や価値があるのかはなはだ疑問ですが。
屋上にはプールがあり、またカジノなどもあって、お金持ちの虚栄心をきっと満たしてくれるのでしょう。
一般の観光客も展望の良い展望台に上ることが出来ます。シンガポール市内が一望できるのですが、私はむなしさを覚えました。
 
チャイナタウンはたったの15分で、仏教のお寺などゆっくり参拝する時間はありませんでした。
仏牙寺
 
   
 
 
  
 
  
  
セントーサ島へのロープウェイ
   

16:20シンガポールハーバーフロントセンター着、本船に合流しました。
入船の際、荷物のセキュリティ検査があります。
飛行機に乗るときと全く同じです。小さな荷物は手荷物扱いで自分で運び、検査機器を通らない大きな荷物は荷物を預けるというのです。
その場合、検査を終えた荷物を船の職員が、キャビンに届けると言うのですが、船室に届くのは1、2時間後だというのです。
私は、この日の夜8時にスリランカへのオーバーランドツアーの出かけるので早めに荷物の整理をする必要があります。
出来れば、自分で荷物を運びたいとピースボート職員に必死になって訴えると、やっとの事で万一機械を通らなかったら戻り、預け荷物にするという条件で折り合いました。
すると何のことは無い、スーツケースは悠々通るです。
事前に最大幅はどれくらいかの調査をしていないのです。
私は、大きな荷物は預けるというマニュアルだけしか無いのだなぁ、とあきれました。
私は、洗濯する服を出したり、不要な荷物を出したり、持って行った方が良い品物などをスーツケースに詰めたり、電気機器の充電などをしました。
シャワーをし、夕食を済ませ、ハウスキーパーに中国旅行のお土産を渡し、集合時間の8時を待ちました。
夜:20:30下船、シンガポール市内ホテルに到着すると、昨日と同じホテルでした。
メールをチェックし、ブログを更新しました。
【63回ピースボートのシンガポール編はここ】                          【続く】

79回ピースボート、スリランカ1・ポロンナルワ

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月12日(金)

私は、『スリランカ・セイロン島の世界遺産6日間』のオーバーランドツアーに参加しました。
このツアーは、昨日の夜下船し、シンガポールのホテルに泊まりました。
この日は、シンガポールからスリランカ、そしてシーギリア近くのホテルまでほとんど移動日です。
午前7時頃ホテルを出発し、シンガポール空港に向かいました。9:50発→コロンボ空港11:15着。

「昼食は各自で取れ」、とツアー案内にありましたが、それだけでは何とも不親切です。
観光地では米ドルが使えるが、コロンボ空港では米ドルは使えないと明示し、必要なだけスリランカルピーに両替するか、
事前に軽食を準備するかなど具体的に案内するべきです。
ジャパングレースは、こうした細かいが肝心な情報は提供しないのです。
私は、国際線だから機内食は出ると思いましたが、夜中にホテル近くの"セブンイレブン"にサンドイッチを買いに行きました。
このコンビニではカード、米ドルは使えませんでしたので、わずかですが現地ルピーに両替しておいて正解でした。
機内食が出て、そのサンドイッチは、結局無駄になってしまいましたが。
これはシンガポール空港の掲示板でしょうか。
 
午後、バスでシーギリヤへ向かいました。5時間のドライブでした。
現地旅行代理店から、歓迎の花束が贈られました。
  
 
バスの車窓からの景色が美しくまたバスを目にした人々が手を振ってくれました。   私のお気に入りの一枚です。
  
  
ゴム園でバスを止めてくれました。
  

  
 
  
 
 
 
  
沿道は、田んぼや森が延々と続くのでは無く、かなりの頻度で集落が現れました。
自然の恵みの豊かさも伝わりますが、人々の数も多いなと言う印象でした。
同時に、所々現れる町は、近代的ではありませんが、店々が賑わい、その営みは決して貧しいとは思えませんでした。
通りすがりの私達のバスに、ほとんどの人々がほほえみかけ手を振ってくれました。
道々も、ゴミは氾濫せず、掃除も行き届いていました。
私は、以前カンボジアを訪れたときも同様の思いがしました。
カンボジアもスリランカも長い内戦を経て、平和と本来持っている自然の恵みが人々に豊かさを与えていると私は感じました。
何の根拠も無いのですが、私はカンボジアよりスリランカの方が豊かさを感じました。
カンボジアは多くの人々が死にすぎて、まだその痛手を克服できていないのかもしれません。
GETのクラスで、私の「スリランカは豊か」と言う発言は、全く同意されず、怪訝な顔をされました。
確かに、コロンボの雑然さときたなさからはそんな印象は感じられないのですが。

シーギリヤ近郊のホテル、ヘリタンス・カンダラマホテルはきれいでした。
  
部屋の窓から
 
  
  
スピードは遅いのですが、無料の無線LANが使え、ブログ発信をしました。

4月13日(土)    ガル・ヴィハーラ[大きな花こう岩の塊に四つの石像が彫られた彫像遺跡]

バスでポロンナルワへ向かいました(4時間)。
スリランカは、イギリスなどの植民地支配の後、第二次大戦後独立しましたが、その後、1983年から2009年にかけて多数派のシンハラ人と
少数派のタミール人との間で内戦が行われましたが、今日平和を取り戻しています。
ポロンナルワは、インドの侵略によってアヌラーダプラを追われたシンハラ王朝が10~12世紀に二番目の首都が置いた古代都市遺跡です。
大きな花こう岩の塊から彫られた4つの石像(2つの座像、立像、涅槃像)から成る「ガル・ヴィハーラ」は美しい彫像遺跡です。
日中気温は30度を超えるので、なるべく早いうちに観光を済ませたいとのことで、5:45起床、6:30朝食、7:30ホテル出発です。
私は、朝、排便に時間がかかるので、朝食後1時間しか無いのは私にはとても大変です。
ホテル前の湖・カンロレマ湖などスリランカの湖は全て潅漑や飲料水用の巨大な人造湖です。
 
カンボジアもそうですが、王たち支配者階級にとっては水・潅漑が一番の重要な仕事だったようです。
野生のクジャク                       テンプルフラワー(白い花) 
   
これはシーギリアではありません。
  
   
トイレを使用したレストラン
 
水浴びする男性                            近くでは新年のお祝いの行事でしょうか。
 
  
 

ポロンナルワ遺跡
 
 
 
  
  
   
 
 
  
  
  
  
 
                                       ガルポタ(石の本)
 
仏舎利塔                                 トカゲ                            蟻塚
  
世界遺産のマーク
  
 
ガル・ヴィハーラ [大きな花こう岩の塊に四つの石像が彫られた彫像遺跡です。]

 
 
                                     柱の間にある洞窟の中の仏像
  
                                                                       チタンの木
  
さて、昼食。ホテルに戻って食べたか、レストランで食べたか記憶にありません。
 
 
                                     お気に入りの一枚です。        
 

象に乗りました。
  
  
今日見た仏像はとても穏やかな表情をしていました。
仏教の教えは様々で、スリランカに伝わったのはかつては「小乗仏教」と言われた上座部仏教と言われています。
そのことと仏像の表情とは直接の影響は無いと私は思うのですが、どうなのでしょう。
今回の旅では、仏教寺院・仏像を見ることが出来たのは、シンガポールとするランカだけでした。
ヨーロッパのキリスト教の大聖堂の重厚さとはだいぶ趣が異なります。
しかし、私にはスリランカの仏像の穏やかな表情は、何とも心が安らぎました。

スリランカの旅・ツアーはまだ続くのですが項を改めたいと思います。              【続く】  
  

79回ピースボート、スリランカ2・シーギリア

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月14日(日)
シーギリヤは、巨大な岩山を中心とした幻の王宮跡です。
当時、王の長男と弟が王位を巡って争い、兄は200メートルほどの高さのシーギリヤの岩山に宮殿を建てました。
岩山の中腹に、美女のフレスコ画(シーギリヤ・レディ)があります。
その非宗教的な壁画はとても官能的で、異彩を放っています。








さて、スリランカは、今が旧正月。正月の特別料理はとにかくスイーツと言うことです。 餅米で作られたお菓子
   
  
  
薄いパン生地が丸く焼かれ、その中に目玉焼きが入っています。
   
その他の料理は、なぜか撮り忘れました。
ホテルのレストランも町中のレストランもアルコールの販売はされません。 
早朝、雷の音で目が覚めました。                監視小屋でしょうか、それとも昼寝用?
 
 
  
 
 
  
  
                                                           この通路の奥に壁画があります。
  
  
  
修正した跡が残っています。
 
  
                                       トップからの景色です。
 
  
岩山の足下に
 
  
  
正月休みを庭で遊ぶ人々[水の入った風船を投げ合っています。目が合うと、バスを降りて一緒に遊ぼうと手招きしてくれました。]
 
衣料品のショップ                                              12:30、レストランで食事 
  
薬草園とお店 

バスでキャンディ市に向かいました(3時間)。 途中、激しい雨でした。
  
16時頃の早めのチェックインとなりました。
アールズ・リージェンシーホテルはきれいなホテルでした。
 
  
  
蚊取り線香のサービスは良いですね。 ベランダが付いていました。
 
生演奏で食事を楽しみました。                                               スイーツです。
   
キャンディ市は、スリランカ中部州の州都で、シンハラ人のキャンディ王国(1469年~1815年)の最後の都で、
シンハラ語で山を意味する「カンダ」から転じたそうです。
市内に、紀元前543年にインドで仏陀を火葬した際に手に入れたと言われる仏歯が祀られている仏歯寺があります。
仏歯は王権の象徴でもあり、今も仏教徒の信仰を集めています。キャンディ市と仏歯寺は項を改めます。        【続く】

79回ピースボート、スリランカ3・キャンディ市・仏歯寺

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月15日(月) 

キャンディ市は、スリランカ中部州の州都で、シンハラ人のキャンディ王国(1469年~1815年)の最後の都でした。
市内に、紀元前543年にインドで仏陀を火葬した際に手に入れたと言われる仏歯が祀られている仏歯寺があります。
仏歯は王権の象徴でもあり、今も仏教徒の信仰を集めています。
イギリスの植民地時代、気候が温暖なこの地に、多数のイギリス人が入植し、コロニアル様式と言われる多数の建物が建てられました。

朝食後、朝8時ホテル出発
  
刑務所
  
クィーンズホテル[世界遺産・植民地時代の名残の建物]   エントランス[私は、堂々と入ってトイレを借りました。] 世界遺産の登録証
  
仏歯寺入り口 スリランカ独立後最初の首相の像
   
沙羅双樹の木と実と花
  
仏歯寺 [休日と相まってたくさんの参拝者でした。]
 
仏歯寺の王の屋敷跡 [参拝者にカメラを向けるとOKでした。]
 
  
永平寺から贈られた鐘
    

                            棺室
  
 
仏壇入り口
  
 
 
  
  
   
釈迦の歯が納められている仏舎利のレプリカ
  
真ん中の明るい部分が、仏歯寺の本尊・釈迦の歯が納められている仏舎利です。
 
釈迦の仏歯が納められた仏舎利塔が公開されるのは一日三回だけ、午前中は9時半からで、凄い混雑です。
ガイドのロハンさんからスリへの注意は全くなく、アドバイスは遠慮しないで人を押しのけて前進しなさい、でした。
信仰しない私たちが現地の人を押しのけるのは気が引けますが、わがまましました。
目の前までは行列が出来ていてとても行けず、10mほど後方から撮りました。
 
自由時間が少しあり、キャンディ市内のごくごく一部を歩きました。
狭い路地にはひりませんでしたが、家族連れでとても賑わっていました。
 
 
  
  
  
   
スーパーマーケット
 
 
 
 
賽銭箱
  
ツアーに付きものの、お店巡りは、昨日はシルクお店、香辛料・薬草などのお店、そして今日は宝石店でした。
宝石店では、客より店員の数が倍以上でした。さすが高価なので誰も買わなかったようです。
私は、ピースボートに興味のある店員と暫く英語でお話しすることが出来楽しかったです。
シルク店ではさんざん試着しても買わない人もいて私は驚きましたが、少なくない人が買い物したようです。
  
  
  
昼食時入ったレストランは、ビールが解禁されたので、ビールを飲みました。写真は撮り忘れました。
昨日と今日とやはり暑いので、そうとう疲れたようで少し酔いが回ったようです
2時半頃ホテルに戻り、2時間ほど昼寝タイムがありましたので、私はシャワーをして40分ほど昼寝をしました。
キャンディアンダンス鑑賞[夕方、4時半から]
    
   
     
火を使ったショーは大人気で、チップが沢山でした。
キャンディ市内のホテルに連泊、夕飯の写真は撮り忘れました。
WEBは、昨夜から通じなくなりました。理由はわかりません。        

4月16日(火) コロンボ
今日は、コロンボ市へ移動し、その後船に合流したあと、再度下船し少しコロンボ市を歩きました。
朝、出発まで少し時間があったので、パソコンを開いたのですが、電源が入りませんでした。
おいおいパソコンまで壊れたのかヨと大慌てしました。
色々試みた後、バッテリィーを一度外して再セットしたら起動しました。とにかく色々なことが起こるものです。
ホテル8時出発
 
 
オオコウモリ                             キングオブバナナ(1本150ルピー約135円)、味は値段ほどではありませんでした。
 
カシューナッツ店でトイレ休憩
  
コロンボ市内に入る前にハンドメイドのお土産屋に案内されました。
私は500ルピーほど(約450円)残っていたので、安い細々したものを買いました。
 
  
 
 
市庁舎(ホワイトハウスを真似ています。)
 
シナモン7番街は高級住宅街で各国の大使館が軒を連ねます。 日本大使館 
 
国際劇場
 
バンダラナイケ国際会議場[バンダラナイケさんは世界初の女性首相]
 
独立記念堂
  
独立記念堂内の壁のレリーフ
 
潅漑省
  

昼食は、ヒルトン・コロンボホテルの日本食レストランでした。 
  
刺身・天ぷらなどのセットメニューでした。価格は20米ドルほどで、ビールは3ドルですので決して高くはありません。
私は、帰船後コロンボ市内を散策がてらハウスキーパーへの買い忘れたお土産を買うために下船するつもりでしたので、
ビールを注文しなかったのですが、スリランカツアーでお世話になったFさんがビールをごちそうしてくれました。
カメラのバッテリーがなくなり、予備のカメラを使いました。使い勝手が良くなく、ピンぼけになりました。
午後3時過ぎ、ツアーが終了し船に合流しました。
部屋でカメラのバッテリーを暫く充電し、荷物を整理して、再びコロンボ市内の散策に出かけました。
船から港出口までシャトルバスで5分ほどです。
港を出るには、乗船IDカードを見せなければなりません。
すると職員がどこに行くのかと聞くので、地図を見せて、このモスクに行くと言うと、「タクシーに乗れ」と言うのです。
治安が良くないのかと一瞬の思いましたが、家族連れが歩いているので、私は、歩きたいと答えました。
港を出ると、三輪タクシー、オートバイタクシーの客引きが猛烈で、断っても断っても次から次まで押し寄せます。
振り切って、街に出ると、猛烈な暑さとたくさんの人々の熱気と、ゴミの饐えたような臭いでむせかえるようでした。
でも、これもアジアの魅力の一つだと私は思いました。
 
モスクの前で写真を撮っていると、モスクから出てきた人が中に入れと手招きします。
私は、日本人でブッティストですと答えると、英語で“I'm Moslem.”と言って、私を招き入れてくれました。
この一帯は、市場街です。おそらく正月休も重なり、もの凄い人手です。
でも、気温が高いせいでしょうか、人々の歩みもどこかゆったりです。
私は、一度だけ人にぶつかりましたが、お互いが「ソリー」でした。
もちろんスリや置き引きには万全の注意を払わなければなりませんが、通りのあちこちに警官がいるので安心です。
もちろん細い路地には入るのは厳禁です。
モスク                   。              ヒンズー教の寺院
 
 
スリランカの農村の穏やかで緑あふれる風景や、人々の優しい微笑みを見たことがない人にとっては、
コロンボ市内のこの雑踏とゴミと猛烈な暑さがスリランカだと思い、
私の「スリランカは豊かな国」と言う発言が、共感を得ず、怪訝な顔をされたのは当然かもしれません。
短い時間、限られた地域だけの見聞で、その地域や国を判断することの危うさに気づかされました。
首都には、仕事や富を求めてたくさんの人が押し寄せます。清掃は追いつきませんし、スリや置き引きも頻発します。
でも、私は、全く不安はありませんでした。都会のエネルギッシュな雑踏もこれまた魅力ですし、
たくさんの警官が巡回していました。これは安全ではないとことの裏返しでもありますが、
人々と社会が、安全と清潔さへを求め、そのことが成功しつつあるのではと私は思いました。
市場です。                               こちらは旧市場
 
 
コロンボ・フォート駅もむせかえるような人でした。
ちょうど電車が出発したところでしたが、どの位の乗客が乗っているかはわかりませんでした。
コロンボ駅
  
  
ここから、1キロほど先に大統領官邸があります。バスを待っている人に場所を聞いたら、彼は知りませんでした。
うろうろしていると装甲車が目に入り、大統領官邸の前でした。銃を持った兵士がいたので、
「日本人の旅行者だが、先に行って写真を撮ることが出来ますか?」と聞くと、先に行くのはだめだが、
ここで写真を撮っても良いという返事でした。
ちょっと見づらいですが、この奥は大統領官邸です。
  
大統領官邸周辺は、中央銀行やヒルトンホテルやトレードセンターなどの山の手です。
  
 
暑いので、サンダルで来たら靴擦れになって来ましたので残念ながら帰ることにしました。
大統領官邸から港はすぐ近くです。シャトルバスの停留所=港3ゲートが入り口なのですが、そこはここから少し遠いのです。
それ以外の入り口がないかと、地図を見ていると、そこは税関入り口で、職員があちらから入れると指さしました。
行ってみると、そこは、警察署本部と港を結ぶ通路でした。
セント・ピーターズ教会                          税関事務所
 

この階段を降りると港です。入り口はどこかとうろうろしていると、警官が通って良いと言います。
おそらくそこは一般の通路では無く、警察官港に入れる通路なのでしょう。
IDカードを見せ通ると「煙草を持っているか?」 私は吸わないというと、「仕方ないな」と言う表情で通してくれました。
船に向かって、てくてく100mほど歩くとシャトルバスが止まりました。
そのバスの運転手は、行きに乗ったバスの運転手で、私が帰りのバス停を聞いたのを覚えてくれていたのでしょうか。
ピースボートから大量のゴミを出していました。
 
キャビンに戻り、シャワーをして早めの夕食を取りました。体重を量ると1キロほど太っていました。
オーバーランドツアーでの食事はバッフェスタイルで脂っこい中国料理の後は、
おいしいカレー料理とお正月の珍しいスイーツなのでどうしても食べ過ぎたようです。
10時過ぎには、床に入りました。                            【続く】

79回ピースボート、サウジアラビアのジェッダへ

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月17日(水)  食事の写真は掲載日とは一致しません。
インド洋に入りました。これからサウジアラビアのジェッタまでは寄港地はありません。
夜中、少し揺れましたが、夜が明けてからは穏やかになりました。
10時から、大げさな「海賊対策訓練」がありました。
海賊に襲われたら、部屋に戻り、ドアに施錠し、窓のカーテンを閉める、と言うものです。
4月24日頃までの間、海賊対策として9階のオープンデッキの閉鎖、夜間のオープンデッキの消灯、夜間はカーテンを閉める等の対策が行われます。
午後からオーバーランドツアーで欠席した2回分・40分の英会話クラスの補講がありました。
先生は、ハワイ島第二の島・Maui島出身のMauiさんで、20歳代の若い女性です。
クラスメートは男性3名、女性2名の計5名です。
レベルは、私が地元で通う英会話教室(初級)より少し上で初級と中級で中間レベルのようでした。
その後、14:30から“GETの課外アクティビティ”の説明会がありましたが、私は参加しないことにしました。
ダンス入門もGETと時間が重なるので、あきらめました。
まっ、これで良いかと割り切って、英語とフィットネスを中心に生活しようと思います。
さて、このクルーズでは、クルーはインド、インドネシア人が多いようです。
私のハウスキーパーはエリアスという30歳代の若い素敵なインド人男性です。
彼は、言葉遣いもとても親切で、サンキュウ・サーと言います。
私は、彼がとても気に入りました。
知り合ってすぐチップを渡すのは良くないと思ったので、スリランカから帰った日、お土産を買えなかったと言い、
「貴方は私の英語の良い先生です」と10ドル渡しました。
でも、彼の態度は以前と全く同じでしたのでますます良いです。
合う度に、二言三言英語で彼と話すのは、とても楽しいです。
同じフロアのハウスキーパーの一人は、インド・コーチン出身の男性で、「一度コーチンに行ったことがある」と言って以来、
丁寧な挨拶をしてくれます。
また、食堂には顔なじみになったムンバイ出身のインド人の男性ががいます。
彼の英語は、私にはちょっと聞きにくいのですが、会うと必ず話しかけてくれます。
今日のランチの時、スリランカで撮った写真を見たいと言われました。
夕食の時見たいと言うのでパソコンを持って行き、見せました。
また、9階・10階のデッキとジムの清掃担当は、50歳代のネストルというペルー人です。
彼は英語が話せないのですが、私が「オラ、ブエノスデアス、グラシャス」などと片言のスペイン語の挨拶を交わすと、
以来、オラ・アミーゴと話しかけてくれます。
  
4月18日(木)
今日から私のGETのクラスが始まりました。レベルは、高すぎませんがかなり難しかったです。
クラスメートの力量も私より上ですが、このクラスを続けようと思います。
しかし、この判断は大誤算で、私にはとても難し過ぎるクラスでした。
宿題は、毎日出るようです。
GET無料講座も行われました。
初め、中級に出たのですが、簡単すぎるので上級クラスに行きました。
少人数に分かれて話し合うのですが、決して難しくは無いのですが、お互いの波長がフィットしません。
短い時間にたくさんのことをしようとするのでちょっと慌ただしい感じでした。
もっと、のんびり意見を交わした方が良いのになぁと思いました。
ニューランド人のリンカーンさんの“異文化コミュニケーション”のワークショップがありましたが、退屈でした。
私が、Kia oraとマオリの言葉で挨拶し、私の日本での英会話クラスの先生はマオリだと言うと、
彼女はPaniaというマオリの名前も持っていて、漢字は読めませんが、流暢な日本語を話し、日本の手話も出来る魅力あふれる女性でした。
日本の英会話教室の仲間に絵葉書を書きました。
でも投函されるのはサウジアラビアのジェッタという港で、日本にはいつ着くのでしょうか。
当初、ここは帰港地では無かったのですが、サウジアラビア政府がピースボートの活動が気に入って、
給油と交流の申し入れがあり実現したとの報告がありました。
サウジアラビア料理の昼食会と砂漠のテントでサウジアラビアの伝統舞踊などを見るそうです。
思いがけないサプライズです。
今晩から、夜間、オープンデッキの照明が消され、キャビンもカーテンを閉めなければなりません。
こんなのが海賊対策になるとは全く思えない陳腐さですが、文句は言いません。
夕方6時半、洋上での久しぶりの夕焼けでした。

夕飯は、CCと言われる通訳集団3人と相席になりました。約30分、英語で会話しながらの食事は楽しかったです。
朝食                                   夕食
  


4月19日(金)
今日は、急遽入った「夏祭り」で、公的行事が中止となり、GETも延期となりました。
遅い朝食にし、ゆっくりいただき、ランチも一時過ぎ、一人席があるリドデッキでいただきました(メインレストランと同じメニューです)。
この日のスペシャルメニューはソース焼きそばでした。麺が好きな私は大喜びでした。

でも、もう少しソース味が濃かった方が良かったです。
白身魚の煮付けはおいしかったです。魚料理が少ないのがちょっと不満です。
午前中たっぷり歩きました。イルカを見ました。
 
散歩がてら船内のいくつかの施設を写真に撮りました。
久しぶりに本を読みました。塩野七生さんの小説『銀色のフィレンツェ』を読み終えました。
その後、『ローマ人の物語』のカエサル編を読むことにしました。
午後3時から、若者のフラストレーション発散としか良いようなない「夏祭り」が行われました。

この暑い中、浴衣を着て、ソーラン節でした。
この集団に入らない若者も少しいたようで、私は彼らの方が好きです。
私は、写真を一枚だけ撮って、少し散歩して、キャビンで本を読みました。
GETの先生、アリッサさんとシンディさんがいて、2分ほど話しました。
アリッサさんは手話の使い手なので、アイテムは手話でした。
シンディさんは浴衣を着ていました。
今日は、変圧器が壊れました。
200V対応の機器ならCプラグを使えるのでほとんど問題は無いのですが、扇風機は壊れて使えなくなりました。
また、電気シェーバーは早々に壊れてしまったので、顎髭を生やすことにしました。
 

4月20日(土)
今日は、GETクラスとGETの“Welcome Party”がありました。
パーティは一杯のフリードリンクが出ましたが、面白くなかったです。
入門者からアドバンスクラスまでの生徒が、共通の英語ゲームをするのは決して易しくはないのですが、
小学生低学年を対象としたようなの子供だましのようなゲームやアクティビティは全く退屈で苦痛でした。
お酒をさらに飲むと不満がより募りそうなので、お酒は飲みませんでした。
その他の時間は、カエサルを読みました。
夕ご飯は、自慢話と知ったかぶり話の好きなCCと相席になり、最悪で、この上なく不快でした。
英語が出来るだけでは決して偉くは無いのだよと言いたくなりましたが、ぐっと我慢して早々に引き上げました。
朝食と夕飯は、行った順に席が案内されます。
いい人と相席になれば良いのですが、いやな人もたくさんいて、これは大変な苦痛です。
 

4月21日(日)
ソマリア沖に入り、自衛隊等の船が交代でパトロールしています。
   
また、数隻の船が視界にあるなど、海の景色も少し変化が出ています。
今日の、日の入りはちょっときれいでした。日の出は、5時過ぎだったようなので見ませんでした。
ランチは、おでんでした。おいしくなかったのですが、こんにゃくはおいしかったです。
今日のミスは、朝食時マイカップを食堂に忘れてしまったことと、万年筆を落としてしまったことです。
マグカップは、ウエイターがすぐレセプションに届け出たので戻りましたが、万年筆は戻りませんでした。
提供される日本茶は全くおいしくありません。朝食時、私は、日本から持参したマイカップと日本茶のティバッグでお茶を飲んでいます。
朝は、6:30からモーニングコーヒーがあり、昼は15時にカステラ付きティタイムがあります。いずれも無料です。
私は、カロリーの取り過ぎな気がして、カステラはいただきません。
OPEN GETの上級に出ました。今日のテーマは、ポジティブシンキングでした。
悪いことが生じても、at least, It's a good thing, Look on the bright side, を使って、ポジティブな考えを表現する練習でした。
4時からは、GETの先生とマンツーマンで15分間会話する「chat with」を楽しむことが出来ます。
私は、シンガポール出身の若い女性Cindyさんと話したのですが、私の準備不足でしたが、15分間楽しむことが出来ました。


4月22日(月)
午前中は、特別なことがありませんでしたので、遅い朝食をゆっくりいただきました。
キャビンでカエサルを読んでいると、10時前レセプションから電話があり、
コペンハーゲンでのオーバーランドツアーの一人部屋が確保されたとの電話があり、手続きに行きました。
オーバーランドツアーは二人部屋が普通で一人部屋は、概ね1泊8000~9000円のプラスになります。
私は、赤の他人と二人部屋となって不愉快になったりストレスがたまるより良いと思い申し込みました。
11:30からコペンハーゲンからのオーバーランドツアーの説明会がありました。
12:50~15:35GET TOEICプログラムがありました。
私は、TOEICも申し込みました。テキスト代は2940円で、模擬テストがありました。
リスリング45分・100問、リーディング75分・100問で、10~990点の採点が行われます。
TOEICは、英語のレベルを判定する一つの方法ですが、私が知っているのはそれだけ。
GET受講生は、料金が安くなるので受けただけでした。
テストはとても難しく、理解して回答できたのは10%にも達しないと思います。
2時間もの間、緊張をし続けたのはこの数十年間全くなかった経験でした。
実際は、1時間20分頃を過ぎると、集中力は無くなりました。
頭が疲れくらくらしたのでデッキを歩きました。かなり強い日差しの中、約1時間歩きました。
キャビンに戻ると、ハウスキーパーの青年・エリアスがペルーの素敵な音楽のCDを貸してくれました。
28歳のインド青年です。
 

4月23日(火)
今日は、特別なことがありませんでした。
一学期目のGETは、8時半から9時50分まで。クラス後午前中は、部屋で本を読みました。
OPEN GETは12:10~12:50、上級の担当は、とてもかわいいヨハンナ、私にはちょっとレベルが高いのですが、楽しんでいます。
ランチはこの後にしています。クラスメートのアヤと英語でお話ししながらランチをいただきました。
私より7歳くらい年上の女性ですが、なかなか素敵な女性です。
ちょっとお話が長いのが難ですが、なかなかの博識の上、しっかりした思想の持ち主です。
ランチ後、少し本を読んで、ジムでダンベルを使っての筋トレをしました。
その後、17:30から1時間、サウジアラビアのジェッタに寄港することの説明会=「航路説明会」がありました。
どのような事情・経過でサウジアラビアのジェッダへの寄港が決まったのかは、定かではありません。
サウジアラビア政府が、ピースボートの活動・とりわけ広島・長崎の被爆者がピースボートに乗って世界各地で被爆体験を語る
「折り鶴プロジェクト」の活動を高く評価して、『サウジアラビア&日本・きずな平和ファーラム』(参加者日本側70名)を開催し、
あわせて第79回クルーズの全乗客をイベントに招待するということのようなのですが、
サウジアラビアは、厳格なワッハーブ派(スンニ派)の教義を国是とし、憲法、議会、政党の存在が認められていない、
サウジ一族が独裁的に支配する祭政一致の君主制非民主的国家です。
ピースボートと波長が合うとは私には思えないないので不思議と言えば不思議な話です。
イベントは、港に張られたテント内でのバザールや交流会、サウジアラビア料理の昼食、
そして砂漠地帯で行われる“文化交流フェスティバル”だそうです。
日本側の出し物が、沖縄のエイサーとソーラン節の集団踊りというのですから、これもまたちょっと不思議で変ですが。
その後、サウジアラビアの青年10名が、ポートサイドまでピースボートに乗り、交流を図るそうです。
豊富な石油マネーで人々は豊かな生活を送っていますが、重労働などはインドや他のアジアの国々の労働者がするなど、
ちょっとゆがんでいるように私には感じられますが、実際はどうかは知りません。
はたして、「アラブの春」の風は、必ずサウジアラビアにも吹くのでしょうか。
 

4月24日(水)
アメリカ・モンタナ州出身で身長2メートル以上のダン先生と“Chat with Dane”を楽しみました。
彼はアメリカ人なのに、ベトナム国旗の「一星紅星」のTシャツを着ていたので申し込みました。
モンタナ出身のなかなかユニークな若者で、ベトナムなどをバックパックで旅したそうです。
ところで、船内ではかなりの人が、マスクをし、咳をし、風邪が大流行しています。
中には発熱している人もいます。
にもかかわらず、レストランで食事をしたり、イベントに出たり、GETに出たりと、全く非常識な事態です。
もっとも、四人部屋では、逃げ場も居場所も無いのですからどうしようも無いのかもしれないのですが。
風邪の原因は、低めのエアコン設定と空気の乾燥と言うことらしいですが、本当はわかりません。
密室的状況が風邪を流行させているのでしょう。
とうとうこの風邪の撲滅はならなかったようで、この航海中、最後まであちこちで咳の音は止みませんでした。
インフルエンザや食中毒が発生したら非常に恐ろしいことだと危惧していましたが、
ピースボートにはその危機感は無いようで、レセプションからは手洗いとうがいを奨励するだけで、
病気の人は外出を控えるべきなどの注意は全くありませんでした。
この恐れは、クルーズの終わり頃現実のものとなり、インフルエンザが大流行し、強制隔離者が増え、私は感染に怯えました。
 
 
紅海に入り、時々陸地が見えるようになりました。
  
陸が近いのでしょう、船に鳥の姿が。
  

4月25日(木) サウジアラビア・ジェッダ
ジェッダは、紅海に面した港町で、イスラム教の聖地であるメッカ・メディナへの入り口に当たるそうです。
 
 
 
 
サウジアラビア政府はピースボートの活動を評価して、ジェッダでの給油と乗客のサウジアラビア上陸を認め、歓迎セレモニーを主催しました。
ピースボートが桟橋に接岸されたその場所に出入り口が準備され、冷房がちょっと効いた大きなテントが2張り準備されていました。
最初のテントは、バザールでした。お店は少なく、食品のお土産屋はなく、手作りの伝統工芸品やアクセサリーなどが多かったです。
私は、買いません。次の集合時間までかなり時間があったので自分のキャビンに帰って、休憩しました。
再集合の時間は、延期されて13時でした。
 
 
  
  
ジェッダは、ピースボートサイドが、求め、計画した寄港地ではありません。
私たち乗船者には事の真実はわかりませんが、インド洋・アラビア海の約10日間の単調な洋上生活からの開放はうれしいサプライズでした。
サウジアラビア入国にはビザが必要だと思いますが、ビザなしいわば超法規的手続きで、入国したのだと思います。
パスポートや日本大使館などにはサウジアラビアへの入出国の記録は全く記録され無いのだと思います。
この世の中には、不可思議なことが起こりうるものです。
万一、サウジアラビア滞在中に、事故に巻き込まれるとか事件が起きた時、どのような事態になるのでしょうか。
何事も無かったから良かったものの、この事態はかなり危ういのでは無いかと私は、思いました。
書類と言えば、これだけですから。   以下、顔が写っている写真はいずれもOKを受けて、撮りました。
  
    
 
船に掲げられた歓迎の横断幕
 
 
  
  
  
 
 
                         ラクダの肉[とても高価で、庶民の口にはほとんど入らないそうです。]
 
この食事の後、ちょっと移動したとき、私は私のお気に入りの大切な帽子を落としてしまいました。
すぐ気がついて、当たりを探したのですが、見当たりませんでした。
この先、エジプトや中南米の強い日差しを考えると、私はこの失敗がひどく堪え、疲れたのでした。
その後、私達は20台の大型バスに分乗し、砂漠の中に設置されたテントに向かいました。
道路は広いのですが、車線ラインは引かれていなかったり、見づらかったり、路肩の整備やフェンスなどは設置されていませんでした。
  
 
 
 
道の両側は、廃車された自動車の部品を売る店が連なっていました。
客は、気に入った部品を廃車から選んできるようですが、ほとんどスクラップ状態でした。
車体は、砂漠の砂で白く覆われていました。
 
ガソリンの値段はとても安く、ただ同然で、車は一家に数台所有しているそうです。
気になったのは、古くなり壊された建物の廃材が道の両側に捨てられていることです。
そうした廃材とともに、タイヤや家庭ゴミなども捨てられ、岩や木々にプラスティックの袋が沢山まとわりついていました。
砂漠と行っても、我々がイメージするのはかなり様相がことなり、岩場と泥・土です。
雨は少ないのですが、高地に降った雨が伏流水となり、かなり豊富だそうです。
それが所々で地上に出て、オアシスとなったり、小さな流れになったり、木々を育て、緑が結構ありました。
約1時間後、突如そうした土漠の中に二つの巨大な白いテントが現れました。
 
 
 
日本側の出し物は、南中ソーラン節という新しいソーラン節の踊りと沖縄のエイサーの歌と踊り、花は咲くの合唱でした。
何が日本文化を代表するかの考えは私にはありませんが、私にはこの三つが日本文化を代表するとはとても思えませんし、
もちろん、茶や生け花や歌舞伎ら文楽などが日本文化を代表するとも私は決して思いませんし、
また、会場で紹介された習字や剣玉・折り紙などが日本の大衆文化とも思えません。
アニメは海外で人気だそうですが、これも日本を代表する文化とは言えません。
では、何が日本を代表する文化とは、と問われても、私は全くわかりませんが。
最も、その国を代表する文化を一つ二つあげろと言われても、どこの国の人でも答えられないとは思うのですが。
再集合時間がナンと18時でした。これは大きな間違いでした。

帰り道は、サービスして、来た道とは違う王の家や巨大なショッピングモールなどがある繁華街を通ってくれました。
明日が祭日の金曜日の前と言うこともあり、市の中心はいつも以上の大渋滞でした。
結局、港に着いたのは、帰船リミットの20時を越えていました。
更に、一時にバスが着いたので、乗船手続きは大変な混雑で、時間がかかりました。
その上20時半のレストラン閉店時間も迫っていましたので、レストラン閉店時間は21時までに延長されましたが、
レストランに入り切れない人も少なからずいたようです。
サウジアラビアでは、時間や予定の立て方が日本とは異なると、ピースボートは説明しましたが、
私は、嬉しさのあまり、サウジ政府の言いなりで、要望をしっかり伝えなかったのでは無いかと、不信しました。
事故が無かったから良かったものの、綱渡り状態だったと私は思いました。 
さて、私達が交流したのは、サウジアラビア政府や地元政府官僚などの社会的エリート層でいわゆる庶民では無いと思います。
庶民が行き交う街を自分の足で歩いたのでは無く、移動は全て冷房の効きすぎたバスでしたので、
ですから私のジェッタやサウジアラビア訪問は、ただ来て、上陸しただけという感じです。
でも、ほんの一瞬でも来たことがあると言うことはやはり良いもので思い出にはなります。


4月26日(金)
私の帽子はとうとう出てきませんでした。
ジェッタから乗ったサウジアラビアの青年3人が、GETの私たちのクラスを訪問しました。
質問が許され、多くの人が我先に質問する積極性は良いのですが、
ガソリンの値段はいくらかとか、平均収入はいくらかとか、結婚適齢期は何歳かなど差し障りの無い質問ばかりで退屈でした。
オイオイ、もっと聞きたいことは無いのかよと思いましたが、私は言いませんでした。

4月27日(土)
昨日のアラブ青年、ニックネームレイン(雨)さんと船上でばったり会ったので、少し話しました。
私が、
「私は、仏教徒です。仏教ではたくさんの神々があり、イスラームでは唯一の神はアラーという違いはありますが、
平和を求める心は同じだと思います。私は、トルコのアヤソフィアを訪れたとき、オスマントルコ人が、
キリスト教会・キリスト像などを破壊しないで、漆喰で覆い、モスクに改造し、大切にしたことに感動しました。
コルドバ市のメスキータも同様でした。モスクが異教徒にもおおらかに開放されているのも素敵です。
また、アラビックの書道もとてもきれいで素敵でした。」等と話すと、
彼はイスラームの世界を熱く語ってくれました。   
  私が昨年、2012年5月イスタンブールを訪れた時のアヤソフィアでの写真です。
  
  私が2011年にスペインを訪れた時の、スペイン南コルドバ市のモスク=メスキータの写真です。
  
私は、彼らは所詮金持ちのボンボンにすぎないと思っていたのですが少し訂正したのでした。

ジェッダを後にスエズ運河に向かいました。
 
スエズ運河航行を待つ船舶
 
  
    【続く】

79回ピースボート、スエズ運河・ポートサイド・アレキサンドリア

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月28日(日) スエズ運河航行



楽しみにしていた、スエズ運河の航行です。
前回のピースボートでは、スエズ運河の紅海側入り口サファガからオーバーランドツアーに参加しました。
ルクソールやギザのピラミッドなどを観光し、バスでスエズ運河の脇を通って、ポートサイドで船に合流したのでした。
私はぜひスエズ運河を通りたいと思っていたのです。
全長193.30、km深さ24m、幅205mのこの運河は、中東の平和と戦争を見つめてきました。

早朝朝4時頃、スエズの運河入り口付近で待機していた船のエンジンが始動し始めました。
当たりは、真っ暗ですが、満月の明かりと、スエズの町(サファガ)の灯が灯っていました。
  
5時ちょっと前白みかけた中、船が動き始めました。三番目の出発で、丸一日スエズの航行を明るい時間にたっぷり堪能しました。
 
諸所に見張り・監視塔などがあり職員が警備し、手を振ってくれます。
   
  
  
 
  
スエズ運河の両側ともエジプト国内なのですが、進行方向左側は、木々が茂り、農地や家々があるのですが、
右側は、ほとんど緑の無い荒涼とした砂丘の風景が不思議でした。植林も行っているようです。
 
 
 
スエズ運河は、巾は300メートルほどのところもあり、広い中海もあり、途中何カ所かで船が交差することも出来るそうです。
200メートル毎にスエズからポートサイトまでの距離が記された標識が設置されています。
この巨大な橋は、エル・フェルダン鉄道橋と言い、世界最長の旋回橋だそうです。
  
 
暑い中、クルーはキャビンの窓を掃除していました。【以下なぜか、カメラの設定がモノクロになってしまいました。】
  
遭難した船                     排水官
 
スエズに架かる唯一の橋で、日本の援助で出来たそうで、エジプト・日本友好の橋と言うそうです。
 
  
ここはもう地中海側の入り口・ポートサイドです。
 
 
 
 
                                     船を桟橋に着けるタグボートです。
  
 
桟橋です。
 
 
当初、ポートサイドには深夜22時頃入港の予定でしたが、早まり、午後3時前に入港し、4時には下船が可能となりました。
入港予定が深夜なので、私は翌日はアレキサンドリアへのツアーに申し込み、ポートサイドの町の地図や情報は準備しませんでした。
レセプションからはポートサイドの地図の提供も無く、ピースボート事務局も「リフレッシュディ」のため閉鎖されていて、
“地球の歩き方”の本の貸し出しもコピーサービスもありませんでした。
事情が変わったのですから、地図を準備するとか、本の貸し出し=コピーサービスをするべきだと私は抗議したのですが、
「自己責任」の一言で終わりでした。
港の出口を出たところがポートサイドの中心地なので、その周辺だけを散歩するのであれば地図は不要でした。
でも、詳しい地図があれば、もっと自由に安心してポートサイドの町歩きを楽しめたはずです。
私は、ピースボート・ジャパングレースは決められた以外の臨機応変のサービスが出来ないのだなとつくづく思いました。
ポートサイドの町は、特別な特色・観光スポットはありませんでした。
約1時間ほど歩いていくつかのモスクと教会を見、その後港周辺のお土産屋をぶらぶらと覗きました。
地図が無いので、撮った建物の名前はわかりません。
ポートサイドの街
 
  
  
 
 
 
  
  
                      乗り合いバス           木の下の白い部分は、夜間車の光りが当たると木とわかりやすいそうです。
  
  
   
  
  
  
                                                                          右の窓が私のキャビン
  
スエズ運河は雄大でした。
フランス人レセップスによって開発されたスエズ運河は、1869年開通しました。
完成当時は、巨額の建設費と利用船舶の少なさで経営が難しかったそうです。
1875年、対外債務返済のためにエジプトはスエズ運河会社の株式を手放すざるを得ませんでした。
ここでも、悪名高いイギリスが登場します。
イギリスはどさくさに紛れて株を取得し筆頭株主となり、以後権益を守るためと称して軍隊を駐留させました。
第二次世界大戦後も、イギリスはこの地に居座り続けました。
その後も、スエズ運河は様々な危機と困難を迎えました。
シナイ半島の向こうには、イスラエルがあり、今日なお緊張が続いていますし、
エジプト、アラブの春はムバラク独裁政権を倒しましたが、私達が船旅を楽しんでいる間に、軍事クーデターが勃発しました。
スエズ運河は雄大で穏やかでしたが、今なお平和で安全とは言えない苦しみを抱えているのでした。
私は、カメラの扱いを失敗し、モノクロとなってしましました。
                   
4月29日(月) アレキサンドリア
ポートサイド二日目です。
アレキサンドリアは、マケドニアの英雄アレクサンドロスのよって紀元前330年頃築かれました。
その後7世紀にわたり世界最大の図書館を擁する古代世界の学術の中心として栄えました。
古代ローマのカエサルもこの地を訪れました。クレレオパトラとアントニウスは、ローマのオクタヴィアヌス
(カエサルの後を継いだローマ初代皇帝アウグストゥス)に破れ、後衰退していきました。
この地で2000年も前に一大歴史スペクタクルが繰り広げられた地にいると思う興奮しました。
ポートサイドから、カイロやアレキサンドリアへは、バスで片道3~3.5時間かかります。
私は、アレキサンドリアを訪れるツアーを無条件で選びました。
出発は早朝6時頃です。朝食を船内で取れる時間は無いのでバスの中で簡単なパンとバナナとジュースの弁当でした。
早朝のポートサイド港
 
 
問題は、便通です。最近の私は、朝食前に排便があるようになったので助かります。
途中トイレ休憩はありませんでした。10時頃、アレキサンドリアに着き、アレキサンドリア国立博物館を見学しました。
  
思っていた以上に小さく、非常に有名な物も特にありませんでした。 [中は撮影出来ません]
私たち以外の見学者はほとんど無く、見学時館は45分ほどでしたがそれで十分でした。
  
   
  
その後、ポンペイの柱の遺跡を見ました。
  
  
  
  
  
     
一本の柱がきれいに残っているのですが、後は痛んでいて、当時の様子はうかがい知ることは出来ません。
遺跡近くで子どもがたこを揚げていました。
  
  
  
 
 
その後、イスラーム時代に作られた、カーイトゥベーイの要塞を見学しました。
 
  
 
  
 
  
 
   
以上で、アレキサンドリアでの観光は終わり、1時半頃、エジプト料理のランチでした。
 
アレキサンドリア市内の道路は、車で身動きできないほどの混雑で、大変な渋滞の中、バスで市内を観光しました。
 
 
 
 
  
それでもたいした遅れも無く帰路につきました。
ところが約2時間ほど走って、突然、トラベル・ポリス(=TPと略、観光警察)が、バスを止め、ガソリンスタンドへ誘導しました。
給油が終わってもバスは出発しません。「暫く時間調整」すると説明がありました。
そのすぐ後、「この先でデモが行われているため、TPの指示でこの場で待機します。」と添乗員から告げられました。
エジプトのツアーでは、このTPが最高の権限を持っています。
観光客の安全と効率良いツアーをするために、何十台ものバスを連ねるコンボイで移動したりします。
コンボイの先端と後尾は、武装したTPが護送し、先々の交差点では、TPが交通遮断をしてコンボイを優先通行させます。
私達のツアーはバス2台でしたので、コンボイではありませんでしたが、この待機は、約3時間ほど続きました。
いつ交通規制が解除されるかわからないので、有料トイレ(50米セント)を利用しました。
暫くして、ツアー客の間に疲れが出始め、また涼しくなってきたので、ピースボートが客に暖かい茶を提供しました。
ちょうど良いタイミングでした。同時に私たちは、待機時間が短くないことを悟ったのでした。
これが個人で行動していたら大変な事態です。帰船リミットの時間に間に合わないからです。
でも、私達はツアーで船を離れているのですから、船が出航することはあり得ない安心感がありました。
ローカルなデモですから、暴動的デモで無いことも想像できました。
私達は少し余裕をを持って、喫茶店のテーブルに着き現地のエジプト人と身振り手振りと簡単な英語で交流したのでした。
そのうち、オレンジ色の大きなお日様が地平線に消え、当たりは少しずつ暗くなってきました。
 
TPの人もすっかり打ち解け、記念撮影までしました。
 
待機して3時間が過ぎ、すっかり暗くなり始めた8時頃、ガイドのマンスールさんが、「神の思し召しで解除されました」と告げた時、
居合わせたエジプト人は拍手をし、私たちに握手をしたのでした。
明るい時は、そこから港までは1時間ちょっとらしいのですが、渋滞と街灯が少なく暗いため港まで2時間以上かかりました。
バスの中で、マンスールさんは、公共の土地を民間に売ることを決定した地元政府に対し、
市民が売却しないで公共の施設を作るべきだと要求するデモだ、と伝えてくれました。
私は、アラブの春は確実な歩みをしているのだなと思いました。
30分ほど走ったとき、消されてたバスの電気が付けられ、近くのお菓子屋さんから「差し入れ」がありました、と伝えられました。
詳しい事情の説明はありませんでしたが、長時間足止めされた私たちに近くのお菓子屋さんが同情してのことだと言います。
蜂蜜漬けされたカステラを、マンスールさんがナイフで小分けしてくれました。
おなかがすいていたので、すごく甘くおいしかったです。
添乗員の羽鳥さんは、「夕食の提供を考えたが、衛生面などの事情を考えると方法がありませんでした」と伝えました。
ポートサイドの町は、10時近くなのに多くの人々が出歩いていました。
日中は暑いので、夕食後家族連れで散歩したり、喫茶店でおしゃべりを楽しんでいるのでしょうか。
港では、船のスタッフやレストランは私たちの帰りを待っていてくれ私達は、本日の夕食カレーライスをいただきました。
レストランの従業員たちは残業にもかかわらず、笑顔で私たちを迎えてくれました。
この思いがけない出来事を私は、2000年以上昔、カエサルやアウグストゥスやアレクサンドロス達がこの地にいたのかと想像し、
このような経験は、望んで出来る物では無いし、などとこの出来事を私は不謹慎ながら少し楽しんでいました。
危険な事態にならなかったから言えることではありまし、私はとても素敵な人を知ったからでもあります。
私たちのバスの添乗員は、GETのコーディネーターの羽鳥さんという若い女性ですが、今日は添乗員を務めていました。
彼女は、実に沈着冷静でした。
ピースボートスタッフは一般的にマニュアル通りのことは出来るのですが、変則事態や危機が起きると臨機応変の対応がとても下手です。
彼女には全く変わった様子はなく、声や話す調子の変化も無く、とても落ち着いて穏やかな口調でした。
余計なことを言わないで必要な情報を的確に私たちに伝えてくれました。若いのにとても優れた力の持ち主です。
彼女の冷静さが、私たち乗客の動揺を小さなものにし、落ち着きを与えたことは疑いがありません。
後日、彼女とたまたま話す機会があり、私がこのことに触れると、
すごいストレスで、無事帰船したときは、どっと疲れが出て、皆さんに十分な挨拶が出来なかったと言っていました。
とまれ、私には、“エジプトの今日”を感じた一日でした。           【続く】

79回ピースボート、アテネ(ピレウス)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
4月30日(火)
ポートサイトを出ると、時計を1時間進ませました。
  
5月1日(水)
このクルーズも早くも、一月がたちました。
今朝、目覚めると、のどに違和感があり、声枯れしていました。
昨夜寝ているとき、少し寒さを感じ、シーツを出して掛けました。風を引いたのかもしれません。
今日もGETが無いので一日運動を止め、本を読んだり、4日からのパリ旅行の荷物の準備をしました。
荷物は、最小限にしました。小さなスーツケースに収まりそうです。
日本から、コインユーロを入れた財布を持ってきたはずなのにいくら探しても見当たりませんでした。
昼過ぎ、ギリシャのピレウス港沖に着きました。
 
  
今日はメーデー、アテネの船員組合がストライキをしているので、港に入ることが出来ず、港沖に停泊しました。
『アウシュビッツに行くツアー』だけが、昼過ぎ小舟でピレウス港に向かいました。


5月2日(木) ピレウス(アテネ港)
いよいよギリシャ・ピレウス入港しました。朝4時頃、船のエンジンの始動音で目が覚めました。
  
 
 
しかし、パイロットが入船し、着岸したのは予定より1時間以上遅れた8時でした。約1時間後、上陸許可が下りました。
ピレウスの帰船リミットは15:00です。
私は、ツアーは申し込まず、新アクロポリス博物館だけに行こうと決めていました。
前回アテネに来た時、新アクロポリス博物館はまだ完成していなかったからです。
GETの仲間一人が、同行したいというので、一緒に出かけました。
また、武陵源ツアーで一緒になった友人3人がメトロの切符の買い方を教えてほしいというので、駅まで同行することになりました。
タクシー乗り場でタクシーを待っていると、駅まで一緒に行きたいという女性二人がいたのでタクシー2台に分乗し駅に向かいました。
しかし、タクシーの運転手は、ピレウスの地下鉄の駅までは近すぎると乗車拒否しました。
私は、メーターでは無く少し高くても良いと思ったのですが、同行者がいるのでそうも行かず、言い争っていると、
警官が来て、拒否するなと言ってくれました。
運転手は、メーターを倒さないので、メーターを倒してと言うと、5ユーロだというので、OKしました。
降りるときチップ代を含めて6ユーロ払いました。
ピレウスの地下鉄駅は、地下では無く、全くの地上駅なので間違ったかと、何人かに確かめると、やはりそうでした。

だんだん5年前の記憶がよみがえって来ました。私は、5年前ピースボートでギリシャ・ピレウスを訪れました。
船の故障や、設備不良などでピレウスに数日間停泊し、私はアテネの町をかなりくまなく歩くことが出来ました。
今回は、数時間だけの滞在ですから、前回建設中で見ることの出来なかった、新アクロポリス博物館だけに絞りました。
アテネの地下鉄線は1号線、2号線、3号線の三本だけです。でも、私は乗る電車を間違えてしまいました。
一度改札を出てしまっても90分以内ならもう一度乗れるのですがあわてていたので、切符を買い直しました。
アクロポリ駅の地上に出ると、目の前に新アクロポリス博物館が目に入りました。

目の前は、アクロポリスの丘・パンテノン神殿です。

5年前は、まだ未完成でエキジビションだけで、入場も無料で、入り口は地下鉄の出口の真ん前でした。
が、完成した博物館のチケット売り場は、右に大きく迂回し、ちょうどアクロポリスの丘・パルテノン神殿の裏側でした。
チケットは5ユーロで、私は、少し安すぎるなと思いました。ボリュームのある国立考古学博物館と比べてはいけないのですが、
アクロポリスの冠が付いた博物館としてはやはりボリューム不足で、展示物も、痛みがひどくまた種類も少なかったです。
しかし、ガラス張りの通路の下は、遺跡で、古代にタイムスリップしたような興奮を覚えました。
  
 
写真撮影が出来る3階は、残されたパーツが少なく多くが修復されたものでした。[1、2階は写真撮影出来ません]
でも、パルテノン神殿の上部を飾るレリーフや壁の雰囲気は伝わって来ましたし、ガラス越しに見えるパルテノン神殿の風景は良かったです。
 
 
 
 
 
 
帰船リミットが午後3時なのであまりゆっくりは出来ないので、大急ぎでした。小一時間ほど見て、帰路につきました。
博物館前の緩やかな坂を少し下るとアテネの最大の繁華街アマリアス大通りです。
するとアドリアノス門が目に入ってきました。 振り返るとアクロポリスの丘が見えます。
  
その門をくぐると、ゼウス神殿です。入り口はちょっと遠いので、塀の外から写真を撮りました。
 
アマリアス通りを約1kmほど先のシンタグマ広場に向かって歩きました。
右にザビオン公園、国立庭園があります。         ローマ時代のバス遺跡
  
途中、英国教会、ロシア教会などを左に見ながら、緩やかな坂を上りました。
  
無名戦士の墓、国会議事堂、シンタグマ広場はあっという間でした。
 
当初14時だった帰船リミットの時間が、着岸時間が遅れて15時になったのですが、
昼を過ぎると日差しも強くなるので、あちこち寄り道をしないで道を急ぎました。
12時過ぎ頃地下鉄シンタグマ駅からメトロに乗り、ピレウス駅に向かいました。
ピレウス駅は地下鉄1号線の終点なので乗り過ごしの心配が無いのでリラックスでした。
ピレウス駅から船まではだらだら歩いて30分ほどなので、もう心配はいりません。
  
   
 
船上からアテネ市内を見ました。
 
  
  
午後の日差しは、肌に突き刺さるほど強いです。
それでもゆっくり歩いたので、大汗はかきませんでした。
1時過ぎ船に戻り、船でちょっと味気ないハヤシライスをおかずにきんきんに冷えた500ccのビールをゆっくり楽しみました。
たった500ccなのに少し酔っ払ったので一缶で我慢しました。
15時の帰船リミット間際は、一挙にツアーが帰って来たので、入船手続きに炎天下、30分も行列したそうです。
観光スポット満載のギリシャ・アテネがたったの半日では、多くの人には、不満が残ったことでしょう。
私は、メトロの乗り間違いはしましたが、アテネの町歩きをほんの少しですが味わうことが出来楽しかったです。
狭いアテネの町ですが、4、5日滞在してのんびり町歩きを楽しみたい町です。
古代ローマ時代、カエサルとポンペイウスは対立し一大決戦を迎えていました。
ポンペイウスの根拠地はギリシャ・アテネでした。両雄は、アテネの地では戦いをしませんでしたが、
古代ローマの両軍人がこの地にいたのかと思うと町を歩いても楽しくなりました。
夕方涼しくなり、私は酔いも冷めたのでアテネの町を遠くに見ながら甲板をゆっくり小一時間ほど歩きました。
前回アテネを訪れた時のブログ1はここ、 前回アテネを訪れた時のブログ2はここ
5月3日(金)
私は、この日は特別の予定は無く、明日からこのツアーを一時離脱して行くフランス小旅行の準備をしました。
荷物は最低限にしました。昼過ぎ、一時下船についての案内の書類が来ました。この書類かなり面倒です。
第一に、有料サービスの精算が必要です。預けてあるパスポートの受領、チェックアウト(=再乗船時に必要な乗船券の受領)、
「一時下船中の連絡方法の書類」などの手続きが必要です。
その他「一時離脱手配手数料」が約1万円ほどかかりました。
明日からいよいよ下船し、パリ小旅行が始まるからです。
あまり欲張らず、セーヌ川クルーズとレンタ自転車を使っての観光と、2、3のパリ近郊の町を電車で訪れる予定です。
また、ヴェルサイユ宮殿はまだ訪れたことが無いので行きたいと思っています。
心配は、ルアーブルでの合流です。帰船リミットは、おそらく20時だろうと思います。
電車は、パリ発14:50、ルアーブル着16:55の予定なので何事も無ければ全く問題はありません。
  
   [ピレウス終わり]

 

79回ピースボート、ナポリ・ミラノ

2013年08月31日 | 79回ピースボート
5月4日(土) ナポリ

船は、ナポリからバルセロナを寄港し、ル・アーブルに向かいます。
私は、バルセロナとル・アーブル(モンサンミッシェル)は行ったことがあるので、今回はナポリでツアーを離脱し、
一人でパリとその近郊を歩くことにしていました。
船に乗る前から、ホテルや鉄道の切符を予約していました。
 
 
9時にレセプションで、一時離脱の精算手続き、パスポ
ートの受領、必要書類を受領しました。
ミラノ行き電車は午後2時です。午前中、ナポリの街を少し歩きたいと思いました。10時に上陸許可が出ました。
                                     ヌオーヴォ城
 
王宮                                  国立考古学博物館                                  
 
王宮                                  地下鉄の工事現場[遺跡があり全く進んでいません。]                         
  以上は、船上から

下船し、早速歩きました。 ヌオーヴォ城
 
 
ウンベルト1世のガッレリア
 

 

  
サンカルロス劇場
 
プレシート広場                            サン・フランチェスコ・ディ・パオラ聖堂
 
 
                          王宮
  
王宮内入り口
 
折しも、自転車のレース・イベントが行われていました。
  

  
サンタルチア一帯
  
ベスビオス山                              港ターミナル
  
11時30分、船に戻り、ランチを食べ、下船しました。
タクシーでミラノ中央駅に向かいました。タクシードライバーはメーターを倒さず20ユーロを要求しましたが、10ユーロにまけました。
 
ミラノ行き電車は、14:00発、ミラノ18:45着。10分遅れで出発し、ミラノに到着しました。
  
   
座席前のテーブル、コンセントとブラインドのスイッチがあります。
  
【2010年に私が歩いたナポリのブログはここ】

久しぶりの鉄道は楽しかったです。 
ミラノのホテルは、ミラノ駅前のホテル・フロリダ(60ユーロ)です。
  
ちょうど一年前の5月、私はミラノ・トルコを旅し、このホテルの隣のミニ・アオスタホテルに泊まっていました。(5.18ユーロ)
ミラノ中央駅                                ミラノ中央駅に架かる看板
  
駅構内
 
SPQR=Senatus Populusque Romanus の略語、意味は「元老院とローマの人民」、事実上古代ローマの紋章
 
チェックインを済ませ、駅構内のスーパーに行ったのですが、閉まっていました。土曜のためなのか、閉鎖したのかわかりません。
駅前メインストリートにはたくさんの安いレストランが沢山あったので、行ったのですがほとんどの店が土曜日のため休みでした。
仕方なく空いているファストフード店に入り、スパゲティとパンと赤ワインを頼みました。
ホテルのインターネットは、通信事情が良くなくあきらめました。
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79回ピースボート、パリ1(セーヌ川クルーズ,ヴェリブ)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
 5月5日(日) パリ

ホテルの朝食は、典型的なコンチネンタルブレックファストで、おかずのない、パンとコーヒーとヨーグルトだけでした。
ホテルからミラノ中央駅までは、徒歩3分ほどですのでとても気楽です。
8時50分に駅に着くと、電車はすでにホームに停車していました。
 
9:10発が5分遅れで出発し、途中10分ほど遅れました。
チューリッヒ着13:29でパリ行き電車は13:34、乗り換え時間は、わずか5分しかありません。
(ナポリ~ミラノ=95ユーロ、ミラノ~チューリッヒ=32ユーロ、チューリッヒ~パリ・リヨン駅=41ユーロ)。
日本で、ミラノ~パリ間での電車を予約した時、上の二つはセットになっていたので、電車は変わらないと勝手に私は思ったのでした。
イタリア・スイスの国境越えは、特別なことは何もありません。
電車に乗って暫くして検札がありましたが、スイスに入ったと思われてから車内放送がドイツ語っぽくなり、再度の検札がありました。
すごく大柄の女性でとても美人車掌がきれいな英語で話しかけました。
電車は、険しいアルプスをいとも簡単に超していきます。
でも、途中でなぜか胸騒ぎを覚えて、車掌に事情を話しました。
すると、車掌の話では、運転手に連絡すると言います。
ひとまず安心しましたが、暫くしてやはり心配になってもう一度車掌に事情を同じ返事でした。
なんとチューリッヒには、定刻通りに着いたのでした。
「窮すれば通ず」とは、よく言ったものです。私はチケットを見せて必死に英語で訴えたのでした。
車掌から運転手に事情が伝わり、運転手は遅れを取り戻したのだうと思います。
私は、大感激でした。外国の交通事情は、20分位の遅れは通常ですから。
日本の交通システムは、優れて優秀です。
特急が遅れたときは、それに接続する電車は発車時刻が調整されます。
日本の常識は外国では非常識なのです。外国では、そういう配慮・システムはほとんど皆無です。
チューリッヒからはTGVでしたからこちらの出発時間変更はあり得ませんが。
ですが、定刻通り着いても、乗り換え時間はわずか5分です。
車掌は、降りてまっすぐ進み、左のホームだと教えてくれましたが、ヨーロッパでは何番線かは決まっていないです。
チューリッヒに着く前に、降りる準備をして、真っ先に降り、駆けだしました。
電光掲示板がなかなか目に入らず、右往左往してやっと見つけ16番線とわかり乗り込みました。
この間約3分の出来事で、無事乗ることが出来ました。
慌てての乗車は、スリの格好の餌食なので、急ぎましたが十分警戒しました。
席に座って、暫くして号車が一つ違っているのに気づきました。
ですから、残念ながらチューリッヒの駅の写真を撮るどころではありませんでした。
  
  
  
  
 
車窓から見えた山は、マッターホルンでは無いでしょうか。
かつて、像を従えたハンニバルやカエサルやナポレオンが、この険しいしかも冬のアルプスを越えました。
どのように越えたのかの想像は私を少し熱くさせてくれました。
アルプスは、岩が荒々しかったです。
しかし、山々の間の草原では、牛が草を食み、すっかり田園的な家並みになってきました。
また、折しも日曜からなのでしょうか、家族連れらしい人々が、ウォーキングやサイクリングやローラースケートを楽しむ
人々の姿が車窓から多く見られるようになりました。

数年前にパリ・リヨン駅に来たのですが記憶は全くありませんでした。
これはリヨンの地下鉄駅ホームでしょうか。

地下鉄の回数券を買おうと自動券売機に向かったのですが、この機械はフランスのカード専用機でした。
仕方なく窓口を探して買いました。
パリの地下鉄は、何号線で何行きがわかれば乗り降りは難しくありません。
ホテルまでは、2回乗り換えで約30分かかりました。
でも誰にも聞かずにメトロマップを見ながらホテルのある駅に降りました。
しかし、地上に出てもホテルの方向がわかりません。
仕方なく場所を聞きました。外人二人連れでたが一人は日本人でした。
通りの名前がよくわからないようで、フランス人の友達と二人が相談して教えてくれました。
ホテルは、レオナルド・ダ・ヴィンチと言う立派な名前のホテルでしたが、1泊65.42ユーロ、二つ星でとても貧弱で、
これでは地元の人でもわからないの当然かも知れません。
部屋は狭く殺風景でした。冷蔵庫が無いのが一番痛いです。でも、パソコンはフリーで使えます。
地下鉄3号線のパルマンティエから徒歩4分で、交通の便はまぁまぁでした。
 
ホテルのレセプションでスーパーを聞き、晩ご飯を仕入れてきました。
大きなスーパーがすぐ近くにあり、ミニスーパーも2軒ありました。
箸やフォークや小皿、ワインオープナーを忘れてきたのは失敗でした。レセプションで借りました。

5月6日(月)
真夜中の2時45分、けたたましい非常音で眠りを起こされました。
何が起きたのか、咄嗟にはわかりませんでした。ドアを開けると、警報音がなり、非常誘導灯が点滅していました。
やっと事態が飲み込め、火事かなと思い、パスポートと上着と帽子をリュックに入れて、1階におりました。
約20人ほどが着の身着のまま、心配顔で、裸足の人もいました。
5分ほどして警報音が止みました。ホテル側からの説明は全くなく、宿客も何の説明も求めることも無く、部屋に戻りました。
日本でも経験したことの無い驚きの体験でした。さすがに写真は撮りませんでした。
6時50分頃目が覚めました。空はどんより曇り、寒かったです。
朝食は、やはりコンチネンタルブレックファーストでした。
フランスパンとクロワッサンとバターとジャム、そしてオレンジジュースとコーヒーだけの何とも貧弱な朝食です。
今日は一日雨模様なのでセーヌ川クルーズにしました。10時からというので、9時15分のホテルを出たのですが、
あまりに涼しいので、一度ホテルに戻りステテコをはき、ウインドブレーカーを着込み、カッパと傘を用意して再出発しました。
地下鉄を乗り継いで、クルーズ乗り場近くの駅に着き、地上に出ると本格的な雨でした。
9:50にチケットを買いました。13.50ユーロでした。
セーヌ川クルーズ 乗り場
 
出発は10:15でした。雨のため2階席には誰も行きませんでした。 トイレ
 
セーヌ川の水量は多く流れは急でした。さしずめ、「五月雨を 集めて速し セーヌ川」と言った所でしょうか。
水は、乳白色かかった茶色です。
    
   
グラン・パレ
 
アレクサンドリア3世橋
 
プティ・パレ                    オランジュリー美術館
 
ルーブル美術館
 
サン・ジェルマン・ローセロワ教会を左岸に見て、そこでUターンしました。
 
ノトルダム大聖堂前を行かなかったのはちょっと残念でした。
オルセー美術館
 
 
マドレーヌ教会  
 

エッフェル塔
  
自由の女神像
   
  
再びUターン、約1時間10分のクルーズでした。雨は途中から一層激しくなっていました。
セーヌ川の水量は多く、その流れは急流で、川岸を歩く人々は危険そうでした。

当初の計画では、ここからレンタ自転車を借りて、凱旋門などを訪れる予定でしたが、ひとまずホテルに戻り、
お昼を食べながら次の計画を練り直しました。
昼食を取り終わると雨は止みましたが、分厚い雲でしたので、自転車は止めてホテルからバスティーユ方面に歩くことにしました。
ノートルダム・ド・ラ・クロワ教会(内部)
   
  
リサイクル回収ボックス                                     サンタンブロワーズ教会
  
バスティーユ広場、7月革命記念柱                   
  
オペラ・バスティーユ
  
ヴィクトル・ユゴー記念館                      サン・ポール・サン・ルイ教会
  
カルナヴァレ博物館                    パリ市資料館
 
コニャック・ジェ美術館、
 
ピカソ美術館
 
サン・ドニ・デュ・サン・サクルマン教会              シルク・ディヴェール(150年以上も前に建てられたサーカス小屋)
 
レピュビュリック広場
  
サン・マルタン運河(閘門式水路) ここはお薦めです。 最初の写真の反対側は、地下に潜って行きます。
 
  
サン・ジョゼフ教会                                コインランドリーがありました
   
地下鉄の回数券を適宜使って歩きました。サン・マルタン運河はとても味わいがありました。
パリ一日目は、セーヌ川クルーズとバスティーユの街の町歩きを十分楽しみました。

5月7日(火)
さて、いよいよレンタバイク=ヴェリブの挑戦です。
5年前バルセロナで初めて見て以来、ヨーロッパ各地で流行しつつある乗り捨てレンタ自転車に乗りたいと思っていました。
まず各ステーションにある「ボルヌ」で初期登録が必要です。      これはチケット
  
日本であらかじめ登録の方法(日本語)を調べて行ったのですが、なかなかうまく行きませんでした。
何度か挑戦してやっと、私の番号が記入されたヴェリブカードが出て来てやっと登録が終了しました。
登録には、ICチップ入りのクレジットカードが必要で、自転車が盗まれた場合などの保険として150ユーロのデポジットが必要です。
ヴェリブカードをボルヌに入れて、カードの裏に記載されている番号と暗証番号を入力し、1日・2日・1週間などを選びます。
一日は1ユーロ、30分以内なら何度(一度スタンドに戻し、再度借り直す)でも無料ですが、そのまま乗り継ぐと、1時間1ユーロ、1.30分2ユーロです。
私は、面倒なのでそのまま乗り継ぎました。
フランスは、車は右側通行、歩道への乗り入れは原則禁止です。
自転車優先道路がある場合はそれを利用し、バス・自転車レーンがあるときはそれを利用しますが実際はかなりルーズです。
しかし、私は外国人ですので、万一違法行為だと咎められたとき抗弁できないので、歩道を通る時は、自転車を降りるなどルールを守りました。
フランスの道路は広い上に交差点がサークルになっていたりと慣れないとまごつきました。
また、エッフェル塔や凱旋門付近には、ヴェリブのステーションや駐輪場が見当たらないのも困りました。

ホテルの近くで借りて、レピュブリック広場を通り、
サン・マルタン門                サン・ドニ門                   パレ・ガルニエ
  
マドレーヌ教会                            コンコルド広場                             オベリスク
  
コンコルド広場からマドレーヌ教会                グランパレ
 
シャンゼリゼ通りを凱旋門に向かって一直線に疾走しました。 でも、わずかに上り坂です。
凱旋門
   
左方向がシャンゼリゼ通り        そこからセーヌ川沿いに戻りました。右側:セーヌ川、左側:シャンゼリゼ通り
 
パリ近代美術館
  
エッフェル塔
 
エッフェル塔前のシャイヨー宮
 
アレキサンドル3世橋
  
外国の要人が来仏していて、一部が交通規制され、だいぶ大回りさせられました。
旅では、予想外の色々な事が起こるものです。
その上、途中でパリ全体のマップを落としてしまいました。ポケットから落ちたようで、引き返しましたがありませんでした。
自転車を借りて3時間以上が経過し、返却のタイミングを計っていたのですが自転車ポストが見当たりませんでした。
レピュブリック広場付近に来て、自転車ポストがあったので返却しました。
そこからホテルに向かったのですが、そこは昨日歩いた所でサン・マルタン運河の方向だったのですが道を間違えて、右往左往、
やっとのことで、ホテルに戻り、ランチと昼寝の後、次のプランを考えました。

自転車は移動には便利ですが、地図が頭に入っていない私にはやはりむずかいしので、メトロと歩きですることにしました。
セーヌ川の中州・シテ島に行きました。
最高裁判所                               サント・シャペル入り口
 
 
  
 
 
  
前回パリに来た時は来た時、サント・シャペルはチケットを求める長い行列で入りませんでした。
今回も少し行列が出来ていたのですが、今回は時間がたっぷりあるので並びました。でも8.50ユーロは高いです。
ノートルダム大聖堂は、今回中に入りませんでした。ここもチケットを求める人の長蛇の列でした。
  
                                      ノートルダム大聖堂前の広場                   水飲み場です。
  
ノートルダム大聖堂の側面                     裏からのノートルダム大聖堂          ノートルダム大聖堂の鐘                                                      
     
サン・ルイ橋を通って同じくセーヌの中州サン・ルイ島に渡りました。
願掛けの鍵
 
シテ島・ノートルダム大聖堂
 
サン・ルイ・アン・リル教会
   
パリの有数の高級住宅街と言われるローザン館・ランベール館ですが、それほど豪華には思えませんでした。
 
サン・ポール・サン・ルイ教会(たぶん再訪) ヨーロッパの都市では、町中にメリーゴーランドが良くあります
   
サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会
    
 
パリ市庁舎、ちょうど市庁舎の衛兵に出会いました。どこかのイベント会場に向かうのでしょうか、バスに乗り込みました。
  
パリ市庁舎裏                               サン・ジャック塔
 
だいぶ自転車で走り、歩いたので疲れたのですが、リヨン駅に寄って、9日行く予定のデジョン行きの切符を買いました。
行きはTGVの2等が無く、仕方なく1等(86ユーロ)を買いました。帰りは2等で50ユーロでした。    【パリ1終わり、続く】

79回ピースボート、パリ2(ヴェルサイユ)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
5月8日(水) ヴェルサイユ宮殿 



今日は、一日ヴェルサイユ宮殿です。でも、天気は雨模様です。
メトロでサン・ミッシェル駅まで行き、そこでRERに乗り換えます。
 
RERは近郊国鉄です。メトロと相互乗り入れしていますが、一度メトロの駅を出て、
RERのサン・ミッシェル・ノートルダム駅で切符を買う必要があります。
日本の鉄道のように、電子化されていないので、精算システムが整備されていないらしいのです。
ですから、メトロの切符のままRERに入場し、検札に会うと不正乗車と見なされることがあるそうなのです。
外国人で知らなかったと言う抗弁は許されることもあるそうが、外国人の私たちはそういうトラブルは避けた方が良いです。
さて、来た電車の乗客に「ヴェルサイユ行きか?」と聞くと、そうだというので乗りました。
そこまでは地下を走っていたのが、シャンド・マルストゥール・エッフェル駅を通り過ぎた頃から、地上に出ます。
電車は右に大きくカーブを切って、セーヌ川の上を横切るではありませんか。
ヴェルサイユ宮殿はセーヌ川を横切りません。そこから南北に路線が分離するのです。
私の発音がおかしかったのか、先ほどの彼が間違えたのかわかりませんが、違う行き先の電車に乗ってしまったようです。
次の駅で降りて、戻って、乗り換えしました。今度は間違いなくヴェルサイユ宮殿行きでしたが、ほぼ満員でした。
電車の本数が少ないので、30分は時間をロスしたでしょうか。
ヴェルサイユ・リヴ・ゴーシュ駅からヴェルサイユ宮殿までは歩いてすぐです。  
  
ヴェルサイユ宮殿入り口
  
門を潜ると、長蛇の列が出来ていました。
私は全く迷うこと無く、その列の最後尾に並んだのですが、その列はチケット売り場で無く、入り口でした。
外国の美術館や博物館では、チケット売り場と入り口が全く別々のことが往々にして多いのです。
30分ほどして、セキュリティチェックの場所に来て初めて、そこがチケット売り場で無いことがわかりました。
私は、チケットを買うためにもう一度行列し、入場のためまた行列かとどっと疲れが出ました。
でも、私のように間違う人は多いのでしょう、そこの職員は小さな紙切れをくれました。
そしてチケットを買って戻って来いと言っているようでした。
そこから50メートル離れたところにチケット売り場の大きな看板が確かにありました。
チケット売り場は空いていて、並ばずに買うことが出来ました。
トイレにも入って、入り口に戻り先ほどの紙切れを見せると脇から入れてくれました。
大げさですが、地獄で仏の感じでした。
ヴェルサイユ宮殿内は撮影が出来ますが、ひどく混雑しているで良くは撮れませんでした。




宮殿内を見終わって、少し晴れ間が出ていたので、ベンチでお弁当のサンドイッチやバナナを食べて、しばらく休憩して、
庭  園内を『地球の歩き方』の参考コースに従って歩くことにしました。
ですが、地図と実際が折り合わず、途中からいい加減に歩きました。
各スポットは名前が付いています。初めはメモしたのですが、帰国したらわから無くなるだろうと思い、止めました。
 
 
                                     南花壇
 
                                     オランジュリー
 
 
  
ケレースの泉水
 
サトゥルヌスの泉水                         舞踊場の木立
 
舞踊場の木立                               水庭
 
 
 
アポロンの泉前から、大水路を臨む                       ベルサイユ宮殿方向
 
庭の半分ほどを見終わって、大運河手前のアポロンの泉に出ました。
   

ここから大トリアノン、小トリアノン、アントワネットの離宮に向かいました。
まず、アントワネットの離宮 アントワネットと彼女の娘たちの有名な肖像がありました。
小トリアノン 中は博物館です。                           礼拝堂
 
  
 
                                     昔のトイレ          小トリアノン
  
王妃の村里は、離宮庭園内に当時のフランスの村里に似せて作られた人工的な物です。
彼女は、一説には庶民の生活に憧れ、プライベートな時間をここで過ごしたと言われますが、私には、彼女の真実はわかりませんが、
何とも権力者とは気ままでわがままなのだろうと思いました。
                                     愛の殿堂
 
                                  水車小屋
 
マルコポーロの塔
 
  
左:岩山、右:見晴台
  
                                     フレンチパビリオン
 
館内のトイレ
   
 
大トリアノン
 
 
  
  
   

ここから庭園の右半分に戻り、散策しました。
 
 
 
                                     ドラゴンの泉水
 
 
 

入り口に戻ってきたのは3時か4時頃でしょうか、この頃から、噴水に給水が始められました。。
とても広く、私には、もう一度アポロンの泉など大きな噴水に戻り、写真を撮る元気はありませんでした。
ヴェルサイユ宮殿は午前中は大変混んでいるようなので、遅い午後がお薦めかもしれません。
ヴェルサイユ一日券はアントワネットの離宮なども入ることができ、25ユーロです。
現地のツアーの多くは半日ツアーで、ヴェルサイユ宮殿と庭園の一部を見るだけだと思います。
それでも十分ですが、一日かけてのんびり楽しむのもいいです。レンタサイクルがありましたが、雨なので借りませんでした。
往きの電車ミスが泣く、薄曇りなら疲れずのんびり見ることが出来たでしょう。
時折大雨が降るのでレインズボンをはいたり脱いだり、晴れるとかなりの暑さでした。
雨が降らなければ、もっとゆっくり歩け、傘を差さなければ庭園の写真はもっと沢山撮れました。
お弁当持参は大成功でした。帰りの電車は全く空いていました。今度は間違えること無く帰りました。
 
ミラノ→チューリッヒ→パリ・リヨン駅行きチケット
    【ヴェルサイユ宮殿終わり】 【続く】

79回ピースボート、パリ3(デジョン)

2013年08月31日 | 79回ピースボート
 5月9日(木) ディジョン
パリの南西、TGVで2時間、かつてブルゴーニュ公国の首都だったディジョンを訪れました。

人口16万人ほどの小さな町です。駅前の大通りを暫く行くと、ダルシ広場です。
確かこれはメトロのサン-ラザール駅(鉄道の北駅と連結)
  
ディジョン駅                              ダルシ広場のよくわからないモニュメント(便座)
 
                                     ギョーム門
 
木組みは北フランス地方の建物の特徴とか
 
                                     観光スポットの方向を示す路上の案内マーク
 
ノートルダム教会
 
  
壁にあるフクロウ(左手でなでると幸福になるというのですっかりツルツル)   
      
  
サン・ミッシェル教会
 
  
市庁舎                                 グランドシアター
    
Mvse rvde
  
        
ブルゴーニュ大公宮殿
 
                       シャボン玉発生器
     
  
  
    
サン・ジャン教会                            教会裏は劇場
  
教会
 
サン・ベニーニュ大聖堂
 
  
  
ここに隣接する考古学博物館は素敵でした。
 
入り口は全く何かわかないほど貧弱なのですが、中は素晴らしいです。
国籍を聞かれるだけで、入場は無料、写真撮影もOK、展示物にぶつからないようにリュックは前にしてとだけ言われました。
 
  
  
 
    
   
 
   
 
 
 
   
こんなに素晴らしい博物館が無料でしかも写真撮影もOK、でも入り口がわかりづらいのが残念でした。

  
 
 
   
時間がだいぶ余ったので、モーゼの井戸(シャンモル修道院)に向かいました。
『地球の歩き方』では、650mとありますが、1kmはあるのではないでしょうか。
でもわからないので、自転車に乗っているご婦人に聞きました。
教えられた通りに行ったのですが、まだ到着しません。すると先ほどのご婦人とばったり再会しました。
すると、そのご婦人は自転車を降りて、近道はこちらと案内してくれました。
そして、現在は病院の敷地内にあるそうで、入り口のガードマンに聞いてくれました。
すると、ガードマンは、今日は開放されていないと言うことでした。
私は、だいぶ疲れていたのですが、旅先でのこうした出会いに勝る喜びはありません。
私は、日本から来たことなど少し話しました。
駅まで戻り、16:59発の電車を待ちました。(行きは1等で86ユーロ、帰りは2等で50ユーロでした。)
ヨーロッパの町の教会では午後は昼休みが多いのですがは、デジョン町の教会は、昼休みが無く、開かれていました。

リヨン駅まで行って、明日行こうと思っているルーアンの切符を買いました。
切符には、往復の時間が印字されていますが、座席が指定されていませんでしたので、
職員に聞くと、ローカル線なので普通車で、座席指定では無く、どの電車でも乗れると言うことでした。
また、駅は北方向なので、リヨン駅では無く、サン・ラザール駅だと何度も親切に教えてくれました。
今日は、とても優しい駅員さんと初老のご婦人と巡り会え、とても良かったです。        【ディジョン終わり・続く】