まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第70番「金龍禅寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(代休での参詣)

2023年11月14日 | 広島新四国八十八ヶ所

話は10月30日、平日である。この日は代休となった。10月は何だかんだで仕事が忙しく、気がつけば総労働時間が、健康障害を考慮すべき時間数に達してしまい、それを少し緩和するために平日の休みとした。前々日の28日は大阪での日本シリーズ観戦、前日の29日は梅田で西国三十三所の先達研修会と大阪に滞在しており、30日に代休とするならそのままゆっくりするなり、実家に顔を出すこともできたのだが、29日の昼過ぎに先達研修会が終わるとそのまま広島に戻った(日本シリーズ第2戦のチケットが手元にあれば話は別だったのだろうが)。

それはともかく、平日の朝ゆっくり朝寝するのも滅多にないことである。

さて、この日は晴天でまだまだ気温も上がる時季ということもあり、昼前から少し出かけることにする。そこで広島新四国八十八ヶ所めぐりを進めることにする。目指すのは、前回訪ねたものの法事で立て込んでいる様子だったので参詣を見送った第70番・金龍禅寺である。

前回と同じくバスでNHK広島局がある放送会館前まで来て、平和大通りを少し歩く。両側の緑地帯エリアにはさまざまなオブジェが据え付けられており、作業中の一コマも見かける。どうやら「ひろしまドリミネーション2023」の準備中のようだ。11月17日から来年の1月3日までのイベントだが、そういえばちゃんと見たことがないなと思う。たまたまクルマで平和大通りを通った時にちらっと目にした程度。

金龍禅寺に着く。平日ということもあってか、新しい建物の寺はひっそりとしている。中の様子はわからない。これなら、前回来た時に門をくぐって法事の人たちの後ろからお参りすればよかったかなとも思う。

金龍禅寺がこの地で開かれたのは江戸時代前期。元々は今中将監が紀州で開基した寺だったが、紀州の浅野長晟が移封したのに伴って広島に移って来た。広島の昔からの寺院だが、毛利輝元の広島築城にともなって移ったところ、福島正則が保護したところ、そして浅野長晟の広島移封にくっついて来たところ、おおまかにはこれらに分類されるかな。ただ、1945年8月6日の原爆で被害に遭ったことは共通していて・・・。

金龍禅寺は爆心地から940メートルのところということで壊滅的な被害となったが、クロガネモチの木だけは奇跡的に残った。そのため、戦後は幸運の木、はては「クロガネモチ」という名前から金運を授かる木として多くの信仰を集めているという。

本堂の外からお勤めとして、朱印の箱はなかったのでインターフォンを鳴らす。出られたのは住職とおぼしき方で、書いてきましょうということで、日付の入った朱印をいただく。

次は第71番・善応寺だが、ほど近いので歩いて向かうとしよう。

平和大通りに向かう途中、お好み焼の「みっちゃん」に出会う。「みっちゃん」といえば広島のお好み焼でも有名店で、観光客も多く訪ねるところ。そのためか、地元民の中には敬遠する向きもあるが、現在の広島お好み焼の形を作った「井畝(いせ)満夫の店」を名乗る老舗であることは確かである。

広島お好み焼、一口に「肉玉そば」が基本形といっても、そばや具材の扱い方、焼き具合は店によりバラバラ。広島の人それぞれにそれこそ「お好み」があると思う。

善応寺があるのは本川町。ここは平和公園を通ることにしよう・・・。

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第69番「普門寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(マツダスタジアムでのクライマックスシリーズを前に・・)

2023年11月08日 | 広島新四国八十八ヶ所

全部で154の札所がある神仏霊場巡拝の道めぐりのうち、およそ半分に近い72ヶ所まで回ることができたが、一方で札所数を追い越された形になったのが広島新四国八十八ヶ所。

地元だからいつでも行けるということもあるのだが、前回広島新四国めぐりを行ったのは、広島原爆の日である8月6日よりも前の7月30日とある。そのまま、夏が過ぎてしまった。

次に目指すには第69番の普門寺。場所は元安川、平和大橋の近くである。

出かけたのは10月15日・・・前回から2ヶ月半開いた。さらに、記事にするのはそれよりさらに半月以上後となった。

10月15日は、ちょうどクライマックスシリーズ・ファーストステージ第2戦の当日である。この数日前、気まぐれでチケット取引サイトをのぞいてみると、内野席に手頃なチケットが出ていたので購入した次第である。マツダスタジアムに行くにあたり、市内中心部に札所が残っているので行っておくことにしよう。カープの必勝も祈願しようか。

バスにて放送会館(NHK)まで出る。

マンションや病院が並ぶ中、コンクリート造りの建物に出る。正面の門は閉まっているが、横の駐車場から入ることができる。本堂、座禅堂とも階段を上がったところに扉があるが、いずれも閉まっている。ということで階段の下でのお勤めとする。なお境内には枝垂桜が植えられており、桜の時季には見物に来る人も多いそうだ。

普門寺は毛利元就ゆかりの寺として紹介されている。奈良時代、行基が安芸吉田に滞在していた時、村人から時折川底から一筋の光が発し、山頂の樹上にかかるとい話を聞き、吉田山の山頂で座禅を組んだ。すると老人が現れ、光を発していたところを指したので、川底に網を下ろすと観音像が引き上げられた。この観音像を山上に祀ったのが寺の起こりとされる。

後に、毛利元就が観音堂で夜通し願掛けことがあった再、夢に大士の妙相が現れ、軍配団扇を授けられたという。また孫の輝元は、なかなか子どもに恵まれなかったが、観音堂に籠ってお参りしたところ、長男の秀就に恵まれたという。

毛利時代に吉田から広島近隣を転々とした後、関ヶ原の福島正則の時に現在地に移ったという。

またこの時は閉まっていたが、普門寺じたいは定期的に座禅会や「広島精進料理塾」などが開かれているという。当寺の吉村昇洋住職は精進料理についての著作も出しており、メディアにもしばしば出演しているそうだ。

庫裏のインターフォンで声をかけ、朱印をいただく。

この後、広電の線路をまたぐ。その交差点で、名古屋手羽先の「世界の山ちゃん」を見つける。広島にも店舗があったとは!・・・と驚いたのはウソで、店があることは以前から見かけて知っていた。八丁堀や本通りから少し離れた市役所近くにある店だが、この辺りもホテルが多いので夜の需要があるのだろう。これは一度は行ってみようか。

向かったのは、第66番・禅林寺。前回訪ねた時、ちょうど法事の前で取り込んでいる様子だったので朱印をいただくのを見合わせた寺だが、次の第70番・金龍禅寺のすぐ裏にあるのでこの機会に朱印をいただくことにする。本堂の前でお勤めとした後、無事に朱印をいただく。

そして金龍禅寺に向かったのだが・・・ちょうどクルマが境内の駐車場に続いて入り、本堂や庫裏の前では喪服姿の人たちが何人かいて、挨拶などしているところ。どうやらこの後から法事でも行われるようだ。前回の禅林寺と同じような形になったが、広島新四国なら次に出直しでいいだろう・・。

この後、広電には乗らずにそのまま歩いてマツダスタジアムに到着。カープ対ベイスターズのクライマックスシリーズ・ファーストステージ第2戦を観戦。カープが終盤に勝ち越し、タイガースとのファイナルステージに進んだ。結果はタイガースのストレート勝ちでバファローズとの日本シリーズとなり、連日の熱戦の末日本一となった。

個人的には現在の地元、第2の故郷である広島のカープが下克上して、バファローズとの日本シリーズを実現してほしかった。ただ、2位のカープが出場したとして、はたしてあのような連日の死闘の日本シリーズになったかどうかは、また別の話である・・・。

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第68番「正覚院別院薬師堂」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(松本明慶作の薬師如来)

2023年09月03日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりは広島市中区をいったん離れ、廿日市に向かう。第68番は正覚院別院薬師堂である。第66番、第67番と回った後で、八丁堀から広電宮島線にてそのまま廿日市まで乗車する。

廿日市市は宮島も含めた周辺の自治体との合併で広い面積を有するが、廿日市駅・電停がある桜尾地区は宮島の対岸で、かつては三方を海に囲まれた桜尾城があった。毛利元就と陶晴賢の厳島合戦の時には毛利方の後方支援の拠点ともなったところである。福島正則の時に城は廃城となったが、廿日市は西国街道の宿場町として、また北前船の寄港地として賑わいを見せるようになった。

これから目指す薬師堂は電停からもほど近いのだが、その途中に廿日市天満宮というのがあるので行ってみる。電車を降りた時、小高い丘の上に社殿があるのが気になっていた。石段を上がっていく。

廿日市天満宮は鎌倉前期、藤原親実が厳島神社の神主に任命され(合わせて桜尾城主ともなった)、鎌倉の荏柄天神を勧請して社殿を造ったのが由来とされる。境内に入るとちょうど宮島の姿が見える。手前には埋め立て地が広がってマンションや倉庫、商業施設などが並ぶが、そうしたものがなかった昔は宮島もよりはっきり見え、天満宮が遥拝所の役目も持っていたのかなと想像する。

この境内に隣接して正覚院がある。石段を上ると左が天満宮、右が正覚院である。元々は天満宮の別当寺で、明治の神仏分離にて天満宮と正覚院に分かれたという。ただ見た感じ、同じ境内という以上に、建物も棟続きになっているように思われる。

ここ正覚院は広島新四国の第83番であり、札所順だともう一度来ることになる。現在は不動明王が本尊だが、元々は薬師如来を本尊としていたそうだ。その歴史を思い、当時の住職が1984年に発願し、1995年に檀信徒会館を兼ねた薬師堂が完成した。石段を下りて100メートルくらいのところに到着する。

その薬師堂、建物は鉄筋コンクリートの3階建てである。2階に広島新四国の札が出ているが、シャッターが下りていて中に入ることはできない。これ、ビルの外でお勤めということになるのかなと思いつつ、せめて朱印をいただこうと1階のインターフォンを鳴らす。「八十八ヶ所のお参りで・・」というとしばらく間があって寺の方が出て来られ、どうぞ拝んでいってくださいと家庭用エレベーターで3階まで案内していただく。

改めて3階の上り口から中に入る。法要などで薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、弘法大師などが祀られている。3階は法要などの仏事で使用し、2階は広間になっているとのこと。たまたまこの時は法要などがなかったので中に上げていただいた形だ。

こちらの薬師如来は平成の名仏師として知られる松本明慶氏の制作。そう言われればこれまでいくつか目にしたことのある作風だなと思い出す。京都を拠点にされているが、広島新四国の札所でも大願寺の不動明王、極楽寺の阿弥陀如来、福王寺の不動明王といったところが松本氏の作で、結構あるものだ。このたびは薬師如来を前にしてのお勤めである。

お勤めを終えてエレベーターで1階に下りると寺の方が待っていて、お接待としてお茶のペットボトルをいただく。そして、ここはお参りだけで納経は正覚院の本堂での対応になるので、電話で連絡しておくと言われた。

・・ということで、もう一度天満宮への石段を上り、正覚院に向かう。天満宮の建物とは棟続きに見えるが、さすがに玄関は別である。こちらでインターフォンを鳴らすと寺の方が薬師堂と正覚院の両方の朱印の紙を手に出て来られた。うーん、札所順に回る中、これで第83番は参詣済・・・とはしない。先ほどこちら本堂ではお勤めをしていないので、朱印だけ入手済として、ここはここで改めて来ることにしよう。

再び宮島線で自宅最寄りの高須まで戻る。廿日市近辺にも一献の場所があるので、また来た時にはそうしたところも訪ねてみようか・・・。

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第67番「延命院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(原爆の業火)

2023年09月02日 | 広島新四国八十八ヶ所

第66番・禅林寺を参詣後、同じ小町のすぐ近くにある第67番・延命院に向かう。寺の名前としては象王山普賢寺延命院と呼ぶそうだ。

通信制の並木学院に隣接して一応山門がある。町の中の寺院ということで境内もコンパクトである。本堂もコンクリート造りで最近改装したように見受けられるが、表の扉じたい閉まっている。

境内の一角に祠があり、ここに広島新四国の札がかかっているから、札所めぐりの人はこちらでお参りすれば十分というところか。

延命院は江戸時代、空賢上人が紀州から来て開いたとされる。やはり、浅野氏が紀州から広島に転封されたのに合わせてのことで、周囲の寺院と同じように新たに干拓した地に形成された寺町の一つであろう。

城下町の一角を寺院で固めるのは城郭の防御の目的もあったという。広島の場合、広島城を中心に見ると西に今も地名で残る寺町、東の丑寅の方角には二葉の里地区の東照宮をはじめとした寺社、そして南のこの一角という位置づけのようだ。北は、不動院が該当するかな。

さて祠には「あごなし地蔵」をはじめとした地蔵像ほかが何体も並ぶ。広島新四国のサイトでの紹介ページでは「原爆の業火を一身に受けられた延命唯一のみ仏」と記されている。ともかくこちらでお勤めとする。

祠の中には朱印の紙が置かれた例の黒い箱はなく、本堂の扉は閉まっている。つながっているのが庫裏のようなので階段を上がって玄関に向かうと、先に扉が開いて住職らしき方が出迎える。カメラでもあって、境内をうろうろしていたのが目に入ったかな。こちらで紙を受け取る。

外の通りはさまざまな飲食店も並ぶ「じぞう通り」である。由来はここ延命院の地蔵ではないそうだが・・。

さてしばらく中区一帯の札所が続くが、さて第68番は・・というとこの周りにはない。検索すると、第68番は廿日市市にある正覚院別院薬師堂。そして第69番はまた中区に戻って普門寺、第70番が禅林寺、延命院のすぐ近くの金龍禅寺である。この並びからすると、第68番は元々この近くのどこかの寺院だったのが、何らかの事情で札所を返上し、それを廿日市にある第83番の正覚院が引き取り、別院の薬師堂に第68番をつけたと思われる。

この後、じぞう通りから並木通りに入り、そのまま八丁堀近辺に出たので中心部の賑わいを楽しみ、昼食とする。その時に考えたのだが、次の第68番だけ廿日市で離れているが、またそのためだけに出かけるのももったいないので、今回そのまま向かうことにした。広電の廿日市からも近いので、八丁堀からそのまま宮島線に揺られる。暑い中を歩いたので、涼みがてらの移動である・・・。

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第66番「禅林寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(広島の茶人)

2023年09月01日 | 広島新四国八十八ヶ所

8月6日の広島原爆の日を前に、広島新四国八十八ヶ所めぐりの続きで出かけることにする。7月30日のこと。

今回は広島市の中心部に近い小町に向かう。まず訪ねるのは第66番・禅林寺。名前からして禅宗系の寺と推察され、八十八ヶ所のサイトを見るとはたして臨済宗妙心寺派とある。

自宅最寄りの停留所からバスに乗り、平和大通りに面した放送会館前で下車する。白神社から改めて平和大通りを歩いてみると、街路樹の間に被爆者の慰霊碑が点在するのに出会う。この一帯は原爆の被害が大きかったところである。先般広島のテレビ番組で、戦時下の広島にあって、空襲による延焼を防ぐための「建物疎開」のために動員されていた女学校の生徒たちが被爆した悲しい歴史を取り上げていたのを見たばかりである。

平和大通りの南に出る。店舗やマンションが建ち並ぶ中、所々にコンクリート造りの寺が目につき、一角には比較的新しいとおぼしき観音像もある。広島市役所や国泰寺高校に近いこの辺りは元々海だったが、江戸時代の広島藩による干拓で陸地となり、寺町が形成された歴史がある。これから訪ねる禅林寺も、元々は福島正則の時に尾張から高厳和尚を迎えて開かれた寺だが、当初は現在の旧日本銀行広島支店、頼山陽旧居跡あたりにあったのを、浅野氏の代になってからこの地に移されたという。

地図だと禅林寺に来たようだが。寺が見当たらない。そんな中で表札、案内板を見つけた。山門もなく、奥に本堂らしき建物が見える。隣接するマンションと同じ敷地にあるかのようである。

本堂の扉が閉まっているので外で勤めとする。縁側には、原爆慰霊か、お盆供養に使うのか卒塔婆が並べられ、参詣者がセルフで祈願の文字を入れるようになっている。また、本堂の前には「茶筅塚」があったり、鹿威しもある。隣接する建物も茶道教室でもやってそうな雰囲気だ。

読経していると、礼服姿の人たちが何人かやって来た。どうやら今から法事でもあるようで、住職や寺の方が出迎える。ちょっと込み入りそうだなと思い、今回ここで朱印をいただくのは見合わせることにした。というのも、禅林寺のすぐ裏手に第70番・金龍禅寺があるのだが、広島新四国は札所順で回ることにしているので、訪れるのはこの先第67番~第69番の後である。日を改めてその時に来ればよいと思った。

案内板によると、本堂裏の墓地に「上田宗箇遺髪塚」というのがある。上田宗箇とは初めて目にする名前だが、武将にして茶人、そして現在に続く上田宗箇流を開いた人物とある。元々は丹羽長秀に仕えていた武将で、長秀の死後は豊臣秀吉に取り立てられ、一万石の大名までなった。その後関ヶ原の戦いで西軍についたことで領地を没収されたが、当時紀州藩を治めていた浅野家に取り立てられ、浅野家の広島転封後は国家老として、また茶人として過ごしたという。

体のほうの墓は別にあるそうだが、禅林寺は上田家の菩提寺だったそうで、宗箇以降何代かの墓も残されている。

なるほど、広島ゆかりの茶人ということでの「茶筅塚」だったか。

寺は原爆で焼失してしまったが、爆風や火災に耐えた墓石が今もここに残されているという。

次はすぐのところにある第67番・延命院に向かう・・・。

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第65番「洞門寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(65番を受け継ぐ寺院)

2023年07月20日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、第63番・光明院、第64番・宝勝院と来て、私のスマホに入れている全国各地の札所めぐりの地図が掲載されているアプリ「かむ朱印」では、第65番として三輪不動院が示されている。広電の銀山町電停の近くにある。また白島まで戻り、白島線で八丁堀まで戻ってぶらぶら行く感じかな。

しかし、寺の情報を見ようと三輪不動院を検索すると、どうも様子がおかしい。そして、広島新四国の公式サイトを見ると、第65番は新白島の祇園新道沿いにある洞門寺と示されている。

その三輪不動院だが、いつしか廃寺になったそうで、2019年度に他の2ヶ所とともに札所寺院が入れ替わったとある。他の2ヶ所とは、第11番・養徳院(現在は安楽寺)、そして第85番・徳寿寺(現在は安養院)である。安楽寺は東区馬木にあってすでに参詣済だが、安養院は広島駅に近い東区曙にあるが、参詣はまだ先である。もっとも、80番台後半となると宮島島内の札所が続き、一応札所順で回る中、宮島に行ったかと思えばもう一度広島駅まで行かなければならない・・という事態となる。まあ、それはその時に考えるとしよう。

それに比べれば、新たな第65番・洞門寺が新白島にあるのはこれまでの道順からして何ら不自然ではない。宝勝院を出て、高級住宅も並ぶ中を歩き、新しい建物の寺に到着する。山門もなく、道路に面していきなり本堂、そしてその西側、祇園新道側に墓地が広がる。

この洞門寺の歴史だが、江戸初期に浅野家が紀州から広島に転封された時に始まる。藩主の浅野長晟の家臣に小野覚雲という人がいたが、長晟の広島入りを前にその準備を命じられ、見事にその役目を果たしたとして広島城の北にあった茶屋を含む一帯を与えられた。覚雲はここに屋敷を構え、自らを開基として屋敷の一角に小野家の菩提寺を建立した。これが洞門寺の始まりという。

しかし覚雲が亡くなったことで小野家が廃絶となり、後に同じ家臣の西尾家が継ぐ形で菩提寺となった。明治の廃藩置県で一般の禅宗寺院として開放された。

そして、こちらも広島原爆により諸堂が倒壊、焼失した。戦後、バラック造りから再建が始まり、現在の建物は2007年に再建されたものだという。

残念ながらこちらは本堂の扉が閉まっており、外から本尊阿弥陀如来に向かってのお勤めとする。上り口の横に朱印箱が置かれ、書き置きの朱印をいただく。

時間はまだ昼になったばかり。次の札所はそれこそ市街中心部にあるが、それは次に回すとして、交差点を挟んで南側にあるアストラムラインの城北駅に向かい、本通に出る。せっかくなので、どこかで昼飲みでもして札所めぐりを締めくくるとするか・・・。

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第64番「宝勝院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(こちらにも被爆樹木)

2023年07月19日 | 広島新四国八十八ヶ所

7月、連日厳しい暑さが続く。先の週末は16日~17日にわたり九州八十八ヶ所百八霊場めぐりに出かけ、そして18日~19日は出張で東京へ。九州、関東、いずれもアホかと思うくらいの暑さだった。まあ、久しぶりに東京でキンミヤ焼酎+ホッピー、焼きとんを味わえたし、東京駅では久しぶりに崎陽軒のシウマイ(弁当ではなく単品)と国技館やきとりを購入することができた。多少は暑気払いもできたかな。

その東京行きは仕事のことなので書かず、また九州めぐりの記事は相当後のことになりそうだが、どうせ暑さが続くのだし、もうゆっくり、ぼちぼち歩みを勧めればよいのではないかと思う。どうせ毎日しゃかりきになって記事をアップしても、ご覧になる方なんてごくごくわずかだし・・・。

話は7月初めの広島。広島新四国八十八ヶ所の第63番・光明院を訪ねた後、すぐ近くにある第64番・宝勝院に着く。同じ白島九軒町に位置し、まず目につくのは永代供養墓である。墓といえば、5月に亡くなった父親の墓をどうするかも考えなければと思う。まだ骨壺のまま、四十九日に合わせて誂えたミニ仏壇の前である。生前、具体的にこうしよう、こうしてくれというはっきりした話がなかったのだが、本家にある墓地も墓じまいを検討していることもあり、決めるにはもう少し時間を要することになりそうだ。

山門はなく、境内の正面に建つのは鉄筋コンクリート造りの本堂。

宝勝院は、毛利輝元が広島城を築いた折、広島城の鬼門の守護として掟明神社を造営し、その別当寺として開かれた。関ヶ原の戦いの後に広島に移った福島正則の手で寺領は縮小され、明治の神仏分離では掟明神社と分離された(寺の敷地の碇神社はその名残)。そして、原爆により諸堂は失われた。

中に入ると、先ほどの光明院に続いてここにも「被爆樹木」の案内板がある。ツバキとボダイジュである。爆心地から1820メートルの地で被爆したが、いずれも焼け残りから新たに芽吹き、移植されたものである。

現在の本堂、会館は昭和50年代の建立という。

建物の前に水子地蔵像が祀られており、祭壇には多くのお供え物があり、ローソクや線香も奉納できる。コンクリートの建物は関係者以外入ることができず、ここがお参りの場だと思い、ローソクや線香に火をつけて、ここでお勤めとする。また、広島新四国の朱印箱もあるのでここでいただく。

・・ただここで、朱印にある墨書に「阿弥陀如来」と書かれていたのを見て初めて気づいた。先ほど、てっきり水子地蔵が宝勝院の本堂だと思い、一連のお勤めをした。まあ、それ自体否定されるものではないが、ここで引き返すと本尊に参らずに朱印をゲットしたスタンプラリーと言われかねない。

正面の建物の2階に上がると、あっさりと扉が開いた。ただ閉め切っているので中は蒸し暑い。その中で改めてお勤めとして、本尊阿弥陀如来の真言も唱え、これで宝勝院のお参りとなった。

次は第65番・洞門寺。もう少し西に向かうことに・・・。

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第63番「光明院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(被爆ナツミカン)

2023年07月15日 | 広島新四国八十八ヶ所

7月に入り、雨と真夏日が繰り返される。今のところ広島市内はそれほどでもないが、九州北部や山陰、北陸、東北で大きな被害が発生。本当、毎年どこかの地域が回り持ちであるかのように被害を受けている。中国地方の鉄道でも、山陰線、美祢線に加え山陽線でも不通区間が発生しているが、中でも美祢線は橋梁がまるごと流されており、復旧の目途は立っていない。ひょっとしたらこのまま廃線・・ということも考えられる。

そんな7月初めの2日、広島新四国の続きである。今回は中区に入り、白島エリアを回る。

八丁堀から広電の白島線に揺られる。かつての京都市電の車両がガタゴト走る。終点の白島に到着。白島線は中心部のわずか1.2キロの区間で、基本的に八丁堀と白島の間を行ったり来たりする路線である。

終点の白島に到着。京橋川沿いに出て、新幹線、山陽線の高架下をくぐったところで第63番・光明院に到着する。山門はなく、門柱から境内一帯に木が生い茂る。

その奥にコンクリート造りの本堂がある。扉は閉まっており、外でのお勤めである。

光明院が開かれたのは江戸初期、浅野長晟が紀州から広島に入城した際に祈願寺として建立された。薬師如来を本尊として伽藍を有していたが、江戸中期の享保年間に火災のため焼失、すぐに再建されたが天明年間に再び火災に遭い、記録や什器類も失われた。

そして、広島の原爆である。本尊は疎開していて無事だったが、建物はことごとく焼失した。広島市街の寺院にとっては避けて通れない歴史である。その後仮本堂を経て、弘法大師遠忌1500年の記念事業として現在の本堂が建てられた。

本堂の扉の前に朱印が入った箱があり、セルフでいただく。

外に出ると「被爆樹木」の札が掲げられた木を見つける。ナツミカンである。元々は爆心地から約1700m、寺の南側にある山陽線の線路の土手にあったのだが被爆し、光明院の現在の本堂が再建されるのに合わせて植え替えられたそうだ。なお、画像は残っていないが本堂の前にあった石灯籠も被爆にも耐えたものだという。

原爆では、爆心地から半径2キロ以内の地域では建物とともに多くの樹木が焼失したという。その中で生き抜いた樹木や、あるいは焼け焦げた樹木から新たに芽吹いたものが約160本ほど「被爆樹木」として残っている。このナツミカンは今でも毎年実をつけるそうだ。

さて、次の第64番・宝勝院は光明院と同じ白島九軒町、すぐそこである。暑い中、そのまま歩いて向かうことに・・・。

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第62番「明星院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(赤穂義士も見守る波乱の歴史を持つ寺院)

2023年07月13日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、6月17日はクルマで黄金山に近い第61番・妙光寺を訪ね、その後、広島駅近くの二葉の里に向かう。新幹線口の再開発も一通り済んだ中で、後は広島高速5号線の開通を待つばかりである。トンネルの掘削工事をめぐって住民との対立が続いているが・・。

その二葉の里に建つのが第62番・明星院。通りから路地を数十メートル入ったところにある。こども園が併設されていて、親子連れの姿も見える。

まずは新しい山門が出迎える。その脇に建つのは明星院大檀主の八木新兵衛の銅像である。

明星院が開かれた時期は定かではないが、毛利輝元が吉田郡山城から新たに広島城に移った時にはすでに存在していたとされている。そして関ヶ原の戦いの後で福島正則が広島に入った時、広島の多くの寺が領地を没収される中、明星院は祈願寺として扱われた。福島正則が改易され、広島藩が浅野氏の治世になるとまたも祈願寺となり、寺領も与えられて大いに栄えたという。広島城の艮の方角に位置することで、鬼門を護る意味合いもあった。しかし、江戸末期に火災により伽藍が焼失し、明治の廃仏毀釈で寺領は没収され廃寺同様となった。

ここで立ち上がったのが先に書いた八木新兵衛。毛利、福島、浅野の各大名の時代を通じた名刹が廃れるのを惜しみ、巨額の富を投じて、明治から大正にかけて本堂をはじめとした伽藍の再建を手掛けた。

しかし、この復興も原爆により灰燼に帰す。広島新四国八十八ヶ所にあってはどうしてもこの原爆がついて回る。本尊はあらかじめ難を逃れており、戦後になって現在の形で再び再建された。

仁王像が護る山門には平和の鐘があり、誰でも撞くことができる。現在のウクライナ情勢もあり、平和を願う黄色と水色の千羽鶴が奉納されている。

護摩堂を横に観て、その周りには毘沙門天をはじめとする七福神を祀るお堂もある。

風神雷神が祀られる中門をくぐる。山門の後に中門が続くとは、現在でもかなりの規模の寺院に映る。現在こども園になっているエリアはもちろん、先ほど通りから入った路地もかつては伽藍の一部だっただろう。

松並木の奥に本堂が建つ。扉が開いており、中に入ってのお勤めとする。本尊は千手観音である。

内陣に祀られる千手観音の両脇に並ぶのが、赤穂義士木像。赤穂四十七士に加えて、「忠臣蔵」で討ち入りを資金面で支援したと描かれる天野屋利兵衛の像も祀られている。これらの木像は明治時代に制作され、八木新兵衛が再建した伽藍の一つ「赤穂義士堂」に祀られていた。広島の浅野家は赤穂の浅野家から見て本家筋である。なおこの義士堂、原爆の時に倒壊したが、中の四十七士像は何とか耐えた。そして現在は表門隊、裏門隊と左右に分かれて本尊の千手観音を護っている。それにしても四十七士像、たまに寺で見かける阿羅漢像に見えないこともないなあ。

さて朱印だが、外陣におなじみの箱が置かれている。しかも3つ。右が明星院の朱印、そして真ん中が第26番・龍蔵院の朱印である。そういえば、二葉の里の北、牛田で参詣した際、朱印は明星院で対応する旨の貼り紙があったのを思い出した。

そして左の箱には、「中国地蔵尊霊場会」とのテープが貼られている。中国地蔵尊霊場・・・岡山から始まり、広島、山口、島根とめぐって鳥取で終わる札所である。これは中国地方一周のお誘いだろうか・・?

本堂を後にすると、水子地蔵、子授け地蔵、子育て地蔵と並び、こちらが中国地蔵尊霊場の本尊だという。うーん、独り者だし、子どもと関わることもないので、子授けや子育てといった地蔵尊めぐりはちょっとほど遠いかな。

その地蔵尊の脇には、被爆樹木のイチョウがある。樹齢約150年、原爆にも耐えて毎年秋には黄色く色づいていたが、その後の昭和、平成、そして令和にかけて落雷や台風で大きなダメージを受けた。調査の結果、内部まで腐食が進んでいることが判明したが、それでも生命を保とうと新芽を出し続けており、現在は内部に観音像を祀り、霊木として大切にされている。この霊木にも平和を願う千羽鶴が掛けられている。

広島駅から近いところにこれだけの歴史を持つ寺があるとは、広島新四国めぐりをするまで知らなかった。また、寺の由緒に触れることで近隣を含む広島エリアのさまざまなところを訪ね、この街を知るきっかけとなっている。

この後所用があるため、この日の札所めぐりは終了。続きの第63番からは広島市中心部をめぐることに・・・。

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第61番「妙光寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(「ノーモアヒロシマ」の平和の鐘)

2023年07月12日 | 広島新四国八十八ヶ所

前の記事は神戸でのバファローズ戦の観戦記で、その前後には関西の神仏霊場巡拝の道めぐりでいくつか回ったのだが、そのことは改めて書くことにして、その前に訪ねた広島新四国八十八ヶ所めぐりについて触れる。

前回の巡拝からおよそ2ヶ月が経った6月17日、ようやく60番台に入った広島新四国八十八ヶ所めぐりである。この前までは広島市の東側、主に安芸郡エリアを訪ねていたが、また広島市に戻って来た。次の第61番・妙光寺は広島市南区である。

この妙光寺がある場所だが、黄金山の北側に広がる住宅団地の中である。少し北には国道2号線が走っていて、公共交通機関で行くなら、広島駅から仁保方面に向かう路線バスに乗れば近くまで行け、その後は坂を上るようだ。

なるべく公共交通機関に揺られたいところだが、この日はその後の予定も加味して、マイカーで行くことにした。西区からカーナビが示したのは、南側の黄金山通りからアクセスするルート。確かに、国道2号線側からだと狭い道ばかりというイメージがある。軽自動車なら何とかなるだろうが・・。

青空の下、黄金山通りの丹那町交差点から妙光寺に向かう。黄金山の北西側の住宅地からクルマで外に出ようとすると、こちらに出ざるを得ないようだ。そういうところに住宅地を広げざるを得ないのも広島の土地事情だろう。

坂道を上り、妙光寺の山門に到着。敷地横には広い駐車場がある。

境内に入ってまず目に留まるのは「総本山善通寺 瞬目大師御分身奉安所」の石碑。善通寺は弘法大師の出身地であり、「瞬目(めひき)大師」とは善通寺に祀られている大師像である。その昔、善通寺に土御門天皇が参詣した時、絵に描かれた弘法大師が目を瞬いたという。その分身を招き、善通寺広島別院としても活動しているという。

境内に入ると本坊にメロディーが流れ(ファミリーマートに入ったかのようだ)、それに気づいてか、住職らしき方が本堂のほうに出てくる。どうやら扉を開けてくれるようだ。ここは中に入ってのお勤めである。

「何か納経されます?」と訊かれて、貼り付けタイプの小サイズの朱印を所望する。その対応や、内陣内であれこれ開く準備をしている間にお勤めとする。「もうだいぶ回られていますか?」という話になり、札所番号順でようやく61番まで来たと言うと、それが本来の回り方という反応。いや、そのために広島の東西を行ったり来たりしているのだが・・。それでも、広島のさまざまなスポットに触れることができる点で八十八ヶ所めぐりは適しているとのお言葉をいただいた。

本堂の前に鐘がある。これは「平和の鐘」で、平和記念公園の「平和の鐘」を制作した香取正彦氏が奉納したという。毎朝、広島に原爆が投下されたのと同じ8時15分に撞かれるという。もう少し早く来ればよかったな・・。

ちょうど広島市街を南から見る場所である。また振り向くと黄金山も望むことができる。

境内の浦には、四国八十八ヶ所のお砂踏み、そして千羽鶴の石像が並ぶ。山号の「平和山」にあるように、平和を願う気持ちの強い寺院である。そう願いたいものだ。

さて、妙光寺を後にして、今度は幅の狭い道をクネクネと下り、近くの北大河町にある第50番・地蔵寺に向かう。こちらには以前参詣したが、その時に貼り付けタイプの小サイズの朱印が置かれてなく、尋ねるすべもなかったのでいったん引き上げたところだ。

かつて神仏習合のかたわれだったとおぼしき寺で、6月のこの時点では忌中の身であった私は神社を訪ねるのに躊躇されるところだが、一応寺院ということで石段を上った。今度は書置きの箱に小サイズの朱印があり、これで第50番もクリアである。

この後は市街地を北上し、広島駅を越えて二葉の里に向かう・・・。

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第60番「法念寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(60番まで進んだのでビールで祝杯!)

2023年04月21日 | 広島新四国八十八ヶ所

海田市駅から広電バスで矢野駅を経由して熊野町に入る。目指すのは第60番・法念寺だが、熊野西防災交流センターのバス停の向かいにあった。寺の看板がどこか商店街にでもありそうな造りで、ひょっとしてどこかの商店を居抜きで買ったのではないかとも思わせる。

熊野町といえば、過日呉からの帰りに第49番・浄空寺に参詣したが、地図をよく見ると浄空寺があるのは呉市で、法念寺が熊野町唯一の札所という。今いる辺りは熊野町、呉市、広島市安芸区の3つの境界線が接している。

さて、法念寺を開いたのは芳念尼僧で、戦後に高野山に上り、女性として初めて加行を受け護摩を焚くことを授かったという。その後、道場の地を求めていたところ、広島の東雲町にて、原爆で亡くなった人を焼いたという土手下の広場に縁があり、お堂を建てて無縁仏を供養したのが寺の始まりという。その後、1968年に広島の土地計画により立ち退きとなり、現在の熊野町に移り、1989年、2代目の覚念の時に正式な高野山真言宗の寺院となった。

第59番は海田町で、次の第60番は熊野町、そして第61番が南区の黄金山というので、第60番が飛び地になっているなと思ったが、東雲町から熊野町に移転したと言われれば納得する。札所の場所や、寺院そのものがさまざまな事情で変わることの多い広島新四国ではよくあることだ。

建物の横の限られたスペースには水子地蔵や十三仏像などが並ぶ。そして玄関というより縁側の扉を開けると、目の前に賽銭箱、書き置きの朱印が入った箱が置かれている。扉が開いたのに気づいてか寺の方が出てきて、「お参りですか?」と声をかけられる。そのまま外からお勤めとする。

バス停の目の前だったし、寺じたいも小ぢんまりしたものでお参りじたいそれほど時間がかからず、早い時間のバスに乗れそうだ。少し待って、矢野駅行きの便に乗り込む。5月の広島サミット開催にともなう交通規制の影響で、近辺のバスも日祝日ダイヤへの変更、運休などの措置が取られるとの案内もある。

熊野営業所から矢野ニュータウンを経由する便。熊野町は筆の生産で有名だが、私にはあまり縁がないかなと、わずかな時間で後にした形だ。広島熊野道路を経由し、ニュータウンの各バス停でも乗客が乗って来る。遠くに広島湾も眺めつつ、そのまま矢野駅に到着した。

呉線の列車にて広島に戻る。マツダスタジアムも開門して早くも多くの観客がスタンドに詰めかけている。広島駅にも大勢のカープファンがスタジアム方向に向かうところだった。カープも何やかんやで頑張っているし、休日の昼を青空の下で楽しむファンをちょっとうらやましくとすら感じる。

私は特に観戦の予定はないが、久しぶりに昼間に広島駅に降り立ったこともあり、昼でも食べて帰るとしようか。向かったのは、駅ビル「ekie」内にある「銀座ライオン」。昼食ではなく昼からの一献である。

この日も穏やかな天候だが、そろそろ(いや、私の場合は年中かもしれないが)ビールが美味しく感じられる時季である。豪快に、黒ラベルを特大ジョッキでいただく。美味い。同じビールなら安い居酒屋でスーパードライの大ジョッキでも満足なのだが、たまにはこうしたちょっとお値段高めの店でジョッキをあおるのもいいだろう。

以前この店に来た時、広島限定メニューとして「フィッシュ&チップス」ならぬ「がんす&チップス」という一品があったのを思い出す。今回メニューを見るとさすがに消えており、代わりに本家「フィッシュ&チップス」を注文する。

広島料理枠として注文したのは小いわしの酢漬け。

ヱビスビールはブーツグラスで。

来店時、隣の席ではカープファンのグループが野球談議に花を咲かせていたが、そろそろ試合開始が近づいてきたためか席を立った。私はその後も楽しんでいたが、いいところで切り上げる。

酔った勢いではないが、そのまま同ビルの1階下のお好み焼店が並ぶ一角に向かう。久しぶりの「麗ちゃん」。昼時にはいつも長い列ができるのだが、さすがにピークの時間帯を過ぎていたためかスムーズに入り、鉄板にて1枚いただく・・。

昼過ぎにこれだけがっつりいってしまったこともあり(何千キロカロリー摂ったんや??)、帰宅してからは昼寝。そして、目が覚めた後の夕食もほとんど何もいらないな・・という有様だった。生活習慣としていかがなものかと思うが、たまにはこういう日もあるだろう。

さて、これで広島新四国はようやく60番に到達した。次回からは広島市内に戻る形で、中心部にある札所も増えるところ。また、市内で「お参り後の一献」ということもあるのだろうな・・・。

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第59番「薬師禅寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(海田の町の祈りスポット)

2023年04月20日 | 広島新四国八十八ヶ所

本格的な春になり、関西、中国、九州と多重債務状態の札所めぐりもどんどん進めていこう。

4月16日は広島新四国八十八ヶ所めぐり。4月の初めに倉橋島を訪ねた続きで、今回は第59番・薬師禅寺、そして第60番・法念寺の2ヶ所である。それぞれ海田町、熊野町にあり、ここまで時間がかかったがようやく60番に到達するとともに、安芸郡の札所もコンプリートする。今回も鉄道またはバスでのアクセスが容易なので、それらに身を委ねることにする。

まずは山陽線で海田市を目指す。時刻は9時台、この日はマツダスタジアムでカープ対スワローズ戦のデーゲームが行われるが、さすがにこの時間だとスタジアム周辺の客はまばらである。

ちょうどこの日の夜は広島~海田市間で一部列車の運転取り止め、バス代行輸送が行われるとある。広島市東部地区連続立体交差事業にともなう線路切換工事のためである。カープはデーゲームなのでさすがに工事のため客が帰れないということはないだろうが・・。

海田市に到着。広島新四国では第35番・大師寺に参詣した時以来である。昨年の3月末のことだったから1年以上経過している。時間が経つのが早く感じられる。

安芸山陽道に出る。西国街道のこの辺りでの呼び名で、海田市には宿場町が置かれていた。

小さいながら存在感ある祠を見つける。海田恵比須神社である。海田は古くは包浦と呼び、後に開田という名になったが、瀬野川の河口で海に面していたため海田と呼ばれるようになった。そして、四日市(西条)や廿日市と並んで市が立ち、安芸の国の経済の拠点の一つとして賑わいを見せた。海と商売が結びついての恵比須信仰の名残である。

恵比須神社の先から太鼓の音が聞こえてくる。安芸山陽道を少し東に行くと熊野神社があり、その社殿からのようだ。鳥居をくぐると狭い敷地ながら屋台が出ているし、道の向かいのスペースはキッチンカーが開店準備中である。熊野神社でお祭りでもあるのかな。せっかくなのでお参りしよう。

石段の途中に、「海田町戦没者原爆死没者慰霊塔」がある。1975年8月15日建立とあるから、ちょうど終戦から30年後のことである。資料によると日清戦争から太平洋戦争までの戦没者405名、建立までの原爆死没者151名という。

こちらの熊野神社は平安時代に紀伊の熊野大社を勧請したもので、江戸時代には海田市の総氏神として、広島藩主浅野氏からも信仰を集めていたという。

中ではどこかの団体か、20人ほどが拝殿の中に入ってちょうど祈祷が行われていた。先ほどの太鼓の音はこの祈祷によるものである。

さまざまな祈願札や絵馬も掲げられているが、正面で目に留まったのが「祈 広島東洋カープ優勝 海田町」という年季の入った札。行政が神社にこうした札を奉納していいのかという議論は野暮というものだろう。そして、後から気づいたのだが、海田町の札の反対側に同じく扁額と写真が掲げられていたが、よく見るとカープの黄金時代を築いた大下剛史、三村敏之両選手による必勝祈願のもの。いずれも頴田町の出身ということで、地元の神社への奉納である。

カープの場合、地方球団ゆえに「広島市または広島県出身者か否か」で結構カラーが異なり、派閥もあり、引退後の処遇にも差が大きいなという印象がある。ともすれば前者が王道、後者が異端という扱いも見受けられる。その伝だと、大下(東映からの移籍だが)、三村は濃厚、どっぷりと広島ということで・・・。

熊野神社まで来れば薬師禅寺も近い。薬師といいつつも、金色の観音像が目につく。寺の敷地はちょうど斜面になっており、これを切り開いた形である。境内の横がこの奥の日浦山の登山ルートにもなっている。

薬師禅寺が開かれたのは江戸時代中期。この地に疫病が流行したため薬師如来を勧請したところ、そのおかげで疫病が退散したため、薬師堂が建てられた。現在地には明治時代に移されたという。

本堂である薬師堂の扉に手を掛けるが鍵がかかっており、その前でお勤めとする。

先ほどの観音像に行ってみる。「いつもやさしい ひまわり観音さま」とある。ちょうど、海田の町を見下ろす角度にあり、町と人とをやさしく見守っているかのようだ。ひまわりは、海田町の花とのこと。

ひまわり観音像のたもとには「むすびの碑」もある。先ほどの熊野神社と合わせて、海田の人たちの憩い、癒しの場になっているようである。あ、以前に訪ねた大師寺もそうだろう・・。

これで一通り回り、本堂の外に書き置き朱印の箱もないのでインターフォンを鳴らす。ややあって、腰の曲がった住職らしき方が出て来られた。

さて、次は熊野町に移動である。熊野町へは呉線の矢野駅、または呉駅からのアクセスが便利だが、広電バスの路線図を見ると、広島バスセンターから熊野萩原車庫前行きの系統があり、海田市駅入口も通ることがわかった。この路線は1時間に1本だが、それほど待つほどもなく来るようなのでバス停に向かう。

バスセンターからここまでの間は混雑する区間(ちょうどマツダスタジアムの横も通るし・・)とあって、10分ほどの遅れでやって来た。

国道2号線と国道31号線の分岐となる大正交差点を過ぎ、矢野駅に到着。「このバスは矢野ニュータウンを経由しません」との案内がある。あちらは、かつて有料道路だった広島熊野道路を経由するルートだが、こちらは古くからの道である矢野通りを走り、途中カーブの多い山道も経由する。

そして着いたのは「ゼロバランス サッカーフィールド広島」。県内有数のサッカーフィールドで、ここまで乗って来たサッカー少年たちも下車する。

そのまま熊野団地に入り、熊野西防災交流センター前に到着する。目指す第60番・法念寺は・・・。

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第9回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第95番「明王寺」(日田の淡窓不動尊と昔からの町並み)

2023年04月13日 | 広島新四国八十八ヶ所

九州北部の交通の要衝で、豊後、豊前、さらには筑後川で筑後方面とを結ぶ地である日田に到着。天領の町として見どころもさまざまあるのだが、駅前には「進撃の巨人」のキャラクターたちが出迎える。作者の諌山創さんが日田の出身ということで、観光PRに一役買っている。

また、駅舎の前では「HITA」の「I」の位置に人が立って記念撮影をするのが人気となっている。ここでも、外国人観光客の姿を見かける。

先の記事で、次の大分方面の鈍行は2時間後ということに触れ、それならば町歩きも含めて十分回ることができるとしたが、実は私の日田での時間は半分の1時間あまりしかない。というのも、日田11時32分発の特急「ゆふいんの森3号」に乗るためである。もっとも、この列車で由布院や大分まで行くのではなく、天ヶ瀬を過ぎた次の豊後森までの乗車である。久大線でのもう1ヶ所の途中下車として、かつての扇形機関庫跡がある豊後森にも立ち寄れないかと思い、ダメ元で全車指定席の「ゆふいんの森3号」の空席をネットで検索したところ、たまたま1席だけ空いていた。これで豊後森も組み込み、豊後森からは当初乗る予定にしていた大分行きに乗り継ぐことにした。

その分、日田での滞在が1時間ほどとなりちょっと駆け足になるが・・。

連絡地下道を通って駅の北側に出る。ちょっとした公園になっていて、D51が保存されている。主な活躍場所は東海道線や山陽線、日豊線などで、久大線を走っていたわけではないようだが、当地に寄贈されたものである。

この日(4月8日)は統一地方選挙の投票日前日ということで、県議会議員の候補だろうか、周囲を回る選挙カーの声も響く。

江戸時代後期に広瀬淡窓が開いた私塾・咸宜園の跡地に出る。「咸宜」とは「ことごとくよろし」と読み下すそうで、門下生一人一人の個性や意思を尊重する理念を名前に込めたという。以前来た時に資料室に入ったのだが、その中で印象的だったのが「月旦評」という門下生の成績の番付表のようなものである。入門時に身分、年齢、学歴を問わない一方で、月の初めに学力を評価して1級から9級まで上がり下がりする・・。今では当たり前のことかもしれないが、当時の身分社会にあっては画期的なことだったという。

咸宜園の前を通り、そのまま行けば昔ながらの町並みの豆田町だが、その途中にあるのが、第95番の明王寺である。

明王寺は明治時代、四国八十八ヶ所巡礼で奇跡的に病気を平癒したという水島安兵衛の発願によりにより豆田町に建立され、大正時代に現在地に移転した。本尊の不動明王は、京都の醍醐寺から招かれた2代目の住職と一緒に明王寺にやって来たもので、理源大師聖宝の作と伝えられている。

本堂の柱には「九州八十八ヶ所番外霊場」の額が掲げられている。扉が開いており、中に上がってのお勤めとする。天井の板には般若心経の中の一文字が書かれており、天井絵とはまた違った面白さがある。護摩供、祈祷など人が集まることも多いのだろう。

朱印はセルフにていただく。

明王寺から200メートルも行けば豆田町。どこかに入って見学とはいかないが、せめて通りを往復するくらいのことはしてみよう。以前来た時もちょうど春の頃で、さまざまな雛人形の展示を見たものだ。天領として栄えた当時の名残を残しており、現在はリノベーションしてショップやカフェに生まれ変わっており、訪れる人を楽しませる。

この時は何かの記念写真か、通りをバックにカメラマンによる撮影が行われていたり、韓国からと思わるご婦人の団体も見える。

本来なら宿泊も含めてゆっくり回るに値する町ではあるが、通りを一通り眺める。

何とか「ゆふいんの森3号」に間に合うように駅に戻り、緑の車体が入線するのを待つことに・・・。

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第58番「白華寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(倉橋島!)

2023年04月11日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりはしばらく間隔が空いていたが、前回から約2ヶ月ぶりにようやく第58番・白華寺に向かう。4月2日、当初の予定がぽっかり空き、ちょうど天気も良いのでここで出かけることにした。

白華寺があるのは倉橋島である。当初はクルマで出かけようかと思っていたが、調べると呉駅から1時間に1本の割合で桂浜温泉館行きのバスが出ている。呉駅からは1時間ほどかかるが、逆に同じ県内でちょっとした日帰り旅の気分が味わえそうだ。倉橋島には以前の広島勤務時代、音戸の瀬戸から渡ったことはあるが、確かその時は江田島に向かう際に通過しただけで、倉橋島を目的地とするのは初めてである。

広島から呉行きに乗り換え、呉線を走る。帰りは呉港からフェリーで宇品に出るのも面白いかな・・・。

呉駅から10時20分発の桂浜温泉館行きに乗る。座席がほぼ埋まるくらいの乗車率である。

海上自衛隊の呉地方総監部から歴史の見える丘を過ぎる。戦艦大和を建造したドックも健在である。広島新四国ではちょうどここから見上げた場所にある萬願寺にも参詣した。さらに、今年に閉鎖を迎える日本製鉄の呉製鉄所も見る。バスの車窓にて呉の街並み観光もできる。

そして警固屋から音戸の瀬戸へ。現在橋は2本架かってるが、路線バスが走るのは古いほうの音戸大橋。ループ線を上り下りする。ぢょうど松山行きのスーパージェットも音戸の瀬戸に近づいてきた。高速艇とはいえここではどうしても速度を落としての運航となる。

このまま、まずは島の東岸を走る。橋でつながっていることもあって街並みも広がっているが、海にはカキの養殖いかだもずらり並ぶ。さすがに4月となると、スーパーの店頭にカキが並ぶこともなくなったなあ。

道が細いうえ、ガードレールもないところも走る。海水も澄んでいる。

途中からは島を横断し、西側にしばらく海が広がった後にもう一度横断する。宇和木バイパスを抜けて島の南岸に出る。倉橋本浦で下車する。ここまで1時間ほど乗って来たが、呉駅から倉橋島まで乗り通した客も結構いたし、島内での乗り降りもそこそこ見られた。

さて目指す白華寺だが、海とは逆の山の方向に戻る形になる。この地区の集落の細道を抜けていく。

途中、立派な構えの門の両側に桜が咲き誇っているスポットに出会う。ここが白華寺かと思ったが、浄土真宗の西蓮寺というところである。

桜にひかれて少し境内におじゃまする。室町時代に開かれた寺で、領主の多賀谷氏の菩提寺でもあった。

白華寺はもう少し細道を上るようだ。道幅も狭く、これでは私の軽自動車でもアクセスが厳しそうだ。

見上げると、独特の形をした岩がむき出しになっている山を見る。ここで連想したのが宮島の弥山である。確か頂上付近に奇岩が並んでおり、昔からの修行の場としての姿を今に伝えているところ。この火山も、例えば弘法大師が修行したことがあるとか、そういう言い伝えがあってもおかしくないように思う。

火山を紹介したネット記事によると、周囲の海を見渡せることから水軍が火をたいて見張りの場、あるいは灯台のような役割をしていたことからその名がついたという。登山道も整備されており、1時間もあれば登れるそうだ。

白華寺が近づき、振り返ると先ほど着いた本浦地区が見える。そして行き止まりとなった先に石段が続く。

白華寺が開かれたのは平安時代中期。倉橋島の地頭だった塩竃勝信という人物が夢のお告げを受け、島の沖合いで十一面観音像を発見し、小舟で持ち帰り、火山の麓の少し開けた地で祀ったのが始まりという。この十一面観音は行基の作と伝えられるが、近年の調査では鎌倉時代の作とされている。

本尊は秘仏だが、本堂の前には本尊をモデルにして造った十一面観音像が立つ。本堂の奥に庫裏があるが、住んでいる気配はなさそうだ。お堂の前でお勤めとする。

朱印は本堂の前に箱が置かれていて、セルフで書き置きをいただく。

ここで折り返しとして、もう少し近場を楽しむことにする。バスの行き先でもあった桂浜に向かう。桂浜といえば高知のイメージだが・・。

砂浜が広がり、目の前には穏やかな海。そして、何組かの家族がテントを広げてバーベキューなど楽しんでいる。外国人の家族もいる。大声での会話はラテン系の言葉に聞こえる。

「萬葉集史蹟 長門島之碑」の文字が見える。「長門の島に船泊まりして作る歌」、「長門の浦から船出する夜に月の光を仰いで作る歌」として、計8首が収められている。長門島とは倉橋島の当時の呼び名で、風待ちの場として古くから活用されていたようだ。

ここから見えるのは山口県にかけての島々で、奥に広がるのは周防大島だろうか。さすがに四国本島までは見えないか・・。

桂浜神社というのがある。現在の社殿は室町時代には建っていたそうで、宗像三女神、宇佐八幡三神を祀る。海上交通の盛んな地にあって多くの信仰を集めたことだろう。

砂浜の奥に、「長門の造船歴史館」がある。来る前、地図で「長門の造船」に関する歴史館があるのを見て、広島なのに長門とはどういうことかと思った。ひょっとしたら、太平洋戦争当時の戦艦「長門」に関するスポットなのかとすら思っていた。

しかし、中に入ると目に飛び込むのは遣唐使船。倉橋島は風待ちの港だけでなく、船の建造も行われた歴史があり、遣唐使船や後の豊臣秀吉の軍船もここで建造されたともいわれている。こうしたこともあり、1989年に当時の絵巻物などを参考にして復元されたのがこの船である。これまでにも地元の祭り等で実際に海に漕ぎ出したこともあるそうだ。

長門は長門でも、戦艦と木造船ではえらい違いである。

こうして実物大とされる遣唐使船を見ると、よくこの大きさで東シナ海を渡って大陸に向かうことができたものだと感心する。事実、途中での嵐、風雨により難破した船も多く、阿倍仲麻呂のように唐には渡ったものの日本に戻ることができなかった人たちもいた。

館内は撮影禁止のため画像はないが、他にも数々の木造船の模型が並ぶ。

さて、一通り見たところで最後に取って置いた桂浜温泉館に入る。中の主浴槽(銀泉)と露天風呂(金泉)がメインである。全体に広く、地元の人や、海・山を楽しんだであろう人たちで賑わっている。欲をいえば、湯上り後にゆったりできる広間でもあればよかったところ。

初めて訪ねた倉橋島の海岸だが、広島県の新たな見どころに出会えてよかったことである。

温泉館を13時54分発のバスで出発する。

来た時と同じくカキの養殖いかだが並ぶ海岸沿いの区間に入るが、帰りはちょうど干潮の時間帯で、ほとんど干潟のようなところにいかだがむき出しになっている。大丈夫か?と一瞬思ったが、これはあえてそうした位置にいかだを組んでいるそうである。倉橋島の周りは潮の干満が大きく、カキが海中に出たり入ったりするのだが、そのぶん身が通よくなり、味わいもよくなるのだという。そして、こうした光景は何も倉橋島に限ったことではなく、全国各地で「干潟養殖」として行われている手法なのだという。

途中のバス停から、東南アジアの人たちが何人か乗ってくる。カキの養殖業者の技能実習生だろうか。この札所めぐりから戻った後、NHK広島の番組で、そうした技能実習生を取り上げていた番組を観た。10年前、江田島の水産加工会社で外国からの技能実習生が社長や従業員を殺傷した事件があった。その時、実習生は待遇面での不満や孤立から犯行に及んだとされたが、それから年月を経て、カキの養殖業者の労働力はより一層外国人の技能実習生頼りになったという。

技能実習生・・・結局は安い労働力。マスゴミがいくら弁護しようとも、何の説得力もない。

私がこの冬にスーパーで購入したカキも、おそらくこうした外国人実習生のカキ打ちによるものだろう。まあ、スーパーだろうが広島市内の高級店だろうが、同じようなものだろう。受け入れ側もいろいろあるが、中には悪質なところもあるのではないかな。そうした労働の上に成り立っているカキ・・・何だか申し訳ない。

こうした番組やネット記事を見ると、単純にカキが美味い旨いといって喜んでばかりでいいのかなと思う。私個人としては外国人実習生制度には反対で、先の参議院選挙ではそれを施策の一つに掲げた党に投票した。

もっとも、ここ最近の為替状況その他のため、技能実習生は日本なんか相手にしていないようだが・・・。

・・・自分でも何を書いているのかわからないが、何だか日本の産業構造はこれでええんか?という複雑な気持ちは持っている。カキ美味しいね!・・だけでええの?

 

再び音戸の瀬戸を渡り、本土に戻る。呉駅に戻り、結局そのまま呉線に乗って広島に戻る・・。

広島新四国は次の第59番・薬師禅寺(海田町)、第60番・法念寺(熊野町)と回ると、東のエリアが終了となる。こちらはこちらで少しずつ進めることに・・・。

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広島新四国八十八ヶ所めぐり~スカイレールに初めて乗車

2023年02月14日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりで西条を訪ねた帰途、山陽線の瀬野で下車する。ここに札所があるわけではないが、瀬野で接続している「スカイレールみどり坂線」に乗ってみることにする。隣接するのはみどり口駅である。

スカイレールとは、懸垂式モノレールとロープウェイを合わせたような交通手段で、ここ瀬野で、住宅団地「スカイレールタウンみどり坂」への交通手段として1998年に開通した。一応これも鉄道の一種といえるのだが、前回、今回の広島勤務時を通して乗ったことがなかった。所要時間も5分ほどで、瀬野駅と住宅地を結ぶだけだから、是が非でも乗らなければ・・というほどでもないかなと思っていた。

ところがここに来て、2023年末をもってスカイレールの営業を終了するとの報道が出た。採算面で合わないようで、今後は電気自動車を使った路線バスへの転換を検討しているという。広島の鉄道で「今後のあり方を考える」路線といえば芸備線や福塩線が連想されるが、まさかスカイレールが一足飛びに営業終了、しかも事前の協議もないままとは驚いた。だからというわけではないが、一度どんなものか乗ってみることにした。

ラッシュ時の最短では5分に1本運行されるが、日中は15分に1本。改札口に「ICカードはここにタッチ」とあるが、ICカードといっても手持ちのものは反応しない。どうやらスカイレール専用の定期券はICカード仕様のようだが、持っていないので券売機できっぷを購入する。印字されたQRコードをかざして中に入る。

「撮影マナー」の張り紙がある。営業終了の発表があって以来、ここにも「撮り鉄」が来ているのかもしれない。また、JRや私鉄のように路線が広がっていて不特定多数の人が利用するというよりは、みどり坂の住民の足としての路線であり、より一層周りに配慮してほしいというお願いである。この記事でもこの後いろいろ写真が並ぶが、果たして大丈夫だろうか・・。

ゴンドラは前後に座席が4つずつあり、その間の立ち客も10人乗れるかどうかというくらいのスペースである。学生たちを中心に満員だった。観光地のロープウェイより狭く、ラッシュ時、これ1台で通勤通学客をさばけるのだろうか。

時間となり発車する。路線距離1.3キロの間に160メートル上がるから、結構急勾配で、登山に近い感覚である。途中、カーブを描きつつ、眼下に住宅を見るのもなかなか面白い。ロープウェイと違って、一応上にぶら下がっている形なので風の影響もそれほど受けないそうだ。

途中、みどり中街に停車する。

もう少し進み、終点のみどり中央に到着する。見下ろすと結構上って来たものだと感じる。

駅を出た先も中央にスペースのある道路が続いており、建設当初は延伸も視野にあったのかなと思われる。

少し、駅の周りを散策する。架線下のスペースを利用した公園も整備されているが、特に住宅地に用事があるわけではないので、先ほどの折り返し便の出発、そして次の便が下から上がって来る様子を見た後、そのまま戻ることにする。

下りは親子連れ1組とお年寄り1名で、着席してみる。ちょっとしたアトラクションの気分がする。

そのままみどり口駅から通路を渡って瀬野駅に戻り、すぐやって来た山陽線の列車に乗る。スカイレールと山陽線の組み合わせは悪くない。

さて、スカイレールができた当時は日本唯一の新交通システムで、同じ広島にあるアストラムラインのような本格的な鉄道を造るよりも建設コストが安くついたこともあり、将来各地でこの手の交通システムができることも期待されたことだろう。また住宅地の名前にもあるように、スカイレールがあることで宅地開発が進み、スカイレールがあるから住宅を購入したという方も多かっただろう。

ただ、やはり採算面を問われると・・だろうか。この地区で住宅を構えるなら駐車場つき(何なら2台分)というのも当然で、結局何やかんやでクルマを利用する人も多いだろう。道路のほうは、瀬野の辺りは国道2号線の渋滞スポットだが、東広島バイパスの開通も間近である。ゴンドラ1台の定員が限られているなら、バスでも十分かもしれないし、そのバスも将来的には自動運転も考えられるだろう。

広島でもそれほど大きな話題になっているとは思えないが、営業終了は運営会社が発表したことで決定のようである。その日が近づくと、全国的な話題になるのかな・・・?

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