風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

チェ 39歳最後の手紙

2009年02月28日 | 映画
チェ 39歳最後の手紙=原題は、Che Part Two =2部作の2部


有名なポスター


第二部は、ゲバラがカストロに当てて書いた手紙の朗読から始まる。
彼は、キューバの地を後にし、第二第三のキューバを目指してボリビアに潜入する。
そう、当時の合い言葉は第二第三の、ベトナム・キューバを、であった。
だが、ボリビアでの活動はうまくいかなかった。
ボリビアの国土は広大で、しかも高地にあり、また大地主土地所有でもなかったようだ。
ゲバラの事はよき知らなくても彼が悲劇的最期を遂げたことはほとんどが知っている。
関心は、彼がどうなるのかではなくて、どのような死なのか、である。
映画はボリビアに入ってからの約一年間のゲバラの足跡を追う。
だが、キューバの時のようにうまくはいかない、
農民からの信頼を勝ち取ることも出来ず、政府軍の攻撃も強大であった。
フランスの知識人・サルトルやフランス五月革命のドブレなどから支援を受けるが、
当時の共産党の多数派はソ連派で、それは武装闘争派ではなく、
国際的支援を受けることも少なかった。
キューバには当時は必ずしもコミュニストではなかった有能な指導者カストロがいた。
彼は、ゲバラがアルゼンチン人であることなど全く異に介さなかった。
だが、当時そうした考えは圧倒的少数であった。
多くは英雄ゲバラはミーハーしたが、自分たちの運動の指導者としては認めなかった。
ゲバラ達の運動がどうしてうまくいかなかったのか、を描くことがこの映画の目的では当然無い。
ゲバラ達の運動は革命戦争とは名ばかりで、実際は山中を逃げ回っていることだった。
仲間達が戦闘で、また離脱などで少しずつ減り、ついに政府軍に追い詰められ、
ゲバラは負傷し、捕らえられ、銃殺される。
映画は、始めから終わりまで戦闘=逃亡だけで、きわめて単調、エンターテイメントとしては失敗作となってしまった。
映画の最後に、素敵な歌が流れた。誰が歌っているのか私は知らなかった。
歌詞は字幕なしだったので、意味がわからなかった。
調べたら、メルセデス・ソーサというアルゼンチンの女性歌手であった。
哀愁があるが、将来は希望があるよ、という感じであった。

第二部の上映館は少なく、近くではユナイテッドシネマ浦和だけ、18:15の1回だけの上映であった。
この日[2/27]は、雪が舞うとても寒い日であったが、上映最終日だったので仕方なく出かけた。

チェ 28歳の革命

2009年02月03日 | 映画
チェ 28歳の革命=原題は、Che Part One =2部作の1部


久し振りに映画を見た。『チェ 28歳の革命』を見た。
見る前は、活劇とラブロマンスのC級映画かなと半信半疑だったが、その予想に反し、おもしろかった。
ゲバラの顔を描いたTシャツなどのグッズを最近よく見かける。
チェの生い立ちや、結婚、カストロとの出会いなどの説明を思い切って捨象し、
キューバ革命の革命戦争と、
革命後の国連総会でのチェの演説シーンをドキュメンタリー風に白黒で挿入に絞って、描いたのがよかった。
志願してきた少年に、革命は毎日戦闘する華々しいものでなく地道な活動だ、
行軍は何日も食べないで、寝ないで、泥まみれになって歩くこともある、
若者はまず読み書きできなければならない、と諭すチェはナイーブで優しい。
革命軍からの離脱も認めた。
革命のロマンティシズムがまだ豊かな時代だった。
毛沢東もホーチミンも、兵士に農作物は盗むな、女性はからかうなと口を酸っぱくして教育した。
もっとも、兵士は行軍中畑に作物があれば盗んで食べ、女性を見ればからかった、と言うことではあるが。
キューバ人が、英語でなく、スペイン語を話すのがよい。
第2部も、公開中である。

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【以下は予断である】
共産主義者で革命家のゲバラが見直され、親しみをもって受け止められ、
このような映画が製作されるのはどのような社会的背景なのだろうか。
最近になって、古いと言われて久しいマルクス・資本論・共産主義が改めて評価され、見直されていることは、
今の時代を解き明かし、人々に希望をもたらす思想や理論が生まれていないということなのかもしれない。

アメリカの喉元で、キューバのような小さな社会主義国がどうして生き延びることが出来たのであろうか?
私は、時代が1950年代末であったことと、
逆説的のようだが、キューバがアメリカの裏庭であったことの二つが関係していると思う。
時代は東西の対立が激化していく時代なのだが、朝鮮戦争がやっと終わり、双方はあまりに疲弊していたし、
同時に、その後第三世界・非同盟運動と呼ばれる植民地解放・民族独立運動にはキューバへの暖かい眼差しがあった。
アメリカの裏庭には二つの意味があって、
一つは、アメリカはキューバがあまりに近く自分の裏庭みたいなものだから、経済封鎖や侵攻作戦によって
簡単にカストロ政権の転覆が出来ると錯覚し、またキューバ民衆を愚民視していた。
反面、ソ連から遠く離れていたことはキューバに幸いした、と言うことである。
キューバはアメリカの裏庭なのだから極端なソ連軍の進出はアメリカの反発をうけてしまうし、
またキューバはソ連から遠く東欧のように直接的な支配を受けにくかった、のである。
このことは、後にソ連のフルフショフがソ連の核ミサイルをキューバに建設しようとした
いわゆるキューバ危機の時はっきりした。

アメリカは、イラク戦争で知られるようになったグァンタナモ基地を革命以前からもそして今もなお保持し続けて来たのであり、
キューバに対して執拗な軍事的侵攻作戦を行い、またスパイを送り込んでキューバ政権の転覆行動を行ってきたし、
かつ全面的な経済封鎖を40年以上にわたって行って来た。
そうした理不尽なアメリカの攻撃に対して、キューバは持ちこたえてきた。
今日、アメリカの1950年代のクラシックカーをどこよりも保有しているのがキューバである、と言われる。
アメリカの経済封鎖によって自動車が輸入できないキューバは、富裕層が捨てていった車を修理して
今なお使っているという。
ソ連の経済圏に入って後一時、キューバは砂糖だけのモノカルチャー経済を強いられたが、それからの離陸を徐々に果たし、
ソ連崩壊後も、最大の支援国を失いながら持ちこたえてきた。
それは、医療費や教育費の無料や貧しいながらも安定的生活が営める社会福祉政策をとってきたからであると言われる。
キューバが一番発展途上国から信頼されているのは、途上国への医師の派遣援助だと言われている。
キューバでは大量の医師を育成し、医師の足りない途上国に医師を派遣しているという。
カストロはすでに高齢で事実上政治活動から引退しているが、その死が心配されている。
アメリカは、彼の死後、キューバに揺さぶりをかけようとしているからである。

世界一周クルーズから帰国しました

2009年02月03日 | 63回ピースボート
1月13日、ボートピープルみたいなピースボート世界一周クルーズから帰国しました。

ベトナム、アンコールワット、シンガポール、インド/コーチン、エリトリア、エジプト、トルコ/クサダシ・イズミール・カッパドキア、アテネ、マルタ、シチリア、バルセロナ、カナリア諸島、サントドミンゴ、エンジェルフォール、パナマ、マチュピチュ、イースター島、タヒチ、ニュージーランド、シドニー、ラバウル、パラオ、等を巡ってきました。



船上で私は、新聞、ネット、メール、携帯、テレビの無い生活でした。
ネットはできないことはないのですが、
衛星回線を使うからでしょうか、スピードは遅いし、
途中でみだれて中断したりします。
その上、料金が100分4000円と高額ですし、
パソコンの数が少ないので、混んでいるのです。
そんなわけでしばらくして全く使わないことにしました。
初めは手持ちぶさたでしたが、慣れると全く平気でした。

麻生さんが首相になったことや、世界金融危機など
いろんな世界的出来事なども積極的に情報収集しませんで、
よくわかりませんでした。

船の生活は、それなりにおもしろかったです。
観光はとても良かったです。
世界は広く、綺麗だし・汚い。
日本の良さや、家族のこと、私自身のこれから、なども色々考えました。

ピースボートの連中は口先だけの、
危機管理能力皆無、独りよがり、状態です。
初めはいらつきましたが、慣れは恐ろしいものです。
これについては折々さわりだけ触れましょう。

帰国してから、日本の日常生活にすぐはなじめません。
例えば、ネット、メール、携帯の操作方法が曖昧で良くできません。
テレビも退屈です。
船の生活から学んだことは、急がない、です。
一度に、一日に多くのたくさんのことをしない、できることだけする、です。
荷物の整理や洗濯ものんびりやっています。

私としては、綺麗な写真をたくさん撮ってきた、と思っています。
その整理ものんびりやろうと思っています。
このブログの更新も、同様にぼちぼちですので、よろしくお願いします。
では。

第63回ピースボート・地球一周の船旅1・出発

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅1
出発


洋上から三回ほど発信したが、その後通信事情が良くなかったので中止した。
そこで、初めから少しずつ載せることにする。

出発 [9/7]


今回のピースボートトラブル続きである。
当初8月28日出発の予定が1週間延びた。
さらに2日延びて、結局9月7日の日曜日となった。

当日、桟橋に着くと、さらに6時間も延びたのである。
いよいよと言うべきか、やっとと言うべきか、ピースボートが出発した。
9月7日10時集合だったが、着くと点検ができていないということで、午後2時集合ということになった。
映画館で時間をつぶそうと思ったがわからないので結局、家に戻ることにした。
関内駅から桟橋までは歩くと15分ほどかかるし暑かったのでタクシーにした。
2時半に乗船手続きをした。乗船手続きはうごく簡単で、パスポート・イエローカードとクレジットカードを提示するだけであった。
部屋に入ると送っていた宅急便が着いていた。
荷物はダンボール三つとリュック一つであった。
ダンボールは生活雑貨と服と本で、リュックはパソコン関係であった。
船室は四階で、ツインの部屋だが入居者は私一人である。
窓はないが、収納も十分だし文句はない。
遅れたのでオリエンテーションなどは翌日となった。
17時に出港した。
しばらく進むと東京湾は雷雲が被い、真っ暗で稲妻が走った。
まさに、このピースボートの行く末を予感させているかのようだ。

早速、缶ビールを飲んだ、340円と高くなく安心した。
ビールを飲みながら、外人グループがいたので話しかけたら、英会話クラスの先生たちであった。
食事はかなり質素であった。野菜が少ない。
案内された席は、8人席で皆女性であった。
おとなしくビールを飲んだ。
夜は、『東京ギャングスター』というミュージシャンのLIVEがあった。
ウイスキー・オールドのダブルの飲んだ。
船はやはり揺れる、ゆっくりと大きく。
僕には船酔いするほどのものではないが、気持ちよいものではない。
夜、エアコンの関係か空気がかなり乾燥して目が覚めた。

9/8・月
5時頃目が覚めたが、また寝た。
午前に船内生活オリエンテーションがあった。
午後は避難訓練があった。
出港後24時間以内に行わなければならないそうである。
朝食・昼食ともビュッフェ形式であった。
欲張らずに腹八分にしたが、ヨーグルトとジュースがなかった。
夜は、ウェルカムフォーマルディナーとパーティがあった。


9/9・火
午前中、ウォーキング25分、バイク15分した。
バイクはかなりの運動量でだいぶ汗をかいた。
午前GETのオリエンテーションがあった。
有料の授業が35回、無料のプログラム[40分]が35回、そのほかいろいろな企画がある。
英語を学ぶよい環境ではある。だが、無理をしないでマイペースで行こう。
午後、写真家・石川文洋の『ベトナムの戦争と平和』の講演があったが、とてもつまらないので途中退席した。
石川さんは写真を見せてその説明だけすればいいのにぐだぐだとおもしろくない話ばかりであった。
同じく午後、高遠菜穂子さんの『マザーテレサの家からエイズホスピスそしてイラク』の講演会もあまりに退屈で30分で途中退席した。
30分たっても子供時代の思い出から北海道でカラオケ店を出してうまくいった話だったのだ。
夜、高遠さんの『イラク報告』はとてもよかった。
パルージャの悲劇の実態は身の毛がよだつと言う表現だ。
高遠さんは自分で見たこと、人から聞いたことをきちんと使い分けていることがとてもよい。
誕生日にはバースデーケーキが無料サービスされるというので、試した。
なんと三人の男性がギターを弾きながらハッピーバースデーを歌ってくれ、
B5位のしかも私の名前が書かれたケーキを持ってきてくれた。
一人では食べられないので周りの人にも食べてもらった。

9/10・水
GETのクラス分けのためのインタビューがあった。
自己評価は微妙である。
どこの出身か、暇なときは何をしているか、埼玉県の特徴は何か、などの質問であった。
アンコールワット遺跡巡りオプションの説明会があった。
昼前から低気圧が襲ってきて、船揺れが激しくなった。
夕方過ぎには猛烈な揺れになり、テーブルの上のものは床に落ち始めた。
気分が悪くなり、ついに吐いた。
吐くとだいぶ楽になってが、食事もとらず、シャワーにも入らずトラベルミンを飲んで、お酒も飲まずに寝た。
夜中はさらにお激しく揺れた。

9/11・木
揺れはだいぶ収まり、seashickもだいぶよくなった。
朝は猛烈にお腹がすいていた。
今日からマラリア予防薬を6週間飲む。1錠360円。
予防万能薬ではないが、感染症は怖いから保険みたいなものだ。
10時から『GETオープンスクール』があった。
受講生のレベルはほんとにピンからキリまでのようだ。

9/12・金
一昨日たくさん寝て、昨日は揺れが残り風も強かったので甲板への出入りができなかったため、ウォーキングもできず、運動も足りなかったせいか、夜なかなか寝付かれずまた眠れなかった。
それでもかなり寝て、6時15分に起きて、洗顔して約30分のウォーキングをしたら、かなりの汗をかいた。
シャワーで軽く汗を流し、食堂に向かった。
食堂は7時オープンなのに閉まっている。
キャビンに戻って昨日の船内新聞を見ると時差が生じていた。
昨深夜時計を1時間戻すのを忘れていたのであった。
【時差と時計調整】
船は西に向かって進んでいる。約15度/1500km進むごとに1時間の時差が生じることになる。
こうして地球を一周すると一日ずれるので日付変更線が設けられた。
この日付変更線の位置はイギリスに一番都合よい位置に決められた訳だ。
【キャビン】
1.2m×10mで、ベッドが二つ入っている。
一つのベッドの上には折り畳みベッドがある。
最大三人で使用する場合もあると言うこと。
シャワー室は55cm×60cm、トイレ・洗面台がまとめられていて、その脇に1.2mほどの洋服掛け、その正面にデスク(45cm×150cm)が着いている。
これを二人・三人で使う場合はかなり手狭で、この状態で三ヶ月も生活するとなると家族でもかなりのストレスだろう。
テレビは付いているがアメリカのFOXTVとビデオなのでほとんど見ない。
バスタオル・フェイスタオル・バスマットとシーツは毎日変えてくれるが、僕は3~4日置きに変えてもらうことにした。
水道水はもめるがかなり消毒臭があり、飲み水とお湯は給水器で入れることができる。
エアコンは完全に切ることはできず、だいたい25~26度台であり、横になっているときなどは半袖では涼しいほどだ。

第63回ピースボート・地球一周の船旅2・ダナン編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅2
ダナン/ベトナム編


9月13日

ダナン入港は、9月13日早朝の予定だったが、夕方となった。
ダナンはとてもきれいで、良港の条件を持っているようだ。
山々の緑はまぶしいほどでとても心が安らいだ。
雨の中ベトナムの学生[日本のボーイスカウトのような組織で中学生から大学生らしい]
がダンスで出迎えてくれた。

伝統的ベトナムの踊りとディスコダンスのようなもので、すごいエネルギーだ。
かつてダナンは南北を分ける境界線で、アメリカの巨大軍事基地があったところだ。
アメリカは、この基地を破壊する暇も無く退却した。
ホーチミンルートの有名なカイバル峠はここからすぐ近くという。

『ベトナム家庭訪問ベトナム料理を食べる』と言う私のオプションは中止となった。
そこで、夜行われる日越友好35周年記念イベントに参加することにした。
元副大統領のグエン・ティン・ビン女史[かつてのベトナム解放戦線の議長か副議長だった人だと思う]
が挨拶されるというのでお顔を見たかったからだ。

現在は引退されて、枯れ葉剤被害者を救う活動をなさっているとのことであった。
この行事、公的機関の主催なのに開始が1時間半近くも遅れた。
遅延の理由説明も、謝罪もなし、これが非日本風・アジア式なのか、と思った。



最初の訪問がベトナム、私には特別の感慨があった。
ベトナムの現状は知らない。
地方都市ダナンを瞬間見ただけだ。
だが、そのエネルギィは強く感じた。
かつてベトナム反戦運動をしていた頃、ベトナムは希望であり、あこがれであった。
そのベトナムの地に滞在したのはほんの数時間であったが、私は感慨深かった。
私は息子に明と名付けた。
ホーチミンは漢字で書くと胡志明、である。
ここダナンでは目に入る自動車の数は少ないが、バイク・自転車の数は半端ではない。
自転車バイクが洪水のように押し寄せる、は決して大げさな表現ではない。
バイクは三人乗りは当たり前、四・五人乗り、ナンバープレートが付いていないのがほとんどだ。
バイクの排気ガスは相当に臭く、街中煤けた感じだ。
多くの人がマスクをしている。
信号は数えるほどしかない。横断歩道はない。
人は平然と、走りもせず横断している。
クラクションがひっきりなしになっている。
それは自転車・バイクに「車がきているよ注意して」と言うサインらしい。
「どけどけ」とは違うようである。
事故はかなり多いらしいが、車のスピードは30キロくらいらしい。
地方都市ダナンにも韓国・中国のような車社会が来るのもそう遠い日ではないだろうと感じた。
ホーチミン市などはもうなっているのかもしれない。
ベトナムは近い将来連れ合いとぜひ訪れたい。

第63回ピースボート・地球一周の船旅3・アンコールワット編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅3
アンコールワット編[9/14~9/17]




9/14
VN323便ダナン発、ホーチミン14:50着
VN849便ホーチミン発18:35、シェムリアップ19:35着 
ソカー・アンコール・ホテル宿泊~

9/15
泊まったホテル

朝のシェムリアップの風景




入り口・全景


南門入り口


水牛

南門


バイヨン(東門内)




早大が修理している壁


アンコールトム内仏像

外の仏像


バプオン(フランス修理)


ガルーダ(半獣半魚)


象の鼻の飾り


王宮入り口


アンコールワット外観



主門


主塔


回廊


歯を出して笑う女神像


唯一残っているとされる仏像(後は盗掘)


セクシーな女神像


天地創造の図=綱引きの審判


《レストランKOULENで食事》昼食後ホテルに戻って3時まで休憩=昼寝
その後再び観光、夜は伝統舞踊ショーを鑑賞しながら食事

ソカー・アンコール・ホテル泊[シュムリアップ]

9/16
5時集合で、サンライズツアーに出るが雷雨のスコール


ホテルに帰って食事、ホテル前の道路[繁華街でこの街唯一の信号がある]
若い女性が道路清掃をしていた。


ホテルは右後方。
ホテルのすぐ後ろが仏教の寺院で、朝3時40分に太鼓がなる、
こちらでは中秋の名月のお祭り=雨期の始まりで水の恵みを感謝するそうだ。



前日のスコールで川が洪水を起こし、道路が冠水している。
バイクや自転車、徒歩者は人に背負われて運ばれる。

バンテアスレイ[女性の砦]
バンテアスレイの入り口には『地雷障害者自立村』の看板が。

民間人は地雷被害にあっても何の保障も手当もないそうだ。
地雷被害にあったと思われる人が物乞いをしている、みやげ売り子ども・大人の数が多いし、そのしつこさはすさまじい。
一度目があったらずっと離れず着いてくる。
驚いたのは遺跡観光を終えて出てくると私の写真が描かれた絵皿を見せられたことだ。
買いたかったがやめた。安くは無いだろうから。
絵はがき10枚で1ドル、写真集が千円程度。

入り口


全景


内部


東洋のモナリザと言われる女神像


アイスレイ主塔



レストランで食事後ホテルの戻り昼寝。

午後は
タ・プローム観光
[ガジュマルの木の根が遺跡群を覆い始めている]
そのガジュマロの木を宿り木がさらに巻き付き締め付けている。
木を伐採すると遺跡が崩落しかねないし、放置する訳にもいかず対策に苦慮しているとのことだ。




もう一つの遺跡、プリア・カン[王宮]



その後シェムリアップ航空でプノンペンへ。
19:50発FT997便、プノンペン着20:40、ホテルチェックイン後食事。
カンボジアーナ・ホテルは有名なホテルらしいが老朽化していて、良好とはいえなかった。
カンボジアーナ・ホテル宿泊

9/17
ホテルの窓からのプノンペンの街並み


朝食後ホテル食堂前からメコン川を撮る。



プノンペンのメインストーリーの通勤風景。


カンボジアのシェムリアップは地方都市と言うより、アンコールワット遺跡の入り口の街、と言うことか。
あたりは農村そのものである。
道路の脇、スコールで水がたまるところが水田、と言う感じだ。

カンボジアの教育システムはまだまだのようだ。
子どもは十分どころか小学校低学年で学校をやめるようだ。
教育に金がかかると言うことと、子どもも重要な労働力と言うことらしい。
牛の世話をしている少年には数多くあった。
放し飼いにすると稲を食べてしまうだろうから。
遺跡周辺ではおみやげ売りに驚かされる。
カンボジアはカンボジアリエルが通貨であるが、米ドルは流通している。
レストランではミネラルウォーターもビルもドルである。
価格は2~4ドルで決して高くはないと思うが、現地価値からすればすこぶる高値だろう。
売り子はワンダラー、おじさんかっこいい、と日本語である。
でも、どこか悲惨さは感じられない。
早周りして我々を待っていたり、途中で遊んだり、そして近くには必ず大人がいる。
大人が売るより、子どもの方が売れるのだ。

スコールが来れば子どもは嬉々として体を洗い、また水浴びをしている。
大人も日中は日陰で談笑しているという感じ。
貧しいと言うより、私には豊かさが感じられた。
日本のように水田は労働力集約と言うより、スコールで水がたまれば田植えをし、後は放置という感じ。
せっせと働いているという感じはしない。
果物も豊富らしい。

この豊かさも子どもへの教育の不十分さを考えるとやはり課題は多い。
読み書きはやはり必要だし、教育のあるなしは社会生活を強く規定するだろう。
テレビは少しづつ普及しているので都会的生活習慣が農村を席巻するのはそう遠くはないだろう。
特に貨幣経済の農村への浸透はいろんな問題を派生させるだろう。
いつまでも観光客相手の物売りでは展望はない、は実感である。
中央政府は地方の教育にまで予算も人も回せない、と言う感じだ。
また、アンコールワット遺跡の保存状態はすこぶる悪い。
野ざらしで、観光客の足に踏まれるままである。
雨も多く、このままでは朽ちていくのではないだろうか。

インドシナは今、雨期である。
雨期と言っても日本の梅雨とは全く違う。
一日中雨、と言うことではなく、朝晩、特に夕方スコールが降る。
それも生半可な雨足・雨量ではない。
あっという間に道路は冠水し、小川となる。
でも人々にはあわてない、ずぶ濡れになって歩き、自転車に乗っている。
雨は恵みの雨であり、雨が降ると人は喜ぶ。
特段の努力なしにも実りの秋はやってくる、は言い過ぎだろうか。
それは豊作の絶対条件だし、水道電気が普及していない農村ではそれはシャワーでもある。
雨も、日差しの強さも、気温の高さも東京都とは比較にならないほど強烈である。
我々との価値判断、比較はおそらく意味のないことなのだろう。
ベトナムの力強い活気さとカンボジアののんびりさの違いはどうして生まれたのだろう。
だが、両国とそこでの住民たちの生活レベルは詳しくはわからないだろう。

かつてのポルポト派がもたらした悲劇・損害は今なお強く社会を拘束している。
地雷は全国各地に今なお残っているし、
知識人層や社会的中間層の希少さも国作り・社会作りに困難をもたらしている。

私には、カンボジアは明るかった。

第63回ピースボート・地球一周の船旅4・シンガポール編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅4
シンガポール編


9/17
プノンペン空港から、シルク航空9:50発、シンガポール12:50着。時差があり1時間進める。
そのまま、船に合流する予定であったが、船はアクシデントでダナンに強制的に停留されていて、
我々は船に乗れず、シンガポールにしばらく滞在することになった。
パナマ船籍からマーシャル諸島船籍に変えたため、いろいろなトラブルが生じているらしい。

シンガポールのホテルロイアルにチェックイン。
ガイドの中国人系の許さんは日本語はうまいし、博識で説明は簡明・的確であった。
シンガポールはきれいで秩序ある街だが、スリ・置き引きには最新の注意を払う必要があるとのこと。
また、日本語で話しかけてくる人にも注意が必要とのこと。
そのほか、車優先の社会なので交通には十分注意が必要。

ホテルに入り、午後は自由時間であった。
ホテルは、シンガポールの北、ニュートンの近くであった。
私は昼寝の後、近くを歩き始めたが10分もしないうちに汗が噴き出して来た。
そこに寛済堂という仏寺があった。


そして交差点にあるショッピングモールに潜り込んだ。
日中歩いている人は少ない、そして多くは地下鉄のあるこのショッピングモールに吸い込まれていく。
そこは冷房が利いているからだ。
物価を調べた。
シンガポールの通貨は、シンガポールドルで、レートは日本円かける80%位の感じ、消費税は7%。
夜は繁華街の中華レストラン。

9/18 
朝散歩をした。
午前中市内観光。
はじめにサルタンモスクを訪れた。


モスクは靴を脱いで入る。
これまでモスク内の女性の映像は見たことがなかったが、女性のお祈りの場は二階であった。
そこは一般人は立ち入りできない場所である。
トイレは外にあり、同様に靴を脱いで裸足で入る。足を洗う洗い場がある。

このモスクの前が門前町になっていておみやげ屋になっている。


カンボジアへのオーバーランド=船から一時離れての特別のツアーに参加した。
それには特別の現金は必要なかった。20米ドルしか持っていなかった。
それが船の故障が生じ、船がシンガポールにはまだ来ていない。
何日間かシンガポールに滞在することになったのだ。
そこで、50ドルをツアリーダーから借りた。
コンビニに入ってお釣りをもらおうとしたら、借りたのは50米ドルであり、使えなかった。

マーライオンパーク

ここはウオーターフロントで、ここから最高裁

オペラハウス

金融街高層ビル

大観覧車[観覧車の左はF1レースのメーンスタジオ]

海、などが一望できる。
週末にはF1が行われると言うことで特設スタジオが設営されていた。

許さんによると、シンガポールでは風水の考えがと入りれられていて、
街作り、建造物が建てられているとのこと。
金融街ビルは黒川徽章、丹下健三などの設計の建物があるがやはり風水が取り入れられているという。
また、数字は8,13などが縁起のよい数字とされ、窓の形が八角形だったり、CONRADビルには13と模様が入れられている。
金融界ビルは線香のイメージだそうだ。
オペラハウスはマイクの先のイメージ。

ここにあったおみやげ屋は、貨幣は何でもOK。
米ドルを出してシンガポールドルのお釣りも可能で、円も元も使えるとのこと、
とても不思議だし、計算もとても速い。
昼はレストラン。

昼食後ホテルに戻り昼寝をして、その後『ナイトサファリ』に出かけた。
飛行機の半券を提示すると5ドル値引かれるとのこと、私のチケットは見失ったので行かない知人に借りた。
穏やかな女性の伊藤さんとしゃべりっぱなしの坂西さんと私の三人で出かけた。
タクシーを使うのでチームを作らなければならないのだ。
繁華街のレストランで個人の食事、私は湯麺様の麺(4ドル)と春巻き風(2ドル)を食べ、タクシーに乗り込む。
昨夜若い女性だけで行ったグループは30ドルもふっかけられたという。
どうやら遠回りされたらしい。
私たちは16ドルであった。
サファリはトラムという日本語ガイド付き路面バス料金も含めて27ドルであった。
チケットを買うときちょっとトラブルがあった。
チケット売りの女性、飛行機のチケットの印字がかすれてよく読めなかったらしい。
7日以上たっているので割り引きできないと相手が言っているのだが、
私は7日以上たっていないと割り引きできないと彼女が言っていると勘違いした。
私は「Within7day」という記載に気づき、、我々はおととい着いたのだと言い、
結局5ドルは割り引かれれた。
このナイトサファリなかなかよくできていて、
サイ、水牛、ハイエナ、アジアライオン、カピバラ、バク、オオアリクイ、ゾウ、トラ、カバ、ムフロン、キリン、ヒゲイノシシ、ボンゴ、インドオオカミ、
その他かなり珍しい動物がかなりの至近距離で動き回っているのを見ることができる。
これらは夜行性動物のようで、えさを食べたり動き回っていた。35分くらいであろうか。
その後、アニマルショウを見たがこれはたいしたことがないショウで、早口英語であった。
でも、少しはわかった。カワウソ、オオカミ、ハイエナ、サーバルなどの野生動物が登場。
園内各地に雨よけシェルターがあるのがシンガポールらしい。
帰りのタクシーは12ドルちょっとだった。
ガイドの許さんが言うのには、シンガポールは狭いのでタクシーはせいぜいかかっても20~25ドルだという。

9/19
朝散歩をしていたら、雨に降られた。
その後、ピースボートがシンガポールに到着し、やっと合流。
その後慌ただしかったが、セントーサ島に渡った。


本島に停泊するクリーッパー・パシフィック号。

セントーサ島のスカイタワーから本島を臨む。
セントーサ島は船が係留されている埠頭の目の前の島だ。
ロープウェーイかモノレールで行くことができる。
私はロープウェーイを使った。
降りると回転展望台=スカイタワー
スカイタワーからセントーサ島を見る。
次に水族館


イルカショウは始まっていたが特別見たいわけでもないので入った。


移動は無料バスが走っている。
入島料は3ドル取られるが、これにはバス代が含まれている。
トータル48.8ドルほどであったが、カードが使え、助かった。
この島は、かつては砲台があり、港を監視していたようだ。
南国の海岸リゾート地で強い日差しと暑さであった。
そのほか見て回るところもあったが暑いので早々に引き上げた。
キャビンで旅行帰りの荷物の整理と翌日の計画を練る。

9/20
この日は、地下鉄で博物館に行った。

シンガポールの地下鉄は綺麗で、安く、わかりやすかった。

アジア文明博物館は川沿いのきれいな風景の中にあった。

内容は東・東南・南・西アジアの文化遺産が展示され、
仏像や様々なコーランなどもあった。全体にはそんなに大きくはない。
次にシンガポール国立博物館に行った。


この博物館はきれいで大きな建物だが内容はそれほど豊かではなかった。
食・ファション・映画・写真などのギャラリーのほかに、歴史・文化ギャラリーがある。
展示物は豊富ではないが、音声ガイダンスのシステムはよくできていた。
入り口で配っていたが有料と思って入ったら説明文が全くない。
音声ガイダンスがないと深くは理解できないので、職員に聞くと無料であった。
日本語版もあると言って取ってきて、使い方も説明してくれた。
片言の日本語が通じたのが本人にはうれしかった様だ。
私は昼過ぎまで見学した。
ほとんど人はいないし、冷房も利いていてのんびりと見学できた。
この二つとも60歳以上はシニア料金で、4ドル、5ドルであった。
地下鉄は一人で切符を買い、乗り込んだ。
シンガポールドルコインが少し余ったので、買い物をしたら、40セント足りなかった。
うろうろしていると後ろの女性が1ドル出してくれた。
私は思わずサンキュウと図々しく言ってもらってしまった。

船に帰ると、船長から出発できないと説明があった。
船籍を変えたために、船主協会などからいろいろチェックを受けているようで、
今度は予備バッテリィに不具合があり、交換しなければならないのだという。
何というお粗末さ。
この説明に拍手する人がいるのだから、ノー天気というかおバカとしか言いようがない。

9/21
桟橋が込んでいるため、朝5時半から夕方3時までは桟橋に係留できず沖で待機。
日曜なので私は休養日とし、カンボジアの旅を記録した。
昼すぐGETの先生たちとのチャットが急遽もたれた。
細かい点はわからないがだいたい何を言っているのかわかりほっとした。
シンガポールでは何度か両替をした。
レシートに手数料は書いて無いので、レートの加算されているのだと思う。
ホテル、銀行の手数料はかなり高く街角の両替商の方がやすいらしい。
方々に両替所あるので困らない。
いずれもインド人が窓口であった。
コンピュータでぱっぱっと計算しあっという間の両替である。
船内はカード決済で現金は不要なので私は円もドルもユーロも現金はわずかしか持ってきていない。
アクシデントでオーバーステイとなり現金が必要なのだが、ひたすらガマンである。
キャッシュカードのATMがあるが仕組みがわからないのでツアリーダーダーに聞いたら、
キッヤシングということで、かなりの利子が取られるので、手持ち現金が無くるまでは使わないことにした。

9/22
今日も留め置き。
冷房が低すぎ、ついに風邪を引いた。咽が痛み、咳が出、そしてついに鼻炎も出てきた。
今日は日曜日、船外に出ないで休養日、本を読んで過ごした。

今日初めて、インターネットを使った。
出発のブログを発信し、妹にメールを送った。
100分間4000円だからゆっくりはできない。
私にパソコンで文案を作りそれをコピーするのだ。
だが、写真はネットを使わないとできないので、バイト数を小さくし一、二枚にすることにした。
簡単なブログなのに20分はかかった。
咽の調子はよくない。

9/23
咽の調子はだいぶ回復したので、シンガポールの街に出かけた。
地下鉄はマスターしたつもりだったが、わからず困っていると後ろの青年が親切に教えてくれた。
チャイナタウンの仏牙寺に出かけたが、地図がよくわからないで、交差点で困っていたら、インド系の人が話しかけてきた。
ガイドの許さんの話では日本語で話しかけてくる人には注意しろ、と言われていたので、
ちょっと心配だったが、結局彼もわからず、通りかかりの人に聞いてくれた。
方向が逆であった。引き返したがそれらしいものはも当たらない。
若い三人の男女が来たので聞いてみたら、彼らもよく知らなかった。
シンガポールでは何人もの人に道などいろいろ聞いたが、いずれの人もとても親切であった。
シンガポールの英語は様々な民族が集まっているため独特の英語で、シンガシッシュとも言うそうだ。
片言の下手な私の英語でもつうじた。
実はこの地図、寺のマークが引き出し線で書かれていたので、
実際の位置とは通りが一本ずれていたのに私は気づき、ようやくたどり着いた。


仏牙寺

それは有名な寺で、チャイナタウンのほぼ真ん中にあった。
中にはいると読経中であった。
中国の寺では座布団のようなものがあって、信者はそこに膝まついてお祈りする。写真の撮影もOKである。
寺の建物は高層、真っ赤、たくさんの仏像が配されているがいずれも真新しいもので、
私にはありがたみはいまいちのかん、であった。
420キロの黄金の仏舎利があるというのだが時間外だったので見ることはできなかった。
チャイナタウンは狭い街である。
昨日は中秋の名月と言うことでにぎやかのようであったが、
この日も昼下がりであったがとても多い人手であった。
街の食べ物屋のにおいは私には強烈すぎた。
もう一つ仏寺を訪ねるつもりであったがあまりの暑さのため帰った。
乗船してから、シンガポールドルを米ドルに戻すのを忘れてしまったので、夕方両替しに出かけた。

9/24
今日からGETがやっと始まった。
男性老人二人と若い女性五人であった。
先生はJoと言い、若いイギリスの美人女性であった。
ゆっくりはなしてくれるので、70%位は聞き取れたと思う。
また、生徒のレベルもほぼ同じようでまずは一安心した。

午後2時ようやくシンガポールを出港した。
やれやれである。しかし一週間以上の遅れどのように回復するのだろう。
元宇宙飛行士の秋山豊寛さんの『鍬と宇宙船~なぜ百姓になったか~』を聞いた。
なかなか聞き応えのある話であった。
50代半ばでTBSを辞めて、農家になったという。
この決断にはやはり“死=老い”の問題があった。
いつ死んでもいいように残された人生を大切にしたいと言う思いはとても共感できる。

今日昼ご飯の時、とてもすてきな女性にあった。
昨日GETのオープンスクールであった28歳の女性で、後ろから声をかけられた。
日本で教員をやった後、海外青年協力隊でドミニカで二年間数学を教えて来たという。
ドミニカはスペインの後に寄る。
今後もこの仕事を続けたいが、親との関係もあるし、家庭も持ちたいし、悩んでいるとのこと。
この船でゆっくり考えたいと言うことであった。
これまで船内で出会った若い子の多くはちゃらちゃらしている子が多かったのでうれしかった。

シンガポールは、当初は半日の滞在予定であった。
それが船のトラブルで望外の滞在となった。
何が幸いとなるか、わからないものである。
ホテル代はジャパングレースが負担する。
シンガポールはほぼ赤道直下・熱帯である。
高温だが、湿気は意外と少なく、ビル内は冷房も効いている。
車優先の社会で、車にはステータスのわかる様々なシール=マンション・ゴルフクラブなど
がたくさん貼ってある。
横断歩道は少なく、歩行者信号の時間はとても短い。
車の合間を縫って人々は通りを横断する。
道路は綺麗で、ゴミは落ちていない。
物価は、生活必需品は安いが、贅沢品は高いという。
シンガポールの国土は狭く、淡路島島と同じくらいの広さで、
マレー系、中国系、欧米系、インド系などの他民族国家で、
リー・クアン・ユー首相が今日の住みやすい繁栄の基礎を築いたという。

ピースボートは、さながらボートピープル状態で、インドのコーチンに向かう。
約一週間のクルーズである。

第63回ピースボート・地球一周の船旅5・コーチン・インド編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅5
コーチン/インド[9/29]編


コーチン着は、8時の予定であったが、モンスーンと海流の影響で3時間ほど遅れ、11時15分であった。
コーチンも良港である。いくつかの島と川が湾を作っている。


だが、ダナン、シンガポールとは様子がだいぶ違う。
ダナンは落ち着いている、シンガポールは近代的できれいだが、コーチンは遅れたアジアという印象だ。
近代的高層ビルが見えないと言うだけではなく、船上から見える建物はいずれも古く汚く貧しく見える。
桟橋もきれいではなかった。
私はバスでの『コーチン観光』をオプションしていた。
当初の予定はエルナクラムという新市街地を2時間弱自由散策する予定であったがこれは省略され、まずレストランで昼食となった。
様々なカレー・スパイス味のルーがバナナの葉の上に配られる。
それは独特のスパイスなのだが、私には美味とは言えなかった。
その様々な緩いかなり水様のルーをライスと手で混ぜて手で食すのがインド式なのだが、
手からこぼれてしまうので多くの人がスプーンを頼んで食べた。
カレーはスパイスは利いているのだがコク・旨みが少ないように思う。
米の粉をベースにココナツミルクなどを加えた三種類の飲物が出たがいずれもとても甘い。
デザートはモンキーバナナとドライバナナであったが、これも日本のものより味は落ちた。
カレーは野菜が主で、小さなチキンと魚の入ったチキンが少量入っていた。
インドの日射しは強かったが、真夏が過ぎていたせいか気温はそれほど高くは無かったように思う。
また、緯度もシンガポールと比べるとずいぶん高いのでその分気温が低いのかもしれない。
インドでは生水は厳禁で、歯磨きの水も生水はだめと言われた。
だが、いずれにしろ、暑さには香辛料と甘さが必要なのかもしれない。
レストランでも飲むのはミネラルウォーターである。
食事の途中から、カタカリダンスというインドの古典芸能・ダンスが披露された。
このダンス、通常では一つの演目が10時間ほどもかかるそうで、
我々にはさわりだけが演じられたが、これもお世辞にも美しく楽しいものとはいえなかった。

たとえば日本の伝統芸能、たとえば能、舞踊や歌舞伎の知識がない外国人にはそれらの鑑賞はそれほど楽しくはないだろう、と同様に。

インドはトイレ事情もよくないと事前に注意を受けた。
トイレットペーパーは持参し、それは水洗便所に流さず、備え付けの汚物入れに入れる、水洗パイプがつまらないようにである。
公衆・有料トイレはない。
[もっとも、トイレ事情は、インドだけが劣悪なのではなく、
ニュージーランド・オーストラリアを除くほとんどの国、地域でも同様であった]
観光客用に絨毯屋のトイレが開放されたが、旅行会社が料金は払っているのだろう。
ここのトイレも男性用は小便器と大便器がそれぞれ一つだけ、それも仕切なしであっただけだ。
このレストランのトイレはとてもきれいであったが、男子便器の高さはインドでも異常に高かった。

その後、旧市街地に移動し、セントフランシスコ教会を見た。

この教会は、1510年ポルトガル時代に建てられた最古のキリスト教会で、
この地で亡くなったヴァスコ・ダ・ガマも一時ここの埋葬されていたという。
ヴァスコ・ダ・ガマの埋葬の跡

外観はきれいに塗装されていたが、かなり痛んでいて、メンテナンスは十分に行われていないようであった。

海辺に戻り『チャイニーズ・フィッシングネット』を見た。
これは古い漁法で現在では観光用だけのようだ。


ダッチ・パレス[建物の写真は撮ったが失敗した、内部は禁撮影]。
コーチン王のためにポルトガル人が作った宮殿で、現在は博物館となっている。
かなり古いものだが、ここも痛みが進んでいて、メンテナンスが不十分だ。

ユダヤ人のシナゴーグは開放されていなかっため、外観だけを見た。

かつてコーチンにはユダヤ人が多く住んでいて香辛料貿易などで財をなしたが現在は数家族のみ居住しているという。

この一帯はユダヤ人街と言われるいわゆるお土産屋だ。
私はお土産は必要ないのでほとんど覗かなかったが、
日本語での呼び込みはすごいもので、彼らと目が合うものならそのしつこいことしつこいこと。

米ドルでの買い物もできるが、絵はがき6枚一米ドル。
ただ、インドでは売り子は子どもではなく大人だ。
インドでは子どもの教育は重要視されているようで、子どもの売り子は見なかった。
ちょうど学校が終わった時刻で子どもたちの帰宅時であった。
こぎれいな制服を着ている子どもが多かったが、民族衣装の学校もあるようだ。
道路は狭く、バイク、三輪タクシのオートリキシャと乗り合いバスでいつも渋滞し騒々しい。
排気ガスとゴミで街は臭く、くすんだ感じだ。
リキシャはメーター制ではなく交渉制で、三人まで乗れ50円ほどのようだ。
乗り合いバスは日本円で10円ほどで乗客は多い。

私は少し怖かったがお土産街を離れて少し歩いた。

郵便局


消防署


銀行の支店や警察・警察官のアパートや郵便局があったがいずれも小さく立派な建物とはいえず、
金持ちの個人の家の方が遙かに立派であった。
廃屋の跡地はゴミの山で、通りのあちこちにゴミが散乱している。
男たちは平然と立ち小便であった。
時折牛が誰にも引かれずに悠然と歩いている、野良犬も闊歩している。
そんな中黙々とタマネギなどを山ほど積んだ大八車を運ぶ二人組がいた、私はそれを見てつらかった。


街を歩く大人はほとんどサンダルだ、女性の服装はこぎれいだ。

インドの、しかも南部の港町・古都コーチンのほんの一部しか見ていないのに、インドを語るのは乱暴だが、
私が見たコーチンの街は、
貧富の格差は服装や持ち物、履き物[裸足・サンダル・靴]、建物・車、そして商売などに強く大きく感じた。
街は不潔でゴミが散乱している、人々はとても多い、子ども特に女の子は美形で服もきれいだ。
小さなお店が延々と軒を連ねている。
物乞いもいる、いろんなものがごっちゃに混ざり合っている、と言う感じであった。

人々の数は多く、活気と停滞を同時に感じた。
人々の外観は、生活の日常=格差が即時に見て取れるように感じた。
同時に私は、インドには、今なおカースト制度が色濃く残っている、と感じた。
カーストは、職業の選択の自由・結婚の自由もない、という。
何千年と続いてきたこのカースト制度は、人々の流動性を制限してきた。
限られた地域・血縁の中で生活してきた不可触民と思われる彼らの身体には、
明らかに遺伝的障害が少なからず蓄積されているように感じた。
バラモン教の輪廻思想はこのカースト制度を根で支えているように私には思える。
輪廻思想は、諦念・現状追認の思想のように思えるからだ。
私は、インドがこのカースト制度と貧困を克服するのは容易ではないだろうと感じた。

次の寄港地は、エリトリアのマッサワ、約一週間のクルーズである。


第63回ピースボート・地球一周の船旅6 ・マッサワ=エリトリア編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅6
マッサワ=エリトリア編


10/5
13:30
マッサワ港に着岸した。


昨今、ソマリア沖で海賊が出没しているので陸地に近い北より航路を選んだため少し遅れた。
インド洋からアデン湾に入るとアラビア半島が見えて来た。
砂漠を見るのは初めてだ。
緑色のない、薄褐色=クリーム色の大地が低く延々と続いている。
所々水平線が白くなっている。そこは島で、波が打ち寄せて白いらしい。
イルカ・鯨と時々遭遇する。
海にたくさんの水があり、どんどん蒸発しているのだろうに、この地には雨の恵みが少ない。

14:30分過ぎにオプションツアー『港町マッサワ巡りと機関車乗車体験』に出かけた。

この鉄道は、かつての宗主国イタリアが港町マッサワの桟橋近くから
高地の首都アスマラまでを敷設したそうだ。
現在は道路が作られ、道路の方が早いので、鉄道は使われていないそうで、
我々のために蒸気機関車を走らせたそうだ。
しかし、十分なメンテナンスが行われていないためかは不明だが、
機関車の水や十分な空気が不足したために、途中で何度もストップして、
当初45分の予定が2時間以上もかかってしまった。
【問題は、ジャパングレースの危機意識のなさだ。
高地に入り携帯は通じない、炎天下、水分の補給が不十分、高齢者も多い、
しかし、事故が起き無かったから良かったものの何の対応もしないのである、
ピ-スボート・ジャパングレースは、このクルーズ全般にいえることだが、
危機管理能力、アクシデントに対する応用能力がほとんど希薄なのである】


線路は砂漠地帯の真ん中を進み、だんだん高地に入っていく。
砂漠と言ってもサハラなどの砂漠と違って所々ブッシュが繁り、樹木も生えている。
住宅も点在する。

ブロックで作られたもの、木ぎれだけのもの、トタンで屋根・壁を作ってあるものなど。
山羊を牛やロバなどの家畜も飼っている。
放たれているらくだは野生なのか家畜なのかはわからない。
ワジ[雨が降ったときにできる川]の後と思われるものがあった。
それは所々わずかに水たまりを作り、ワジの幅はかなり広かった。
ここは、全くの無水地帯ではなく、雨が降ると大雨で濁流となって川となるのだろう。
汽車が通ると人々、特に子どもが手を振って寄ってきた。

汽車のスピードは20~30キロぐらいだろう。
途中らくだの死骸がいくつかあった。どうして死んだのかはわからない。

また、ソマリア難民のキャンプ地もあった。

屋根のビニール状のものには国連の名前があった。
線路はどんどん高地へと入るが、前方・四方には遙か遠くに山々・台地が横たわっていた。
あたかもアメリカの西部劇に出てくるような風景だ。
大気の温度は38度位らしい、日射しは刺すように強い。
私は特に目が痛かった。
それは紫外線の影響もあるだろうが、汽車に乗っていて乾いた空気が目に当たるためではないかと思った。
やっとの事で、汽車の終着点につき、帰りはバスで高速ユーターンだ。
新市街地のレストランで、エリトリアの食事とコーヒーを味わう。
夕方の5時近くになっていたので、慌ただしい食事であった。
エリトリアの主食はインジャラと言ってゴマに似た植物の種をひいて粉にしたものを薄く焼いたものだが、
発酵させてあり独特の酸味がある。

インドのようにいろいろなカレーをこのインジャラに包んで食べる。
現地の人は手で食べていた。
ツアリーダーは事前に、インジャラはおいしくないと言っていた。
だが食べてみると、非常においしいとは言えないが食べられないほどまずいものではなく、
汗をかいて疲れた体には、この酸味とカレーのスパイスは私には食せる味であった。
私にはインドのカレーよりは洗練されていておいしく感じた。
牛肉や魚などが入っているのでコクが出ているからではないかと思う。
コーヒーは、客をもてなすためのもので、入れ方には独特の作法があるそうだ。
かなり煮詰めたような濃い味・色で、砂糖をたっぷり入れて飲む。
ちょうど日本のぐい飲みカップくらいの大きさの器だ。
飲めないほどまずい訳でもないが、非常においしいと言うわけでもなく、
私にはどことなく煤けたくすんだ感じの味であった。
だが、時間が無かったのでゆっくり食事を楽しんだり、
現地のウエイターなどに聞くゆとりは無かったのが残念だ。
慌ただしく食事を終えて、
殉職者追悼公園[ソ連製の三台の戦車のモニュメント]、

エチオピア皇帝の別荘跡地を見学した。

二つとも港の近くにある。植民地時代の銀行跡は暗くなってしまったのでその前を通っただけであった。

エリトリアは小さな国で、アフリカで一番若い国だ。
隣接するエチオピアは古代より大国だが、海に接していないため、古来より港・海外線を求めてきた。
この両国にはそうした争いがある。
特別な地下資源や産業があるわけでもないので、
大国はこの地に特別の利益がないためエチオピアとの国境紛争について傍観し、紛争が長引いてきた。
取り立てての観光地があるわけでもないので、海外の観光客の来訪も少ないらしい。
外国人は珍しいらしく、汽車の我々に大人も子どももにこやかに手を振ってくれた。
裸足の人が多く、服装はみすぼらしい。
だが、人々の表情はとても明るく、人なつこい。
汽車から見える住居の多くは、掘っ建て小屋、バラックでる。
子どもが多いと感じた。
学校は二部制らしいが、子どもが労働力としてだけ扱われるのは少ないようだ。
もちろん子どもは薪を広い、家畜の世話をしているようではあるが。
中には街を一人で歩いて子どもに囲まれ、お金を要求された人もいたようだがそれは少ないらしい。
また、観光客慣れしていないので、子どもや大人が「ワンダラー」と土産品を売りに来ないのはまことにいい。
エリトリアはまだまだ発展途上の国で、社会的インフラは非常に遅れているし、
産業も十分には発展していないようだし、従って観光業者・ガイドもいないらしい。
我々が訪れたのは日曜日で、英語を話すことのできる比較的エリート層の人たち、
たとえば教師や水道局の人たちがガイド役をやったくれたそうだ。
そんな一人がしきりに言った。
「たった一日の滞在は不満だ、是非首都も見てほしい」と。
私は彼女が、砂漠で決して豊かではないマッサワだけがエリトリアではなく、
豊かな首都アスマラも見てほしい、アスマラは高地にあり、気候もよいし、緑も多い、建物も立派だ、
その両方を見てほしい、と言っているように思えた。
貧しさだけでなく、未来に向かって進んでいるところもしっかりと見てほしいと言っているように感じた。

夜、ピースボートとエリトリア友好イベントがあった。
新市街地のシネマ広場・メインランドで開かれた。
たくさんのエリトリア市民・子どもが三々五々集まった。
ダンスや歌の交換、援助物資の贈呈が行われた。

エリトリアは独特な国造りを進めているらしい。
隣国の大国エチオピアの拝外主義にエリトリアの他民族が団結して抵抗戦争を戦ったと言う。
他のアフリカの多くでは、かつての宗主国は民族同士を分断・抗争させ統治した。
そして、独立を勝ち取った後、利権・権力を巡って同民族・身内だけを優遇したり、分裂し、抗争を激しく繰り返し手来た。
有力な地下資源や利権を持たないエリトリアではそうした争いも少なかった。
さらにエチオピアとの抵抗戦争で女性もともに銃を取って戦ったと言う。
このことは解放後も女性の発言権・活動を持続させ、民族間の分裂等防ぐのに良く作用したという。
エチオピアと戦争・緊張状態が続いているということから、
一党独裁・政治的民主主義が存在しない・報道の自由が無いなどの状態が続いている。
また、軍事力に多くの予算と人材を割かざるを得ないなどの困難にも直面していると言う。

中国の社会主義を参考にしているらしい。
いずれにしても国の舵取りは簡単ではない、と私は感じた。
我々は、紅海を北上し、スエズ運河に向かう。

第63回ピースボート・地球一周の船旅7・サファガ/エジプト①編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅7
サファガ/エジプト編①




10/8【ルクソール】
サファガを出たのは朝の7時であった。
観光客を乗せたバスはコンボイと呼ばれるひとかたまりになってルクソールへ向かう。

コンボイの先頭を観光警察官が乗るジープが先導して走る。
高速道路のような道路をひたすら南下する。

この道路と交差する道の交差点には武装警官が立って、狭い道路はストップさせる。
止められた車は、コンボイが通り過ぎるのをじっと待っている。
交通信号はない。
この日は百台以上のバスではないかとガイドが言う。
ルクソールまで4時間強かかったが、途中トイレ休憩は一回だけであった。
アジア・中東・エジプトは公衆トイレの設備が非常に整備されていない。
カフェテリアという日本のドライブインのような店で休憩するのだが、
便器の数は少なくその上水洗の水の勢いが弱いのでとても汚い。
観光に力を入れているというのに、社会生活のインフラが全く整備されていない。
道路だけでなく、観光遺跡の地でも、博物館でも、レストラン、お土産店でも同様であった。
移動においてトイレ問題は最大の重要問題である、と言っても過言ではない。
一度のトイレ休憩に小一時間かかった。
途中何回か、検問ポイントがあって、そこでは道路が一車線になるので渋滞する。

カルナック神殿
午前中はカルナック神殿を見た。
グリーン・バラスというレストランで遅くなった昼食を取り、午後はルクソール神殿を見学した。

船着き場跡


入り口


羊の参道


三つの礼拝堂


第一の中庭


メセルターリ象


大列柱室


柱頭部


オベリスク


オリベスクを見る人


糞転がしの像[この象の周りを回ると幸せになると言う]


聖なる池


カルナック神殿全景




足場[こうして足場を作って高い部分を作る]


ルクソール神殿

入り口の参道からスフインクス参道を見る


全景


入り口の象


入り口のオリベスク


神殿内のモスク[後の世に作られた]


モスクと第一門の間


ラムセス象


列柱間の像


第一門からラムセス像


土産物屋の金細工店


ルクソール市街


サファガからしばらくは砂漠であった。
しばらくすると、急に緑が多くなり、畑や民家が現れてきた。
エジプトではほとんど雨が降らないらしい。
にもかかわらず広大な農地はナイルの水の賜という。
本流の脇に小さな運河が掘られ、そこからポンプで水をくみ上げ畑に送るのだという。
畑や水田、木々や色鮮やかな花々も咲いていて、緑は豊富なのだが、
エジプトは黄土色のイメージの方が強い。
それは道路、畑の土の色がそうだからだけではなく、
家々、ビル(市内の高層)などの外壁の色がほとんど土の色と同じ色をしている。
エジプトではほとんどの建物・家が工事中と言うイメージがする。
それは、いずれも屋上に未完成の鉄筋や柱が残っていて、将来必要になったら上に建て増しするらしいのだ。
農村では、屋根が草葺きで、それらは乾いた後家畜のえさか、
土と混ぜて壁や日干し煉瓦に転用されるのではないだろうか。
雨が少ないので屋根は、雨を防ぐためではなく、暑さを防ぐためで、
それにはトタン屋根も瓦屋根も不要で、藁でも、葦でも、布でもよいというわけだ。
アジア・中近東では水は重要である。
生水は厳禁で、飲み水はミネラルウォーターでなければならない。
ホテル、レストランでも同様である。値段は1~4ドルである。
水はトイレ以上に重要ではある。
観光客は現地人が売るミネラルウォータを小売店・露天でドルで買うこともできるが、
ぼったくり・お釣りなしである。
ルクソールは高温であった。40度は越えているという。
さらに、地面は黄土色の土であったり、石でその照り返しも半端ではない。
観光客の数も多く、エリトリア以上の暑さであった。
カルナック神殿・ルクソール神殿も巨大な神殿であった。
像もそれぞれの部分もいずれも巨大であった。
だが、色彩が無くモノトーンなのである。
遺跡の保存状態は決してよくないが、雨が少ないことがその腐植を防いでいるらしい。

10/9
午前中はホテルであった。ホテル入り口


ホテルの前は畑であった。


午前中は、休憩で、散歩したりナイル川岸のホテルの庭の木陰で本を読んだ。
宿泊したホテルは大きなプールもあり滞在リゾート型のホテルのようで、広大な敷地であった。
朝の気温は涼しいくらいであった。
ホテルの前はナイル川であった。


対岸は王家の墓であった


12時にホテルを出て、エル・ハッサンというレストランで食事をし、王家の谷に向かった。

メムノンの巨像


あまりの暑さに、観光警察官が子どもに水をかけていた。


ラムセス四世の墓入り口


王家の谷の風景


ラムセス一世の墓入り口


ツタンカーメンの墓入り口[カメラは預かりとなる]


一般人の墓


ハトシェプス女王葬祭殿


ハトシェプス女王葬祭殿二階


乳を飲む女のレリーフ


ハトシェプス女王葬祭殿よりルクソール市内を臨む


宿泊したホテルで夕食を取り、その後
スーク市場を散策した。


深夜、ルクソール空港からカイロ空港に向かった。
ちょうど日付の変わる頃飛行機に乗ったが、その頃から 腹の調子が悪くなり、
飛行機に乗った途端、激痛に襲われた。
あわててトイレに駆け込んだ。
トイレの中の鏡を覗くと脂汗をかき、真っ青な顔色であった。
以降ずっとトイレの中で、着陸時もトイレの中であった。
このまま歩けなかったら救急車かと思ったが、何とか持ちこたえ、
空港のトイレにも駆け込んだ。
ほとんど腸内のものがなくなったのかやっと少し落ち着いた。

空港のトイレはちょっと変わっていた。
日本の昔の便器のようなのだが、ただ穴があいているだけで、
しかも、金属製の蛇腹ホースがあって、栓をひねると水が出て尻を洗うのである。
余裕があれば汚らしいのでパスだが仕方ないので試した。
不思議な文化である。
ホテルでは同様の物が普通の西洋便器に付随していた。
こちらはどうもビデらしいのだが、私はこれで尻を洗った。

体調を崩したのは私だけでなくほかにも何人かいたようだ。
どうも船内の食事か、レストランの食事か、水が良くなかったようだ。
40度を超す猛暑とスパイシーな食物を体が寄せ付けなかったのかもしれない。

ホテルに着いたのは真夜中の2時であった。
娘のくれた整腸剤を飲み、バスタブにのんびりつかり、休んだ。
翌朝体調が悪かったら、ホテルで休んでいようと思って床についた。

第63回ピースボート・地球一周の船旅8・ポートサイド/エジプ ト②編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅8
ポートサイド/エジプト編②




10/10
モーニングコールは8時であった。
わずかな時間であったが、ぐっすり寝られたようだし、腸内には何も残っていなくなったのも良かったようだ。
カイロの気温はルクソールと比べて遙かに低いようで、朝は涼しいくらいであった。
空腹を感じたので、おそるおそるパンと牛乳とジュースとヨーグルトなどだけを食べたが、腹痛はおきなかった。
一番にピラミッドを見に行くというので、ピラミッドを見て調子が悪かったらツアーを抜けてタクシーでホテルに戻ればよいと思って、出発した。
ギザノピラミッド


ギザのピラミッドからカイロ市内を臨む


観光ラクダ


スフィンクスとピラミッド


第二ピラミッド


全景


パピルス店・土産屋


ナイル川に浮かぶ船上レストランで昼食

お腹は持ちこたえていたので、消化が良さそうなものだけを選んで食べた。

ハンハーリ市場前広場

その後ツアーは巨大なハンハリーリ市場への自由散策となったが、
私は市場には出かけず、バスの中で休憩・睡眠を取った。

メルデリンホテル


ピラミッドは壮大な“無”のような観がしないではない。
ピラミッドは宗教的意味合いはあまり無く、権力誇示というよりナイル氾濫期、
農民の失業対策事業の意味合いが強かったと言うことが最近の通説のようだが、
また、同時代の中国では長城にそのエネルギーを費やすが、
ローマでは水道橋・道路・劇場・浴場などの社会的生産のインフラを作った。
一概にどの文明が賢明だったとはいえないが、ローマはぬきんでていると私は思う。

夕飯はナイル川クルーズでの食事とベリーダンスショウ見学であったが、
私と吉沢さんは体調が悪いので、部屋にルームサービスの食事とした。
サンドイッチとフルーツとスープとウイスキーを頼んだが、
その量はとても多く体調不十分な二人は食べきれなかったが、のんびり話しながら食事した。
吉沢さんは私より一つ年上で大阪の人で穏やかな人であった。
一時間半ほどで引き上げゆっくり休んだ。

ル・メリディアン・ヘリポリス宿泊

10/11
朝6時のモーニングコールで目が覚めた。
体調は万全とは言えないが、だいぶ戻った。
朝食も普通のものを少し控えめだが普通に食べた。
まずモハメド・アリモスク、別名要塞モスクの見学した。

天井

ドーム

アリの棺

モスク中央

時計台

カイロ市内を臨む

アリ要塞モスクの外観

大きなモスクだ。

ガーマ・リファーイーモスク


ガーマ・スルタン・ハサンモスク


★イスラームのモスクはとてもユニークで開放的だ。
靴は脱がなければならない、肌を露出するなどの服装はいけないが、後は自由だ。
中は特別なものは何もない。
メッカの方向だけがわかるようになっている。
天井は高い。ドームはお祈りの言葉や説教が響くためらしい。
また、高い塔はお祈りの声が遠くに届くためのようだ。
宗教画や像、偶像はいっさいない。

考古学博物館を見学した。

ものすごい人の数であった。
入り口でカメラを預ける。館内は撮影禁止。
一時間強、ガイドから代表的で有名な展示物の説明を聞いて見学した。
ツータンカーメンの棺室ではその黄金のマスクと棺は東京の電車のラッシュと同じ混み方であった。
ゆっくり見る時間が無く押し出されるように出た。
その後の自由時間に再来したらほとんど人がいなかったのでゆっくり見ることができた。
朝一番ならすいているというガイドの思いこみが失敗だったようだ。
考古学博物館は決して広く、大きくはない。
とてもすべてを展示できないので所蔵する多くは倉庫に眠ったままという。
それでも少し丁寧に見ればどのくらいの時間がかかるのだろう。
中国・台湾の故宮博物館、イギリスの大英博物館もっと大きいかもしれない。
だが、残念ながら見学の順路の案内も、展示物の説明も十分ではないし、
展示順序やまとめ方なども工夫がされているとはとうてい言えないし、
もちろん音声ガイダンスもない。
日本ではほとんど国宝級の物と思われる物が、整理されず、研究されず、
ただ無造作におかれているという感じだ。
この博物館内のミイラ室は他に20米ドルほどのエジプトポンドが必要で前日両替したのだが、
博物館の見学時間がたったの2時間なので、ミイラ室の見学はやめた。
エジプトポンドが余ったので両替屋に行ったら、
手数料30ピアストルないと20米ドルにならない、と言われた。
日本円にすると6円ほどか。30ピアストルを吉沢さんからもらって再両替した。

その後レストランで食事し、ポートサイドまでトイレ休憩なしのバス移動であった。
途中スエズ運河と併走した。
砂漠の真ん中を大型の船が通る不思議な風景ではある。

私は、サファガからオーバーランドツアーしたので、
スエズ運河を船に乗って通過することはできなかった。

運河沿いは畑で、水田らしき物も見受けられた。
船に4時半頃合流し、その後私は、一人でポートサイドの街を小一時間ほど散歩した。
ポートサイド市内のモスク・教会[名前はわからない]


夕方のポートサイドは涼しかった。
街は雑然としている。決してきれいではない。
街の中心部はかなり高いビルやマンションが建っているが[それでも12,3階だろうか]、
あちこち工事中であったり、廃屋地はゴミの山であった。
夕方にはモスクから呼びかけの放送が流れ、道ばたで礼拝する人々がいた。
途中モスクなどを見ているうちに方向を見失ったが大事には至らなかった。
海が見える大きな通りに出れば、大丈夫だからだ。
明るいうちに船の戻った。

エジプトは広い。ほんの一部を駆け足で通り過ぎただけだ。
砂漠の砂の色とナイルの恵みの緑の色なのだが、街・建物の色が砂色なので、
どこかよごれっぽい・ほこりっぽい感じがする。
道路は、街は汚い。
ゴミを捨てることには何の抵抗もないらしい。
命の川・恵みナイルから引かれた運河はどぶ川状態だ。
便所事情はエジプトだけ特別悪いわけではないが、観光立国なのに、である。
そして数少ないトイレだが、水量が無いため汚物がたまっていたり、きわめて汚い。
出入り口には人がいて、使用料を請求したり、トイレットペーパーを手渡してチップを要求する。
次に土産物売りのしつこさは尋常ではない。
路上で財布を開くのは絶対だめである。
また、品物を手渡された、受け取ったら、ほとんど断れない。
また、絶景ポイントがあると親切に案内、教え、サービス料を要求する。
また、写真を撮ってやると言ってチップを要求もする。
これは民間人だけでなく、警備員・観光警察官の一部も平然と行っている。
貧しさに起因していても気持ちよいものではない。
ただ、エジプトの物売りには子どもが少ないのは救いではある。

この時期のエジプト観光は失敗ではある。
半端な暑さではない。
観光というだけなら、私には是非再訪したいほどでは無いような気がする。
古代エジプトの遺跡は確かに偉大ではあるが、繊細さに欠けるような気がする。
ガイドのワエルさんはカイロ大学日本学科卒で、名ガイドであった。
ただ、このツアーには買い物屋への案内が多過ぎはした。
トイレを使用するという理由があったとしても、である。
私は土産物には全く興味がないが、みなさん良く買い物をする。
私は、2ドルで薄いショールをかった。日よけにはこれが一番であった。
船に返って選択したらものすごい色落ちであった。白にするべきであった。

ルクソールは都市と農村が混然としてゆったりした感じだ。
バスの車窓から見える農村は落ち着いた感じであった。
家畜が家屋の周りに人と一緒に住んでいる風景は本当に心和む感じであった。
人がロバに乗って移動したり、荷を運んだり、家畜が餌をはんでいる。
雨が少ないためだろうか、屋根の上に草が乗っている。
おそらくそれは家畜のえさになるのだろう。
また、家がどれも建築途中のような感じ、屋上に柱が突き出ているのだ。
手狭になったら、日干し煉瓦を積み重ね、すぐ建て増しできるかのようだ。

ナイルの水は本当に偉大だと痛感した。
ナイルの周辺は緑があふれている。
水道もだいぶ普及しているという。


カイロは大都会であった。
人も車もあふれるほどであった。
市場は広大で、人々があふれ、活気があった。

エジプトは観光の国、とも言われる。
観光警察は独特のシステムのようだ。
コンボイと呼ばれるツアー客を乗せた数多くのバスが観光警察の車に誘導されて、
一般道路を高速道路のようにノンストップで走る。
道々の交差点では、トランシーバと銃を持った地域の観光警察官が一般車両を止め、
観光バスコンボイが行き去るのを待っているのである。
このシステム、観光客のためのようであるが、見ようによっては逆のようでもある。
つまり、観光バスがばらばらに自由に通るよりも、ひとまとめにして通す方が効率が良く、
かえって渋滞にならないのかもしれない、と思った。

第63回ピースボート・地球一周の船旅9・クサダシ/トルコ編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅9
クサダシ/トルコ編
[10/13]

10/13 トルコ古代遺跡巡り

クサダシ港


先ず、ディデム遺跡が見えるレストランで食事
ディデム遺跡観光


入り口に有名なメドーサの像がある


アポロン神殿[ハドリアヌス帝時代]


ミレトス

円形劇場


その脇の遺跡群

周辺一帯はかなりに広さにわたって遺跡があるが、放置されている
この一帯は地震が多く、多くの遺跡が地震で崩落しそのまま放置されているという。

キャラバンサライ[キャラバンの宿]


プリエネ遺跡[アレキサンダー大王はこの地に進出した、その住居・神殿]


オデオン[屋根付き小劇場5000人規模]

貴賓席

かなり急な斜面の上にある、この遺跡も地震で崩落しそのまま放置されたままだ。

遺跡から見える現在の集落


トルコ絨毯屋・トルコ石屋に寄るが、高額で私には関係なかった。


この三つの遺跡はともにローマ時代のものである。
エジプトもローマも建造物の材料は石だが、
エジプトの場合は神殿・ピラミッド・墓などで日常生活と直接関係ない建物だが、
ローマ時代になると、神殿も多くの人々が訪れるかなり公的なものとなり、
また円形劇場などのように人々の日常生活と関わり深いものになってくるようだ。
いずれの遺跡も地震などのよって崩落したままで、補修は行われていないし、
崩落防止の方策も施されていない。
観光客もまばらである。
土産屋の客引きもしつこさはないので、安心である。

トルコのレストランはバイキング=ビュッフェ式が多いように感じた。
アジア・エジプトに比べるとスパイス・味付けは控えめのようだ。
塩を振って食べる日本人がかなりいた。
野菜・果物の種類と色が豊富に感じた。
また、日射しはかなり強いのだが、気温はだいぶ低く、朝晩は涼しい。
山肌はすべて緑に被われている、と言うのではなく、
かなりまばらにブッシュや木々が茂っている、と言う感じで、
少し高度が上がると緑に被われる。
また、また、街並みは、これまでの単調な黄土色一色という感じから、
家の外壁が白で、屋根が赤茶色となり、これだけで地中海という感じがするから不思議だ。
気温が高くないこと、街並みの色彩が豊かになったな、との感覚の変化は大きい。
土産物もワンダラー・ワンダラーと言わないので安心で、
トルコ人はいい人だ、と思ってしまうのだ。
また、トルコはモスリムが多いが、厳格なイスラームでは無いらしい。
スカーフを被る女性はほとんど見かけないし、お酒は公然である。
それは、トルコが政教分離を国是として来たことと関係がある。
だが、最近はいわゆるイスラム原理主義が力を広げ、分裂が生じているようだ。
クルド人問題、キプロス問題、そして石油問題、EU加盟問題と課題は多いようだ。

トルコ国旗をかなり見かける。

夜のクサダシ


至る所にあるオリーブ


我々は、このトルコで予想外の長期滞留することになる。

第63回ピースボート・地球一周の船旅10・カッパドキア/トルコ編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅10
カッパドキア/トルコ編/番外編❶ [10/15~10/17]




さて、いよいよ明日はギリシャという段になって、
また船の不整備が船主協会に指摘され足止めとなった。
丸一日かかってトルコ第三の都市・イズミルに行き、そこで繋留となった。
急遽、オプショナルツアーが計画された。
私は、少し高かったが『カッパドキア観光3日間』を迷うことなく申し込んだ。
イスタンブール一泊・カッパドキア二泊のツアーもあったが、
イスタンブールはもっとゆっくり見たかったし、妻と一緒に来ようと思って今回はパスした。
10人の少人数ツアーであった。

一日目・10/15
カッパドキアへの飛行機の直行便は無い。
早朝の6時過ぎに船を出て、イズミル空港からイスタンブール空港を経由してネヴェシェヒル空港へ。
隣のトルコ人乗客から英語で話しかけられ楽しかった。
少し会話を楽しみ、私は彼に漢字を少し教えた。
飛行時間はいずれも約一時間であった。

カッパドキアはトルコのほぼ真ん中にある世界遺産で、
エルジャス山の火山灰が雨や風の浸食によってできた奇岩地帯である。
地帯と言ってもその広さは広大である。
ネヴェシェヒル空港は雨であった。
カンボジアでは雨期の雨であった。
それ以来の雨で、少し寒さを感じた。
レストランで食事を取った後、小雨が降っていたので、ギョレメ屋外博物館に向かった。
屋外博物館とは耳慣れない言葉である。
ローマから迫害を受けたキリスト徒は不毛のこの地に逃げ込み、柔らかい岩山を削って住居や教会を造った。
博物館と言うが広大な奇岩地帯の一つで、特に教会群いう。



洞窟内の教会


昼食を取ったレストラン




現在の集落

途中絨毯屋に立ち寄る。
高級絨毯で手が出る額ではない。

夜は、岩をくりぬいて作ったレストランでベリーダンスを見ながらの食事。
このベリーダンスが異常に長く私にはとても退屈であった。

二日目・10/16
この日も時々小雨が降った。
カイマクルの都市遺跡を見た。
入り口

この地に逃げ込んだキリスト教徒は地下を掘り下げて都市を造った。

石の扉

8階建てほどの高さになっているらしいがそのうちの4階ほどが公開されている。
地下に住居、家畜小屋、食料倉庫などが作られた。
内部は入り組んでいて迷路状で、所々移動式石で戸を作っていた。


鳩の谷、と言われる奇岩地帯。

ここは大きな窪地になっていて、谷底には水が豊富なのだろうか、緑の林になっていて、
絶壁にはたくさんの鳩が巣を作りその糞が肥料にもなったそうだ。
目をかたどった、トルコのお守り=魔除け


ウチヒサール地域の城塞と言われる奇岩地帯。


ギョレメ谷と言われる奇岩地帯。
洞窟ホテル


警備している軍人の詰め所






トルコ人ガイドの同級生が住む民家[地下]を見学。
入り口、左はトイレ

居間

しかしこの主人土産物屋を営み、奥さんは手編みの靴下や帽子をちゃっかり売っている。

陶器を作っている工房を見学。いわゆるお土産屋だが、かなり高額だ。


民家


デブレンテ谷
ラクダの岩と言われる奇岩地帯


ホテルのあるアルガップ村
モスク
ベラホテル。

トルコ風呂屋

治安は良いというので夕方、小さなこの町を一人で散歩した。
小さいが活気のある日常の商店街であった。

街角の随所に水飲み場がある。

人の水飲み場の下に家畜用が作られている。
トルコ民族の祖先は中央アジアの遊牧民だったそうで、今でも牧畜が盛んで、
ヨーグルト、バラの原産地はトルコだ。
この水飲み場を寄付した人の名前と作られた年月が書かれている。
イスラムには儲けた人はこうして富の一部を社会に還元する布施の精神があるという。

泊まったホテル、かなり大きかった。

ホテルの近くのモスク


三日目・10/17
すぐワイナリー見学。
アルガップ村

ネヴェシェヒル空港からイスタンブール空港へ、そしてイズミル空港へ。

今回のツアーは船が整備不良でトルコを出港できないために急遽設定されたもの。
10名の少人数で、しかもカッパドキアの同じホテルに二泊のため、とてもゆったりツアーであった。
カッパドキアの景観は素晴らしいものであった。
広さも実に広大で、奇岩地帯が延々と続く。
だが、地味はやせて乏しいようで、黄土色、緑は少ない。
この旅行では珍しく、雨の日が多く、朝晩は涼しくチョッキ、上着が必要であった。
数日前に自爆テロがあったというので空港の警備・チェックは厳しかった。
ハサミを持っていた人はスーツケースを開けられ、没収された。
だが、ペットボトルの機内持ち込みはOKだった。

第63回ピースボート・地球一周の船旅11・イズミール/トルコ編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅11
イズミール/トルコ編/番外編❷ [10/14~27]


14日
夜明け前甲板を散歩した。
月が不気味なほど真っ赤で美しかった。
私は運命論者では決してないのだが、この月はこの旅を暗示しているかのように感じた。
この日、ギリシャのプレウスにたつ予定であったが、トルコを出ることが許されなかったらしい。
船の部分的な欠陥・故障ではなく、どうも相当なトラブルのようだ。
クサダシ港は小さいので、トルコ第三の町・イズミール港に係留することになったらしい。

急遽、特別のツアーがいくつか計画され、私はカッパドキアツアーを申し込んだ[別記]。

10/18
考古学博物館

民俗学博物館

この二つは、期待はずれであった。

アゴラ


アゴラ近くのモスク


イズミルのシンボルと言われる時計台は海岸沿いある。


時計台近くのモスク


コナック広場周辺はバザール地帯だ。
このバザールまるで迷路のように道が入り組んでいる。
だが、迷ったら坂を下ればよい、海岸はすぐだから。
私は特別買うものは無いので見るだけ。

19日 エレン山トレッキング
イズミルから100キロほど、標高500m位の低い丘・エレン山のハイキングツアーを申し込んだ。
この一帯はかなり肥沃な農村で、丘陵地帯は家畜のえさ場のようだ。

また、綿花畑が多く、綿毛が風に飛んでいた。

洞穴

三時間ほど歩いて、人口97人のハッサン・チャウス村についた。
トルコ人ガイドの故郷の村で、郵便局前の庭で、チャイを飲んだ。
農村のトルコでは、子どもと女性は我々が集のところへは来ないで、遠巻きにしているだけだった。

オーガニック農業を試みている農家で食事となった。
だが、この農場かなり険しい丘を越えたところにあり、着いたときは大汗であった。
薄いパン生地をクレープのようにのばし、
それで唐辛子、ネギ・ニラみたいな野菜を細かくきざんだものを包み、
オリーブオイルをたっぷり垂らし、釜で焼く、とてもシンプルなパン[名称は忘れた]。
激辛なので、多くの人が香辛料を少なくして焼いてもらった。
それに果物とチャイ。


20日
市のほぼ中央にあるキュテェル公園一帯を散歩。
[この公園は、連日の散歩コースとなった]。

キュテェル公園内の芸術歴史博物館

この町は車優先である。
道路は走っている車でいっぱいだし、路地は駐車している車で占領されている。
この公園、出入り口はいくつかあるがいずれも駐車場の門となっていて、
公園全体が広大な駐車場という感じだ。
信号の数が極端に少ないし、歩行者用の時間はほんのわずかしかない。
横断歩道は無いので、人々は赤信号でも車の隙を見て横断し、
車は歩行者が歩いていても止まろうとしない。

21日
港近くに郵便局があると聞いたので、家族に手紙を書いて投函した。
この日は英語のGETの先生の呼びかけでトルコバスに行った。
タクシーに分乗して行くことになった。
料金は四人でたしか10ドルで交渉成立のはずだったのだが、
運転手はトルコバスならどこでも良いと思って近くの店に連れて行ったようだ。
我々の目指す店は遺跡・アゴラの近くであった。
ああだこうだと話すが、運転手もその店の店員も英語がわからない。
我々はタクシーを降りずに話していると英語のわかる老人が来て通訳してくれ、
やっと目的の店に着くことができた。
ところが別の一グループは違う店に行ってしまったのかとうとう来なかった。

腰に布を巻いて岩盤浴、日本のサウナのように高温ではない。
20分もするとじっとりと汗が出てくる。
その後5分ほど垢すり。垢すりするのは何十年振りだろうか。大きな垢がぽろぽろ。
その後、袋状になった布にたっぷりセッケンをつけ、中に空気を入れてふくらまして揉むとすごい泡が出て、
それを全身に塗って、5分ほどマッサージのように洗ってくれる。
真ん中に岩盤浴の台があり、その上に横になってマッサージをしてもらう、
その周りに扉のない個室があり、マッサージをしない人は入り口に腰布をカーテンのようにかけて中で体を洗う。
この個室が10位はあるだろうか。奥にもう一大岩盤があった。
サービスするのは男性だ。
日本のサウナのように高温でないのがとても良い。
入浴後、日本のサウナのような冷の湯船はなく、それに入らなくてもしばらくして汗が引いた。
垢すりはまったく痛くなかった、マッサージは気持ちよかった。
この店、家族経営で現場は兄弟、受付は父親であった。
女性は受付が別になっている。
バス終了後、兄は屋上に案内し、町を見せてくれた。
燃料は薪とのことだ。
日本では、このトルコバス形式を無断借用し、女性が性的サービスをするトルコ風呂を開発した。
入浴料13リラ、垢すり5リラ、マッサージ7リラの計25リラであった。
帰りにサンドイッチとチャイの昼食を食べ、歩いて帰った。
[カメラを持って行くのを忘れた]

22日
今日も留め置きである。もう散歩しかすることはない。
キュテェル公園を通り越して、カディフェカレ城塞跡まで足をのばしたが、てっぺんまで上るのはやめた。
鉄道のパスマーネ駅

アルサンジャック駅に行ったが電車はなかった。


23日~24日
ボドルム・ホテルツアー
イズミルの停留が長期になり、乗員の不満も爆発寸前。
ジャパングレイスは姑息な手を打ってきた。
エーゲ海に臨む避暑地・ボドルムへの一泊無料ツアーを企画したのだ。
イズミルから高速道路で4時間ほどの距離だ。
バス12台約450人の大旅行だ。

サムラというこのホテルちょっと変わっていて、飲み放題・食べ放題なのである。
ホテルの庭の先は海岸で、プールやサウナ、トルコ風呂やテニスコートなどを備え、
かなり立派なホテルではあるが、もはやシーズンオフと言うことで他の客は少数であった。
だが、私は暴飲暴食を避け腹八分目にしていたのに、夜中に腹の調子が悪くなった。

サムラホテル宿泊

二日目はバスでボドルムの中心街へ出かける旅が提案されたが、
私は朝食は取らず、部屋で休憩・読書で時間をつぶした。
注意力が散漫になっていたのか、部屋の鍵のカードを紛失したり、
チェックアウトの時間の指示を間違え、次の客が来たりと、ドタバタした。
道路は高速道路というが交通量は少なく、日本のようなトラック物流はほとんど無いようだ。
また、サービスエリアの絶対数が少ない上に、その施設特にトイレは貧弱である。
トイレ事情は他の施設でも劣悪で、公園や観光地にも公衆トイレはほとんど無く、
あってもチップが必要である。
この一泊二日の無料旅行は、我々の不満をだいぶ和らげた。

25日
検査は終了したがエンジンテストをしたらメインエンジンの調子が悪いと今度は言う。
午前中1時間半の散歩。
午後はアレキサンダー大王の命令で作られたというカディフエカレ城まで足をのばした。
街の中心部から少し離れたかなり急勾配の山の上にある。
この辺りはスラムと言うほどではないが、環境は良くなく、裕福で無い人々のエリアのようである。
通りには汚水が流れ、道ばたにはゴミが散乱し、饐えた臭いがする。
日々この急な階段・坂の上り下りは大変と思う。
私は袋小路の行き止まりに入ってしまった。
すると若者がやってきて、行き止まりだという。
私が地図を出して城に行きたいと告げると彼はわかりやすい道まで案内してくれた。
彼の知り合いの近所の子が近寄ってきて「マネー」という、
私も彼の親切に感謝の意を込めてと財布から小銭を出そうとすると、
彼は必要ないと受け取らなかった。
この一帯では子どもが近寄って来て「マネー」という、
しつこくまとわりつく子もいるが何人かの大人は注意してやめさせていた。
私は、この日のこの二つの光景にとても気分が良かった。
以降、トルコの印象はますます良くなった。

カディフェカレ城入り口

カディフエカレ城城壁

カディフエカレ城からイズミール市内を臨む


トルコの街のちょっと不思議な光景。
男同士で両頬を触れ合う人々がいる。
これはトルコ圏のと伝統的挨拶のようで、男同士で腕を組んで歩く人々もいる。
多くはないが街角でキスする男女もいる。
とにかく商売人が多い。
道ばたで5,6個の携帯電話を売っている人、靴磨きも多い、
セッケンだけを売っている人、タバコだけを売っている人、
ロト・宝くじを売っている人、とにかく街中至る所、露天・商人っていう感じだ。
道ばたでチャイを飲み、タバコを吸いながら男同士で話したりゲームしたりカードしたり。
三輪自転車で大量のミネラルウオーターを運ぶ人、道路掃除をする人、
物乞いする障害者もいる、雑多な人が忙しく動き回っているが、
同時に何時間ものんびりと座り込んで話していると人もいる。

26日イズミル、午前、午後と散歩。
私は、2007年の9月に定年退職した。
家族からはきわめて冷ややかであったが、外国に行くのだから、変わっている方が良いと言って、
残り少なくなった我が髪の毛がい愛おしく、伸ばし始めた。
それから1年、クルーズに出かける頃には、後ろで束ねられるくらいまで伸びた。
だが、イズミールを散歩しているとき、急に、髪を切りたくなった。
暑さは関係なかった。洗髪は、ちょっと面倒だなとは思っていたが。
するとそれまで全く目に入らなかった床屋が目に付くようになった。
吸い込まれるように、床屋に入った。
その入り口では、4~5人の男達がチャイを飲みながら話していたのだが、
珍しい日本人の来客で、わいわいがやがや。
10米ドルと言うが8ドルであった。
ほんとに切るのかと何度も念を押し、少し切ってはどうかと聞く、もっとと言うと少し切って、と言う具合。
トルコの床屋は最初に髪を洗って、カットして終わり。カットの後の洗髪はなく、髭剃りもない。
さっぱりして、気分よく店を飛び出し、しばらくして眼鏡を忘れたことに気づいた。
慌てて戻ると、手に眼鏡を持って笑っていた。
忘れられない思い出でとなった。

27日イズミル
ジャパングレースがとうとう夜「クルーズ遅延の説明会」を開いた。
この遅延にジャパングレースは何の責任もない、
ピースボート事務局は『早期出港・船の交替を要求する署名』などとピントはずれの要求の説明をする。
この両者は危機意識・危機管理能力皆無の全く当事者能力のない
全くの素人集団であることを自己暴露してしまっているのだが、
最悪なのはそのことに彼らが無自覚なことだ。
だが、彼らはかつてのスターリンのようなことをやる“知恵”はあるようで、びっくりした。
私の隣のキャビンは、批判グループの代表のような人。
彼を監視するために、なんと私の前の空いているキャビンにピースボート職員を配置したのだ。
そのキャビンは、窓付きの高い部屋でそれまでずっと空き、だったのだ。
乗客の中にはいい大人なのに、ピースボートに迎合するピースボート党=馬鹿者がいるのだから、あきれる。
何人かの大人もいるが、彼らも乗客組合を組織するような知恵も度量もなく、
少しだけインテリで、ばらばらに要求するだけ。
しかもピント外れの発言もしたり。
若者はもっとだらしない。自分の意見が無いかのようだ。
正当な批判に対して、文句を言うなと言うばかりに怒って席を立つ若者が少なからずいるのだ。
もっとも私も、傍観者を決め込んでのだが。
週刊新潮・朝日新聞・日本領事館・日本国交省とコンタクトをとった人もいたようだ。
アホなことに彼らはそのことをこの説明会で言ってしまうのだ。
船会社は約一週間前に副社長を船に派遣して処理に当たらせているようだが、対応がすこぶる鈍い。

今日は海岸線沿いを一時間半ほど散歩した。
日が当たるとワイシャツでは暑い位だが、日陰にはいるとひんやりする。
それにつけても公衆トイレが無いのは困ったものだ。
トルコ市民はどうしているのだろうか。

夕方18時半頃からトルコ出国手続き=トルコでは各自パスポートにハンコを押してもらう=が始まり、
21時ちょっと前に、ようやくトルコを離れたのであった。

船のアクシデントで、思いがけず、トルコの地方都市・イズミールに長期滞在した。
大都会ではなく、連日散歩してすっかり街を覚えてしまった。
物価は安く、治安もよく、気候も暑からず・寒からず、市民はとても親切であった。
床屋に行ったり、トルコバスに行ったり、
ベンチで休んでいると、高校生のアベックが英語で話しかけてきたり、
海辺を歩いていると、女子中学生が“こんにちは”と話しかけてきたり
[だが、英語はだめで、日本語もそれだけだったが]、
道に迷って尋ねると目的地まで案内してくれたり、
米ドルの使えるスーパーが港近くにあったり、
などとても楽しくおもしろい体験をした。

第63回ピースボート・地球一周の船旅12・ピレウス/ギリシャ編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅12
ピレウス/ギリシャ編 [10/29]




13時、ギリシャ・ピレウス港に着岸した。
ちょうど20日遅れである。
11月間近だが、だいぶ暖かい。日中の温度は25度近くになるらしい。
14時にツアー『アクロポリスとプラカ散策』出発した。
アテネしないはピレウス港から車で30分ほどである。
アクロポリスの南壁=キモンの南壁

パルテノン神殿の入り口である。

入り口を入って下を見下ろすと、
現在も実際に使われているイロド・アティコス音楽堂が見える


その左にディオニソス劇場遺跡


プロピライアの門をくぐり、


パルテノン神殿、


これはパルテノン神殿の背後

しばらく進むと、エレクティオン神殿


その奥に、展望台があり、アテネ市内を一望できる


ブーレの門から退出した。


プロピライアの門からは、
古代アゴラ一帯

テセイオン神殿

ローマンアゴラなども一望できる。
[これらは後日訪れる]

アクロポリスの城壁内は決して広くはない、一番の高台にあり四方から市内を眺望できる。
その後、ゼウス神殿


ハドリアヌス門

門だけが残っている。
門の中・奥はアクロポリスの丘=パルテノン神殿で、その手前はプラカ=市場である。
ゼウス神殿はこの門の手前左。

旧オリンピック競技場

アテネオリンピックの時マラソンのゴールになったスタジアム

国会議事堂その前にある無名戦士の墓

衛兵


その後シュリーマンの家跡、国立歴史博物館、国会図書館などをバスの中から見た。
そして、プラカ(旧市街)の土産物売り場の自由散策となり、
私はプラカ内にあるミトロポレオス大聖堂

その内部


ミクリミトロポリ教会

だけを見て、ゼウス神殿に戻ったら、もう門が閉まっていた。
アテネの中心街・シンタグマ広場を通り、ロシア教会・英国教会を見た。
その跡、夕食は海岸近くのレストランでギリシャ魚料理であった。
おいしいワインが無料で振る舞われ、良い心地であった。
魚はスズキの一種だそうで、かなり大きい白身魚で味付けはオリーブオイルとレモンの淡泊であった。

この日の深夜ピレウスを発つ予定であった。
エンジン不調と言うことで留め置きとなった。
実は、エンジン調節をした後、フル運転の試運転をしなければならないらしい、
試してみたが、片方のエンジンの調子がどうも良くないらしいのだ。

我々は、トルコ・イズミールにはだいぶ飽きてきたので、
ピレウス港=アテネ郊外の滞留は実は歓迎であった。
アテネ市内散策は【アテネ番外編】とする。