風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

第63回ピースボート・地球一周の船旅13・アテネ/ギリシャ番外編①

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅13
・アテネ/ギリシャ番外編① [10/30~11/6]




10/30
昼からアテネ市内観光に出かけた。
地下鉄はこの日ストであったが、ピレウスからモナスティラキまでは運行していたので、出かけたが、
ピレウスの駅がわからず苦労した。

ティシオ駅で降りて、ケラミコスの墓地

ケラミコス博物館


アソマティ教会


アゴラにある、もっとも原形を残していると言われる神殿テセイオン(ヘパストス神殿)


アゴラ博物館(アタロスの柱廊)


アゴラからアクロポリスの丘を見る


ローマ帝国時代のアゴラ(アリオスパゴスの丘)
入り口

聖アポストリ教会

風の塔


ハドリアヌスの図書館跡


国立歴史博物館に行ったらなんと14時で閉まっていた。


オペラ座


国立図書館などを見て、


国立庭園内のザッピオン(国際会議場・展示場)を見て


バスで帰ることにした。
だが、このバス市内をあちこち回ってピレウスに行くので一時間近くかかり、終点から港までの道がわからず苦労した。
日本語の地図なので、地図を示して道を教えてもらおうとしても、相手にしても答えようがない。
アゴラ地区のチケットは昨日のアクロポリスと共通チケットで入ることができた。

アテネ歴史地区は東西1.5㎞、南北700mほどの狭い地域である。
道路は狭く、狭い路地が入り組み、至る所不法駐車の列である。
信号は少なく横断歩道は無く、歩行者は信号など無視である。



第63回ピースボート・地球一周の船旅14・アテネ・考古学博物館/ギリシャ番外編②

2009年02月03日 | 63回ピースボート
第63回ピースボート・地球一周の船旅14
アテネ・考古学博物館/ギリシャ番外編② [10/30~11/6]


10/31
この日は国立考古学博物館一本に絞った。


昨日国立歴史博物館に行ったが14時閉門で間に合わなかったので午前十時に出て、地下鉄で行った。
期待に違わず見応えがあった。
ポセイドン像

アウグスト像

階段の壁画


入場料は、7ユーロであった。
だが、一階が像、二階が壺で、その他の歴史物が無いのが不思議な気がした。
東京の国立博物館のイメージではいけないようだ。
一つだけ除いて跡はすべて写真撮影・模写OKであった。
かなり広く一階を見終わると1時を過ぎていた。
館内の食堂は高かったがお腹がすいたのでサンドイッチとコーヒーを食べた。7ユーロだった。
2階の壺はあまり興味がないので早足で見た。
無料のパンフ・日本語ガイドブックはない、順路の指示もなく不親切である。
各部屋には職員が必ずいるが、制服は着ていない。
制服はどうも軍人と警察だけで、交通機関職員も博物館職員も私服で、勤務中に私語・携帯は普通であった。

近くのアレース(軍神)公園に行った。

軍神と言う名に引かれたのだが、期待はずれであった。
どうも近代に入ってからの軍人達の公園で銅像がたくさん建っているだけであった。
疲れたので木陰のベンチで休憩して地下鉄で帰った。

11/1
この日は観光しないで、電車で田舎の風景を楽しむのもいいと思って出かけた。
地下鉄ピレウス駅の隣が国鉄ピレウスの駅であった。

時刻表や路線図はとてもわかりにくい。
時刻表は7時台以降はXX:00で表示されている。
日中は一時間に一本で同時刻なことが電車の乗ってしばらくしてからわかった。
駅名やどのくらい遠いのかもわからないので、適当な駅を示したら0.8ユーロであった。
そこを乗り越して後で精算できるかと聞いたつもりだが、通じたかわからないがOKだと言うので乗り込んだ。
終点はKIATOと言って120キロのところで、2時間弱であった。
下車しても観光するような場所では無いようだし、
時刻表を見ると9分後の折り返しであったので、下車せずそのまま引き返した。
車窓は特別の景観ではなくありふれてはいたが、
所々ブッシュが繁る岩山・海・畑・森林・運河・住宅などで見ていて飽きなかった。
帰りはさすがにうとうとしてしたが。
国鉄と地下鉄とが交差して乗り換えられる駅(国鉄アテネ=地下鉄ラリッサ)があったので、
そこで地下鉄二号線に乗り換え、さらにアッティキで地下鉄一号線に乗り換えて帰ってきた。
ギリシャは地下鉄も電車もバスもほとんど無賃乗車が可能である。
というのは、日本などでは駅構内に入る時、出る時は改札機を通らなければならないが、
ギリシャでは改札機が全く無いのである。
刻印器(日付か?)はあるがそれは絶対使うものではなく使わなくてもよいのである。
国鉄と地下鉄の乗り換えの際も改札機はないのである。
バスもワンマンカーだが、乗降口は運転手のいるドアだけでなく複数あって、
乗降時に切符のチェックはまるでない。
つまり乗り降りの際に切符のチェックは全くされないのである。
だが、車内では時々検札があり、不正すると40倍の料金を取られるとは言う。
バス、地下鉄とも料金は距離に関係なく一律0.8ユーロだから日本円では100円というところか。
地下鉄・電車はわからなかったが、バスの乗客はほとんど無賃乗車だったような気がする。
おそらく日本の定期券などは無いのでは無かろうか。
国鉄は始発から終点まで8ユーロであった。
地下鉄は大混雑であった。
地下鉄一号線は一番古くできたそうで、車両がとても古く、ドアの開閉はすごい音と強さである。
挟まれたら怪我をしそうである。
外国では年配者・女性に優しいと言われるが、そんなことは無く、彼らに席を譲る人は皆無であった。
携帯電話などは全く自由で大声で話していた。
駅、車内の放送・掲示・案内は親切とは言えない、車内電光掲示などはない。
日本の駅構内では前後の駅名が表示されてとても便利でわかりやすいが、それはない。

何より不便なのはトイレが駅にもないことである。
小さい女の子は違法駐車の陰でおしっこをしていた。
ギリシャの街も決してきれいとは言えない。
ゴミの回収箱は設置されているが少ないし、回収が十分に行われていないようだし、
脇道にはいると平気でゴミを捨てている。

それに至る所に落書きである。
民家・店の壁、電車の外、電車の窓など至る所がスプレーされている。
ピレウスに着いたのは2時頃になってしまった。
サンドイッチ2.4ユ-ロの遅い昼食であった。

その他にギリシャの街で気が付いたことは、路上での物乞いが多いことであった。
スリ、置き引きが多く、ピースボートの何人かが被害にあっているとのことだ。
だが、こうした犯罪は実はどこでもおきていることで、
あまりにも無防備・無警戒な日本人観光客にも問題がある。
不法移民も多く、ロマといわれる人々は今も差別されているという、
見るからに貧しいと思われる人々が目に付く。

また、ギリシャ語は語気が強く、喧嘩しているように聞こえる。
女性のお尻、オッパイはすこぶる大きく、前胸は大きく開いているし、
ヒップパンツでウエスト丸出し・パンツ丸出しなどは気にしない様でこちらの方が目のやり場に困る。

11/2(日)
大阪のFさん達に案内を頼まれ、アテネ市内=ケラミコスの墓地、アソマティ教会、神殿テセイオン(ヘパストス神殿)、アゴラ博物館(アタロスの柱廊)、ローマ帝国時代のアゴラ・聖アポストリ教会・風の塔、ハドリアヌスの図書館跡、ハドリアヌス門、ゼウス神殿を再訪した。

新アクロポリス博物館は2008年2月オープン予定であったがまだ出来上がっておらず、
入り口とほんの一部だけが公開されていた。

全体が遺跡の上に立てられていて、透明な床の遙か下に遺跡がある。

とても不思議な感覚であった。
展示されているのは数点だけだった。

11/3
コリントはアテネと同様のポリス国家であった。
古い城壁も残っているというのでコリントス運河観光に出かけた。

愛知のHさんという人が同行したいというので一緒に出かけた。
この小旅行はさんざんであった。
コリントス駅はエキスプレストレインの駅で、旧コリントス駅はそこから4キロ離れた旧市街地にあった。
コリントス駅で下車した多くの乗客は駅前の停車しているバスに乗り込み旧市街地に向かった。
我々もそのバスに乗って旧市街地に向かった。
そこからコリントトス運河行きのバスは40分後だった。
聞くと4キロほどだというので待っている間に歩けば着くと思ったのが間違いであった。
コリントス運河までは徒歩で1時間45分ほどかかった。
コリントス運河の景観は素晴らしかった。

全長6km、ほぼ垂直に掘られていてその深さは70m、幅は狭く40m位であろうか。

帰りのバスはそこから出ていたのだが、停留場も時刻表もない、
切符売り場で聞くが「そこ」というだけ。バスは20分も遅れてきた。
このバスは旧市街地が終点でそこから鉄道の新駅までは別のバスで行くのだが、
すでに廃線になっている旧駅に歩いて行ってしまった。
新駅の様子もすっかり忘れてしまってそこでずっと待っていたのであった。
電車の時刻が過ぎておかしいと思って改めて間違いに気づいたのであった。
タクシーで新駅に向かい、無事帰ることができた。
いやはや大変な失敗続きの小旅行であった。
そんなわけで、コリント時代の城壁跡は訪れることができなかった。

11/4
Fさんから国立考古学博物館に行きたいと頼まれ案内した。
帰り、地下鉄ピレウス駅からタクシーに乗ろうとすると14ユーロとふっかけてきた。
おそらくメーターでは3ユーロ位だと思うがあまり近いので体の良い乗車拒否で4ユーロ位が適当なのかもしれない。
つくづく日本のタクシーの良さを知った。
往きは4ユーロで手を行ったのだが、歩いた。
ピレウス市内の教会。


夕方、代替船『モナリザ』号への荷物の搬出をした。
小分けにしたのでダンボール6個になったが、不必要な作業でもあり、
不便な生活も強いられ、怒りも覚えるがあきらめた。
荷物の搬出入を乗客に依頼するなんてのは言語道断である。
ボランティアを呼びかけるピースボートは本当にまともではないし、
喜々として手伝っている人もたくさんいて、ほとほとあきれ、驚いた。

11/5
やっと引っ越しの日である。
午前中散歩がてら買い物に出かけ、歯ブラシとサンダルとウイスキーを買った。
電気ポットの使用は船内では禁じられているので持ってこなかったが、
どうしてもほしいので探した。
10ユーロで良いのがあったがコンセントと電圧があわない。
買い物から帰ったら、キャビンの金庫が搬出されていた。
昨日回収予定であったのに回収されず、何の説明もなかったので、中に入れて外出してしまったのだ。
あわててレセプションに連絡した。昼ご飯を食べたが、味わうどころではなかった。
昼寝をしていたら電話の音で目が覚めた。2時間後に戻った。
この日に引っ越しの予定であったが、新しい船がまだ到着しないという、延期になった。
夕飯は、ちらし寿司の弁当であった。
弁当が配られたのは9時過ぎであった。
良くない情報でも早めに提供することが大事なのに、直前にしか情報提供をしない。
こうして、全てが後手後手となり、いらいらが募るのである。

11/6
新しい船・モナリザ号へ10時過ぎに引っ越しした。
モナリザ号は、前船より造られたより船で少し大き。
またキャビン状況は数段良くなった。
第一に、窓があること。
第二は、バスタブがあること。
第三は、テレビは、BBC放送になったこと[これは地中海にいるときだけだった]。
良くない点は、
ベッドが柔らかすぎること、枕が高いこと。
船尾過ぎること、右舷なのでクルージング中は北向きになること。
もっともこれまでは地下の穴蔵だったのだから、文句は言えないが。
甲板をぐるりとし一周できないこと。
スピーカーの音量が小さいこと。

13:30にピレウスを出港した。
このモナリザ号、8月までは動いていたが、以降はオフのため運行していなかった。
で、設備のメンテナンスが不十分で、水は濁っている、
食堂はビュッフェ形式が一列なので長蛇の列となること。
クルーが急遽集められたのだろう、ほとんど教育されていない、
英語を話せる人が少ないことなど。

夜9時からバーがフリーとなり、缶ビールを3本飲んだ。
とにかく船が動き、キャビン状況が良くなったので乗客の雰囲気は明るかった。
11時過ぎまで飲んだ。

アテネでの予定外の一週間はとても有意義であった。
古代アテネ遺跡・国立考古学博物館を二度も訪れることが出来、
コリントス運河にも行くことができた。
アテネは観光地ではあるが、物価、特に公共料金はも決して高くはない、
概ね治安は良いのだが、スリ集団の被害がかなりあったようだ。
英語も通じる。
オリンピック後、無駄な施設などの弊害は大きいようだ、
落書きが多かったのが残念だ。

船が変わり、以降は予定通りの進行で、予想外のラッキーはなくなった。

第63回ピースボート・地球一周の船旅15・バレッタ/マルタ共和国

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅15
バレッタ/マルタ共和国編 [11/8]




8時前にバレッタ港に着岸。映画から抜け出てきたような景色だ。


10時『バレッタとスリーシティーズ観光』のツアーに出発した。

聖ヨハネ大聖堂入り口

その内部

実はこの写真を撮っている時、ツアーは聖堂内美術館に移動していた。
この聖堂内では、団体はイアホンでツアーガイドの日本語解説を聞くのだが、
そのイアホンの調子が悪く、移動するとのアナウンスが聞こえなかったのだ。
おいて行かれたとあわてた私は聖堂を飛び出し、騎士団長の宮殿に向かった。
チケットは持っていないので、受付で「ツアーとはぐれた」と告げ、探させてもらった。
ガードマンも心配して一緒に探してくれたが、見あたらなかった。
周囲を探し回ったが、見あたらず、仕方なく『緊急連絡先』に電話をかけようと思った。
だが、電話のかけ方がわからない。
薬局に入って、電話をかけてくれと頼んだが、公衆電話で自分でかけろ、という。
10セント、20セントと試したがだめ、1ユーロもだめ、2ユーロでかかった。
10分後にもう一度電話をくれと言うが、手持ちのコインは3ユーロだけ。
2ユーロでは2分しか通じないので、両替したいのだがしてくれない、
日本人を捜して両替を頼むのだが持っていない。
ツアーリーダーが迎えに来てさんざんしかられた。

騎士団長の宮殿入り口で待っていて、合流した。

観光局


ナポレオンの宿舎跡


聖母ヴィクトリア教会


バレッタ首相官邸


昼食まで自由時間だった。
大慌てで、聖ヨハネ大聖堂美術館[撮影禁止]
騎士団長の宮殿[有料]を見学した。

正面から

中庭

内部



廊下                 
天井

考古学博物館[有料]
入り口


巨石遺跡

バレッタのビーナス[手首ほどの大きさ、指先がガラスに映っている]

展示物は少なく、期待はずれであった。

バレッタ市街の路地
真ん中の青は海。

近くの教会


レストランで食事をし、バスでスリーシティーズに移動

アッパー・バラッカ・ガーデンから聖アンジェロ砦


セングレアのガルディオーラ公園から砲台


スリーシティーズから、バレッタ市街

アンジェロ砦


聖フローレンス教会


カジノ跡


マルタ共和国はなじみが薄いが、中世=十字軍派遣のために人工的に作られた都市だ。
とても狭いが、島中中世ヨーロッパという感じで、最近日本人にも人気がでてきたそうだ。
映画のロケによく使われている。

迷子にならなければもう少しのんびりと回り写真も撮れただろう。

空は、海は真っ青、気温は20度を少しこえ暖かい。
だが、電話代2ユーロは高い。
困っている観光客に少しは優しくしてくれればいいのに、と思った。

第63回ピースボート・地球一周の船旅16・パレルモ/シチリア編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅16
パレルモ/シチリア島編 [11/9]


11:00予定通りイタリア、シチリア州都パレルモに着岸した。
『パレルモ・ウォーキング・ツアー』に参加した。
13:30、のんびりの出発であった。


港のゲートを通ると直ぐパレルモの町であった。
日曜日で、メインストリートノリベルタ大通りは歩行者天国で、そこでは軍の展示会が行われていた。
ヨーロッパ第三の大きさを誇る、オペラ座・マッシモ劇場を見学した。

ゴッドファーザーでドンの娘がピストルで撃たれて死ぬ場面はこの劇場の正面階段だったそうだ。
桟敷席は6階あり、座席数は全体で1340だが、その席に座ることも写真もだめであった。
歴史を感じる建物であったが、一階のトイレは男女それぞれ一つの便器しかなかった。
劇場には専門のガイドが説明した。

日曜で休みの市場の中を通った。
この一帯は決してスラムでは無いのだが、道にゴミが捨てられ、空きビルが多かった。
民家

馬車の看板屋


カテドラーレ大聖堂を外から見た。

日曜なので中には入れなかった。
キリスト教・イスラム教、両方の教会が混然し、歴史を感じる。

通りの先にヌォーヴァ門が見えた。


ノルマン王宮を外から見学した。

日曜で入れない。

クアットロ・カンテイ(=四つ辻)。

とても味わいある十字路だ。
一番下は春夏秋冬(年齢順)の女性像である。
至る所、建物にはこうした彫刻があった。

プレトーリア広場、真ん中に噴水がありその周りに30を越える裸体彫刻がある。

昔はこの地では裸体は評判が悪く、恥の広場と言われたそうだ。
この広場の横にある建物[何であるかメモを忘れた]


サンタカテリーナ教会[写真は失敗]

サン・カタルド教会

マルトーラ教会。

この二つの教会は隣接している。


ここまでがウォーキング・ツアー、バスでレストランへ。
ワインと軽食というが、シチリアのピザパン、コロッケでいずれも揚げ物、しかもその後にスイーツであった。
ワインは赤・白・スイーツ(シロップの様)の三種、スイーツは食べずに持ち帰った。
たった三杯のワインであったが酔いが早い。

バスで港まで移動であったが、歩いてもいいというので歩いた。
直ぐなので、三ブロックほど遠回りをした。
人通りが少なく、日の入りは5時で薄暗くなってきたので早足であった。
途中、年配の女性と目が会った。
「ホエア」と聞こえたので「ジャポン」と答えたら、「シップ?」と返答があり「イエス、モナリザ」と応え、「チャオ」と返ってきた。

パレルモの町の本当に狭い一角を歩いただけだったが、なぜかイタリアって感じがした。
教会があちこちにあった。
日曜で人通りはほとんど無く、車も少なかった。
店は皆閉じていて、シャッターの鍵は普通のハンマーでは壊れそうもない頑丈な南京錠様であった。
あちこちの建物の壁にはたくさんの彫刻があった。
イタリアは、我々の歴史は他の国とは違うんだと言うようなイタリアの誇り・強さの様なものを感じた。
ツアーにはガイドが付くが、その他にイタリア人の専任ガイドが付く。
しかし彼らは説明はしない、先頭に立って道案内をする。

是非ともイタリアは来たい国・町である。
今回、地元の人と話したのは年配の女性一人だったのは何とも残念だった。
写真もたくさん撮ったつもりだったが、意外に少なかった。

レストランの前の道路で、マンホールの蓋にローマ市の紋章[Senatus Populusque Romanus(ローマの元老院と市民)]を発見
[無断転載]

第63回ピースボート・地球一周の船旅17・バルセロナ/スペイン編①

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅17
バルセロナ/スペイン編① [11/11]




バルセロナへは予定通り朝8時に入港した。
バルセロナでは珍しく雨が一日おきに降ったりの天候だったという。
今朝はどんよりした雲もかなりあるが、何とか晴れそうだ。
Tシャツと上着ではちょっと肌寒い。
9時過ぎに『バルセロナ観光ツアー』に出発した。
港から市街地入り口まではそう遠くない。
コロンブスの塔があるポルタル・デ・ラ・パル広場は市の中心地への入り口で、
カタルーニャ広場までのランブラス通りは道幅50mはあるだろう大通りで、大繁華街、
その道の真ん中は、20mの歩道、その両脇に一車線の車道、その外に歩道の並木道である。
露天商や大道芸人が所狭しと店を出している。
この大通りの近くにあるカテドラルに向かった。
カテドラルとは寺院の固有名詞ではなくその一帯で一番大きな聖堂に与えられる名称で、
サクラダ・ファミリアが完成した時にはこちらにその名称が与えられるようである。

その途中、ピカソの絵を看板にした店があった。


また、多くの建物の壁には、このような彫刻が


現在のカテドラルの正面は工事中で大きな被いで被われていて全体を見ることはできない。

背後に回るとコロンブスが当時の王にアメリカ大陸発見の報告をした広場があり、

キリスト教の教会も巨大さがその偉大さ・権力の象徴であるかのように巨大である。
また、内部を見ることができる。

そして声が反響して大きく響くように工夫され、またステンドグラスや明かり窓やろうそくなどで
独特の明暗の照明を工夫しているようだ。
また、文字を読めない庶民のために絵・彫刻・展示物などでキリストの生涯や教えを視覚的に表現している。
入場は無料で、ミサ室を除いて写真撮影もできる。

そこからそう遠くはないガウディ作の『カサ・バトリョ』邸を見る。


これはかつての警視庁、民間の会社が買い取ったが外観は保存しなければならないそうだ。

続いて直ぐ近くの『カサ・ミラ』邸に徒歩で向かった。

物の壁面の彫刻
この建物は、現在も現役のアパートとして使われているのは驚きだ。
他のガウディの建物と同様世界遺産のため、個人では維持できないほど高額となり、
そのほとんどは大企業の所有となっているそうだ。
ガウディの建物は本当にユニークで、日本では周辺・環境にマッチしないと批判されそうな派手さである。

つづいて、同じくガウディ作のグエル公園に向かう。
ガウディのパトロンのグエルが郊外に戸建ての新しい住宅地建設を企てたが、資金難から挫折した。
未完成のままそのまま市に寄付し、市が公園にした。
ここからは市内が一望できる丘の上にある。
幼稚園や小学生もたくさん遠足に来ていて大変なにぎわいであった。

グエル公園 入り口[その他にもある]



その下はこうなっている

椰子の木道路

広場内のベンチ、奥の建物は弟子達のが作った博物館でガウディは一時ここに住んだ。

広場から市内を臨む

左奥にサクラダファミリアが見える。

広場を支える柱。この上はベンチがある広場。

ここを降りてくると、有名なイグアナ像

門番の家と管理事務所[広場から]

犬の像


バルセロナオリンピックの時のヨットハーバーに建てられた水上レストランで昼食。

タパスと呼ばれるバルセロナ風おつまみセットであった。
これは美味と言うほどではないがバラエティに富んでいて楽しい食事であった。
白ワイン・赤ワインそれぞれいっぱい付いてきた。
次の見学場所のサクラダ・ファミリアは混むので、
団体は一定のグループを作ってまとめて入れるため入場時間の調整があるらしい。
そのため、十分のんびりした食事となった。
午後から、サクラダ・ファミリアの見学。
写真が多いので、別項とする。
サクラダ・ファミリアは他を圧倒する迫力があった。
それは、大きさでもなく、建設途中という話題性でもなく、また奇抜さ・ユニークさでもない、
たぶんに作られた伝説性もあるかもしれないが、未完であって、死せる人があたかも生きて命じているかのように成長する生き物の様な錯覚を与える不思議さなのであろうか。
8人乗りのエレベーターは2.5ユーロと高いが乗るには長蛇の行列で15分以上使ってしまった。
そこからの市内が展望できる。
階段でも上ることができるが一方通行なので疲れても引き返すことはできない。
内部はまだがらんどうの工事中だ。
地下にかなり広い博物館があってとても魅力的なのだが時間が無く走るようにその一部を見た。
また、脇にはガウディが小学校として作った小さな建物もあって、それも博物館となっている。
敷地全体は決して広くはないが、周辺はたくさんの観光客で賑わっている。

第63回ピースボート・地球一周の船旅18・サクラダファミリア/スペイン編②

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅18
サクラダファミリア/スペイン編② [11/11]




ピースボート・地球一周の船旅17・バルセロナ/スペイン編①の続きである。

サクラダ・ファミリア
サクラダ・ファミリアは他を圧倒する迫力があった。
それは、大きさでもなく、建設途中という話題性でもなく、また奇抜さ・ユニークさでもない、
作られたきた伝説性も多分にあるに違いないが、
死せる人が命じているかのように、成長する生き物の様な錯覚を与える不思議さなのであろうか。

キリスト貼り付けの像


内部・中央祭壇とステンドグラス

8人乗りのエレベーターは2.5ユーロとちょっと高い、長蛇の行列で15分以上も待った。

そこからの市内が展望できる。

階段でも上ることができるが一方通行なので疲れても引き返すことはできない。
内部は、まだがらんどうの工事中だ。
地下にかなり広い博物館があってとても魅力的なのだが時間が無く走るようにその一部を見た。
入り口

内部

柱の模型=ガウディは逆さにして柱の構造を計ったという。

展示物

また、脇にはガウディが小学校として作った小さな建物もあって、それも博物館となっている。

敷地全体は決して広くはないが、周辺はたくさんの観光客で賑わっている。

その後モンジュイックの丘に行った。
ここはバルセロナオリンピックの中心会場だったところで目の前は港である。
この丘からはバルセロナ市内の一部が眺望できる。

バルセロナの港は実に広大で15キロにもわたっていて、港内はシャトルバスが走っている。
モンジュイックの丘にあるモニュメント


途中、ミロ広場・ミロの彫刻があった[バスの中から]

再びコロンブスの塔広場を通って、


カタルーニャ広場に向かった。


夕方になっていたが、ここでツアー客の約半分が離団=自由行動した。
巨大なデパートの地下が食料品売り場になっていると言うので、他の三人と一緒にそこに立ち寄り、
私はハウスキーパーへのお土産のチョコを買い、ランブラス通りをぶらぶら歩きながら帰った。
コロンバス広場からは歩き、シャトルバス、タクシー三通りあるがシャトルバスで帰った。
2ユーロであった。
その四人で船の夕食を一緒に食べた。

バルセロナは観光地がたくさんあって、とても一日では回ることはできない。
この地はガウディの他、ピカソ・ダリ・ミロなども生み、たくさんの美術館、博物館もあり、
またたくさんの教会もある。

今日のスペインは、単一の国家というよりは州ごとに自治権を持つ連邦制を色濃く持つという。
中でも、カタルーニャ地方はスペインでも独特の文化・歴史をもつ。
それは独自のカタル語という独自の言語を持ちその自立・反骨は強いという。
第一次世界大戦後スペインでは内戦=反王制・反ファシズムの人民線運動が起きた。
それはロシア型社会主義とは趣を異とするより
ヨーロッパの民主主義・市民主義などを根幹とするより自由な香りのするものであった。
ロシアは人民戦線をが支援した。
アメリカ・イギリス・フランスはソ連・社会主義の台頭を恐れ傍観した。
他方、ヒトラーのナチズム、ムッソリーニのファシズムは反ロシアのフランコを強力に支援した。
世界の良心的人々は国際支援の市民軍=国際旅団を作り人民戦線を支援した。
これは第二次世界大戦の米ソ冷戦対立を予兆させている。
結果、フランコが勝利し、それはナチズム・ファシズムを増長させ、結局第二次世界大戦を準備することになった。
以降、1975年のフランコの死まで独裁体制が続いた。

かつて、スペイン・カタルーニャ、アンダルシアはリタイアした日本人にとって住みやすいと言われたが、
最近ではそうとは言えない、暮らしにくくなったと、日本人ガイドの寺下さんは言う。
先ず、ユーロ圏に入って、物価がとても高くなった、
次に治安が良くない、という。
特に、スリ・置き引きは日常的だという。
トルコ・ギリシャでは地下鉄の中で、集団で観光客を取り囲んで盗んでいくというかなり手荒い方法らしい。
赤ん坊を抱いて近づき、話している間にスルと言う。
複数の人が実害にあっている。
この地では、もっとスマートで観光客を装ってガイドブック・カメラを提げたペアが近づいてきたて、
道を聞いたり、道を教えたりするフリをする隙に抜き取るという。
ツアー客がバスに乗る前や、集合地で集まって気がゆるんだ時をねらって、その中をすり抜けながら抜き取るという。
スリという犯罪の立証はどこの国でも難しい、そう現行犯でないと捕まえることは難しいらしいので。
このツアー中も二件ほどの未遂が現認されているという。
だが、本当か否かは不明である。

イタリア・スペインとも現地人ガイドと日本人ガイドの二人のガイドが付いた。
ガイドはライセンスが必要で、現地人ガイドが付くのである。
現地人ガイドが話すのを通訳すればいいのだろうが、そうではない。
日本人ガイドはいわば通訳のような立場らしいと想像するのだが、実際は日本人ガイドが取り仕切っている。

街のあちこちにレンタ自転車のプールがあった。
このシステム、パリで始まったらしい。特に観光客用ではない。
年間、一週間、短期の三種類のカードがあって、インターネットで申し込むそうだ。
専用カードを読み取り機に入れて・かざして使う。
どこで乗っても、どこで乗り捨てても良いらしい。
値段のシステムはちょっと複雑だが、年間カードの場合は24ユーロ、30分以内は無料、
その後10分経過すればまた30分は無料で乗れる、最近市民の間でかなり使われているとのこと。
丘の下のところでは乗り捨てが多いので、トラックが来て余った自転車を回収し丘の上に運んで行くという。
観光客も使えるそうで一週間で10ユーロ程度(確か?)という。

市街地では一戸建て住宅はない。
一、二階はオフィスになっていることが多く、その上がアパートで、アパート部分の始まりを一階とも言うそうだ。

現代はEUの時代である。
単一の通貨・ユーロは確かに便利であるが、
各国の生活水準、賃金水準は決して一様では無いだろう。
また、一ユーロの価値も各国で異なり一様では無いだろう。
そうしたことから生じる問題はないのだろうか。
国境のボーダレスは、東・中欧、アフリカ、西アジアからのいわゆる不法入国者の流入を容易にし、多いと聞く。
はたして、EUは、世界は、そして私はどこに向かって行くのであろうか?

ヨーローッパ・地中海もいよいよ終わり、
11月だというのにとても暖かく、日中は熱いくらいであった。

第63回ピースボート・地球一周の船旅19・ラスパルマス・カナリア諸島/スペイン編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅19
ラスパルマス・カナリア諸島/スペイン編 [11/15]


ジブラルタル海峡[ヨーロッパのイベリア半島とアフリカの北端を隔てる海峡。
大西洋と地中海の境。幅は14km]

左側はアフリカ・セウタ、スペイン領である

右側はイベリア半島沖のロック島、イギリス領である

宇宙から見たジブラルタル海峡[無断転載]


『ジープでグランカナリア島自然体験ツアー』を選んだ。

ただ、ジープで島の真ん中にそびえる山に上り、南に縦断に下り、だけである。
アフリカ北西部約100kmに浮かぶ島で、火山が作った。スペイン領である。
半径50km、周囲200kmのかなり大きな島で、
常春の島で、欧米の金持ちリタイヤの人々がかなり移り住んでいるという。
現在の人口は150万人近くで、そのうちの約4分のうちは不法移民といわれる。
ガイドも自分もセルビアだったかモンテネグロからの不法移民と公言していた。
この島のテルデ市はスペインがNATOに入る時、異議を唱え、市議会で「非核地帯」を宣言し、
日本の憲法9条を刻んだ碑を建てたという。

バンダメクレーター[火山のカルデラ]

の底には一人の年寄りが野菜を作って暮らしているという。
市内を一望できる


ピコ・デ・ラス・ニエベス[この島の最高地で1900m余]

スノーポイントといわれ冬には雪も降るという。
同じ季節に三つの季節が気まぐれのように同時に現れるという。
遠くのスペインの最高峰・テイデ山が見える。

左には、この一帯のシンボル岩/ケヌボル


先住民の聖地


私たちが訪れたのは11月15日であったが、日中はワイシャツだった。
屋根、窓のないジープでは上着がないと寒いが、
高速道路(無料)では110キロで飛ばすので体感スピードはすごかった。
事前に酔い止めを飲んで酔わなかったが、途中睡魔に襲われた。
島には特別の観光地名所はないが、最高地の後、ティラハナ渓谷=河川敷の砂利道の15分のサファリが売りであった。
事前ではすごいと脅かれさたが、実際は河川敷の舗装されていないだけの道路であった。


生活環境はとても良いようで、どんな高地、奥に行ってもゴミ収集箱があり、道にゴミは落ちていなかった。
電気・水道が完備されているようであったし、住宅はこぎれいでカラフルで広く新しいものが多かった。
スーパーの食料品は豊富で、ほとんど量り売りで、高くはなかったと思われる。
野菜や果物は形が不揃いで、虫食いや傷も付いている。
各所から買いに来るようでこの店の周辺の道路は、渋滞駐車場はいっぱいだった。
ツアー仲間は普通の八百屋でサボテンの実を一個一ユーロとふっかけられていた。

サボテンの実


サンタ・ルーシアにあるモニュメント

サンタ・ルーシアの教会


楽しい一日であった。
たくさんの風力発電機が各所に林立し、元気よく回っていた。
ヨーロッパからのリタイア移住者が多く住み、
ヨーロッパからの観光客もとても多いという。
気候が温暖なこと、海・山の自然に恵まれていること、
社会的インフラが整っていること、等かららしい。
コロンブスが西に向かった拠点の一つで、原住民はほろばされた。
3万人いた先住民は、13~16世紀にかけてスペインにより絶滅させられた。
その先住民の祖先は、北欧のバイキング、沈んだアトランティスという説もあるが、
洞窟に書かれた岩絵などの共通性から北アフリカであったらしい。

これから大西洋である。


第63回ピースボート・地球一周の船旅20・サントドミンゴ/ドミニカ共和国編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅20
サントドミンゴ/ドミニカ共和国編
[11/23]

サントドミンゴ港に、8:00に着いた。
ツアーを取らず、一人でサントドミンゴの旧市街地[コロニアルゾーン]を歩いた。
ほぼ1km四方の狭い地域である。
オサマ川が海に注ぐところが港で、その川に沿ってオサマ砦の城壁が堤防のように延びている。

右はオサマ砦。

砦に入る入り口はいくつかあるようだが、着岸点から一番近いサン・ディエゴ門から入った。

入ってすぐにアタラサナス博物館があったが、日曜で休館であった。

しばらく行くとスペイン広場がある。

サンフランシスコ修道院

に向かうと、修道院前で闘鶏を楽しんでいた。

修道院裏はさびれていた。

アンバー・ワールド博物館[琥珀の博物館、一階は店]は写真だけ撮って、


サン・アントン教会を訪れた。

住民が、この脇が通り抜けられると教えてくれたので行ったのだが、
砦=城壁の外で、道に迷いそうなので引き返した。

コロンブス家が三代にわたって住んだ屋敷跡はアルカサル博物館となっている。

部屋の中から“モナリサ号”が見えたので、日本人観光客の後ろ姿の撮影をした。

アルカサル博物館中からスペイン広場をのぞく。


ガイドブックでは、王宮博物館は日曜休館となっていたが開いていた。


博物館前に日時計があり、そこから“モナリザ号”が見えた。
その左に馬の彫刻、背後に“モナリザ号”。

そのすぐ先に聖母マリア礼拝堂

聖母マリア礼拝堂は日時計の直ぐ隣なのにわからず通り過ぎ、あちこち探し回った。
聖母マリア礼拝堂の前に、パンテオン=霊廟

その天井には、


パンテオンの隣の広場で骨董市が開かれていた。


琥珀博物館を探しているとガイドが強引によって来た。


この一帯コロンブス広場にはガイドがたくさんいて、地図を広げようならすぐ寄ってくる。

そのガイドは、今日は琥珀博物館は休みだ、無料の琥珀博物館に案内するという。
最初は断ったのだが、あまりのしつこさに負けて、ついていくと土産物屋であった。
これが失敗であった。
買わないで出ると彼は、一番最初に行ったアンバー・ワールド博物館を案内した。
仕方なくガイドに2ドルのチップを払って、その博物館を見学した。
その博物館では、そこのガイドが無料で良いと言って英語で説明を始めた。
途中でチップを渡そうとしたら細かいお金が無かった。
そう告げると、彼は仕方ないと一階のショップに連れて行った。
店員が売ろうと説明し始めたので、博物館に行きたいと言ったら連れて来られた、
買うつもりはないと何回も言うとやっと解放してくれた。
再び、コロンブス公園に戻り、喫茶店に入った。
英語がよく通じないでいると、先ほどのガイドがやって来てコーヒーを注文してくれた。
混んでいて相席になった。話しかけるとフランス人だという。若いのにはげていた。
彼に別れて、大聖堂

の写真を撮っていると先ほどのガイドがまた寄ってガイドするという。
今度4は断って、地図を見ていると今度は別のガイドが。
大聖堂の先に三つの教会があった。
レジーナアンジェロウム教会

テルセラオルデン教会

コンベント教会


コロンブス広場・大聖堂に戻るとミサを行っていたので少し見学した。
大聖堂正面

司祭の説教は絶叫調で実にけたたましかった。

腹が空いたが、先にオサマ砦をみた。
入り口


砦の塔


オサマ砦内のコロンブス像


砦の上


コンデ門


昼ご飯を食べようとしたのだが、日曜日で多くの店が閉じていた。
英語が話せるウエイトレスが居て、米ドルでよい適当な店がやっとあった。
ビールとサンドイッチを注文した。
真夏の暑さで、カチカチに冷えたビールがとてもうまかった。
小瓶なのにとても酔った。小一時間かけてゆっくり食事をした。
約米11ドルであった。
細かいのがない、カードはだめだという。20米ドル紙幣を出すとお釣りはドミニカペソで来た。
後、ドミニカペソを使う予定はない。おつりがペソでは困った。
しばらく考え、財布をよく見ると、10ユーロ紙幣があった。
仕方なくそのままお釣りを返して、ソリーと言って10ユーロ紙幣を出すと、
「ユーアーウエルカム」と怒らずに応じてくれた。
本当に助かった。
実は、この店には先ほどのフランス人がいた。
彼は今度は女の人と一緒であった。
知らん顔して別れるのはいやなので、近づいて挨拶すると握手してくれた。
だいぶ疲れたが、まだ時間があるし、ドミニカペソが少し余っているのでので、
ハウスキーパーへのお土産を探しながら独立記念公園を目指した。


約1kmの商店街なのだがお菓子屋は一軒もなく、買うのをあきらめ、帰った。
歩いたのは約1km四方の狭いエリアだけだ。
新市街地は時間が無く行けなかった。きっとまるで違うのだろうなと思う。
日曜日で多くの商店が閉じていたが、大きな通りは人通りが多く賑わっていた。
観光客も多い。
それよりも多くうるさいのは観光ガイドだ。
ちょっと立ち止まって地図など見てなどいると近寄って話しかけるのだ。
英語、そして日本語で。
断っても断っても着いてくるのだから始末に負えない。
ちょっとした路地にはいると日曜だからだろうか、人々は歩道に椅子を出して話している。
その脇を通り過ぎると、「こんにちは、さようなら」などと日本語で声をかけてくるのだ。
もちろん日本語はそれだけだが。
英語は多くは通じないので、会話はそこまでだが。
米ドル、ユーロとも使えるが計算しやすいところでキリ上がるので割高にはなる。
釣りはペソとなるが、両替する必要もない、と思った。

16世紀には先住民はほぼ絶滅したそうだ。
ソーナ・コロニニアル(旧市街)地区では、多くがコロンブスゆかりだ。
観光のためだけとは思えない、この地の歴史はどうやらコロンブスから始まるらしい。

第63回ピースボート・地球一周の船旅/閑話休題

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅/閑話休題

初日の出

今回は、クルーズ料金とクルージング中の平均的生活について。

クルーズ料金
〇64回クルーズの場合 [64回は今行われているもの]
 ~63回の料金表は紛失してしまった。
 モナリザ号はクリッパーパシフィック号よりキャビン条件がよい。
 モナリザ号のキャビンの多くにはバスタブが付いている。
 [63回の場合は、10~30万円ほど安い]
・平均的:丸窓付き二人部屋=一人260万円
・スタンダード:丸窓付き四人部屋=一人188万円
・カジュアル:窓なし四人部屋=一人168万円
・窓なし一人部屋[インサイド]=280万円
・丸窓付き一人部屋[アウトサイド]=360万円 丸窓は小さい窓、
・四角窓は丸窓より少し大きい窓で20万円高い、
 バスタブ付きとシャワーのみがある、これは船により異なり、当然値段も異なる。  
・デラックス室などもある。
・また船室は、3F~7Fとあり、上階に行くほど高くなる。
・早期申し込みの場合、30~40万円ほど安くなる。
・この他、ビザ取得代金・ポートチャージ代金・チップ代金など15万円程かかる。

モナリザ号キャビン[四人部屋]・無断転用


〇料金には、3ヶ月の朝昼晩三食の食事代を含む。
・ただし、寄港地でのツアー代金は含まれない。
・寄港地では、普通一日[8~16時間ほど]寄港地に着岸する。
・この間、下船して、自由行動か、ツアーオプションか、を選択する。
〇ツアーオプション料金は、だいたい一回1万円から2万円[寄港地は20~22位]。
〇寄港地によっては、オーバーランドと言って、4~5日のツアーオプションがある。
 船は次の寄港地に向かって出航するが、オーバーランドは別途のツアー旅行をし、
 次の寄港地には、飛行機で追いつく。
 この料金は概ね15~30万円位である。

クルージング中の平均的生活スケジュール
〇朝食=7:00~9:00 昼食=11:00~13:30 夕食は1回目17:30、2回目19:30と別れている。
・朝食と昼食はビュッフェ式である。
・午後茶=15:00~16:00[お菓子付き]
〇室内は電熱器、電気ポットは使用が禁じられてる、水・お湯・氷をもらうことが出来る。
〇朝6時からの太極拳・ラジオ体操などが行われたり、
 また水先案内人と言われるゲストの特別講演会、
 有志によるダンス教室や卓球などの自主企画や、
 映画上映など色々なイベントが24時頃まである、
 いずれも参加は自由である。
〇有料の、英語・スペイン語教室がある。
 5~6人クラスで1回100分、35回で12万円。
 無料の英語・スペイン語教室もある。

船内の施設
小さいがジムとプールがある。
〇シアター室もあり、一日一回上映される。
〇各室にテレビカメラがあり2チャンネルでビデオが放送される。
〇大きなイベントとしては、運動会、夏祭り、ダンス大会等がある。
〇各所に有料のバー、居酒屋[ラーメン・寿司などもある]がある。
 船外から船室へのアルコールの持ち込みは原則禁止されている。
〇船内の金銭処理は、専用キャッシュカードで行い、現金は使わない。
〇インターネットは、クリッパー・パシフィック号の場合は無線ランも使えたが、
 モナリザ号は備え付けのパソコンだけであった。
 しかし衛星使用のためか電波事情は良くなく、アクセススピードも遅く、
 100分4000円と高額であった。
〇国際電話・ファックス使えるが高いし、衛星使用なので電波事情は安定していない。
〇新聞は、寄港地で入るので約1週間~10日間遅れ、
 ピースボート事務局がネットニュースを掲示するが、サービスが悪い。
〇図書館がある。
〇コインランドリー[洗濯・乾燥5ドル、ランドリーサービス6ドル]

夕焼け

第63回ピースボート・地球一周の船旅21・ラグアイア・カナイマ国立公園/ベネズエラ編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅21
ラグアイア・カナイマ国立公園/ベネズエラ編
[11/25]



予定通り、午前8時、ベネズエラのラグイア港に着岸した。


バスでカラカス空港に向かうが、10:50出発予定が11:30に延期になった。
カナイマ国立公園の拠点・シウダーボリーバル空港に着いたのは12時半頃であった。
1時過ぎ、乗客9人乗りのかなり大きいらしいセスナに分乗し、カナイマに向かう。

眼下はほとんど雲で、時々湿地帯が見える。

次第にテーブルマウンテンが見えるようになってから、雲が薄れてきた。


しばらくすると、セスナのガラス越しとかなりの距離があるのだろう
クリアでは無いがエンジョエルフォールが見えてきた。

雨期の末期と言うことだったが水量はそれほど大量では無かった。
私の目には滝壺があるのかないのかははっきりしなかったが、
一条の白線が1キロ下まで走り、そのままカーブを描いていた。
反対からも滝が見えるようにパイロットは機体をUターンさせた。




それからしばらくしてカナイマ国立公園飛行場に着いた。
ここから先は普通のツアーとは光景がかなり異なる。
トラックの荷台の上に座席を作り幌の屋根の付いたバスで、がたがた道を走り、
この一帯の水はタンニンが解けて茶褐色をしていて、それも恐怖を増している。


道路がとぎれ、そこからはボートでホテルに向かう。


15:30過ぎの遅い昼食をホテルで取り、次の観光に向かう。
しばらくボートの乗り、その後ブッシュの中を小一時間歩く。
そこから先は所々ロープが張られた急な崖道。
あたりは夕方と密林で薄暗く滝のしぶきで視界も悪くなってくる。
いよいよサポ滝である。
これから25m滝の裏側を歩くのである。

荷物を岩陰において出発である。
私は水泳パンツとサンダルであった。歯は寒さでガタガタであった。
ライフジャケットは着ていない。
足を滑らせると滝に転落だが、滝壺はそれほど深くはなさそうで、
万一転落しても大事故にはなりそうではなかった。
レインコートを着ていた人も下からの水しぶきでずぶ濡れであった。
しばらく写真を撮って引き上げた。
帰りはもう夜であった。
するとあちこちで蛍が点灯した。
日本ではこんなばかげたことは私はしない。
見知らぬ異国の地だからこそかもしれないが、風邪を引きそうにこんな寒い中、
こんなばかげたことをする私がいるのが楽しかった。
日本人はほとんどがレインコートであったが、欧米人は年寄りも水着であった。

夜、まさに満天の星、空中が星であった。
長い時間椅子に座って星をみた。
海上では雲が多く夜星を見る機会は多くない。
10時を過ぎると電灯は消えて、ろうそくである。
夜中トイレに起きたら、真っ暗で本当に困った。
マッチを擦って、ろうそくである。

ウカイマ・キャンプ泊[カナイマ国立公園]

11/26
ホテル

ホテルの庭から

ホテルを訪れた有名人・ダイアナ妃なども来たそうだ。


ボートに乗って他の滝を見た。

朝日に滝の水しぶきが虹を作っていた。


前日来たルートをそのまま逆にたどって、戻った。
お土産屋の看板

だが、この日は雲が多くエンジェルフォールを見ることはできなかった。

ギニア高地の集落


このツアー代金は1泊2日ながら、20万円近い高額であった。
天候によってはセスナが飛ぶことが出来ないこともあり、
また飛んでも雲がかかって見ることができないこともあるという。
セスナ機が飛ばなくても代金は返却されない、とギャンブル的だったが申し込んだ。
7時間のトレッキングで直接エンジェルフォールが見えるところまで行くツアーもあったが、
7時間かかるトレッキングは私にはちょっと強行だと思ったし、
それを選ぶと次のマチュピチュツアーとの連続ツアー二つは日程的に無理なので、
私はトレッキングツアーはあきらめたので、このツアーが提案され迷うことなく申し込んだ。
私はこのツアーに来てとても良かったと思う。

第63回ピースボート・地球一周の船旅22・クリストバル1(パナマ)(クスコ)編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅22
クリストバル①/パナマ・クスコ編
[11/29~12/4]

14面の石/クスコ市

パナマ運河
11/29
パナマのクリストバルで下船し、パナマ運河に向かう。
南米はこれから雨期に入るそうで、朝から雨であった。
パナマ運河の『ガトゥン閘門』を見た。

パナマ運河は想像していたよりはるかに細かった。
幅33.3m、吃水12m、全長294m以下でないと通ることができない。
特に幅は33mあまりに狭いのでぎりぎりである。
船は自力で航行するのだが、前後左右に電車8台が引っ張って船が運河壁に
ぶつからないようにしているのである。
それでも船縁は擦り傷を負って出てくるようだ。
パマナ運河は内陸部は湖を航行する。
その湖は海面より高いので、閘門式と言って水面を上げ下げして通る。
その料金は安くはないが、航行希望が多いので予約を取るにも時間がかかるという。
今回私はオーバーランドツアーを申し込んだので、
私はスエズ運河もパナマ運河とも船に乗って通ることが出来なかった。

クリストバルは大西洋側であり、私たちは運河は通らず陸路、太平洋側のパナマシティに向かった。
3時間以上かかった。
だが、この道はすこぶる悪道であった。
至る所に大きな穴があり、それは修復されていない。
折からの雨、雨期のためあちこちで水たまりができ、舗装が全くされていない道路もあった。
だが、車の数は多い。で、道路は至る所で渋滞しているのであった
信号はほとんど無い。
熱帯は自然の恵みが豊のようで、バナナやマンゴーなどが自生している。
きれいな街・パナマシティで宿泊した。
ホテルの部屋から夜のパナマシティ

シェラトン・パナマ・ホテル&コンベンションセンター宿

11/30
ホテルの部屋からパナマシティ

パナマシティの空港ではパスポートチェックで手間取った。
海からパナマに入り、空から外国へ出ていく、というのは珍しいらしい。
空港職員の上司が来てOKと言っても、現場の女性職員はなかなかOKを出さなかった。
チリの首都リマに向かう。
リマは空から見ると不思議である。
青い海から陸になると砂漠で、そこに大きな街がある。
この日は移動のみ。
翌日の飛行機がすごく早いのでホテルで朝食を取ると洗面・トイレの時間が無いと思ったので、
私に近くのスーパーで朝食を買うことにした。
しかし、牛乳やパンの量は半端ではないので、
チキンのもも肉を焼いたもの・ピザ・ヨーグルトなどを買った。
トイレには現地通貨のチップが必要なので、安い飴などをドルで買ってお釣りを現地通貨でもらって準備した。

サンダーバード・ホテル・ラスアメリカス・プリンシパル宿

クスコ(ペルー首都)
12/1
3時半か4時に起きて、昨日買ってきた食べ物をホテル室内で食べた。
リマから空路クスコへ。

クスコは砂漠・乾燥地帯である。
アンデスの雪解け水を水道で引き、朝散水して緑を育てているという。


クスコは標高3400mであり、高山病の心配がある。私の場合は軽い頭痛がした。
入浴、アルコール、タバコは控えた方がよいらしい。
移動はゆっくりが鉄則で、ペルーの泥棒は逃げるときも走らない、という。
だが、現地の人は走っていたが。
コカ茶、コカ入り飴、飴も有功であり、水分補給は大事だという。
気分が悪いと言う人がいるのに、「俺は大丈夫」とデリカシーのない奴はいる者だが、
夕食時にビールを飲んで、その夜はだいぶ苦しかった人もいたようだ。
私は試しに夜、脈をはかってみるとビールを飲んだ時の70位あった。

ホテルにチェックインし、

ホテルの教会


その後すぐ、ツアーは悲しきもので、クスコ市内を観光した。
サントドミンゴ教会(コリカンチャ=太陽の神殿)
入り口

教会内壁画

教会、金のモニュメント

サントドミンゴ教会の塔

黄金の庭[太陽の神殿から見た庭]

山を見ると、

太陽の神殿入り口

石組みの方法

稲妻の神殿

石組みのヘソ[職人のサインのようなもの]

三連の石組み[窓の中に窓が連なる]

稲妻の神殿と廊下

太陽の神殿外観=太陽の神殿はサントドミンゴ教会内にある

太陽の神殿全景[緑の芝生は黄金に庭]

太陽の神殿博物館[黄金の庭の中にある、入らなかった]

ペルーの国花・カトゥ


歩いて、カテドラルに向かう。チュマドの通り
右と左の石組みは時代が違うそうだ

宗教博物館入り口[入らない]

十二画の石

西山カメラ店[ペルーで一番古い日系人のカメラ店]


カテドラル
入り口
全景

アルマス広場[奥はカテドラル]


ラ・コンパニー・ヘスス教会[アルマス広場から]


サクサイワマン
クスコ市街の山にある城跡


ケンコー要塞[サクサイワマン近くの要塞跡]

インカ道が復興されていた

土産物売り屋


赤い要塞


森林限界


富士山より高い地点=まで歩いた。
その入り口

標高3786の地点


クスコ市内


民家の屋根には魔除けが


夕食は、レストランで伝統ショウを見ながら、でもなかなか料理が来ない。
明日は早朝出発、早くホテルに戻りたいのでデザートを食べずに戻り、クスコ市内ホテル泊。
ホテル・リベルタボール宿。

明日は、いよいよマチュピチュである。

第63回ピースボート・地球一周の船旅23・クリストバル2/マチュピチュ編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅23
クリストバル②/マチュピチュ編
[11/29~12/4]

マチュピチュ
12/2
4時起床、5時半過ぎにはホテル出発の強行軍である。
クスコから電車もあるが、スイッチバックなのでかえって時間がかかるので、
途中駅・オリャンタイタンボまではバス。
途中雪山を見ることができた。


バスを降りて歩いてオリャンタイタンボ駅に向かう途中

ビスタドーム(天井の一部がガラスになっている展望車・座席指定)

車内

8:15分発。車内で軽食(サンドイッチとお茶)がでた。

さて、鉄道は、ウルバンバ川沿いの急渓谷を這うように下っていく。
実はマチュピチュはクスコより1000mほど低いところにある。
ウルバンバ川は下流に向かって流れるのだが、
その流れはかえって急流となり両側の山も急勾配で迫ってくるのである。
つまり下っているのに、川を山を登っているような感じがする不思議さである。
この川に沿って旧インカ道はあり、それは今日でもトレッキングできるそうである。

インカ道

発電所


マチュピチュ駅には9時過ぎに着いた。

そこから土産物街を抜け、シャトルバスで、でこぼこ山道を30分ほど揺られるとマチュピチュ遺跡が見える。
絶景ではあるが、それは私の想像よりは規模は小さかった。


マチュピチュ遺跡
入り口


ガイドのマリオさんは一番の景観に行こう、一気にと言いたいところだが、
ゆったりゆったりと上って、マチュピチュが一望できるポイント=冒頭の写真の所
へ我々を案内した。

見張り小屋


段々畑




植物園

コカの木

その前にある薬草倉庫

中から外を見る


ガイドのマリオさんとともに


三つの窓の神殿
  

主神殿


王宮跡跡からマチュピチュ山を臨む


方位を示す石


石切場

石を切断する方法


石のモニュメント


ワイナピチュと月の神殿への門


大広場




左のテントは太陽の神殿

太陽の神殿

太陽の神殿の下部[すでに盗掘されていた]


コンドルの神殿

皇帝の居室

王のベッド

皇帝のトイレ跡


水くみ場


遺跡発見時を想像させる草木の進出

屋根の取り付け方


水路




帰りの車中で、乗務員によるファッションショウが行われた

即売会である。

ホテル・リベルタドール宿

マチュピチュはクスコより雨が多く、土壌が流れやすく、岩も多い。
インカ人はどうしてこのマチュピチュを作ったのか、まだ定説はない。
文字を持たなかったインカ人はその文明・歴史を今日に伝える確かなものは多くは残してはいない。
従って、インカの起源を含め、インカは今日なお謎に包まれている。
最近の通説は、インカ帝国の別宮・離宮説である。
広さは遺跡全体で5.5平方キロ位と言われている。
しかもここは山の頂を途中で削って平らにしたかのような地で、
ここに多くの人が生活できるほどの土地はそもそもない。
しかも、急峻の地を越えてこなければならない。
純粋に宗教施設にしてはなんと言っても中途半端だ。
例えば、崇拝する太陽神に近づきたいと言うのであれば、一番の高地に作るだろう。
段々畑はここに住む人々のための農場と言うには狭く、作られる作物も限定されるだろう。
離宮、宗教儀式、墓場を兼ねた施設のような気が私はした。
作物は宗教儀式に必要・神への神聖な捧げものを主に作っ他のではないかと思う。
この地に作られた条件として、材料になる石が豊富にあったこと、
飲み水はマチュピチュ山から引いたこと、農業に必要な雨が降ること、などがあげられている。

クスコがスペインによって侵略され、その一部の人々はここに逃げ込んできたが、
入り口だけを封鎖して、他は破壊しないで、この地を放棄し各地に散らばって行ったそうである。
その後の彼らの行き先、運命はわかっていないと言う。
以来400年にわたって発見されなかった。
この地はクスコより遙かに低地ではあるが、
クスコからここに至る道はきわめて険しい。
急流のウルバンバ川と急峻な山肌はこの地へ進入を遮っている。
強欲なスペイン人もこの地にこうした都市が存在するとは想像するのはむずかしかったろう。
だが、ビンガムが太陽の神殿などを発見した時、
すでに盗掘されていて金目のものはもはや無かったそうである。

暑さはそれほどでもなく、快晴では無かったが日射しは猛烈に強かった。
首筋と、手首の周りは日焼けで後日皮がむけた。

約2時間半の観光の後食事をした。
一時間の自由時間があったので、私は一人でもう一度マチュピチュを歩いた。
上ではなくワイナピチュと月の神殿=入り口から一番奥の出口まで歩いた。
そこに聖なる岩と言われる巨大な岩があるそうだが、
知らなかったのでそこまでは行かなかった。
月の神殿[マチュピチュ山にある]は午前中、一日400人だけ、上ることが許されている。

マチュピチュは二重の危機を迎えていると言われる。
あまりに多くの人々が訪れるために遺跡が痛むこと、
二つには地震多発地帯で遺跡のほぼ真ん中を断層が走っていて、
真ん中を境に分裂・移動が進行してためで、
日本の調査隊が断層に直角に針金を敷設したところ断層が移動して、
針金が二回断裂したとのことである。
近い将来遺跡への立ち入りが制限されるのではないかと言われ始めている。
大きなバックパック、杖などは持ち込みが許されていない。
また、立ち入り禁止地域に入ったりすると監視員の笛がなって、注意される。

シャトルバスに乗り、土産もの街を歩き、駅まで一人で戻った。
帰りの電車の時間まで時間があったので駅のベンチで休んでいると
隣のベンチの子連れのペルー人が話しかけてきた。
彼らは英語は出来ない、私はスペイン語がまるでわからないのだが、
電子辞書を片手にほんの少しだけ話した。
とても楽しい一時であった。
帰りの電車の中では乗務員のファッションショウが行われた。

クスコに着く頃はもう夜で雨が降り出した。
土砂降りの雨であった。山から見るクスコの夜景はきれいであった。
昨日のホテル内で遅い夕食を取った。
高山病は慣れてきたので、ビールを飲んで、風呂にも入った。

第63回ピースボート・地球一周の船旅24・クリストバ4ル③/クスコ・リマ編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅24
クリストバル③/クスコ・リマ編
[11/29~12/4]


12/3
食後出発まで時間があったのでカテドラルに行くと扉が開けられていて自由に中に入ることができた。
日曜のミサが行われていた。

中はとても広く壁画や人形などを使ってキリスト伝道を説明していた。

飛行機の出発が二時間遅くなったので自由時間になった。
私は一人で私は州立歴史博物館に行ったのだが、ドルは使用できなかった。
チケット代を聞くと130ルクソル(約40ドル)とふっかけられたので入場しないで、
アルマス広場周辺を歩き回った。

コンベントデラメルシード教会

マルサス広場から路地へ入る門

金太郎寿司店

サンタ・テレサア・モナステリオ修道院
入り口
コンベントデラメルシード教会[不正確]

クスコ警察


集合時間になったのでアルマス広場に戻ると数名のペルー人が手話らしき会話をしていた。、
思い切って手話で話しかけた。
私はペルーの手話、スペインがわからないのでとても会話は難しかったが、
電子辞書と日本の手話を使って何とか話した。
彼らはろう教育の充実を求める署名活動をしていたのであった。
ありがとうはアメリカ手話、友達は日本と同じであった。
時間があればもっと色々話せたのだが、とにかく時間が無かった。
写真を撮るのも忘れ、ただ握手して分かれた。
だが、私には忘れることのできない体験であった。

飛行機でリマに向かった。
クスコからしばらくは山岳地帯であった。
だが、森林は無く、茶色のはげ山様の中を白い細い道路が糸の様に走っていた。
当然ながら、人家や耕作地らしきものはほとんど無かった。
海辺に近づくと風景ががらっと変わった。
海上は雲が、海岸は緑ではなく砂漠のようであった。所々川が走ったかのような筋があった。
リマに近づくと、緑がところどこに見られほっとした。
リマは大きな街である。
日本人の経営らしいデパート[やまおか]などがたくさん目に入る。
リマ市内・アメリカ人が昔住んだミラフローレンスというきれいな街のホテルに宿。
目の前は、カジノが林立している。
昼食は、日本レストラン・トシロウの刺身定食であった。

この一帯は治安が良いというので夕方海岸まで散歩した。

崖に作られたショッピングモール


サンダーバード・ホテル・ラスアメリカス・プリンシパル宿

12/4
午前中リマ市内を観光した。
アルサス広場

以下は皆、この広場に面している。
リマ市役所

ペルー政庁=大統領府

カテドラル


サンフランシスコ教会・修道院


デサンパラドス駅


ラ・インキシシオン(宗教裁判所博物館)




その前には、国会議事堂


昼食はフローレンス地区の南端の海岸の絶壁に作られた
ショッピングモール街=ラルコ・マルの中のレストランであった。

恋人達の公園[ショッピングモールを出た高台にある]


その後、日本人の経営する民芸品の土産物屋に行ったがどれもとても高い。
ミラフローレンス地区とセントロと言われる旧市街・カヤオ港は街の雰囲気がまるで違う。
ミラフローレンスはかつての支配者アメリカ人の住宅地であったところで現在は高級住宅地になっているらしい。
カヤオ港に近づくに従って建は貧弱になり、道路にゴミが散らかっている。
カヤオ港構内は歩行禁止でシャトルバスで移動、ゲートの出入りにはパスポートの提示を求められる。
日本人二世ガイドの遠藤さんは一人の観光はしない方がよい、する場合は荷物は持たない方が良いと話した。
警官や軍人が時々立っているが治安は良くないと言う。

バスで、カヤオ港の船に向かった。
道路の中央分離帯にあったガソリンスタンド

交差点でも、商売


船は、この日、カヤオ港に着岸していた。
夕方、船に合流した。

第63回ピースボート・地球一周の船旅25・カヤオ/リマ(ペルー)編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅25
カヤオ/リマ(ペルー)編
[12/5]



12/5
この公園は、大学生が企画し作ったという。ガウディのグエル公園を真似て作った。

この日はツアーを申し込んでいなかった。
そこで、隣室の友人達三人と一緒にリマ市内観光に出かけた。
治安状況が良くない、個人行動はしない方がよいので、タクシーを借り切ることにした。
4人で、半日80ドルであった。
だが、このタクシードライバー英語は通じないし、地理を良く知らないのであった。
国立人類学考古学歴史学博物館に行ってと頼んだのだが、彼は知らなかった。
彼は、携帯電話で仲間に場所を聞いてやっと国立人類学考古学歴史学博物館に到着した。

入場チケットはドルでは買えなかった。運転手が現地通貨で立て替えてくれた。
この博物館は手頃の大きさであったし、人はほとんどいなかった。

国立博物館が別のところに新しくできたのだが展示物は良くないとガイドの遠藤さんは言っていた。

何年か前、人質籠城事件のあった前日本大使館に行った。
運転手は、この場所もわからず、新しい大使館に我々を連れて行った。
大使館員に前日本大使館の場所を運転手に教えてもらってやっと行くことが出来た。


ワカ・ワヤマルマ遺跡[ここは入らず、外から見ただけ]


恋人達の公園近くの水上レストラン=ロサ・ナウティカで食事した。
お薦めのランチは、魚料理だった。
注文すると大きなスズキの一種の魚が丸ごと出てきた。二人で半分ずつであった。
ビールを飲みながらゆっくり食事した。

レストランは桟橋の中程にある。

その後、当初の計画では、恋人達の公園の断崖から海に向かって飛び立つパラグライダーに乗る予定であった。

値段は、50ドルの所、四人で120ドルで良いという。
だが、1時間ほど待っても、風が無く飛べないのでかえることにした。
これは前日の写真だがパラグライダーが映っている。

ワカ・プクヤーナ遺跡に寄った

小さなピラミッドのようなもので、どうも宗教的祭壇のようだ。
材料が日干し煉瓦というのが珍しいという。これは意外に地震に強いという。
だが、あちこち崩れ、傷んでいた。

天野博物館も行きたかったが、予約が必要なので、行けなかった。
前日行った人から聞くと、国立人類学考古学歴史学博物館の方が良いという。

さて、タクシーの運転手、無事船まで連れ帰ってくれたのだが、
代金を支払う段階になって、時間がオーバーしたので、割り増しとチップを要求してきた。
「時間のオーバーはあなたが道を間違えたのだから…」、
でもチケット代を立て替えてくれたからとチップをはずんだ。
この港内は歩行禁止である。
「安全のため」は、交通安全と犯罪に巻き込まれないためでもある。
船を下りたところにタクシーが待っていて、港湾職員と思われる人がタクシーを斡旋・手配している。
港ゲートの出入りは、厳しくパスポートの提示が求められる。

ペルーは盛りだくさんで、このブログもこんなに大きくなってしまった。
飛行機の便が凄い早朝で、大変であった。
高山病は微妙であった。
私は少しこめかみの当たりに不快感があるように感じた。
脈拍はビールを飲んだ後位に早くなっていた。
2日目は症状はでなかった。
中には、夜、息苦しくて何度も目が覚めた人、動悸が激しくなって苦しかった人、
吐いた人などもいたが、全く何でもなかった人もいた。
コカ入りあめ、コカ茶は効果があったかどうかはわからないが、おいしくはなかった。
また、それらの飲み過ぎはかえって良くないそうだ。
ホテルには酸素マスクがそなえてあったが私は使わなかった。
ボンベを買って持ち歩いていた人もいた。

電子辞書を片手に、ペルーのろう者と手話で会話をしたり、
普通の市民と英語意外でお話ししたことはとても楽しかった。

インカと古代マヤ文明・ナスカの関係は?については私の想いは浮かばなかった。

日系人の活躍はあちこちに感じた。

63回ピースボート・地球一周の船旅26・イースター島/チリ編

2009年02月03日 | 63回ピースボート
ピースボート・地球一周の船旅26
イースター島/チリ編
[12/4]



イースター島沖に着いたのは、朝の7時であった。
イースター島には大きな船が着岸できる桟橋・港がない。
船は沖に碇を降ろし、通船(=テンダーボート)に乗船し上陸する。

この日は風が強く、波が大きく、客船からテンダーボートに乗り移るのが大変であった。

オロンゴ岬

1960年代に復元された石積みの住居跡

オロンゴ岬にあるカルデラ湖、右はレンジャー


アナケナ・ビーチとアフ・ナウナウ[モアイ像]

後ろ姿[入れ墨が見える]

ここで昼食
[イースター島への食料の持ち込みは禁じられている、船で特別に作られたパンの弁当だけが許可された]
トイレ事情はとても悪く、オロンゴ岬には男女共用で1つしかなく、
この海岸はきれいなトイレがあるが、1ドルのチップが必要。

アフ・トンガリキ

石を取る山[ラノ・ララク山]

これらのモアイは戦争や地震などで壊滅的打撃を受けていた。
日本のクレーン会社タダノが修復・復元した(1991~1995)。
そのことを記したプレートがあるが、謙虚で控えめで1m四方ほどの小ささであった。

ラノ・ララク山[モアイ制作の場所だった所、製作途中のもの・運搬途中で捨てられたもの等色々]

ここから、モアイ像作成のための石切場のラノ・ラクラ山は直ぐ近くだ。
日本人の感覚で言うとこの山は聖地と呼べる大きさと荘厳さを持つと思うのだが、
現実的には材料供給地で、山肌には制作途中で壊れてしまったモアイ像などが散乱している、
と言う不思議な感じがする場所だった。

港、中央にテンダーボートの桟橋[赤丸部分]がある そこに大きなウミガメが


快晴でなく、薄曇りであったが日射しは強烈であった。
日焼けはマチュピチュで懲りたので、ここでは長袖シャツ、ネッカチーフをした。
お土産は安くはなかった。
ここのトイレ事情は最悪であった。絶対数がないのだ。
オロンゴ儀式村駐車場のトイレは男女共用で一個しかないし、
他もほとんど同様の状態であった。
観光に力を入れているなら、チップを取って良いからトイレの充実は大事なことと思うのだが。
これは日本人の思いなのだろうか。

船着き場近くはこの島の唯一の村落ハンガロ村で土産物屋があった。
これものんびりしていて、観光客がごった返しているのに出店の準備を始めている出店もあるのだ。
土産品代品は結構高い。

南米のチリから3800km、タヒチからは4000km、最も近い人が住む島までは2000kmという、
まさに絶海の孤島・イースター島はなだらかな丘の島で、チリ領である。
モアイ像が作られた目的、製作方法、運搬方法などは今も謎である。
その石は、火山灰が固まった凝灰岩と言われ、硬くはない。
かつてこの島では人口増加とモアイ像作成のために豊かであった森林を破壊したと聞いていたが、
実際はかなり森林が回復していた。
島全体は緩やかの丘陵で畑は見あたらず、牛や馬の放牧場だけと言う感じであった。

イースター島には二日滞留した。乗客・クルーが半分ずつ上陸した。
2日目は波が穏やかであった。
私は船内でくつろいだ。