まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第57番「福寿院(円通寺)」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(西条の酒蔵、ふたたび)

2023年02月13日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりは再びの東広島・西条である。以前、西条駅の北にある第38番・国分寺に参詣したが、すぐ近くにある第57番・福寿院(円通寺)は門の前を通ったものの、番号順での参詣ということで素通りした。そして前回(1月)、わざわざ山陽道の河内インター近くのホテルに前泊して第56番・棲真寺に参詣し、その帰途に立ち寄ることもできたが、そのまま山陽道でスルーした。

西条へは日を改め、2月5日に出かけることにした。午前中に用事を済ませ、山陽線で昼前に出発。西条駅に降り立った。

あえて三原からの帰りにお参りせず、今回にわざわざ回したのは福寿院の立地のためである。西条といえば県内有数の酒どころ。駅前にも地元酒蔵の銘柄の看板が並び、ちょっと遠くを見やると赤レンガの煙突がいくつも見える。

その中を歩く。駅に近く、そして目につくのは西条の中でももっとも有名と思われる賀茂鶴。こちらには展示館もあるので、後で行ってみよう。

さらに進むと亀齢、福美人といった酒蔵が並ぶ。そのフェンス沿いに「山陽花の寺二十四寺」の幟が並ぶ。「山陽花の寺」は、宮島の大聖院に始まり、山口県、岡山県、広島県をめぐる札所で、福寿院はその第23番」である。他にも、広島新四国や中国観音霊場、中国四十九薬師で訪ねた札所も多く参加している。

そして福寿院の山門に出る。ちょうど2つの酒蔵に浜されたところに寺がある格好だ。こういう場所なら、お参りの後はそのまま一献、もしくは試飲・・という流れになり、クルマだと無理としてここ単独で鉄道で来た次第である。

門の両脇にはキャラクター化した地蔵像が出迎える。全体として小ぶりな敷地ながら、「花の寺」ということで花壇も設けられているし、奥には石庭が見える。

福寿院は古くは聖徳太子の道場であったと伝えられているが、その後廃寺となり、鎌倉、室町時代に復興と廃寺を繰り返した。今の形になったのは江戸時代の半ばだという。

また、西条の歴史を見ると、江戸時代は西国街道が東西に走る「四日市」という宿場町である。先ほど駅から賀茂鶴の本社まで来たが、本社建物の横にあるのは旧本陣である。西条の酒造りが本格的になったのは明治から大正にかけてのことで、これと合わせると、福寿院は以前はそれなりの規模を持っていたが、町造りの過程で(寺の経営も苦しかったのかな・・?とも勝手に推測してみる)土地を酒蔵に渡したとか、そういうことがあったのかもしれない。

現在の寺、本堂は江戸時代当初のものだが、石庭も含め、他のところは新しい感じである。

納経所は別棟にあり、セルフスタイルで広島新四国、山陽花の寺それぞれの書置き朱印をいただくことができる。広島新四国の朱印にも「蒔かぬ種は生えん」と書かれた袋に入った種がついている。ただ、生やせる自信、見込みのない種は蒔くことができないなあ・・。

山陽花の寺か・・・花の寺だと、寺がお勧めしている花の時季に行かないと意味がないような気がして、さすがに、今の時点では巡拝は考えていない。

これで目的である札所めぐりは終わり、ここからは酒蔵めぐりである。以前、国分寺を訪ねた時もそうだったが、賀茂泉、賀茂鶴と回ってみよう。

賀茂泉の前には「立春朝搾り」の張り紙が出ている。今年のラベルは「令和五年癸卯二月四日」だそうだ。旧正月の立春の早朝に搾った酒で、翌日の二月五日から出回るおめでたい酒だ。2月5日・・まさしく今日やないですか。全国の有志の酒蔵が参加して、それぞれの銘柄の「立春朝搾り」を出しているが、賀茂泉もその一つのようだ。

もっともこの「立春朝搾り」、近所の酒屋に行けば必ず買えるというものではないようだ。基本は酒蔵への事前注文で、その数に合わせて瓶に詰めるそうだ。入手するなら直接申し込むか、取り扱い可能な酒の卸業者に予約するか。あるいは料理店でいただくか。もっとも、業者にしても料理店にしても、酒蔵からの配送ではなく、みずから直接酒蔵に出向いて引き取るのだという。

ちょうどそうした時季に西条にいるのもめぐり合わせということかな。

賀茂泉のレトロな洋館・酒泉館に向かう。ここで販売、試飲を行っており、酒に関する書籍が並ぶ「お酒の図書館」もある。「立春朝搾り置いてますか?」と訪ねて来た客がいたが、「予約で売り切れなんですよ~」と店の方も申し訳なさそうに対応する。

ここでは単品のほか、呑み比べも可能。賀茂泉の純米吟醸5種(50ml×5杯)をいただく。「生酒」、「緑泉本仕込」、「朱泉本仕込」、「山吹色の酒」、「古酒」と、右から順に味が濃くなっていく。「古酒」まで来ると全く別の飲み物のように感じられる。日本酒といえば刺身をはじめとした和食に合うイメージだが、左に進むと洋食も出るし、「古酒」だとはっきり「中華料理との相性◎」とある。そういわれれば、紹興酒に近いかもしれない。

改めて、賀茂鶴に向かう。味については人それぞれ好みがあるのでどれが一番というのは言い難いが(お好み焼も同じ)、知名度、流通量でいえば広島で一番と思われる銘柄である。私も手土産や贈り物として広島の酒を買うことがあるが、賀茂鶴ならまず外れはないという認識である(もっとも、「賀茂鶴なんか定番すぎる・・」という方もいらっしゃるが、いただく立場でその言い草は失礼ではないかと思う)。

ちょうどこの日は酒蔵の見学が開かれていたようだ。事前に知っていれば申し込んで、それに合わせて動いていただろうが・・。なお、こちらに展示されていた額だが、右は賀茂鶴の創業85周年、創立40周年を祝した池田勇人(当時国務大臣)からの書状、そして左は、横綱・大鵬が何回目かの優勝祝賀で大盃を飲み干した時のものである。

一連の紹介コーナーをのぞく。ディスプレイでは社歌「世界に伸びゆく」が流れる。作曲・古関裕而、作詞・西條八十。歌・村田英雄とコロムビア・ローズ。音楽の教科書のようなラインナップだ。村田英雄は大の酒好き(そのため、後に病気で苦しむことになるのだが)とあって、老舗の酒造会社の社歌を歌うというのは実に光栄で、美味しい仕事だっただろう(ギャラとして賀茂鶴もしこたま飲んだのかな・・と想像する)。

展示館の中央には「賀茂鶴ゴールド」がずらりと並び、2016年の日米首脳会談の時に安倍首相、オバマ大統領(いずれも当時)が広島を訪ねた時に、「賀茂鶴ゴールド」で一献した時の写真も誇らしげに掲げられている。もっとも、安倍首相は下戸、オバマ大統領もそんなに飲む話は聞かなかったので、これはあくまでパフォーマンスのように見える。2人で180mlが1本でも余ったとか?

さて一方、広島県出身の首相といえば、加藤友三郎、池田勇人、宮澤喜一、そして岸田文雄のいずれも「酒豪」で知られている。2023年、広島でG7サミットが行われるが、G7首脳が揃って平和記念資料館を訪問し、宮島の厳島神社に参拝するプランがあるそうだ。そしておそらく、夕食の時には「賀茂鶴ゴールド(金箔入り)」が供されるのだろうな・・・。これは「検討」も何もなく、「即断即決」??

政策その他で評判の悪い岸田首相だが、まあ、せめて地元広島での観光案内、おもてなしくらいは自由にさせてあげましょうよ。一般人でも広島にいて、他のところから知人が広島に遊びに来たら、原爆ドーム、宮島を案内して、昼はお好み焼、そして夜は広島の酒と牡蠣くらいでもてなし、土産にもみじ饅頭でも勧めるでしょう・・(あくまで定番の話として)。

さて、こちらでの試飲は「賀茂鶴ゴールド」、「大吟醸 双鶴賀茂鶴」、「純米大吟醸 広島錦」の三種類。賀茂泉より器が小さいのはさておき、厳選ものである。

ここまで来ると、西条の酒蔵めぐりのついでで福寿院に参詣したようだが、酒蔵に挟まれた福寿院も酒を通して人々の心を豊かにしてくれる仏様と勝手に解釈して・・(さすがに飲みすぎは戒めているが)、西条を後にする。

このまま自宅に戻ればよいのだが、途中の瀬野で下車する。広島新四国とは関係ないが、あるスポットについて最近報じられているので、この機に見に行くことに・・・。

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第56番「棲真寺」その2~広島新四国八十八ヶ所めぐり(小早川氏ゆかりの寺から広島空港大橋を・・)

2023年01月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりの最東端ということで、同じ広島県内ながら前泊を前泊を含めた前後編となった。

気分転換を兼ねて、第56番・棲真寺の参詣を前に、河内インター近く、広島空港手前の「ホテルエリアワン広島ウイング」にてゆったりした部屋と温泉、朝食を楽しんだ。曇り空なのが残念だがこれから出発する。

空港の手前で、分岐する広島中央フライトロードに入る。「地域高規格道路」との位置づけのようだ、現在は大和町まで開通しているが、最終的には世羅町まで伸ばして尾道道とつなぐことで、県北からの広島空港、あるいは山陽道方面へのアクセス向上を目的としている。ただ、現在はその手前の三原市大和町までである。

インターチェンジやホテルのある「河内」から棲真寺がある「大和」に向かうというのも、私にとっては関西での国境越えのような気分で面白い。もっとも、広島のそれは「こうち」から「だいわ」なのだが・・。

走るうち、トンネルを抜けて姿を現すのは、沼田川にかかる広島空港大橋(広島スカイアーチ)。フライトロードのシンボルと言っていいだろう。

こうしてクルマで実際に渡る分には、これも「ただの橋」という感じがしないでもないのだろうが、私の印象としては、JR山陽線に揺られる中で、河内~本郷間に見える高い橋がこれである。確かに、この谷を橋一本で渡すことにより南北の距離がぐっと縮まったといえる。

その先の棲真寺インターで下車する。出口には「棲真寺公園」と書かれた案内板があり、そちらに沿って走る。

そして到着。寺の境内といっても山門があるわけでなく、オープンな雰囲気である。今は冬の時季でこれといった見どころはないが、桜や紅葉など楽しむことができそうだ。

棲真寺が開かれたのは鎌倉時代とされる。源頼朝の家臣・土肥實平が源平の戦いの後、中国地方の追捕使に任ぜられ、備後の国に拠点を置いた。そしてその子・遠平は頼朝の娘を妻に迎えた。その妻は若くして亡くなるのだが、その追慕としてこの地に七堂伽藍を建てたのが棲真寺の始まりという。なお、この遠平の子孫が後に備後で地頭~国人領主となった小早川氏である。そういえば、かつて小早川隆景も拠点にしていた新高山城はここから近いところにある。今思えば、少し足を延ばして見に行ってもよかったかな・・。

寺じたいは江戸時代に火災に遭ったり、明治の廃仏毀釈で一時は廃寺となったが、後に復興した。また、1991年の台風で大きな被害を受け、現在の本堂は1996年の再建という。それを記念する碑文も建てられている。

久しぶりに里山の景色の札所を見たように思う。改めてその本堂に上がり、お勤めとする。

隣の庫裏も田舎の家の庭先といった感じで、縁側に書き置きの朱印やお守りが並べられていてセルフでいただけるようだが、私が集めている小型サイズの朱印がない。仕方なく玄関のチャイムを押して住職に出てきていただく。

「公園」ということもあり、境内を一回りする案内板もある。向かったのは写経堂で、茅葺きの建物が残されている。明治時代のものだそうだが、ちょっと屋根の傷みが激しいようにも見える。

200メートルほど山道を進む。

その先に小さな展望台があり、木々の向こうに、先ほど渡った広島空港大橋が見える。この高さから橋を眺めるのは初めてだが、あんなに高い位置でこの谷を越す必要があるのかなとも思う。広島空港との勾配差を最小限にしたとも取れるが・・。

しばらく立っていると、電車のモーター音が聞こえてくるような感じがした。この橋の上を列車が走るのなら、鉄道写真の絶好のスポットになったことだろうが、山陽線の線路はこの下、沼田川沿いである。

ここで折り返しとしてフライトロードに乗り、そのまま河内インターに出る。前日チェックイン時に発行された全国旅行支援の1000円分のクーポンは、小谷サービスエリアに立ち寄り、広島ご当地のレトルトカレーなどの購入の一部に充てた。レトルトカレーなら普段食に使えるし、日持ちもするので・・。

さて、次の第57番の福寿院だが、西条の街中にある。このまま西条インターで下車すればすぐで、これで東広島以東の札所はコンプリートするのだが、結局通過した。以前、西条を訪ねた時にこの福寿院の前も通ったが(札所順に回るルールのため参詣せず)、その場所というのがモロに酒蔵通りの中なのである。やはり行くなら西条の酒とともに・・となると、今回はクルマなので無理。そこは改めて訪ねることにしよう。

この先、西条、倉橋島、海田町、熊野町とたどってようやく第60番まで到達する。広島新四国八十八ヶ所の後半もまだまだ続く・・・。

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第56番「棲真寺」その1~広島新四国八十八ヶ所めぐり(同じ県内だが、わざわざ前泊で出かけました・・)

2023年01月21日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、次の第56番は棲真寺である。この前まで広島市内を回っていたが、今度は一気に東に飛ぶ。

棲真寺があるのは三原市で、三原市といえば備後の国ではないか?と思ったのだが、元々は賀茂郡大和町である。賀茂郡なら安芸の国か。その賀茂郡の町村のほとんどは東広島市や呉市と合併されており、大和町も当初は東広島市との合併を検討していたそうだが、住民投票の結果、豊田郡本郷町、御調郡久井町とともに三原市との合併となった。いろんな思いがあったことだろう。

棲真寺があるのは広島空港の北東で、行くならクルマ一択である。こう書くとかなり遠い印象だが、広島市内からだと山陽道経由で1時間あまり、下道経由でも2時間あまりで着くところである。早起きして出かければ十分事足りることだが、同じ広島県内ながら広島新四国で最も東端ということもあるので、泊まりで出かけてみるか・・ということにした。私の中で、ちょっと気分転換を図りたかったこともある・・。

1月14日、この日は夕方まで出社しており、仕事が終わった後の18時半頃、そのままクルマで出発(荷物はあらかじめクルマに積んでいた)。日が落ちた後の広島高速~山陽道と乗り継いで一定のペースで走り、小谷サービスエリアに立ち寄る。ここで夕食でもよかったのだが、食事は宿に着いてからにしよう。酒のアテ、土産などを買い求める。

小谷サービスエリアからすぐの河内インターで下車する。このまま取付道路を走れば広島空港に着くのだが、途中から側道に入る。

到着したのは「ホテルエリアワン広島ウイング」。山の中にポツンと建つ立派な建物である。棲真寺まで10キロほどのところにある。獅子伏温泉という温泉もついている。以前は別の名前で営業していたが、今はエリアワンというホテルチェーンの一つである。聞いたブランドかなと思うと、同じ広島県内で福山に泊まったことがあった(その時は芸備線~福塩線で広島県内をぐるりと回り、宿泊翌日は福山、尾道で中国四十九薬師の札所をめぐった)。

宿泊サイトで見ると、基本となるダブルルームも広く、一晩ゆっくりするのもいいかなと思って予約した。河内インターからすぐのところとはいえ、周りにあるのはコンビニだけで、他には何もなさそうだが、たまにはこうした場所に泊まるのもいいだろう。

チェックイン後、部屋に向かう。施設全体でさすがに年季が入った感はあるが、部屋は宿泊サイトにあった通り結構広い。ユニットバスを含めた全体の広さでいえば、今の私の自宅より広いのではないだろうか。

部屋着に着替えて温泉に向かう。日帰り入浴もやっており、この時に限っていえば宿泊より日帰り入浴のほうが多いように思えた。通常の大浴槽、ぬる湯、サウナと合わせて露天風呂も広い。外にいると何やら轟音が聞こえるのだが、それが温泉設備によるものなのか、空港が近いので飛行機の離発着によるものかはわかりにくい。ただ、後で部屋に戻った時に同じような音がしたので窓の外を見ると、ちょうど空港の滑走路に向けて飛行機が飛んでいくのも見えた。

まあ、温泉と広い部屋があったから泊まってみようと思ったわけで、寺に行くだけが目的なら普通に朝早起きして出てくればいいだけのことである。なおこの日の宿泊はちょうど全国旅行支援もあり、1泊朝食つきで8000円であった。

館内にはレストランもあり、到着時点ではまだ営業していたのだが、夕食は小谷サービスエリア、そして河内インター出口にあるセブンイレブンで買ったもので済ませる。セブンには西条の賀茂鶴もあったので、これで「旅先で広島の酒を楽しんだつもり」に・・・。

さて翌15日。天気は曇りで、ホテルから朝日を望むことはできなかったが、朝風呂をいただく。朝の時間帯は宿泊者専用ということで、入浴の人も少なくゆったりできる。同じ県内ではあるが、市街地とは全く別の山の景色ということでちょっとした旅気分も味わうことができる。

バイキング形式の朝食。さまざまなメニューがある中で目を引いたのが、カキの天ぷらに甘えび。広島なのでカキが盛られるのは別に珍しくないとしても、甘えびが頭つきでテーブルにどっさり盛られていたのは驚いた。広島と甘えび、ちょっとイメージが結びつかないだけに・・。

引き続き部屋でゆっくりして、9時前に出発する・・・。

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第55番「長性院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(比治山の札所の後は、流川で一献)

2023年01月19日 | 広島新四国八十八ヶ所

12月18日、比治山にある広島新四国の2つの札所をめぐっている。第54番の多聞院の次は、すぐ近くにある第55番の長性院である。電車通りから細い道を入っていく。どうやらこの突き当りの坂を上り切ったところにあるようだ。この先の駐車場は長性院への参詣、もしくはその手前の接骨院用とある。お寺が接骨院も経営しているようだ。

長性院は広島新四国の札所であるが、宗派は浄土宗である。弘法大師と浄土宗とはなかなかイメージとして結び付きにくいのだが、いくつかそうした札所がある。

長性院が開かれたのは江戸時代初期。信州松本の僧である正誉玄斉が諸国を修行で回る中で、この地に感得して背負っていた阿弥陀如来を祀り、「栄山庵」を開いて念仏の修行を行ったという。玄斉はいつしか庵を出てそのまま戻らなかったが、その後に紀州の僧、白誉が庵を継ぎ、その時に長性院(浅野藩の寺西将監利之の妻の法名)が銀三十貫を寄進したことで堂宇が建立され、現在に続く寺の形となった。

長性院は原爆により本堂、諸堂は壊滅して、現在の建物はその後の再建である。先ほどの楼門には仁王像が建っており、参詣の時は何の気なく手だけ合わせて通ったのだが、この仁王像は、原爆に遭った楠を用いて、長性院の檀家の方が制作したものだということを後から知った。作者の方も幼少の頃に被爆し、命からがら長性院にたどり着き、他の多くの人たちが苦しんでいる光景を目の当たりにしたそうで、原爆犠牲者供養、世界平和を願って1995年から4年の歳月をかけて彫ったものである。

・・いや、こういうことを後から知ったのではよくないな。札所へのアプローチはさんざん調べ上げるくせに、肝心の札所の歴史についてはもう少し下調べをしたほうがよさそうだ・・。

扉が閉まっている本堂の前でお勤めとして、その前の地蔵堂に向かう。こちらは扉が開いていて中に入って手を合わすことができる。身代り地蔵とある。

本堂横の本坊のインターフォンを鳴らして、住職らしき方からバインダー用の朱印をいただく。「ちょっと待って・・」として、お接待にお菓子の小袋もいただく。

さてこれで比治山の2ヶ所を回り、次の第55番は一気に三原市まで飛ぶのでそれは次の機会として、ちょうど時間は夕方近くである。この時間からなら、中心部で一献やってから帰宅してもいいだろう。前回、宇品から薬研堀近くまで回った時は、さすがに時間が早くて店が開いていなかったので・・・。

ちょっと時間をつぶしてから向かったのが、流川にある「豚寅」。文字からわかるように焼きとん、もつ焼きの店である。東京勤務以来、ホッピー、キンミヤと焼きとんの組み合わせが絶好となった私、二度目の広島勤務でそうした店があるかなと探した中で出会った店である(焼きとんの店じたいは他にも何軒かあるが)。チェーンではなく、店のインスタの紹介文では、「もつ焼きを広島に浸透させる為と自分が行きたい店を作りました」とあるように、単独の店である。以前にも来たが、今回広島市内の一つの区切りとして訪ねてみる。

時間が早かったのですんなりとカウンターに陣取り、ホッピー、キンキヤ酎、刺盛り、煮込み、串と王道のごとく、そしてさらに珍しい部位も含めて楽しむ。広島でもこうした東京流のもつ焼きがいただけるのだとうなる店である。

・・・と言い切ったのはいいが、広島ネイティブの方からは、もつ焼き、ホルモン焼きならむしろ広島が元祖ではないか・・という声も聞こえてきそうだ。あらゆることにおいて「広島が元祖」と主張する人や、主張の対象となるものが多いのも広島の特性のひとつなのだが、そう言われれば、広島では西区(福島町)が発信地となって、せんじがら(豚のホルモン揚げ)もコンビニや高速道路のサービスエリアで気軽に売られているし、ホルモンの天ぷらも、お好み焼や牡蠣とはまた違った人気メニューである(あ、「カープ鳥」もそこに入るかな・・)。

広島新四国も中盤戦真っ只中である。この先何ヶ所か県東部を回り、そしてまた広島市内に戻ることに・・・。

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第54番「多聞院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(比治山の被爆鐘楼)

2023年01月18日 | 広島新四国八十八ヶ所

12月の初めに久しぶりに広島新四国八十八ヶ所めぐりを行ったが、その続きとして出かけたのが12月18日、午後からのことである。次は比治山の麓にある第54番・多聞院、第55番・長性院の2ヶ所である。

また広電に乗り、的場町の電停から宇品行きに乗り換えて比治山下に到着。電停前には坂道があり、ここを行くと比治山に向かう。比治山公園や、現在リニューアル工事中の広島市現代美術館がある。

その手前に建つのが多聞院である。まずは本堂に向かってみる。

多聞院が開かれたのは平安時代、高倉天皇の勅願で呉の音戸に建立された。本尊は、後白河法皇のお手製によるという毘沙門天である。音戸といえば音戸の瀬戸で、平清盛が沈む夕日を扇で呼び戻し、1日で掘削したという伝説があるところ。ちょうど、平清盛が厳島神社に般若心経を奉納したのとも関係するのかな。

多聞院は後に毛利元就により吉田郡山に移され、毛利輝元の広島築城の際に三滝山麓に移り、現在地に来たのは福島正則の時である。

そしてこの多聞院、比治山の西に建っていたこともあり原爆の被害も受けたが、本堂や庫裏、鐘楼は大破しながらも焼け残った。一時的には被爆者の救護や、県庁の機能もこの多聞院に置いたという。本堂その他は戦後の再建だが、鐘楼と石造りの十三塔は今も当時の姿をとどめている(鐘は、戦後に新たに鋳造されたとのこと)。

本堂の扉が開いており、まずはこちらでのお勤めとする。こちらの本尊は虚空蔵菩薩である。

広島新四国としての本尊である毘沙門天は、この先の毘沙門堂に祀られている。さまざまな石仏、石碑が建つ境内を抜ける。原爆の慰霊碑もあれば、「非理法権天」と刻まれた楠木正成の追慕碑というのもある。

ちょうど比治山の傾斜を利用して四国八十八ヶ所と西国三十三所のお砂踏みが広がっている。その向こうに広島市現代美術館の建物も見えるが、直接そこにつながる道はなさそうである。

毘沙門堂にて改めてのお勤めである。毘沙門天が本尊というのは、第19番の毘沙門堂(安佐南区)以来ではないかと思う。

朱印は本堂や毘沙門堂に書き置きがなかったので、横の会館を訪ねる。

さて、次は同じ比治山の西にある長性院である・・・。

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第53番「興禅寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(市街中心部へ)

2023年01月17日 | 広島新四国八十八ヶ所

12月4日、広島新四国めぐりで宇品地区を訪ねた後、県立広島大学前から八丁堀方面へのバスに乗る。県立広島大学、以前の広島勤務時代にはなかったと思うが、県立広島女子大学、広島県立大学(庄原にあったのを覚えている)、広島県立保健福祉大学が統合して2005年に開設された大学である。

平和大通りの手前の富士見町で下車する。次に向かうのは第53番の興禅寺で、平和大通りと駅前通りが交差する田中町交差点に近い。

その平和大通りには点灯前のイルミネーションが並ぶ。「ひろしまドリミネーション2022」で、11月17日から1月3日まで開催されていたイベントである。このところの広島の冬の風物詩だそうだが、まだ行ったことないなあ・・。

交通量の多い2つの通りだが、そこから1本中に入ると飲食店も多い一角である。その中に、立派な構えを持つ本堂が姿を見せる。こちらが興禅寺である。

興禅寺は室町時代の頃から吉田郡山城の麓にあり、毛利元就が吉田郡山城に入ってからも信仰を受けた。そして毛利輝元が広島城に移るにあたり、興禅寺も広島のこの地に移された。その後も広島藩に入った浅野氏の歴代藩主から保護を受け、広島でも有数の名刹となったという。

しかし、明治に入るとそうした勢力もなくなり、また原爆にも遭って建物や寺宝も失われた。戦後に再興されたが、市街地とあって最小限のスペースで維持されているようである。江戸時代当時はもっと広大な敷地を持っていたのかな。

本堂の扉は閉まっており、外からのお勤めである。朱印は、本堂右手にある台の引き出しの中に書き置きがあった。

このまま平和大通りを東に進み、京橋川を渡った比治山の麓に次の2ヶ所の札所があるが、この日はそろそろ夕方近くなったので次に回すことにして、今回は終了とする。

興禅寺から歩いてすぐのところに、薬研堀、流川といった歓楽街である。時間邸にまだ開けている店は少ないが、そろそろ賑わいを見せる頃だろう。なかなか市内中心部に出ることもないので久しぶりにどこかで一献と思ったが、結局この日はそのまま八丁堀の電停まで出て、そのままおとなしく帰宅したのであった・・・(ちなみに、画像の店は「カープ鳥 薬研堀本店」・・)。

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第52番「法眞寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(宇品線跡に出会い、ひとっ風呂浴びる)

2023年01月16日 | 広島新四国八十八ヶ所

元宇品にある観音寺を訪ねた後、元宇品口の電停から歩いて北上する。先ほどは「元」の札所だったが、次に向かう宇品御幸にある第52番・法眞寺で、広島新四国の続きである。広電で行ってもいいのだが、停留所2~3つ分ならそのまま歩いたほうがよさそうだ。

この辺り、明治時代に宇品に港を建設するにあたり干拓が行われて陸地が広がったそうだ。元宇品口から北に伸びる道路を境に左右で段差ができているが、当時の堤防と新たに干拓された一帯の境目の名残だという。そして山陽鉄道(現在の山陽線)の広島開業、日清戦争の開戦にともない、宇品港が兵士や物資の輸送拠点となったことで広島は軍の拠点として重要なところとなった。

現在の宇品御幸は碁盤の目のような街並みに住宅が密集しているが、その一角に、他の住宅地とほとんど変わらない様子で法眞寺が現れた。看板がなければわかりにくいところだが、それでも限られた敷地に祠や石像が所狭しと並んでいる。こうした「まちかど札所」も久しぶりだ。

法眞寺は当初、ある篤信家の霊夢によって高野山から弘法大師の像をいただいて大師堂を建てたのが始まりとされる。大正から昭和にかけて高野山大師教会の宇品支部となり、また地元の篤信家から土地の寄進を受けて本堂の増改築をなした。場所が場所だけに本堂は被爆し、その後も残っていたが現在の建物は平成になって建て替えられたものである。

おそらく寺の方は家にお住まいなのだろうが、朱印も書き置きが箱に入っているし、特に話す必要もない。普段は静かなのだろうが、何か特別な法要があれば扉が開き、祈りが捧げられることだろう。その中で、寺に居ついているのか、猫が出迎えてくれる。猫よ、悪事ニャンを逃れさせたまえ・・。

次の第53番・興禅寺に向かう前にもう少し宇品地区を歩いてみる。広島郵政研修所の跡地や(何が建つのかな?)、イオンの前を過ぎ、養徳院という寺の前を過ぎる。

この養徳院は広島新西国のかつての第11番札所だったが、2019年に札所を返上したところだ(現在は東区の安楽寺が第11番)。そこにも何らかの事情があったことだろう。

東に進んで海岸通りに出る。また一段高くなっており、線路の路盤の跡が見える。ここはかつて国鉄の宇品線が走っていた跡地である。宇品線は日清戦争の時に軍事専用線として建設され、広島駅と宇品港を結んでいた路線である。日清戦争後は旅客営業も行うようになり、沿線の人たちの足となった。原爆投下の際も、比較的被害が少なかったために被爆者の輸送も行われたことがあった。

戦後、広島の復興が進む中で広電の宇品線や路線バスの利便性が高まったこともあり、宇品線は大きく客足を落とし、旅客営業を廃止し、国鉄の貨物線扱いとして維持されていたが、民営化前の1986年に全面的に廃止となった。

その後、線路跡のほとんどが道路に転用されたが、宇品線跡地を示すスポットがいくつか残されている。都市部にある廃線跡としてネットでも訪問記がよく取り上げられている。その一つが丹那駅周辺である。線路跡を地元の人たちによる花壇として整備し、後付けで宇品線の歴史についても記された丹那の駅名標もある。

その宇品線跡沿いにある「宇品天然温泉 ほの湯」に立ち寄る。姉妹店の「ほのゆ 楽々園」には何度か訪れたことがあるが、宇品は初めてである。花崗岩層から湧き出る温泉にはミネラルが豊富に含まれており、代謝を助け、肌のバリア機能を高める効果があるとされる。ここでしばらく休憩とする・・・。

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(元)第51番「元宇品観音寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(宇品港と平和の鐘)

2023年01月15日 | 広島新四国八十八ヶ所

相変わらず各地の札所めぐりについて書いている中、広島新四国八十八ヶ所については佐伯区にある第51番・観音寺で記事が止まっている。観音寺を訪ねたのは11月19日のこと。この時はそのまま島根に抜けて、石見地区の中国四十九薬師の札所を回った。

実は広島新四国も12月に少し進めている。ここで各地の記事が長々と続いたが、一段落したところでようやく書くことにする。まず訪ねたのは12月4日のこと。順番でいえば第52番の法眞寺だが、まず向かうのは宇品港である。

佐伯区にある第51番・観音寺でも触れたが、「佐伯区観音寺」とともに「元宇品観音寺」というのがある。広島新四国の札所としては元宇品から佐伯区の観音台に移った形だが、寺そのものは残っているし、せっかくなので番外編として訪ねてみることにした。

ともかく宇品港に向かおう。広電の2号線で高須から西広島まで乗り、3号線で宇品港を目指す。乗り換えが適用されるので運賃は220円なのだが、ここからが結構時間のかかるところである。紙屋町西から本通、市役所前、広電前を経由し、皆実町六丁目から宇品に向かう。路面電車もなかなかスピードが出ない乗り物で、西広島から宇品に行くだけで1時間近くかかる。まあ、休日に乗る分にはのんびりしていいのだが(どうせならこの昭和の型式に乗ってみたかったのだが・・)。

宇品港からの眺め。この先の島々に思いを馳せる。この先の倉橋島に第58番の白華寺があるだけで、そこはクルマで行くことができる。50番台だから、そう遠くない時期に行くことになるだろう。

桟橋ではテントが出てイベントが行われている。その中を抜けて目指すのは元宇品である。見た目にはわかりにくいが、この先は宇品島という一つの島である。目指す観音寺はこの先の小高い丘の上にあり、地図を見ると島の東側、西側両方から行けそうだ。ということで海を左手に見て、東側から行く。

ちょうど船舶が停泊しているのだが、防波堤には「放置船」の警告を示す張り紙がある。勝手に係留するだけならともかく、それが放置されたままということで当局も警告を発しているようだが・・。

なお、この先にあるグランドプリンスホテルは、2023年5月の広島サミットの会場に予定されている。島でサミットを行うとは、警備のしやすさなどから伊勢志摩サミット(賢島)と同じ発想だろうが、その中でもこうした放置船がテロに使われないとも限らない。サミットを前にして、強制的に撤去するとか、何らかのことは行われるのだろう。

丘の上に寺の建物が見える。住吉神社の脇から石段を上るが、こちらは裏口だったようで本坊の庭先に出る。そこを通って改めて本堂の前に出る。

現在の札所は佐伯区観音寺であるが、元宇品観音寺にも広島新四国の立て札が残っている。せっかく来たのだからとお勤めとする。

改めて観音寺の由来に触れると、本尊の十一面観音は元々坂上田村麻呂の守り本尊で、後に源範頼の手に渡ったが、源平の戦いで西に向かう途中に行方不明となった。後に、宇品島の漁師の網にかかって引き揚げられ、それ以後、毛利輝元や小早川隆景、その後の浅野氏も船から礼拝したという。今は周囲にもマンションなどが建ち並んでいるが、ちょうど海から拝むには格好の存在だったことだろう。

ケースには書き置きの朱印も入っていた。観音寺の朱印が二つあることになるが、それもまたよいだろう。ただ、納経帳は寺の案内が書かれた専用の台紙に貼るタイプなので、元宇品についてはどうしようかと思案するところである。

玄関の横に鐘が吊るされている。「第4代平和の鐘」という説明書きがある。「平和の鐘」とは、毎年8月6日の平和記念式典で鳴らされるもので、この鐘は1965年、66年の2年間使われたとある。それまで、第3代の平和の鐘として中広の光伝寺の鐘が使われていたが、1965年に光伝寺が火災に遭ったため、代役として観音寺の鐘が使われたとのことである。ちなみに現在使われている平和の鐘は、この後に新たに鋳造された第5代のものである。

入ったのとは逆の西側が寺の正面入り口のようで、クルマで来るならこちらからである。坂道を下り、宇品島の西側に出る。ちょうど宇品港を見渡すところで、松山からの「シーパセオ」が入港するところだった。

元々の第51番を訪ねて、次の第52番・法真寺を目指す。こちらも宇品にある寺で、広電で行ってもいいのだが2~3つで下車するのも中途半端なので、直接歩いて向かうことに・・・。

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第51番「観音寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(元宇品と佐伯区、2つの観音寺)

2022年12月06日 | 広島新四国八十八ヶ所

札所めぐりが多重債務の状態となっているが、今回は中国四十九薬師めぐり(記事が「広島新四国八十八ヶ所めぐり」となっているが・・、まあ聞いてください)。

中国四十九薬師めぐりは11月3日に長門市の第32番・向徳寺を訪ね、次は萩の第33番・円政寺の番だが、あえて順番を入れ替えて、島根県に入り浜田にある第34番・長福寺、そして邑南町にある第35番・延命寺に向かう。これらはいずれも公共交通機関では不便でクルマで行くことになる札所だが、冬になると私の軽自動車では装備がないため中国山地越えができないので、その前に行っておこうと思う。

冬といってもこの記事をアップしている12月初旬ならまだ間に合うところだが、今回のお出かけは関西から戻った翌週の11月20日とした。20日にした理由は後に触れるとして、また広島からクルマなら日帰りで行けるが、あえて19日に前泊とした。

その場所に選んだのは浜田ではなく益田である。中国四十九薬師での中国地方一周のコマは一応萩まで進んでいるが、萩から東へのエリアを少しでも押さえておこうと、萩と浜田の中間にある益田まで行っておくことにした。19日は午前中に所用があるため、午後からの出発で夕方に到着できればと思う。

さらにその前段として、広島新四国八十八ヶ所の続きである第51番・観音寺に立ち寄ることにする(ようやく、カテゴリーとのつじつまが合った)。

広島新四国は南区の第50番・地蔵寺まで来ていて、次の第51番は一気に佐伯区まで飛ぶ。そして第52番からは再び南区の札所が続く。次の番号がいきなり離れたところに現れるのは広島新四国ではよくあることで、そこには「さまざまな事情」があるようだが、この観音寺にも何かありそうだ。

昼食を済ませた後、西広島バイパスで五日市に向かう。広島市植物公園に向かう道の途中から分かれ、住宅地が広がる観音台に入る。観音寺と観音台、何か関係ありそうだ・・・と思うが、以前に広島新四国の極楽寺や圓明寺を訪ねた時、極楽寺山の麓にあるこの一帯の村が明治時代に合併した際、極楽寺の本尊・千手観音にあやかって観音村と名付けられたという話を思い出した。古代の山陽道である「影面の道」にも近い。

住宅地を上り詰め、最後は介護施設、坪井公園と過ぎてさらにその上に観音寺があった。木々に隠れるものの広島市街方向の景色も眺めることができる。また、寺のすぐ上には山陽自動車道が走っている。

観音寺の本尊である十一面観音は平安時代、坂上田村麻呂の守り本尊とされており、源平の戦いでは源範頼が平家追討の時にこの仏を持っていたが、宇品島近海で見失ってしまった。後に漁師の網にかかって引き揚げられ、島で祀られるようになった。戦国時代には毛利輝元や小早川隆景も拝む寺となり、江戸時代の浅野氏の広島入りの際に現在の観音寺として開かれたという。

だから、観音寺は宇品島にある寺である。その一方で佐伯区にも別院があり、それが今私が訪ねている観音寺である。こちらのお堂は新しい感じだが、2001年に奈良の仏師から原爆慰霊のために高さ2メートルの十一面観音像が寄贈され、本尊として祀られている。

観音寺のホームページによると、「元宇品観音寺」と「佐伯区観音寺」の2つが存在し、広島新四国の札所としては当初元宇品だったのが、現在は佐伯区に移ったということのようである。観音台に観音寺が引っ越してきた形だ。島が手狭だから郊外に移転したとか、そういう理由があったのかな。

番号順となるとまた南区である。次に第52番に行く前に、せっかくなら元宇品の観音寺にも行ってみようと思う(この記事を掲載する前に実際に行ってきた。その時のことは改めて書くことに・・)。

さてこちらの境内は「山陽花の寺」の第24番満願札所で、あじさいや椿といった四季の花を楽しむことができるのだが、ちょうどこの時季はといえば・・・ちょろっと紅葉があるくらい。「花の寺」の札所めぐりというのもあるのだが、さすがに花が見頃の時でなければ味わいも半減してしまうだろう。

時季外れなのか他に参詣者もおらず、寺の扉、納経所も閉まっている。朱印はケースに収められていたので無事にいただく。

佐伯区に立ち寄った後で改めて益田に向かうわけだが、高速には乗らず、佐伯区の湯来町を経由することにする。結構な山の中に入っていくが、これでも広島「市内」である。

国道433号線から国道191号線に入る。後は国道191号線をひた走ればちょうど益田に着くのだが、途中、ある物を目にして思わずうなり、そちらへの寄り道となった。それはまた次からの話にて・・・。

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第50番「地蔵寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(広島、軍都の名残)

2022年11月01日 | 広島新四国八十八ヶ所

10月30日、日本シリーズでオリックス・バファローズが勝利しての日本一。昨年以上に印象深いシーズンとなったことである。しばらくは余韻に浸りたいものだ・・・。

・・・さて、ブログ記事は10月8日までさかのぼる。9日、10日はJRの「秋の乗り放題パス」にて中国地方を回る予定にしており、3連休初日の8日は朝一番に市内での所用があったが、それも思ったより早く終わった。ということで、スケジュールの合間を活用する形で、短い時間ではあるが広島新四国八十八ヶ所めぐりを進めることにする。

広島新四国は前回までで呉エリアを終えており、次は第50番の地蔵寺である。再び広島市に戻り、今度は南区からである。南区の札所は初めてではないだろうか。そして寺の住職が驚いたように札所番号順で回っているが、その次の第51番となるとまた別のエリアに飛ぶので、この日は1ヶ所だけである。

8日、所用を終えた後に八丁堀の交差点に現れる。目指す第50番・地蔵寺があるのは南区の旭町。あの辺りは広電の宇品線からも少し離れており、公共交通機関となるとバス利用が最適である。八丁堀、紙屋町、広島駅各方面と結ばれており、利便性はそれなりにある。

まずは市街地を抜け、比治山を回り込んだ後で旭町に到着する。周囲は住宅や商店が入り込んでいて、古くから町並みが形成されていた一角である。ただ、現在は市内を貫く道路の拡張工事も行われており、工事途中の空き地も目立つ。

旭町バス停からスマホ地図を頼りに地蔵寺を目指す。バスを降りて歩く分にはどうということはないが、クルマだと路地のように狭く感じる道を走ることになる。

地図では地蔵寺にたどり着いた。しかし、そこには神社の石鳥居が建ち、空き地の向こうに神社へ続く石段が見える。

道路に面して「戦捷記念碑」と刻まれた石碑が建つ。「勝」ではなく「捷」というのも時代かかっているように見えるが、何の勝利かと裏面を見ると、「日清、「北清」、「日露」とある。「北清」とは日清戦争と日露戦争の間の時期に起きた北清事変のことだが、今では一般的に義和団事件と言われているのかな。清国が各国に応援を依頼して義和団の氾濫を鎮めたのはいいが、その後も満州に軍隊をとどめていたロシアと、それに脅威をおぼえた日本との間に緊張感が高まり、日露戦争につながっていく。この3つの戦いにあたり、この辺りから出征した兵士も多かったことだろう。

まず、その鳥居の方向に向かう。地図では「真幡神社」とあるが、鳥居の扁額を見ると「黄幡神社」とも読める。いろいろ説明書きを見ると神社名は「真幡」だが、地元の人たちは「黄幡社」として親しんでいるそうで、また中世に安芸に勢力を築いていた武田氏の本拠があった現在の安佐南区辺りでは「黄幡神社」が多いそうである。長い歴史の中で文字が変わって広まったことも考えられる。

石段のたもとに石灯籠があり、四面に何やら歌の文句のようなものが書かれている。例えば、「我々が第一に目ざす業は文明建設の真の努力である その根源は愛情でご道理にかなった無血革命である」、「昇る朝日を拝する人は多くとも 沈む夕日を拝む人の少き世の無情」とか。そうかと思えば「平和実現の基礎は権利を主張するばかりでなく義務を果す者が真の人間であり必要である 則ち権利と義務は車の両輪である」ともある。

これ、仏教の経典の一節でもないし、この神社独特の教義でもあるのかなと思ったが、1967年10月、「明治百年記念」の名目で、広島市元市会議員。大河町町会長の奥本甚作氏の奉納とある。広島といえば原爆をはじめとして戦争で犠牲になった人たちを慰霊する碑が多いイメージがあるが、この碑文はそれらとは一線を画すように見える。明治百年という節目を記念し、戦前の古き良き姿が頭にあってのことだろう。その奥本氏がそれから50年あまりが経過した現在の日本の姿を見ると、どのような檄文を寄せることだろうか・・。

石段を上り、真幡神社に手を合わせる。かつての軍人から奉納された額が正面に掲げられている。

社殿の隣に、「三代十郎兵衛の塚」というのがある。説明文によると、江戸中期の寛政年間、この大河の地に十郎兵衛という若者がいた。長身で力が強かったのを見込まれて広島の浅野家に仕えることになり、浅野侯が参勤交代で江戸に向かう時にお供を許された。

江戸でのある日、将軍家や各大名家お抱えの力士たちによる角力の御前試合が行われたが、浅野家お抱え力士が大敗する。それを見ていた十郎兵衛が飛び入りで出場し、将軍家お抱えの力士を土俵に沈めた。しかし十郎兵衛は将軍家からの報復を恐れ、江戸から一人広島に逃れて大河で身をひそめることになった。

そして浅野侯が広島に戻り、十郎兵衛は処罰を覚悟して登城したが逆にお褒めとして「望みのものは何でも与える」と言われた。そこで十郎兵衛が願い出たのは、大河周辺の海上権だった。その範囲は広く、西は廿日市市の地御前から東は坂町までの一帯だった。これにより大河の人たちは大いに潤ったという。ただその海上権も、時代が下ると証文が焼失したとか、浅野家により没収されたとか、江波の人たちとの勢力争いに敗れたとかでいつしかしぼむことになったが、それでも大河の人たちが現代に至るまで生活を維持できたのも十郎兵衛のおかげだとしてこうの石碑が建てられたという。

さて、本題の地蔵寺だが真幡神社の石段の途中にある。はっきりとは記されていないが、その位置関係を見ると、かつては真幡神社と地蔵寺は神仏習合の中で関係性があったものの、明治の神仏分離で分けられたように思われる。

一応、広島新四国のサイトによると、地蔵寺が開かれたのは江戸時代前期、大河の住民が浜に貝を獲りに出かけたところ、籠の中に入った古木を見つけ、延命地蔵として拝んだところ、大火の災難を逃れたという。その後も地元の人たちが延命地蔵に祈ることで大きな禍や疫病も逃れることができたそうだ。そして地蔵寺として多くの信仰を集めたとある。

地蔵寺は扉が開け放たれていて、いつでもお参りしてよい感じで、本堂の中も自由に上がれるようだ。そしてお勤めとする。なお、石段の下に「被爆建物」の紹介があった。爆心地から約3.5キロの場所である。

そして朱印だが、寺の人の姿は見えず、目の前の箱から書き置きを取る仕組みである。・・・しかしここで焦った。広島新四国の書置き朱印には2つのサイズがあり、私が集めているのは専用の朱印帳に貼ることができる「小」サイズであるが、ここで箱に入っていたのは「大」サイズのみである。

書き置きの紙が切れていれば寺の方に声をかけて出してもらう、あるいはその場で書いてもらえば済むことだが(これまでにも同じ経験あり)、この時に限っては「どこに声をかけてよいものやら」と迷ってしまった。隣接する建物は庫裡のようだしそうでもないようにも見える。かといって、「大」サイズを持ち帰っても他の札所の整合性に困る。

結局、またの機会にもう一度来ることにして、この日はそのまま寺を後にした。南区の比較的近いエリアにも他の札所があり、その時に立ち寄ってみよう・・・。

帰りは時間があるので少し歩いてみる。やって来たのは国道2号線に近い県立広島工業高校。野球部、サッカー部などで知られるが、横断幕には同校OBであるスワローズの高津臣吾監督の野球殿堂入りを祝う横断幕が掲げられている。訪ねた当日(10月8日)はクライマックスシリーズのファーストステージ初日というタイミングだったが、この後、高津監督率いるスワローズとの日本シリーズがあれだけの熱戦になるとは思わなかった。

広島工業出身といえば、来季からカープを率いる新井貴浩新監督もその一人である。県工の先輩-後輩対決も盛り上がってほしい。

その県工に隣接して広島陸軍被服支廠のレンガ造りの建物が並ぶ。軍服や軍靴を製造していた工場で、こちらも被爆建物である。被爆時は鉄扉が歪んだものの建物は倒壊せず、多くの被爆者が救護を求めてここにやって来たという。戦後は倉庫等にも使われ現在は空き施設だが、市民による保存運動も行われ、広島市も耐震補強を行う方針を示している。

この日は出汐からバスに乗って紙屋町に戻る。南区辺りまで来ると被爆建物もあり、かつて走っていた国鉄宇品線の跡地も一部残されている。広島が軍の町だった名残をまだまだ感じることができそうだ・・・。

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第49番「浄空寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(大和ミュージアムから熊野へ、そしてリーグ優勝)

2022年10月28日 | 広島新四国八十八ヶ所

(このところ、書き出しはこればかりだが)日本シリーズは第5戦を終えて2勝2敗1分とまったく五分の展開となった。正直、第3戦まで終えたところで私の中ではあきらめムードがあったのだが、第4戦のリリーフ陣の踏ん張り、第5戦の吉田正のサヨナラ本塁打など、テレビ桟敷でも見ていて緊張する中、しびれる展開となった。

これで舞台は再び神宮で行われ、どちらかが連勝すれば第7戦で決着、そうでなければ第8戦以降にもつれ込む。もし第6戦か第7戦で引き分けでも挟もうものなら史上初の第9戦ということもあり得る・・。

29日~30日には神宮球場に参戦します!!・・・と言えればいいのだが、ちょうど広島からさらに東京とは逆の方向に向かうため、遠方から応援を送ることにしよう・・。

話は本題の広島新四国へ。

10月2日、広島新四国は呉市内の2ヶ所を回り終えて熊野町方面に向かうが、その前にせっかく呉に来たのだから大和ミュージアムに立ち寄ろう。大和ミュージアムは私が前回の広島勤務を離れた後の2005年に開館し、今では呉を代表する観光スポットの一つである。開館してからは広島への「旅行」の行き先の一つとして何回か訪ねたが、2回目の広島勤務となってからは初めてである。

この日は企画展として「海軍を描いた作家」というのが行われていた(2023年3月末まで開催)。「大和」、「長門」、「陸奥」という海軍を代表する戦艦をテーマとした3人の作家についての紹介である。実際に大和に乗船し、鹿児島沖での沈没までを綴った「戦艦大和ノ最期」を著した吉田満、広島出身で海軍にも従軍し、「軍艦長門の生涯」を著した阿川弘之、そして海軍経験はないが、「記録小説」のジャンルを確立し、「戦艦武蔵」、「陸奥爆沈」などを著した吉村昭の3人である。

それぞれの生い立ちや実際に使用していた道具、原稿などがケースにて紹介されている。また、阿川弘之の書斎を再現したコーナーもある。書棚には阿川弘之の著書もずらりと並ぶが、その中に鉄道旅行に関するものも含まれているのが懐かしい。内田百閒と宮脇俊三の間というのかな。

この中で、「関東大震災」や「三陸海岸大津波」などの作品で接していた吉村昭の代表的な作品を読んでいなかったなと、後日「戦艦武蔵」、「陸奥爆沈」を買い求めて読んだ次第である。

そして通常展示で出迎えるのは、大和の10分の1スケールの模型である。この精巧な造りは、来る人に大和への想像をたくましくさせてくれる。

展示室は呉の町の歴史に関することと、戦艦大和に関することの2つに分かれる。呉の歴史のコーナーでは、明治に呉に鎮守府、海軍工廠が設置された頃から、軍事産業を中心に港町として栄えた様子が紹介されている。

その中で、1934年夏の甲子園決勝、呉港中学の藤村富美男が川上哲治のいる熊本工業相手に完封勝ちで優勝したシーンのジオラマもある。前の記事で、呉ゆかりの野球人ということで何名かの名前を挙げたのだが、その中でも「呉のスター選手」の印象が最も強いのが「ミスタータイガース」といえる。なおこの大会には沢村栄治のいる京都商業も出場していた。

そして時代は太平洋戦争へ。呉からも多くの艦艇が出撃した。映像コーナーでは太平洋戦争の様子をまとめた映像が流れるが、当初は快進撃を続けていた日本軍もやがてアメリカ軍の反攻により戦局が悪化する。そして大和も沈没、呉の町も大きな空襲に遭い、最後は広島への原爆投下・・。映像コーナーには来る人のほとんどが一度ここで足を停めて映像を食い入るように眺めていた。コーナーの最後には、呉から見えたという原爆のキノコ雲の写真もあった。呉は直接被爆していないとはいうものの、ここでもあの雲が見られたのかと思うと、改めてその威力を感じた次第である。

また、大和のコーナーでは、大和の建造やその性能に関することの他に、大和と運命を共にした人たちについても紹介されている。紹介ボードには乗組員一同の名前がずらりと記され、また遺品も多く並び、大和に乗務していた人たちの無念も伝わって来る。

一方で、鹿児島沖に沈没した大和からの引き揚げ品も展示されている。船体そのものを引き揚げるのは現在も技術や費用の面で困難なそうで、このまま海中に眠る歴史遺産という扱いになるのかな。

他には大型資料展示室として、ゼロ戦や人間魚雷「回天」なども飾られている。この「回天」の訓練が行われていたのが周南市の大津島である。この大津島もそうだし、爆沈した戦艦陸奥に関するスポットがある柱島や周防大島といったところもそうだが、山口県内にも太平洋戦争に関するスポットが点在しており、こうしたところはまだ訪ねたことがないので、ぜひ一度行かなければと思ったことである。

一通り見学し、呉名物の海軍カレー(海自カレー)のレトルトも土産物とする。

出発前に、フェリーターミナルに向かう。ちょうど松山との間のスーパージェットや通常のフェリーも出入りするタイミングで、しばらくその景色を眺める。自衛隊の敷地にも近い。ここから先日訪ねた広島新四国の第46番・萬願寺の五重塔が見えるかなと思ったが、さすがにはっきりとはわからなかった、

ここから、広島新四国の第49番・浄空寺を目指す。午前中にたどった二河川の対岸を走り、熊野町方面に進む。この時点では、次の浄空寺は熊野町にあるのかと思っていたが、後で気づいたところではまだ呉市内だった。浄空寺から数百メートル離れたところは熊野町で、法然寺という広島新四国の札所があるが、第60番。札所番号順に回るとなると、改めて熊野町に来ることになる。

一応、呉からのバスが走る県道沿いである。セブンイレブンの脇から細道に入り、浄空寺の境内に到着する。石垣を備えているが、建物自体は最近のもののように見える。

浄空寺は戦後の1949年、山本浄空という僧が、三滝の善光寺(広島新四国第13番)の開祖の導きで、江田島にて阿弥陀如来を祀ったのが始まりという。その後信者も集めたが、1967年に火災に遭い、2年後に現在の地にて再興された。現在の本堂は1989年、平成元年の建立という。

本堂の扉は閉まっていて、とりあえずその前でお勤めとする。そして朱印を・・ということだが、箱がないので庫裡のインターフォンを鳴らす。すると住職らしき方が出て、本堂の扉を開けるのでそちらに回るよう案内される。

本堂の外扉が開けられ、中に入る。こうなるともう一度お勤めである。その間、住職に後ろから見守っていただく。ローカル札所の対応も極端なもので、全くの無人で書き置きの朱印も覚束ない札所がある一方、わざわざ本堂に上げていただいてお勤めの様子を見守ってくれる札所にも出会う。だからいいというわけでもなく、やはりプロの僧侶が後ろにいるとどうしても緊張してしまう。

お勤めを終えると、朱印の他にお接待ということでお下がりのお菓子をいただき、寺を後にする。

クルマはこのまま広島市に戻り、海田大橋から広島高速をたどって西区に戻る。ここまで第49番、ちょうど、四十九薬師と同じ番号まで来た。次の50番は広島市内に戻ってのお参りである。

・・・さてこの10月2日は、繰り返しになるがパ・リーグの優勝が決まる最終戦が行われた日。夕方からは仙台でのバファローズ対イーグルス、千葉でのマリーンズ対ホークスをBS中継で追いかけた。

そして最後にこの歓喜の瞬間を迎えた。午前からの札所めぐりのおかげというわけではないが、よき1日になったことだった・・・。

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第48番「観音寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(気さくな住職から歓待を受ける)

2022年10月27日 | 広島新四国八十八ヶ所

・・・とうとう、この男が目を覚ました!!すごい・・・。

10月2日の広島新四国八十八ヶ所めぐりの2ヶ所目は観音寺。観音寺とは札所めぐりをしているとあちこちで目にする名称である。こちら呉の観音寺は「聖天観音寺」という名前で知られているそうだ。聖天(歓喜天)といえば真言宗ともつながりが深い。

クルマは急な斜面を回り込むように上る。その斜面にも家が貼り付くように建ち並んでいる。観音寺は呉市の両城というところにあるのだが、カーナビを入れても手前までしか案内しない。そんな中、私の軽自動車がやっとという細道を上る中、案内が終了した。1軒の家があり、「観音寺臨時駐車場」の文字と矢印がある。この先にあるのかなとしばらく走り、それと思われる駐車場に出たが、どうも様子が違うようだ。たまたま駐車場にいた人に尋ねると、ここは違うと言われる。おかしいなと、元の看板に戻ってまた向きを変えたり、思い切って麓の商店街まで下りてもう一度やり直したり、寺は近くにあるはずだがなかなかたどり着けない。

結局、先ほど「観音寺臨時駐車場」の札が出ていた家(実は、観音寺の寺務所だった)の斜め向かいにあったクルマ数台が停められるくらいの空地が、先ほど矢印が示していた駐車場だったようだ。それにしても、軽自動車だから何とか上がってきたが、ちょっと大きめの自家用車なら初見だと厳しいかもしれない。

ならばこちらの道かと進むと細道、階段となる。ここから石段を上がっていく。そのまま行くと景色が広がる。先般、呉の市街地を南東方向から眺めたが、今度は北西方向からの眺めである。天気も良く、風もちょうどよい感じだ。

途中、レンガ造りの祠に出会う。また寺の外塀もレンガ造りである。呉といえばかつての海軍の町。そうした歴史と何か関係があるのだろうか。

そして本堂に到着。ここは本堂の外でお参りなのかどうかと思うが、左手の境内が独特の雰囲気を醸し出しているので、いったん先にそちらに向かう。四辺に石仏が並ぶ鐘楼や水子地蔵もあるが、その横には石をくり抜いて石仏を祀っている。ただその横に焚木が積まれていたりして、一瞬、とこかの窯元にでも来たのかと思ってしまう。

本堂に引き返すと、私が来たのを見つけたか、住職が出迎えて中に通される。結構気さくな感じで話しかけられる。広島新四国で来たのかと尋ねられ、朱印を用意するのでどうぞご自由にお参りをと声を掛けられる。

本堂の正面には本尊の不動明王が祀られている。その前には役行者像がある。ここで一通りのお勤めとしたところで住職がやって来て、寺の中を案内していただく。隣の間には聖天(歓喜天)が祀られている。

その後、「ここからの眺めがいいんですよ」と奥の座敷に招じられ、お茶をごちそうになる。「どうぞ足をくずして、また、私がマスクをしているので、(マスクを)外していただいて結構です」と勧められる。

観音寺がある両城山はかつて弘法大師も修行したといわれており、古くから大師を祀る祠があった。時代が下って明治中期、呉に鎮守府が設けられた際、初代の長官に着任した中牟田倉之助が、呉の港を見下ろす地に弘法大師の祠があることを知り、この地に鎮護国家、武運長久、海上安全を願って不動明王を祀った。合わせて、市民の安泰、街の発展を願って京都の神泉苑から十一面観音と聖天(歓喜天)を勧請した。これが観音寺の始まりという。明治といえどもその頃になると廃仏毀釈ということはなく、呉の鎮守府長官が弘法大師にあやかって寺を開いたというのも珍しい。

同じように呉の港を見下ろす寺といえば、前回訪れた第46番の萬願寺を思い出すが、観音寺のほうは海軍工廠や現在の造船所、自衛隊の敷地からは少し離れている。

その観音寺、戦争中には弘法大師の祠の横に防空壕が掘られた。それが戦後になると防空壕をくり抜いて滝行の場が造られた。

住職から「広島新四国はどのくらい回っているか」と尋ねられ、札所番号順に回っていると答えると驚いた様子だった。住職の話では、札所番号順で回る人は1割ほどではないかとのこと。確かに、広島新四国の巡拝はエリアごとにモデルコースがある一方、札所番号はあちこちに飛んでいる。たまたま呉市は比較的番号順に並んでいるが、呉市の南、倉橋島には60番台でまた来ることになるし、その前にもう一度三原~東広島をたどる必要もある。そりゃ、エリア順に回るのが自然ではないかと思う。

「番号が飛んでいるのは、『いろいろな』歴史があってのことですよね?」と返すと、「そう、いろいろ」と言われる。私が念頭にあった「いろいろ」というのは広島の原爆投下で、市内にあった寺院も被爆の影響で廃寺、あるいは戦後に別の場所で再興したというのをいくつか見てきた。また、戦後の市街地開発や敷地が手狭になったなどの理由で郊外に移転した例もあった。

そこに住職が「いろいろ」と加えたのは、寺の後継者問題である。後継者がいないなどの事情で寺じたいをたたんだところもあるそうだが、さすがに広島新四国の札所を欠番にするわけにはいかない。そこである時期から、後継となる寺は宗派を問わず受け入れることになったという。それで、札所番号順だといきなり別のエリアに行くことになる事象も生じた。

そう話す住職も元々は医薬品関係やカウンセリングの仕事をされていて、一時大阪で働いていた時期もあったそうだが、数年前に寺の後を継ぐために呉に戻られたという。そして(住職曰く、カネがない貧乏寺院ながら)少しずつ寺の改装や、写経、滝行、護摩供なども気軽に参加できるよういろいろ取り組んでいるとのこと。現在は寺の案内を送るためのLINEグループも運営しているが、そのきっかけは「法要の案内などを発送する郵便代がもったいないのでは?と檀信徒の方に言われたから」だという)。

最後に、防空壕をくり抜いてできた滝に連れて行ってもらう。先ほど何かと思った洞窟がその入り口で、入ってすぐ左手に弘法大師が祀られていた祠の跡もある。そして数メートル進んだ奥に、周りをぐるりと囲まれた滝場がある。これらは鑿、槌で手掘りされてできたものだという。ここにあるのは常時水が落ちていう自然の滝ではなく、滝行の時に水を出す人工の滝だが、日差しの加減によっては結構いい写真も撮れるそうだ。

本堂前に戻ったところでお礼を言って寺を後にする。次は熊野町に近い第49番・浄空寺に向かうが、せっかく呉に来たということで、久しぶりに大和ミュージアムに立ち寄ることにする。ミュージアムの駐車場が満車だったので、道路を挟んだゆめタウンの立体駐車場に停めてから向かうことに・・・。

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第47番「三徳寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(この記事は・・というよりコイツは寺?野球?何が言いたいの??)

2022年10月26日 | 広島新四国八十八ヶ所

日本シリーズ第3戦のテレビ中継を途中でやめて、もうこれ以上見るものかとそのまま不貞寝したのだが、1日明けて、また夕方になると気になり、帰宅してテレビの前に座ってしまう。自分でも勝手なものだと思うが、ペナントレースもそれに近い状況からひっくり返したのだから、最終結果が出るまでは追い続けることにしよう。

・・・本題に行こう。広島新四国八十八ヶ所めぐりの続きの記事である。9月18日、台風が接近する前に呉市街の3ヶ所を回り、その続きは10月2日とした。これは私のスケジュールとの兼ね合いだったが、この日の夜はパ・リーグの優勝が決まる試合が行われる。別に願掛けをするわけではないが(そりゃ、広島の寺に祈ったところで、カープならまだしも「『バッファローズ』なんか知ったことかいな」と一蹴されるだけだろう。いまだにパ・リーグを見下している土地なので)、こちらはこちらでこの機に進めておこう。

今回は呉中心部の後半ということで、第47番・三徳寺、第48番・観音寺、そして呉中心部から熊野町に向かって第49番の浄空寺に向かう。バス利用だと不便そうなのでクルマ利用である。

好天に恵まれ、これだと呉の港の景色もよりきれいに見えることだろう。いったん商工センターに出て、広島高速に乗る。その後接続する広島呉道路(クレアライン)に入り、呉の中心部に到着する。

これから向かう三徳寺へは、クレアラインの呉インターを出て呉駅とは逆方向の二河川方面に向かう。その途中にあるのが呉市二河球場。現在は呉市の建設会社がネーミングライツ契約を交わし、「鶴岡一人記念球場」という名前である。南海ホークスの選手・監督だった鶴岡一人が呉の出身であり、また建設会社の創業者一家も鶴岡と交流があったことから敬意を表しての名づけである。鶴岡監督からのつながりで、南海ホークスが呉でキャンプを行っていたこともある。

呉市出身のプロ野球選手・監督でもっとも実績があるのは鶴岡一人としてよいだろうが、他にも藤村富美男(初代ミスタータイガース)、浜崎真二(阪急・国鉄監督)、広岡達朗(巨人選手、ヤクルト・西武監督)といった、オールドファンには懐かしいメンバーが並ぶ。それ以降は球史に名を残す選手がなかなか出ないのだが・・。

呉二河球場では以前はカープの公式戦も行われていたが、昨今の傾向としてマツダスタジアム以外の県内球場での試合というのがほぼなくなっている(他の球団も同様だが)。収容人数や設備に関係もあるのだろうし、マツダスタジアムで試合をしたほうが儲かるからだが、広島県だけでも広いのだから年に数試合は県内、中国地方開催でもいいのではないかと思う。

2023年5月には広島でG7サミットが開かれるため、その前後は宿泊施設の確保や警備の関係で、マツダスタジアムでの試合が難しいという。ならばこの機に近隣球場で主催試合を行えばよいのではと思うが・・。

・・・目指す三徳寺は二河川沿いに上って行く道筋にあるようだが、寺の名前がないので住所でカーナビに入力すると、どうも1本山側の道を進んでいるようである。引き返して改めて川沿いの道を行くが、今度は入口がわからず、そのまま通り過ぎてしまう。

道が行き止まりになったところに二河峡公園というのがある。中国自然歩道のルートの一部にもなっており、この先をたどっていくと滝も間近に見えるそうだ。

ここで折り返し、今度はスマホ地図も参照しながら入口とおぼしきポイントを探す。すると、「ここを入っていくのか?」と思わせる細くて急な坂道を見つける。果たしてそこが入口で、軽なら何とか行けるかと上って行く。

寺の入口を過ぎたその先に「三徳寺駐車場」の看板があり、無事に停めることができた。それでも同じ敷地には寺のものだろうか、ワゴン車も駐車してあるのでそうしたクルマも入ることができるのだが、初見だとびびってしまいそうだ。川沿いの路肩に駐車して、そのまま歩いて上がったかもしれない。

細い階段を上がり、建物の下をくぐってさらに階段を上がると境内に出る。正面が本堂で、右手には十三仏などの諸仏の石像がある。寺全体が山の斜面の地形を最大限活用した境内である。ちなみに、カーナビで入力した番地だとこの上を指しており、そこから下りてくる術はなさそうだった。

まずは本尊阿弥陀如来に向かい、本堂の上り口でお勤めとする。朱印はケースに入っていてセルフでいただく。

三徳寺が開かれたのは1965年と比較的新しい。広島新四国のサイトでも、本尊に阿弥陀三尊、鎮守に福徳大荒神を迎え、福徳円満な実りと密厳浄土の建立を願う・・というくらいしか案内の記載がない。「三徳寺」で検索すると、なぜか投入堂がある鳥取の「三徳山三佛寺」が上位に来るくらいだが、それでも諸仏が境内所狭しと集まっていて、信仰のスポットとして密度が濃い。

本堂にお参りする前に、四国八十八ヶ所のお砂踏みの案内があったのでそちらにも行ってみる。こちらはある程度の広さが確保されており、比較的最近整備されたように見える。こちらでもぐるりと回り、手を合わせる。三徳寺と同じ第47番といえば松山市の八坂寺である。ちょうど松山市近辺の札所が比較的固まっているエリアだが、その松山も何回かに分けて回ったのを覚えている。

さらに参道が上に続いており、本堂を見下ろす形で不動明王その他の諸仏が祀られている。コンパクトな奥の院といった趣がある。やはり、地元の人たちがさまざまな願いを持って参詣に来るのだろう。

これで三徳寺を後にして、次は観音寺に向かう。こちらも呉の市街地を見下ろす高台の上にあるそうだ・・・。

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第46番「萬願寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(歴史の見える丘を見下ろす呉の名刹)

2022年10月25日 | 広島新四国八十八ヶ所

・・・日本シリーズ第3戦、山田の3ランの瞬間、テレビ消しました。日本シリーズはこのままスワローズが制することが決まった。選手の頑張りがどうとか応援がどうとかいうのは関係なく、これ以上は辛いので日本シリーズ中継は見ません。ボコボコにやられるシーンばかり。情けない。痛々しい。

 

・・・そんなネガティブになる1ヶ月あまり前の9月18日、広島新四国八十八ヶ所めぐりはこの日の最後となる第46番・萬願寺に向かう。「この日最後」というのは、台風接近で雨が降る予報というのと、昼過ぎに帰宅してパ・リーグペナントレース終盤の天王山となる試合をテレビ観戦するためである。

宮原8丁目のバス停から山の方向に向かう道を上る。5分ほどで寺の入口に着くが、本堂はさらに続く坂を上ったところにある。呉の地形を実感できる場所にあるようだ。

参道には西国三十三所の本尊石像が並び、阿弥陀如来を祀る祠もある。また、「戦役英霊 見返り観音」という観音像も祀られている。見返りというのは、呉を出港して後ろを見返すとそこに立っているからついた名前なのだろうか。時代は下ったが、今も海上自衛隊の艦艇や潜水艦も各地に赴くし、それ以外のフェリーや漁船も出航する。それらも温かく見守る存在であろう。

その見返り観音から呉の港を見下ろすことができる。戦艦大和をはじめとした多くの艦船が建造されたことから「歴史の見える丘」というスポットがあるが、萬願寺はその丘を見下ろす位置にあり、造船所だけでなく海上自衛隊の基地も見下ろすことができる。ちょうど艦艇が係留されているのも見える。さらに進むとまた風景もそれだけ広がる。

孔雀堂を経て本堂に着く。まずはこちらでお勤めとする。

萬願寺が最初に開かれた時期ははっきりしないが、慶長元年に水野重政により中興とあるので、少なくとも江戸時代以前からの歴史を持つようだ。本尊は「夜なき観音」と呼ばれるそうで、江戸時代、この観音が盗難に遭い、村人が探し求めたところ広島城下の店でよく似た像を見つけた。そして店の主に聞くと、この像が来てからというもの、店の娘が夜な夜な「宮原に帰りたい」と泣くようになったそうで、村人は観音像に間違いないとして無事に萬願寺に連れ戻したそうだ。

境内の奥に続く道に「納経所入口」とあり、書き置きの箱はこの入口の下駄箱の中にあった。

さらに奥の五重塔まで行けるようなのでそのまま進む。

そして五重塔からは呉港、そして周囲の島々の景色がさらに広がって見える。萬願寺は今回初めて知ったスポットで、こうした眺めの良いところだとは思わなかった。地元の人たちにとっては人気なのかもしれないが・・。

ここまで港を見下ろせるスポットとなると、戦時中はどうだったのか。それこそ、鎮守府やら海軍工廠もあり、戦艦大和などを建造しているところがモロに見えるのではないかと思うが、やはり当時は諜報活動を警戒して憲兵が常駐して警戒していたそうだ。

呉に来たら軍港関連、自衛隊関連のスポットは欠かせないなと思っていたが、ここからの景色を見たことで十分に満足し、ここで呉駅に引き返すことにする。宮原8丁目から広電バスで呉駅に到着。

呉からは呉線で広島に戻るところだが、変化をつけてバスに乗ることにする。広島呉道路(クレアライン)を経由して広島バスセンターに向かう便(一部の便は八丁堀へ)で、この区間をバスで移動するのは初めてである。市街中心部へ直通するメリットもあるし、呉線より本数も多い。

広電バスが来るのかと思ったら意外にも中国JRバスの車両がやって来た。同じJRグループながら呉線に対抗するバス路線を運行しているとは・・。

体育館前を過ぎるとクレアラインに入り、そのままノンストップで走る。仕事でクレアラインを走ることがあるのだが、やはり従来の国道31号線と比べると(通行料はかかるが)現在の呉~広島のメイン手段なのかなと思う。

20分あまりで広島高速の仁保を下り、柞木(ほうそぎ)に到着。以後、国道2号線に入り、市役所前から中電前、本通りを経て広島バスセンターに到着。ここまででおよそ50分で、呉線に乗るよりも便利だなと感じた。昼食はまだだが、バスセンターで何か買って広電で帰宅しよう。

ふとバス乗り場を見ると、台風14号接近にともなう運転中止の案内が出ていた。18日夜発の夜行バスに始まり、19日の高速バスは全面運休とある。さらに驚いたのは、広電バス、広島バス、広島交通をはじめとした市内線、近郊路線も全面運休するということ。19日は祝日ということで通勤通学への影響は少ないということもあってか、いや仮に平日だとしても全面運休にしたことだろう。それだけ強い勢力で中国地方を通過する予報が出ていた。

そして翌19日、広島のすべての公共交通機関がストップする中、1日中テレビで台風中継と、午後はバファローズ対ホークスの1戦(本来現地で観戦予定だった)を見ながら過ごしたのであった・・・。

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第45番「萬年寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(軍港で平和を願う)

2022年10月24日 | 広島新四国八十八ヶ所

9月18日、台風接近前の広島新四国八十八ヶ所めぐりである。第44番・法輪寺からそのまま住宅地の中の細道をたどって第45番・萬年寺に向かう。地図では途中呉線の線路をまたぐように見えるが、呉線はトンネルの中である。

ちょうど開けたところに多宝塔が見えた。どうやらあそこが萬年寺のようで、そのまま斜面に沿って回り込む。こうして見ると、改めて呉の町づくりの独特な景色を感じる。

前の門が閉まっていてくぐることはできないが、朱塗りの山門がある。本来ならここから境内に入るところだろうが、実際にはもう少し坂を上ったところの門から入る。まあ、こちらのほうが本堂にも近く、石段の数も少ない。ちょうど杖をついたお年寄りが家族に手を引かれてお参りしていたところだった。

境内を見渡すと先ほど見えた多宝塔のほかに、鐘楼や地蔵堂など、小ぢんまりとはしているが伽藍を備えた造りである。

護摩堂がある。広島新四国としてはこちらが本尊のようで、札もかけられている。中に入ったものかどうか迷うが、とりあえずお堂の外でお勤めとする。

広島新四国のサイトによると、萬年寺は戦国時代、織田信長が愛媛の長浜町に建立したとされる。ただ、その当時に信長といえでも伊予に寺を建てることが果たしてできたのだろうか。信長当時の伊予の戦国大名といえば河野氏が代表的だが、他にも国人大名もいて、そこに毛利氏、大友氏、長宗我部氏などが手を伸ばしつつあったところで、信長が直接四国のどこかを領有したわけではない。信長が直接建立したというより、建立の費用を誰かに援助したというのが実際のところのようだ。いずれ四国に勢力を拡げることに備えての投資だったかもしれない。

その真偽は定かではないが寺は建立された。しかし江戸時代の前期、火災により焼失してしまう。

明治に入り萬年寺の再興の動きがあり、毛利元就の念持仏という不動明王を本尊として呉に移転して再建された。なぜ呉だったのかは定かではないが、寺が現存するこの場所はちょうど港を見下ろすこともでき、位置としては適していたといえる。以後、萬年寺は鎮護国家を旨として、軍港であった呉の町を見守るように存在している。

戦後は平和を願う寺として、ビルマ(当時)から贈られた仏舎利を祀ったり、ビルマ戦線をはじめとして、また呉を出港して還らなかった兵たちの冥福を祈る場として多宝塔が建てられた。平和塔とも呼ばれている。

さて先ほどの護摩堂には朱印の箱がなく、本堂横玄関のインターフォンで寺の方を呼ぶ。どうぞ本堂に上がってお参りをということで入れてもらう。ちょうど住職が供養前で慌ただしい様子だったが、無地に朱印をいただく。

萬年寺から坂道を下ったところが、先ほど下車した和庄小学校下の次のバス停である清水1丁目。次の第46番・萬願寺は宮原7丁目もしくは宮原8丁目が最寄りのようで、今度はバスに乗って移動する。ちょうど「歴史の見える丘」より高いところを走り、造船所の景色もちらほら見える。

宮原7丁目で下車。ここから少し歩き、宮原8丁目のバス停の前に萬願寺への参道があった。その先に五重塔らしき建物が見える。あそこまで上っていくのか・・・。

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