1.ローマ人の物語 14 キリストの勝利最終巻/塩野七生著
・人間の顔を表現する場合、その人の顔の現実を映すだけでなく、表現する側がどう見るかをも映すものである。どのような面構えであって欲しい、とでもいう想いの現れでもある。
・神に向ける関心の高まりに反比例して人間への関心は低下したのが帝国末期の特色の一つか、とさえ思ってしまう。
・キリスト教がローマ伝来の宗教と違ったことの一つは、専業の聖職者階級をもつ点にあった。
「偶像」はギリシャ語・ラテン語でもともと「イメージ」を意味する言葉から派生した。~「偶像崇拝」は宗教的な象徴として具象化された像を尊崇すること、特定人物を絶対的な権威として尊敬するこ意味する。
日本語で、偶像と訳されている言葉の語源はidolo、アイドルもイディオーター(馬鹿)も、この派生語である。
・偶像崇拝禁止令に続いたのが、神殿の閉鎖命令であった。 閉鎖まで来れば破壊に進むのは時間の問題である。
・退役兵=ヴェテラーヌス=ヴェテラン、三世紀からは20年の兵役期間は死文化した。
・職業の世襲制は脱税の一手段を産み出した。聖職者は免税=脱税となり、地方自治体の有力者層は雪崩を打ってキリスト教化した。
ミラノ勅令=諸宗教の信仰の自由を保証した文面になっているが、それは建前で本音はキリスト教に公式な立場を与えることであり、その後コンスタンティヌスはキリスト教優遇への道をひた走る。
ギリシャ語・ラテン語の異端はそもそも選択の意味で使われ、「塾考した末に選択した説」であって排斥まで行く「正統な解釈からはずれた説」ではなかった。それが一神教になると選択ではなく、正しいか誤りかとなる。選択ならば共生は可能だし道理さえ認めれば相手に歩み寄ることも可能だが、異端になっては共生も歩み寄りも不可能になり残るは自分が排斥されない前に相手を排斥する布かなくなってしまった。
・オリエントには、現代のイラク・イラン・アフガニスタン・パキスタンが一緒になった大国が古代のは存在していた。
・異教徒=パガヌスと言う言葉は、もともとキリスト教徒がギリシャ・ローマ教徒を
指して言った、未だに迷信を信じている田舎者、の意味をこめた蔑称であった。
・統治ないし支配の権利を君主に与えるのが「人間」ではなく「神」であるとする考え方の有効性。
・これまで国費を使ってなされてきた、教会を建造して寄贈すること・教会活動の経費の財源となる教会資産(農奴付き農耕地・工員付き手工業・店員付き商店など)の寄進や寄付は全て廃止された。[皇帝ユリアヌス]
人間を導くのが神ではなく人間を助けるのが神々の役割である多神教では、神の教えなるもの・教理が初めから存在しない。それゆえ教理を解釈する必要もないからその解釈を調整ないし統一しそれを信者に伝える人=祭司階級は必要ないし存在しない。
・投機は古代にも存在した、語源はラテン語のスペクラティオ=考えをめぐらせることの意味。
・石造りの建物は家事に強いというのは誤解で、柱・壁・梁など多くは木材が使われている。
・キリスト教の司教は自分の教区の教会資産を思い通り使える立場にあり、また司法権まで握っており、権力者である。抗争は過激さはこの権力が介在していたからだ。
宗教が現世をも支配することに反対の声を挙げたユリアヌスは、古代では唯一人一神教のもたらす弊害に気付いた人ではなかったか。古代で唯一の一神教はユダヤ教だが、選民思想を持つユダヤ教徒は自分たちの信仰に他者を引きずり込む考えからして持っていなかった。キリスト教だけが異なる考えを持つ人々への布教を重要視してきた宗教なのである。
・蛮族の精神とは日々の労苦に耐えることで生活を立てるりも他人の者を奪って生活の糧にする生き方を良しとする考え方である。
・蛮族による収奪と国家による重税の双方に攻められて農民の生活は苦しくなる一方であった。彼らは独立よりも保護を選ぶようになる。農民は農奴に変わったのであった。
この頃になって私(塩見)は、ローマの滅亡・崩壊・分解・解体とかは適切の表現ではないと思い始めている。もう存在していない、溶解が妥当と思う。ローマ人がキリスト教徒に敗れたのではなくローマ人がキリスト教徒になってしまった、のだ。
ローマ人はしねば二人の天使が両側から支えて天に昇る、と信じていた。そういう古代人にとって地獄(落ちたら責め苦しか待っていない)は新しい概念であり、恐怖であ
った。
三位一体派はこの時期以降カトリックと呼ばれるが神とその子イエスは同格であり・それに聖霊を加えての三位は一体であるとする。アリウス派はイエスは限りなく神に近いが神とは同格ではないとする。
異端の排斥
・教えを説くこと/聞くこと/集団で聞くこと/そのための場所を提供すること/それを知った司法関係者が告発しなかった者~全財産が没収され追放された。
・さらに異端者に他の人々は交渉をもってはならない。
・異端者を探し出し裁決するための特別の機関が設立された。
皇帝・グラティアヌスはこれまで兼務してきた最高神祇官の就任を拒否した。
・女祭司制度を消滅させた。
・神殿に維持費を出さず、神殿の経費を没収した。
・神殿は閉鎖された。
・神像は破壊された。
・神々に捧げられてきたオリンピックも幕を閉じた(393年)
388年テオドシウスはキリスト教をローマ帝国の国教にするよう元老院に提案し承認された。
・時代が過ぎるにつれて聖人の数も増え近現代になると寝取られ男までが守護聖人をもつと言う有様で、一年に余る聖人数となり祝日をはずれた聖人の祝祭日=万聖節=11.1という。
395年、テオドシウスは息子二人に帝国を二分し世を去った。
東ローマ帝国・西ローマ帝国とそれぞれ独立した無関係な二つの国になった。
ローマ人の物語完結である。
メモ紛失・ブログ作成ミスなどで再読、入力のやり直しと多くの時間を費やした最終巻だった。
NHKでフランス世界遺産縦断の旅があった。
「中世の面影が残る」とのコメントがたくさん流れたが、古代ローマの影響についてはほとんど触れられず、であった。
プロバンスについては、そのことに触れずには語ることはできないのにとつくずく思った。そもそもプロバンスはローマの属州(=プロバンス)の意味なのだから。
古代ローマは、秦と同じ時代であり、その同時代に秦では万里の長城が造られ、ローマでは街道・水道が造られた。
長城も街道も侵略を防ぐ目的で造られた。
それだけを見ると長城は非生産的、街道は生産的のように見えるが、
それは、中国では秦と匹敵する国が他にもたくさんあってそれらをうち破ることなしには秦の生きる道はなかった、
ローマでは、城壁に囲まれた都市国家=ポリスという形・比較的狭く国が作られたことなどが関係しているのではないだろうか。
シルクロードはまだできていないが、ローマとオリエント(ペルシャ)そして秦とは既に交流があったという。
始皇帝の兵馬俑にはその名残が残っているという。
鐙はローマでも秦でもまだ発明されていなかったらしいが、
鞍は秦では使われていたという。
ローマと秦は、今日のヨーロッパとアジアの源流であり、
その精神は今も息づいているように感じられる。
また、ローマは東方には、現代のイラク・イラン・アフガニスタン・パキスタンが一緒になった大国が存在していたこともローマの生成と発展にとっては大きな影響があった。中国にとっても北方の騎馬民族の存在は大きいが、ローマにとっては大国であるパルティア=オリエントの存在は、それとは計り知れない位置を占めていた、つまり戦争はありながらも交易はするが、お互いの地を占領することは現実的ではなかった。
ローマの全盛時は、キリストが生まれた時代でもあった。
唯一神を絶対視する一神教=キリスト教が、多神教の古代ローマ溶解させ、時代は中世へと入る。
中国もおそらく古代は多神教であったのだろう。その後、仏教・道教・儒教などの宗教が中国社会の中でも生まれるが、それらは多神教であって、一神教は起こらなかった。
中国・アジアでは一神教が生まれず、支配的宗教にならなかったのはどうしてであろうか。
これらのことは現代にも影響しているのでは無いだろうか?
キリスト教・ユダヤ教・イスラム教という一神教はたしかに、広い意味でのオリエントで生まれたのだが。
イスラム教は、今日ではアジアで広く信仰されているがインド・中国では支配的ではない。
一神教の世界では、靖国問題は理解が難しいだろう。
靖国問題は、A級戦犯が合祀されていることだけが問題・重要なのではない。
戦争で死んだ人間が神として、祀られ・信仰されているのだ。
多神教のローマでは、皇帝の何人かは、その死後、神として祀られているが、
キリスト教の世界ではそうしたことはない。
ただ、その後、信仰の対象となった聖人は無尽蔵に造られた。
古代は多神教であった。
ローマ[ヨーロッパ]は一神教のキリスト教に溶解(塩野)したが、秦・アジアはその一部はイスラム教になったが多くは多神教のままである。
一神教と多神教の共存はあり得るのだろうか。
ヘーゲルはアジアでは生まれようがない。
今日のアジアは、共通性より多様的な感じがする。
だが紛れもなくアジアには一体性・同一性があるように感じられる。
ローマは今なお多くのことを私に語りかける。
塩野さんの後書きはない。
「それは(五世紀)、皇帝の息女が蛮族の長に嫁ぐ世紀でもあった。」
で、この長い物語は閉じられた。
・人間の顔を表現する場合、その人の顔の現実を映すだけでなく、表現する側がどう見るかをも映すものである。どのような面構えであって欲しい、とでもいう想いの現れでもある。
・神に向ける関心の高まりに反比例して人間への関心は低下したのが帝国末期の特色の一つか、とさえ思ってしまう。
・キリスト教がローマ伝来の宗教と違ったことの一つは、専業の聖職者階級をもつ点にあった。
「偶像」はギリシャ語・ラテン語でもともと「イメージ」を意味する言葉から派生した。~「偶像崇拝」は宗教的な象徴として具象化された像を尊崇すること、特定人物を絶対的な権威として尊敬するこ意味する。
日本語で、偶像と訳されている言葉の語源はidolo、アイドルもイディオーター(馬鹿)も、この派生語である。
・偶像崇拝禁止令に続いたのが、神殿の閉鎖命令であった。 閉鎖まで来れば破壊に進むのは時間の問題である。
・退役兵=ヴェテラーヌス=ヴェテラン、三世紀からは20年の兵役期間は死文化した。
・職業の世襲制は脱税の一手段を産み出した。聖職者は免税=脱税となり、地方自治体の有力者層は雪崩を打ってキリスト教化した。
ミラノ勅令=諸宗教の信仰の自由を保証した文面になっているが、それは建前で本音はキリスト教に公式な立場を与えることであり、その後コンスタンティヌスはキリスト教優遇への道をひた走る。
ギリシャ語・ラテン語の異端はそもそも選択の意味で使われ、「塾考した末に選択した説」であって排斥まで行く「正統な解釈からはずれた説」ではなかった。それが一神教になると選択ではなく、正しいか誤りかとなる。選択ならば共生は可能だし道理さえ認めれば相手に歩み寄ることも可能だが、異端になっては共生も歩み寄りも不可能になり残るは自分が排斥されない前に相手を排斥する布かなくなってしまった。
・オリエントには、現代のイラク・イラン・アフガニスタン・パキスタンが一緒になった大国が古代のは存在していた。
・異教徒=パガヌスと言う言葉は、もともとキリスト教徒がギリシャ・ローマ教徒を
指して言った、未だに迷信を信じている田舎者、の意味をこめた蔑称であった。
・統治ないし支配の権利を君主に与えるのが「人間」ではなく「神」であるとする考え方の有効性。
・これまで国費を使ってなされてきた、教会を建造して寄贈すること・教会活動の経費の財源となる教会資産(農奴付き農耕地・工員付き手工業・店員付き商店など)の寄進や寄付は全て廃止された。[皇帝ユリアヌス]
人間を導くのが神ではなく人間を助けるのが神々の役割である多神教では、神の教えなるもの・教理が初めから存在しない。それゆえ教理を解釈する必要もないからその解釈を調整ないし統一しそれを信者に伝える人=祭司階級は必要ないし存在しない。
・投機は古代にも存在した、語源はラテン語のスペクラティオ=考えをめぐらせることの意味。
・石造りの建物は家事に強いというのは誤解で、柱・壁・梁など多くは木材が使われている。
・キリスト教の司教は自分の教区の教会資産を思い通り使える立場にあり、また司法権まで握っており、権力者である。抗争は過激さはこの権力が介在していたからだ。
宗教が現世をも支配することに反対の声を挙げたユリアヌスは、古代では唯一人一神教のもたらす弊害に気付いた人ではなかったか。古代で唯一の一神教はユダヤ教だが、選民思想を持つユダヤ教徒は自分たちの信仰に他者を引きずり込む考えからして持っていなかった。キリスト教だけが異なる考えを持つ人々への布教を重要視してきた宗教なのである。
・蛮族の精神とは日々の労苦に耐えることで生活を立てるりも他人の者を奪って生活の糧にする生き方を良しとする考え方である。
・蛮族による収奪と国家による重税の双方に攻められて農民の生活は苦しくなる一方であった。彼らは独立よりも保護を選ぶようになる。農民は農奴に変わったのであった。
この頃になって私(塩見)は、ローマの滅亡・崩壊・分解・解体とかは適切の表現ではないと思い始めている。もう存在していない、溶解が妥当と思う。ローマ人がキリスト教徒に敗れたのではなくローマ人がキリスト教徒になってしまった、のだ。
ローマ人はしねば二人の天使が両側から支えて天に昇る、と信じていた。そういう古代人にとって地獄(落ちたら責め苦しか待っていない)は新しい概念であり、恐怖であ
った。
三位一体派はこの時期以降カトリックと呼ばれるが神とその子イエスは同格であり・それに聖霊を加えての三位は一体であるとする。アリウス派はイエスは限りなく神に近いが神とは同格ではないとする。
異端の排斥
・教えを説くこと/聞くこと/集団で聞くこと/そのための場所を提供すること/それを知った司法関係者が告発しなかった者~全財産が没収され追放された。
・さらに異端者に他の人々は交渉をもってはならない。
・異端者を探し出し裁決するための特別の機関が設立された。
皇帝・グラティアヌスはこれまで兼務してきた最高神祇官の就任を拒否した。
・女祭司制度を消滅させた。
・神殿に維持費を出さず、神殿の経費を没収した。
・神殿は閉鎖された。
・神像は破壊された。
・神々に捧げられてきたオリンピックも幕を閉じた(393年)
388年テオドシウスはキリスト教をローマ帝国の国教にするよう元老院に提案し承認された。
・時代が過ぎるにつれて聖人の数も増え近現代になると寝取られ男までが守護聖人をもつと言う有様で、一年に余る聖人数となり祝日をはずれた聖人の祝祭日=万聖節=11.1という。
395年、テオドシウスは息子二人に帝国を二分し世を去った。
東ローマ帝国・西ローマ帝国とそれぞれ独立した無関係な二つの国になった。
ローマ人の物語完結である。
メモ紛失・ブログ作成ミスなどで再読、入力のやり直しと多くの時間を費やした最終巻だった。
NHKでフランス世界遺産縦断の旅があった。
「中世の面影が残る」とのコメントがたくさん流れたが、古代ローマの影響についてはほとんど触れられず、であった。
プロバンスについては、そのことに触れずには語ることはできないのにとつくずく思った。そもそもプロバンスはローマの属州(=プロバンス)の意味なのだから。
古代ローマは、秦と同じ時代であり、その同時代に秦では万里の長城が造られ、ローマでは街道・水道が造られた。
長城も街道も侵略を防ぐ目的で造られた。
それだけを見ると長城は非生産的、街道は生産的のように見えるが、
それは、中国では秦と匹敵する国が他にもたくさんあってそれらをうち破ることなしには秦の生きる道はなかった、
ローマでは、城壁に囲まれた都市国家=ポリスという形・比較的狭く国が作られたことなどが関係しているのではないだろうか。
シルクロードはまだできていないが、ローマとオリエント(ペルシャ)そして秦とは既に交流があったという。
始皇帝の兵馬俑にはその名残が残っているという。
鐙はローマでも秦でもまだ発明されていなかったらしいが、
鞍は秦では使われていたという。
ローマと秦は、今日のヨーロッパとアジアの源流であり、
その精神は今も息づいているように感じられる。
また、ローマは東方には、現代のイラク・イラン・アフガニスタン・パキスタンが一緒になった大国が存在していたこともローマの生成と発展にとっては大きな影響があった。中国にとっても北方の騎馬民族の存在は大きいが、ローマにとっては大国であるパルティア=オリエントの存在は、それとは計り知れない位置を占めていた、つまり戦争はありながらも交易はするが、お互いの地を占領することは現実的ではなかった。
ローマの全盛時は、キリストが生まれた時代でもあった。
唯一神を絶対視する一神教=キリスト教が、多神教の古代ローマ溶解させ、時代は中世へと入る。
中国もおそらく古代は多神教であったのだろう。その後、仏教・道教・儒教などの宗教が中国社会の中でも生まれるが、それらは多神教であって、一神教は起こらなかった。
中国・アジアでは一神教が生まれず、支配的宗教にならなかったのはどうしてであろうか。
これらのことは現代にも影響しているのでは無いだろうか?
キリスト教・ユダヤ教・イスラム教という一神教はたしかに、広い意味でのオリエントで生まれたのだが。
イスラム教は、今日ではアジアで広く信仰されているがインド・中国では支配的ではない。
一神教の世界では、靖国問題は理解が難しいだろう。
靖国問題は、A級戦犯が合祀されていることだけが問題・重要なのではない。
戦争で死んだ人間が神として、祀られ・信仰されているのだ。
多神教のローマでは、皇帝の何人かは、その死後、神として祀られているが、
キリスト教の世界ではそうしたことはない。
ただ、その後、信仰の対象となった聖人は無尽蔵に造られた。
古代は多神教であった。
ローマ[ヨーロッパ]は一神教のキリスト教に溶解(塩野)したが、秦・アジアはその一部はイスラム教になったが多くは多神教のままである。
一神教と多神教の共存はあり得るのだろうか。
ヘーゲルはアジアでは生まれようがない。
今日のアジアは、共通性より多様的な感じがする。
だが紛れもなくアジアには一体性・同一性があるように感じられる。
ローマは今なお多くのことを私に語りかける。
塩野さんの後書きはない。
「それは(五世紀)、皇帝の息女が蛮族の長に嫁ぐ世紀でもあった。」
で、この長い物語は閉じられた。