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4月9・10日「三里塚空港反対運動の思い出の地を巡るツアー」があり参加しました。
今年は、政府が成田空港建設を決めた50年目にあたり、このツアーが計画されたと私は思います。
12時半JR成田駅集合、車に分乗して出発です。
JR成田駅前は、再開発されきれいになり、かつての古ぼけさはなくなりました。
成田山新勝寺で「成田太鼓祭り」が開かれていて、周辺は大変な人出でした。
引用
駅を出て、すぐ左に交番があり、その裏に権現神社があります。
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東峰神社と三里塚物産 木の根ペンション
案山案山子亭と横堀鉄塔
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京成成田駅と千代田駅を結ぶ日本で一番短い"芝山鉄道"(2.2km)の千代田駅に向かいました。
途中の、東成田駅は地下通路を通じて京成の空港駅に歩いて行くことが出来ます(10分ほど)。
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南に10km程行くと、芝山古墳・はにわ館があります。そこから南西に10km程行くと外房海岸です。
はにわ館あたりは古代は海岸で、あちこち貝塚や古墳があるそうです。
航空科学博物館 1989年、日本で初めての航空科学博物館です。(入らず外観のみ) 成田空港空と大地の歴史館(無料)
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この二つは、成田空港滑走路の南端延長上にあり、かつて60mほどの鉄塔が立っていました。
成田空港空と大地の歴史館内
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1991年、都はるみさんのコンサートが畑のど真ん中で行われ大盛況でした。
着物姿で舞台狭しと走り回って歌った都はるみさんは実に感動的・鮮烈でした。
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東峰十字路周辺 1971年、この地で3名の機動隊員が亡くなりました。
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その脇にこんな一角があります。この道の先に反対派の共有地があるのですが、道路は行き止まりで、
その先にはトンネルがあり、その上は飛行機の通路になっています。
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東峰神社(東峰神社の石碑の後ろに、消されてますが航空神社とありました。)
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三里塚物産(らっきょうの甘酢漬けなどを生産販売しています。)などに行く道路 左が三里塚物産
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小泉英政さんの家
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東峰共同墓地
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小泉よねさんは、三里塚農民で唯一、田畑・家屋敷などが強制収容されました。
貧農なら良いだろうと彼女を狙い撃ちし、他の反対派農民への見せしめ、脅しの狙いがあったと言われます。
よねさんは、その数年後66歳で病死しました。小泉英征さんは、そうしたよねさんの生き様に共鳴して、
妻と共によねさんの養子になり、よねさんが残した畑や墓地を今も守っています。
今日の宿、木の根ペンション 木の根ペンションのロケーション
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芝山鉄道の東成田駅を出て、空港に下を通る道路を10分ほど歩くと左にあります。
その二階からの風景
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夕飯は、バーベキューとカレーでした。
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人数が多かったので、ペンションと「ワンパック出荷場」に分かれて泊まりました。
4月10日
朝ご飯は、卵かけご飯、サラダ・豚汁・納豆・ハム・ヨーグルトなどとても立派でした。
午前中は、「三里塚に生きる」(DVD)を見ました。140分は、長過ぎです。
私は、柳川秀夫さん、小泉英征さん、石毛宏道さんのお話が印象に残りました。
かつて「労農合宿所」と呼ばれる団結小屋があった所(三里塚農業研修センターなどがあります。) 案山子亭と横堀鉄塔
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案山子亭の周囲 案山子亭に行く道路
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案山子亭も共有地です。周辺・道路は、成田国際空港株式会社の敷地です。
原勲さん、江口さん、上坂さんらがこの地に眠っています。
原さんは、管制塔占拠の運動で逮捕され、出所後「自死」しました。江口さんは、団結小屋活動の後、
多古で生活していましたが3年ほど前に病死しました。
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ここで毎年、墓参を兼ねた花見が開かれています。
鉄塔の上からの景色 管制塔
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大森武徳さんが焼き芋を、また光本さんが竹の子をたくさん取ってきてくれ、豪華なお土産をいただきました。
参加費は、6000円と安かったです。
車の移動は仕方ないですが、芝山鉄道の体験乗車と三里塚公園訪問もあっても良かったかと思いました。
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さて、少し蛇足気味ですが、
1966年7月4日、佐藤栄作政府は成田市三里塚に新しい国際空港の建設を決めました。
2016年の今年は、その50年の節目です。
1960年の安保改定とエネルギーの石炭からの転換(三井三池闘争)、1965年の日韓条約締結を経て、
日本が戦後復興を一定程度成し遂げ、東アジアでの大国化を目ざし始めました。
東アジアのハブ空港はその一つの象徴でもあり、長期の公共事業景気のための核として一大事業でもありました。
建設用地を公にすると用地買収費用などが高騰するため予定地を秘密裏に選ぶことは行われがちです。
東京には用地がないからと霞ヶ浦、木更津など選びましたが頓挫し、千葉県内に絞り始めました。
初めは富里町を選んだのですが議会の反対など反対運動が強かったため、三里塚に変更したと言われています。
大まかな空港の敷地型紙を地図上で動かすと天皇家の御料牧場と県有地が多いこの地がピタとはまり選んだ、
と言われるほど、その根拠はいい加減で杜撰であったと言われています。
閣議決定後の3日後に、三里塚反対同盟と芝山反対同盟の二つが生まれ、その後その二つは合同し、
クリスチャンで彫刻家でもある戸村一作さんが委員長となる合同反対同盟が結成されました。
この地域は、北総台地の一部で、肥沃な関東ローム層で覆われています。
天皇家の御料牧場、豊かな農民の古村と戦後の農地解放に伴う開拓の新しい農村の二つが混在していたそうです。
御料牧場の名残
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自民党保守の農民が多かったのですが、同時に小作争議・農地解放運動を担った社会党・全日農も強力でした。
そんな社会的歴史的風土の中で、当初の反対運動は、政党色のない地域ぐるみの運動として進み、
1000世帯3000人の同盟員とも言われました。社会党はその政治的影響力を強く発揮しました。
この時期に始まった一坪共有地運動は今も大きく強い力を発揮し続けています。
特に、木の根ペンション、開拓道路、案山子亭などの共有地は今なお横風滑走路建設予定地に存在して、
その実現をほぼ敢然と阻んでいます。
政府自民党は、当初の計画のずさんさや地元への根回しも不十分なまま推し進めたため、
用地買収は思うように進まず、事を強権的・暴力的に推し進めました。
農民は、いわば体を張る抵抗運動を切羽詰まってせざるを得なくなるのにつれて、社会党・共産党との乖離が生まれました。
1967年反対同盟は、いわゆる新左翼勢力の運動への参加を認めました。
1971年2月から始まる強制代執行の強行はこの運動の新たな局面を迎えました。
1971年9月三人の警官が死亡し、その報復とばかりに大木(小泉)よねさんの田畑・家屋の強制代執行が行われたのでした。
柳川秀夫さんが「三里塚に生きる」の中で、「戦い続けるわけは?」と問われ、「死んだ者がいる」、と語っています。
その言葉の私の理解は、「死んだ彼らの思いや彼らへの私の思いが、今生きている私の中にある。」と言うことではないかと…。
三里塚では多くの人々が亡くなっています。
三宮文夫さん、新山幸男さん、原勲さん、龍崎泰子さん、受けた傷などでその後亡くなった人々、そして三人の機動隊員。
半世紀・50年の時の流れは、私には当時見えなかったものが見えたり、右か左かだけでなく、
多角的・相対的に物事が見えるようになったように思え、上のような感想を認めました。 【終わり】
追記:
このツアーの2年後、現地調査が行われました。そのブログです。
三里塚現地調査ツアー(2018年)、原勲さん墓参り