西武新宿~高田馬場を歩く 2009/6/14

クラブツーリズムの『西武新宿線を歩く』第一回に参加した。30人。
西武新宿駅・プリンスホテル 新宿高層ビル 東京モード学園ビル

成子天神社 本殿

富士塚 力石

常円寺 淀橋七地蔵【常円寺境内にある】
常泉寺 新栄稲荷神社

現在の新宿の高層ビルからは想像つかないが、都庁周辺はかつては角筈といわれ、新宿中央公園一帯は淀橋浄水場であった。
新宿での国際反戦デーのデモの跡、ここで夜を明かしたこともあった。
その中央公園先には十二社[そう]温泉が今もある。
約35年ほど前、ここはまだ汲み取り式のトイレであった。その十二社に私は一時住んでいたこともある。
西新宿一帯は、今も高層ビルの谷間、すぐ脇道は消防車も通れない細い路地の下町でもある。
花園神社 唐獅子像

新宿ゴールデン街 四季の路[廃線になった都電跡の遊歩道] 藤村旧居跡

私が通っていた西口しょんべん横町は近代的ビルに生まれ変わり昔の面影は全くなくなったが、
花園神社と隣接する新宿ゴールデン街一帯は、今なお下町である。
戦争直後東口にあった闇市が撤去される際その替地として都電沿いのこの地に移転して来たという。
その木造長屋建ての店舗が今も狭い路地をはさんでマッチ箱のように並んでいる。
西口しょんべん横町は駅の真ん前で一機につぶされたが、歌舞伎町一帯は駅・繁華街から離れていた事情もあり、
また所有・権利関係が入り組んでいたり、その他いろんな事情が重なり大規模開発が難しかったのかもしれない。
稲荷鬼王神社 真ん中奥が稲荷鬼王神社左に恵比寿神社
天水琴【左】恵比寿神社[鬼王神社境内内]/奥と水琴窟【天水琴と同様竹に耳をやると手を洗った水が石を濾過する音がする】

これは試してみる価値のある音である。
コリアン街 昼食を食べた烏鵲橋[オザクキョ]

新宿ー新大久保一帯は、まさに新コリアン街=国際シティだ。
看板はかなりけばけばしいが、街は国際色あふれている。
ビビンバの昼食付きであった。
小泉八雲終焉の地[大久保小学校正門横] 小泉八雲公園 夫婦木神社[民家と民家の間にひっそりあった]

玄国寺 諏訪神社

田植・子育・水子地蔵 弁財天

庫裡[武家屋敷のを移転した] 諏訪神社

箱根山[戸山公園/戦前陸軍の戸山学校跡地/新宿区で一番の高地、44m]、山頂から新宿高層ビルを望む。

戸山公園はかつて尾張藩下屋敷跡であり、現在はかなり広大な公園=緑地となっている。
箱根山一帯は明治期以来、陸軍の戸山学校が作られた。
戦時中は陸軍軍医学校・陸軍軍医学校防疫研究室があり、
その跡地の国立感染症研究所建設現場から多数人骨が発見された。
731部隊等戦時医学犯罪との関係が強く疑われている。
戦後は、米軍の兵舎払い下げ資材で都営木造アパートが作られ、その後鉄筋コンクリートの都営戸山ハイツアパートとなった。
穴八幡神社 布袋尊 放生寺[寄らない]
椿山荘 入口[冠木門] 長松亭

三重の塔と庭園内 庚申塔

山縣有朋が私財を投じてこの地を手に入れたと言うが、私は疑問に思う。
早稲田の広大な敷地を大隈重信もまさに濡れ手の泡で手に入れたように[と私は思う]、
山縣も二束三文でこの広大な敷地を手に入れたではないだろうか。
その後藤田観光財閥の手になり、今は結婚式場になっている。
この日、大隈重信公園にも行く予定であったが、日曜は入れないとのことである。
芭蕉庵跡 水神社

新江戸川公園

細川家下屋敷の庭園の跡地であった。
金乗院 倶利伽羅庚申塔 丸橋忠弥供養塔

ここは、4月に訪れた。目白不動尊・鍔塚などがある。金乗院を参照。
山吹の里[太田道灌所縁の地/オリジン電気入口脇]、 そこには風力発電装置が。近くの面影橋に里程標が

甘泉園

徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷があったところで、湧き出ていた湧き水がお茶に適して評判であったという。
水稲荷神社 大国社 駒繋松

堀部安兵衛碑 耳欠神狐 水神社

亮朝院/七面明神堂 本堂
金剛力士石像が有名である。
本尊は、七面明神と一塔両尊四士形式の曼荼羅[本堂]の二つ。
鐘楼

高田馬場駅近くにインド大使官邸、この付近には沢山のインド料理店が

東京は、不思議な街ではある。
大名の広大な上屋敷・下屋敷が点在する。
明治維新の後、その運命は様々のようである。
大名屋敷は、現在の所有概念と異なり、大名の領地・所有ではなく、幕府がいわば貸していたようである。
明治になって、必要な大名には払い下げもされたが、没収されたようである。
広大な敷地・屋敷の維持は経費もかかるので放棄されたようだ。
明治政府はこうして一等地を手に入れ、時の権力者はその一部を安く手に入れ、私服を肥やしたのではないだろうか。
今日、公園であったり、緑地であったり、とにかく大きな建物や施設の多くは、元は大名屋敷だったようだ。
歩いたエリアは非常に狭いのだが、歩いた距離はかなりである。
ガイドはちょっと足を伸ばしすぎたかもしれない。
いくつか省き、のんびりもよかったと私は思うのだが、このツアーの主な目的は歩くことにあるようなので。
新宿は大都会なのだが、ちょっと路地をはずれるとまさに区画整理もされていない。
実は、新宿だけでなく、東京は至る所そんなである、と私は思う。

クラブツーリズムの『西武新宿線を歩く』第一回に参加した。30人。
西武新宿駅・プリンスホテル 新宿高層ビル 東京モード学園ビル



成子天神社 本殿


富士塚 力石


常円寺 淀橋七地蔵【常円寺境内にある】


常泉寺 新栄稲荷神社


現在の新宿の高層ビルからは想像つかないが、都庁周辺はかつては角筈といわれ、新宿中央公園一帯は淀橋浄水場であった。
新宿での国際反戦デーのデモの跡、ここで夜を明かしたこともあった。
その中央公園先には十二社[そう]温泉が今もある。
約35年ほど前、ここはまだ汲み取り式のトイレであった。その十二社に私は一時住んでいたこともある。
西新宿一帯は、今も高層ビルの谷間、すぐ脇道は消防車も通れない細い路地の下町でもある。
花園神社 唐獅子像


新宿ゴールデン街 四季の路[廃線になった都電跡の遊歩道] 藤村旧居跡



私が通っていた西口しょんべん横町は近代的ビルに生まれ変わり昔の面影は全くなくなったが、
花園神社と隣接する新宿ゴールデン街一帯は、今なお下町である。
戦争直後東口にあった闇市が撤去される際その替地として都電沿いのこの地に移転して来たという。
その木造長屋建ての店舗が今も狭い路地をはさんでマッチ箱のように並んでいる。
西口しょんべん横町は駅の真ん前で一機につぶされたが、歌舞伎町一帯は駅・繁華街から離れていた事情もあり、
また所有・権利関係が入り組んでいたり、その他いろんな事情が重なり大規模開発が難しかったのかもしれない。
稲荷鬼王神社 真ん中奥が稲荷鬼王神社左に恵比寿神社


天水琴【左】恵比寿神社[鬼王神社境内内]/奥と水琴窟【天水琴と同様竹に耳をやると手を洗った水が石を濾過する音がする】


これは試してみる価値のある音である。
コリアン街 昼食を食べた烏鵲橋[オザクキョ]


新宿ー新大久保一帯は、まさに新コリアン街=国際シティだ。
看板はかなりけばけばしいが、街は国際色あふれている。
ビビンバの昼食付きであった。
小泉八雲終焉の地[大久保小学校正門横] 小泉八雲公園 夫婦木神社[民家と民家の間にひっそりあった]



玄国寺 諏訪神社



田植・子育・水子地蔵 弁財天



庫裡[武家屋敷のを移転した] 諏訪神社


箱根山[戸山公園/戦前陸軍の戸山学校跡地/新宿区で一番の高地、44m]、山頂から新宿高層ビルを望む。


戸山公園はかつて尾張藩下屋敷跡であり、現在はかなり広大な公園=緑地となっている。
箱根山一帯は明治期以来、陸軍の戸山学校が作られた。
戦時中は陸軍軍医学校・陸軍軍医学校防疫研究室があり、
その跡地の国立感染症研究所建設現場から多数人骨が発見された。
731部隊等戦時医学犯罪との関係が強く疑われている。
戦後は、米軍の兵舎払い下げ資材で都営木造アパートが作られ、その後鉄筋コンクリートの都営戸山ハイツアパートとなった。
穴八幡神社 布袋尊 放生寺[寄らない]



椿山荘 入口[冠木門] 長松亭


三重の塔と庭園内 庚申塔


山縣有朋が私財を投じてこの地を手に入れたと言うが、私は疑問に思う。
早稲田の広大な敷地を大隈重信もまさに濡れ手の泡で手に入れたように[と私は思う]、
山縣も二束三文でこの広大な敷地を手に入れたではないだろうか。
その後藤田観光財閥の手になり、今は結婚式場になっている。
この日、大隈重信公園にも行く予定であったが、日曜は入れないとのことである。
芭蕉庵跡 水神社


新江戸川公園

細川家下屋敷の庭園の跡地であった。
金乗院 倶利伽羅庚申塔 丸橋忠弥供養塔



ここは、4月に訪れた。目白不動尊・鍔塚などがある。金乗院を参照。
山吹の里[太田道灌所縁の地/オリジン電気入口脇]、 そこには風力発電装置が。近くの面影橋に里程標が



甘泉園

徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷があったところで、湧き出ていた湧き水がお茶に適して評判であったという。
水稲荷神社 大国社 駒繋松



堀部安兵衛碑 耳欠神狐 水神社



亮朝院/七面明神堂 本堂


金剛力士石像が有名である。
本尊は、七面明神と一塔両尊四士形式の曼荼羅[本堂]の二つ。
鐘楼

高田馬場駅近くにインド大使官邸、この付近には沢山のインド料理店が

東京は、不思議な街ではある。
大名の広大な上屋敷・下屋敷が点在する。
明治維新の後、その運命は様々のようである。
大名屋敷は、現在の所有概念と異なり、大名の領地・所有ではなく、幕府がいわば貸していたようである。
明治になって、必要な大名には払い下げもされたが、没収されたようである。
広大な敷地・屋敷の維持は経費もかかるので放棄されたようだ。
明治政府はこうして一等地を手に入れ、時の権力者はその一部を安く手に入れ、私服を肥やしたのではないだろうか。
今日、公園であったり、緑地であったり、とにかく大きな建物や施設の多くは、元は大名屋敷だったようだ。
歩いたエリアは非常に狭いのだが、歩いた距離はかなりである。
ガイドはちょっと足を伸ばしすぎたかもしれない。
いくつか省き、のんびりもよかったと私は思うのだが、このツアーの主な目的は歩くことにあるようなので。
新宿は大都会なのだが、ちょっと路地をはずれるとまさに区画整理もされていない。
実は、新宿だけでなく、東京は至る所そんなである、と私は思う。