風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

黒磯 那珂川

2005年10月28日 | ウォーキング
10.28黒磯 那珂川散策
宇都宮線 黒磯駅→晩翠橋→想い出橋→那珂川河畔公園→ふれあい橋→黒磯公園→黒磯郷土館→黒磯神社

→黒磯駅
12:45~14:00約6キロ、晴れ。[写真は、那珂川にかかる晩翠橋]
晩翠橋付近は、河岸を歩く、木が茂り、木陰でさわやかであった。
那珂川は小さいが、水はきれいで、水量も豊富であった。
那珂川河畔公園はきれいな公園だった。池、小川、橋、築山、が起伏に富んでちりばめられていた。
ほとんど人がいない。
この公園と黒磯公園をふれあい橋がつなぐ。黒磯公園は高台にあり、ふれあい橋はスロープと螺旋階段でできている。
この橋の周辺はカタクリの群生地だとか。
登り切ると、那珂川・那珂川河畔公園が見える。その対岸は杉の森が鬱蒼と続く。
郷土館はとても小さい。管理人が植木工事を見ていて留守で電気が消えていた。
靴を脱いでスリッパで入る建物は珍しいが、入って電気を付けたら、管理人が来た。江戸明治の生活用品や農機具や漁具などが所狭しと置かれている。
茅葺きの民家が隣接して建っている。
江戸時代は黒磯は幕府の天領であったとか。
江戸時代の百姓(豪農)の家で、土間部分が約半分、さらにその半分が馬小屋と味噌樽などの倉庫であった。
畳はなく、すべて板張りで、床は黒光りしていた。
おもしろかったのは、一時管理人がこの家に住み、そのとき、水道を引き、風呂場を造ったのだそうだ。
厠は屋外。
平日で、市街・郊外とも人はほとんどいない。
黒磯は、遠い。[浦和→小金井→宇都宮→黒磯と乗り継ぐ]

鷲宮神社・コスモスふれあいロードめぐり

2005年10月25日 | ウォーキング
10.25(火) 10:30~12:55 約6.3キロ
=10.23の“駅からハイク”のコースを散策した。
[写真は、鷲宮神社]
宇都宮線/東鷲宮駅→コスモスふれあいロード→郷土資料館→鷲宮神社→市役所横の公園で昼食→コスモスふれあいロード→百観音温泉→東鷲宮駅
町の中央を流れる葛西用水路両岸(片道約5キロ)に、行政と市民でコスモスが植えられた。
そこは、町の中央ではあるがほとんど田と畑、そして新しい住宅がひさしを寄せ合うようにかなり建っている。
鷲宮神社は、かなり大きく古い。
最近気付いたこと、神社に「能楽堂・神楽堂」があること、八幡神社、日枝神社、氷川神社、などいろんな神社が同じ場所にまつられている、日本はやはり八百万の神なんだな。
駅は、JR東鷲宮と東武鷲宮二駅あり、JR駅前は閑散としている、鷲宮神社前道路は商店街だが、人通りは全くない。
市役所、消防署、図書館、郷土資料館はやけに大きくきれいで、周りの住宅・田畑と不釣り合いであった。
さわやかな風が吹き、気温も高く、暑いくらいで、半袖シャツ一枚でも汗がでた。
平日で、歩く人はごく少数、気を遣わず、のんびり歩いた。
昭和22年の利根川氾濫で水の高さを示す赤いマークが、鷲宮神社近くの電柱に1メートルほどに印されていた

赤花そば・コスモス花と静御前まつり

2005年10月15日 | ウォーキング
駅からハイキング=栗橋町 [写真;赤花そばの花]
10/15 11キロ約3時間
宇都宮線栗橋駅西口→鎌倉古道→赤花そば・コスモス畑→焙烙(ほうろく)地蔵=関所破りで処刑された人を供養→関所跡碑→八坂神社→静御前墓所→栗橋駅東口
栗橋は初めてであった。赤花そばの花を見るのも初めて。コスモス・そば花とも満開であった。
栗橋は、農村である。城下町ではなかったようだ。
大きな寺、神社が点在していないようだから。
農道に墓が点々とある。集落ごとにまとまってでなく、一家・二家という感じで。
どうしてなのだろうか。不思議な光景であった。
駅を離れたところから駅に向かって新興の住宅が建っている、東京までは通勤範囲なのだろう。
畑の中に、ポツンという感じで立っている家もけっこうある。
正午前から雨が降り出し、急ぎ歩きになったが、ゴール間近の八坂神社で雨がやんだので、境内でおむすびを食べた。
まつり、ということでラーメン屋のラーメンが300円だったので、焼酎の水割りでラーメンをたべ、まつりを観覧した。
ハイキングのコース取りは、農道が多く単調でおもしろみが欠ける。
鎌倉古道が残っていれば、そこをもっと歩いた方が良い。
寺・神社等も少なかった。
市内の電柱の2メートルほどの高さに赤色の帯が印されている、昭和22年の利根川の洪水氾濫の水の高さという。


2005年10月読書

2005年10月10日 | 読書ノート
1.『階級社会』―グローバリズムと不平等―:ジェレミー・シーブルック[ロンドン在住のジャーナリスト]
表題から受けるイメージからは、不満が残る。
特に、英文翻訳の持つ、わかりにくい日本語・くどい言い回し、が気になる。
研究・理論書ではない。これまでの階級論、たとえばマルクスの考えをまとめ、批判したり総括しようとするものではない。
また、今日のグローバリズムの構造を解くものでもない。グローバリズムがもたらす富をほんの一握りの人々が支配し、その支配を「絶対的」なもののように感じる現代社会。
不平等と貧困、南北間の格差は広がる一方であるのに、ホリエモンやプロスポーツ選手などの金持ちも努力すれば自分もなれるかもしれないという幻想、しかし、やはり無気力・無希望。
反グローバリズムやマイノリティ運動、リサイクルや環境保護運動等に次代の展望を託しているが、その部分は本書はほとんど触れない。
インドについては良く知らないが、カースト制度が今なお残る現代社会の構造に不思議さとそれを解く鍵があるように感じるのだが…。
2.『団塊世代を総括する』:三浦展~愚作。
3.『神の発見』:五木寛之/森一弘 対談~カトリック司教森さんとの対談をそのまま出版してしまう。出版すれば売れる五木さんにしては、あまりに安易な金儲け主義と思う。
森さんは「カトリックはふところが広い」、というが、キリスト教が過去に犯してきた誤りは、どうしようもなく重く大きいのであって、今さらそんなこと言ってもね、と言う感じではある。
4.『宗教百科』~池田書店
【メモ】
 アーメン:「然り」と言う意味のヘブライ語。
 カトリック:全体的、普遍的という意味で、包括する公の教会という意味。
 バプテスマ(ト):洗礼(水に浸す)。
 コーラン:音読すべきものという意味。
 アラー:アラビア語のアル(THE)イラー(GOD)。
 シオン:エルサレムを取り巻く丘の一つ(ダビデ王時代王宮・神殿があった)。
 シーア派:アリー(四代カリフ・アリー)の党派(シーア)。
 スンナ:社会習慣。

5.『ローマから日本が見える』:塩野七生[2005.6]
『ローマ人の物語』は列伝形式。この本は、カリグラ以前のローマ=帝制が確立したローマ期を概括=整理してある。
巻末【特別付録】英雄たちの通信簿、もおもしろい。
{メモ}
・欧米の結婚式で新郎が新婦を抱きかかえて新居の敷居をまたぐ習慣=ロムルス(最初のローマ人)がサビーニの女たちを略奪して花嫁にした習慣に発する。
・執政官=コンスル=(首相・統合参謀本部長・軍団司令官という官職)は市民集会二人で選ばれ、任期は一年、それぞれは拒否権を持つ。
・護民官=平民階級の権利を守る、平民集会で選出され、任期は一年、当初定員は二人。護民官特権~執政官の決定に拒否権を持つ・肉体的危害を与えることが禁じられている。
・ポエニ戦役~フェニキア人との戦争を意味するラテン語。=カルタゴ(ハンニバル)と三次に渡り戦役、結果カルタゴ滅亡。
・プロヴァンス=属州・フランスのそのまま地名として残る、
 ケルン=植民=コローニア・ドイツの地名として残る。
・アウグストゥス:「聖なる」という意味。
・「イタリア普通高校歴史教科書」より~『指導者に求められる資質は、知力、説得力、肉体的耐久力、自己制御の能力、持続する意志、の五つであり、カエサルだけが、このすべてを持っていた』=この五つの要素はすべて“目的完遂”という一語に要約できる。
・マキャベリより:「天国に行く最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」=「リーダーたらんとする人は自分が地獄に堕ちることを覚悟してこそ国民を天国に導くことができる」

勝島運河「花海道」と旧東海道散策

2005年10月08日 | ウォーキング
10/8駅からハイキング [写真は、立会川駅商店街坂本龍馬像]
11時~2時半 約10キロ、途中昼食
大崎駅→東海寺大山墓地(沢庵和尚)→東海禅寺→品川神社(新馬場駅前)→ゼームス坂→天竜寺→高村智恵子文学詩碑→(品川ろう学校がある)→泊舩寺→山内容堂墓(鮫洲駅前大井公園)→坂本竜馬の像(立会川駅前)→勝島運河(品川花海道:土手を市民に開放し花畑をつくっている;コスモスは枯れていた)→旧東海道[海雲寺(青物横丁駅裏)/品川寺(ほんせんじ)/街道松の広場]→大崎駅しながわ夢さん橋2005会場
=“しながわ夢さん橋”とタイアップ
雨模様で、とても蒸し暑かった。品川・大崎近辺は高層マンションと旧市街地が入り組んでいる、特に京急沿線は下町という感じで、北品川・大崎間は高台・住宅地という感じであった。幕末はどんな町並みであったのだろうか。
全体的に景色は変わり映えないし、歴史探索でもない、おもしろいとは言えない。

来たらいがっぺ 歴史とコロッケの街 龍ケ埼

2005年10月03日 | ウォーキング
駅からハイキング。10/2。
佐貫駅→金龍寺→コスモス街道→来迎院→日枝神社→歴史民族資料館→愛宕神社→般若院→コロッケまつり会場→龍ケ崎。10㎞、3時間半、2万歩。

龍ケ崎は戦国時代、土岐氏の城下町として栄えた。
寺社など数多くあるそうだが、今回見たのはそのうちの数個。
いずれも、小さいものだった。
跡地は、龍ケ埼二高、急な坂道の上。毎日高校生は大変そう。
常磐線は、龍ケ埼を通らず佐貫を通った。
佐貫と龍ケ埼は関東鉄道龍ケ埼線がつなぐ、駅数は全部で3、車両2の単線。
経営は大変だろうな。
小さなイベントに、駅員は汗をぬぐっていた。
時代の流れで、佐貫の交通の良さににぎわいが取られたようだ。
龍ケ埼旧街は、古い建物など少し残るが、道路作りなどは遅れたのか、道幅が狭い。
市外にでると道は急に広くなる。
コスモス街道のコスモスは少なかったが、2~3㎞まっすぐな道が続く。
10月に入っての真夏日で、とても暑かった。カッコウは無視して日傘を差した。
ほとんど木陰はない。
途中2カ所で冷茶のサービスがあり、ありがたかった。
龍ケ埼でそばを食べようと思ったのだが、見つからず、小食堂に入った。
込んでいたので、相席になった。おじさんは焼酎を飲んでいた。
しばらくしておじさんの連れが遅れて入ってきた。30歳くらい。
三人でお酒を飲みながらしばらくとりとめのない話をした。
とても気持ちの良い若者であった。
帰りの電車では、熟睡であった。