まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~坊津から薩摩半島北上

2024年07月11日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりはこれから徐々に北に向けて駒を進める。枕崎の火之神公園を出発する。

国道226号線に入り、耳取峠を越える。その先が坊津である。

歴史資料センター「輝津館」に入る。こちらは南さつま市役所の坊津庁舎も兼ねた建物である。坊津の歴史、民俗についての紹介が充実した施設だった。館内撮影禁止のため画像はないが・・。

坊津は古くから立地的に海上交通の要地であり、遣唐使船の寄港地となっていた。仏教の公式的な伝来よりも先に龍蔵寺一乗院という寺が建立されたし、この先の秋目地区には鑑真和上が唐から上陸している。

また中世では倭寇や遣明船、琉球貿易の拠点にもなっていた。明の歴史書「武備志」では近隣の地誌も紹介しており、「日本三津」として安濃津、博多津と並び、ここ坊津を挙げている。同時期に日本で成立した式目では「三津」として安濃津、博多津は同じだが、もう一つは堺津を挙げている。当時の状況からすれば堺のほうが大きかったに違いないが、大陸の人たちから見れば薩摩半島の港とのつながりが強かったといえるだろう。

江戸時代になると鎖国政策もあり、外国との交易の中心は長崎に移ったが、坊津は薩摩藩主の直轄地として、琉球を介した大陸との貿易が続けられていた。貿易額や品目には厳しい制限が設けられていたものの一応幕府の公認だったが、それを超える「抜け荷」が密貿易として行われていた。こうして得られた利益が薩摩藩の財力になったという。

しかし、江戸中期の享保年間、坊津に一斉に取り締まりが入り、商人や船舶が逃げ出すという事件があった(坊津の唐物崩れ)。もっとも薩摩藩は坊津だけでなく、志布志、種子島、奄美大島など他の拠点で密貿易を続けており、坊津の取り締まりは幕府の目をそらすため薩摩藩じたいがわざと行ったのではないかともいわれている。

その後の坊津はカツオ漁で栄えた。鰹節の製法が伝えられたことも大きい。当初は近海に限られていたが、徐々に海域が広がり、船も大型化された。それでもカツオといえば一本釣りで、次々に釣りあげられる様子をとらえた映像は圧巻である。また大漁を祝う「茜かぶり」という行事もあり、地元の人たちの笑顔も印象的だ。

ただ、今の坊津にはそのカツオ船もいなくなった。大型船が接岸できる枕崎に集約したためである。そして現在は養殖漁業が主な産業となっている。なかなか、変化に富んだ歴史がある。

本来なら2階のテラスからの眺めがよいのだが、外壁の工事中で入れない中、建物の前で背伸びして沖合いの名勝・双剣岩を何とか眺める。

せっかくなのでこの先の鑑真和上上陸の地など、海沿いをもう少し走りたかったのだが、ゴールの川内駅のカーナビ到着予測時刻がこの時点でギリギリとなった。

途中で詰めることはできるだろうが、ここからは山道の県道でショートカットして国道270号線に向かう。途中の山上には風力発電の風車も見える。

この国道270号線に沿う形で、かつて鹿児島交通枕崎線が走っていた。現在の南さつま市の中心である加世田のバスセンター内には鉄道記念館もある。ただ、どこかのスポットに立ち寄って見学するだけの時間は厳しそうだ・・。

温泉や砂浜で有名な吹上浜も通過。ただ、到着予測時刻は少しずつ早くなってはいる。そのまま国道を走るうち、サイクリングロードの案内とともに「永吉駅跡」の標識が見える。鹿児島鉄道の旧駅ということで、これはぜひ立ち寄ってみよう。

永吉駅は伊集院駅から12.7キロのところ。線路や駅舎は撤去されているが、ホームの一部が残り、駅名標も後から設けられている。廃線めぐりといえばひそかに人気が広がるジャンルだが、鹿児島交通枕崎線は結構あちこちに遺構がのこされており、永吉駅跡も知る人ぞ知るスポットである。

国道270号線に戻り、交差点で待っていると右前方から枕崎行きのバスがやってきた。

さらに北に進んだ江口浜で、左手に急に東シナ海が広がった。思わず駐車スペースにクルマを寄せる。少しずつ日が傾くところ。

もう少し走らせると崖のすぐ下に海岸が広がる。海にはサーファーの姿も見える。薩摩半島にこういうスポットがあるとは知らず、今回の車窓の中で印象に残るスポットとなった。

国道270号線から国道3号線に出る。カーナビは無料の南九州西回り自動車道を案内するようだが、そのまま下道を走る。鹿児島線の線路とも並走し、野球、サッカー、駅伝などの強豪である神村学園の前を通過する。鹿児島の学校とはきいていたが、串木野だったのね。

レンタカーの返却時間も気になる中、トヨタレンタカーの川内駅前店に到着。

そのまま歩いて川内駅に到着。駅前に像があるので近づくと、大伴家持とある。薩摩の中心といえば現在の鹿児島市のイメージだが、古来の薩摩の国府は川内にあったという。万葉集の編者として名をのこしている家持だが、本人は時の政争に巻き込まれたこともあり、都と地方を行ったり来たりしている。その中で薩摩守に任ぜられたことがあったのだが、それも左遷人事だったという。

次回は北薩の山中の札所をたどるルートで、川内からふたたびレンタカーにて向かうつもりだ。

川内は九州新幹線、鹿児島線、そして肥薩おれんじ鉄道が乗り入れる駅で、かつJR貨物の駅もある。地方によくあるオフレールステーションではなく、今も東京、名古屋、大阪、北九州への直通コンテナ列車が発車する。またこれらの貨物ターミナルでの中継を経て、全国への長距離輸送が可能である。

これから乗るのは18時06分発「みずほ610号」。広島までの停車駅は熊本、博多、小倉だけという最速タイプで、所要時間は2時間10分。さすが新幹線だ。

レンタカーの利用後のお楽しみということで、「みずほ」指定席に陣取っての一献である。最速タイプだけに寝落ちして広島を寝過ごすことのないように・・。この日(6月30日)は朝の鹿児島中央駅から雨に遭うことはなかったが、「みずほ」に乗って熊本、博多に差し掛かるとまた強い雨になった。まあ梅雨空の下、帰りの新幹線で雨というのも仕方ないだろう。

・・それほど遅くならない時間に広島に着き、西広島まで戻って来た。こちらはしっかり雨が降っていた・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~枕崎・日本最南端の終着駅でかつお三昧

2024年07月10日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

先ほどの大国寺から一気に山道を下り、枕崎の市街地に入る。そして、日本最南端の終着駅・枕崎に到着する。前回に続いての来訪だが、前回は列車乗り遅れのためタクシー移動、そして今回はレンタカー・・。列車から終着駅に降り立つ、という演出はならなかった。

ちょうどこの時間、列車の姿はない。もっともこの日(6月30日)は先日来の大雨で指宿枕崎線じたい運転を見合わせている。

しばらく、誰もいない終着駅の雰囲気を楽しもうかと思ったが、それより先に食事である。枕崎に来たからにはかつお料理をと思っていたが、いろいろ立ち寄っている間に時刻は14時すぎ、そろそろ昼の営業を終えている頃ではないだろうか。幸い、駅の目の前にある「一福」は14時30分ラストオーダーでまだ営業中だった。駅の見物は後にして、先に食事にしよう。

いただいたのはかつお定食(松)。メインはかつおのたたきで、その他、腹皮の天ぷら、温泉玉子と酒盗、内臓煮、かつお味噌がついてくる。かつおのたたき以外は、かつおの漁港以外だとなかなか食べる機会もないだろう。これらのおかず、せっかくならビールのお供にいただくのがよいが、指宿枕崎線で帰るならともかく、この先もレンタカー移動が続くので残念だが・・(無理にノンアルコールビールは注文しない)。

そして、これは枕崎ならではのものというのが、かつおのビンタ。ビンタとは鹿児島弁で頭を指し、これを味噌で煮込んだものをそのまま大皿に盛り付けたものだ。見た目、一瞬どきっとする。この料理、枕崎でさかんなかつお節づくりの際に不要となった頭の部位を無駄なくいただく郷土料理、家庭料理だが、現在は観光客にも人気のおもてなし料理となっている。

この食べ方に特に決めごとはないが、魚といえば目の周りの肉が美味いところである。それで目のところをぐりぐりやる。この感覚、私が先般受けた白内障手術の光景に似ているような気がする(嫌なものを思い出したものだが・・)。それはさておき、頭頂部などの身をほじるようにいただいた。

これでかつおのさまざまな料理をいただいたが、他にも枕崎ならではということで「ぶえん鰹」や、「枕崎鰹船人めし」なるものがあり、今思えばこちらも頼めばよかったところ(定食のごはんを追加料金で船人めしにすることもできた)。それはまた今度の楽しみとしよう。

向かいの観光案内所で、「日本最南端の始発・終着駅のある町 到着証明書」をいただく。枕崎といえばどうしても「終着駅」という見方になるが、「終着駅は始発駅」という言葉もある。

改めて駅に向かう。第36代木村庄之助の筆による駅看板、そして始発・終着駅を感じさせる数々のモニュメント。

ここまで来て、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりと合わせた九州一周も本当の折り返しになった。ここからは少しずつ北上することになる。

ここからは薩摩半島の西側を通る。まず目指すのは古くからの港町・坊津である。

レンタカーを進める。市街地の向こうには薩摩酒造の「明治蔵」もある。うーん、時間の都合で枕崎は通過せざるを得ないが、今にして思えば、せっかくなら枕崎に1泊するつもりで、こうした市内のスポットや、かつお料理にしても一献やりながら味わうとか・・そうした楽しみもできたのではないかな。1泊2日は何とかなるが、2泊3日が難しい立ち位置にある。また、あくまで目的地は札所・・・。

このまま坊津に向かう前、ふと標識を見て向かったのが火之神公園。海岸にろうそくのように浮かぶ立神岩で知られる。この一帯は訪ねたことがなく、枕崎の景色ということで行ってみることにする。

こちらも先ほど訪ねた番所鼻と同じく、溶岩と灰が混じった溶結凝灰岩でできている。

また、法面整備のため車両乗り入れができず立ち寄らなかったが、この公園の一角には平和祈念展望台がある。ここでは、太平洋戦争の沖縄作戦に出撃したが、枕崎の沖合200kmのあたりで米軍の攻撃を受けて沈没した戦艦「大和」をはじめとした第二艦隊の戦没慰霊碑もあるという。

知覧、枕崎・・本土最南端は本土最前線として歴史の舞台になっている。そして坊津も・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第97番・大国寺(枕崎のスピリチュアルスポット)

2024年07月09日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

西大山駅から途中の海岸スポットを見た後、国道226号線から内陸に入る。いよいよ、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの最南端にある第97番・大国寺に向かう。97という番号は、当初番外札所だったのが百八霊場になるにあたり新たに振られたものである。

当初は茶畑の中を一直線に走るが、坂道を上り、集落を抜けるとカーナビは狭い道を案内する。コンパクトカーのヤリスといえども道幅ぎりぎりのところに出会い、ヒヤリとする。かといってここからバックで引き返そうにもUターンできるところがない。

ようやく離合可能なところに出て、さらに山道を上る。人家もなくなり、果たしてこの上に寺があるのかなと不安になったが・・・。

ここで大国寺の山門が見えた・・というより前に弘法大師像が出迎える。「人々に慈悲と感謝を与え、安心して生きられる様に、又人々に金運がつく為にここにお座りになられた。特に、アル中毒の人とか、うつ病の人は良くなります」とある。「人々に慈悲と感謝を与え~」とはさすが弘法大師という一方、最後にアル中、うつ病とリアルな病に効くとあるが、これは奉納された方の実感としてあるのだろう。確かに、これらの病は内科や外科の医療というよりはメンタルの方面だから、何かを健全に信仰するというのも一つの療法といえる。

山門を通る。ここ大国寺が開かれたのは1967年のこと。川上英明住職が百日間の座禅修行をした際、枕崎の国見岳に大日如来を感得し、その中腹に寺を建立した。そして、枕崎は台風がよく来るところとあって、大日観音像を建てて祈ったところ、それ以来大きな台風が来なくなったということで、地元ではお大師様の力だと評判になったという。

それにしても賑やかな境内である。ミニ八十八ヶ所や波切不動明王くらいはかわいいものだが・・。

十三佛が何ともカラフルに、東南アジアの寺院かと見える一方でハリボテ感じもあるというのか・・・これらの仏像の数々は川上英明住職の手によるとある。私はカーナビの距離優先で狭い近道に誘導されたので見られなかったが、遠回りでも普通にクルマで来る途中の参道にも同じような仏像が並んでいるという。

それにしても、ここまで九州八十八ヶ所百八霊場の半分を回って来たが、ここまでキャラの濃い札所はなかったと思う。枕崎にこうしたスポットがあったとは・・。

カラフルな仏像とともに存在感あるのが、境内の猫たち。その辺りに好き勝手に寝転がったり、参詣者を興味深そうに眺めたり。人なれしているので近づいても逃げようともしない。猫好きのその筋では知られたスポットなのかな。

本堂・大師堂も外観に独特の塗装が施された建物。扉を開けて中に入ると、川上英明住職のさまざまな写真や、まあその、いろんなものがずらりと並び、ここにもキャラの濃さが出ている。ここ大国寺は枕崎にとどまらず、ここを総本山として、九州各地、関東、そして大阪・高槻にも別院を持つ。さらに、イギリス、イタリア、カナダにも別院があり、寺のホームページにはさりげなく「イギリス七観音霊場」、「イタリア七観音霊場」、「カナダ如意輪七観音霊場」という文字も並んでいる。こんなところにも札所めぐり・・と驚くが、世の中は広いからこうした外国の観音霊場の朱印をコンプリートしている方も結構いることだろう・・。

さて本堂に入るとちょうど僧侶によるお勤めの最中である。手前の外陣では四国八十八ヶ所の白衣姿の男性が熱心に手を合わせている。これは定刻のお勤めなのかそれとも申し込みのご祈祷なのか。玄関を上がったところで腰をかけて私も一緒に手を合わせる。唱えているのは観音経全文のようだ。

「世尊妙相具~」から始まる観音経偈に入ると、私も経本片手にぶつぶつとやる。そして最後は般若心経。読経に合わせて大太鼓が打たれ、リズムよくすすむ。

これで祈祷が終わったかと思いきや、僧侶の一人が白衣姿の男性が座っている場所まで来て、体のあちこちに触れながら真言を唱える。ご加持である。さまざまな思いがあり、ここ大国寺まで来られたのだろう。こちらは単なる札所めぐりで、頭の中では「この後枕崎でかつお料理をいただこう」という煩悩まみれで、何だか恐縮する。

やはり朱印をいただかなければ札所クリアにはならないのである(さすがに枕崎までもう一度出直す・・のは厳しい)。一連の祈祷を見届けた後、ようやく先ほどまで読経していた僧侶から声をかけていただき、朱印帳を預ける。

「お待たせして申し訳ありません」とともに返されたが、いえいえ、熱心な祈祷に触れさせていただき,、私もご利益のおこぼれにあずかったようでありがたい。

大国寺については枕崎のパワースポット、逆に珍スポットのように取り上げる記事もあるが、祈祷の様子を見るとお参りの人たちと真摯に向き合っているし、本土最南端の札所として積極的に活動していることがうかがえる。九州一周も折り返し、インパクトある寺院であった。

この後、枕崎駅を目指す。先ほどとは別の茶畑が広がる山道を下り、住宅街に出たことでほっとする。

そして南の果ての終着駅・枕崎に到着。何とも変わったルートでたどり着いたものだ・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~日本最南端の駅・西大山で列車を出迎えるが・・

2024年07月08日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐり、目指すのは最南端の枕崎にある第97番・大国寺である。その前に知覧に立ち寄って特攻平和会館を訪ね、そのまま枕崎に向かうと思いきや、レンタカーは逆の南東方向に向かう。そして国道226号線を東に進む。

海岸が見え、駐車スペースがあったので思わず停める。瀬平公園というところで、ちょうど海の向こうには頂上は雲で覆われているが薩摩富士・開聞岳を望むことができる。

少し、開聞岳の方向に歩く。今は海にせり出した国道の橋がかかるが、かつては岩と岩の間を波しぶきを受けながら渡っていたそうで、与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌も残されている。

迫平まで 我れを追い来りて 松かげに 爪を裂くなり 頴娃の村をさ (鉄幹)

片はしを 迫平に置きて 大海の 開聞が岳 立てるなりけり (晶子)

夫妻が鹿児島各地を周遊する中で、地元の村長の歓待を受けたのに応えての一首だという。海の上にそびえるかのような開聞岳の雄大さ、そして海が迫る平(瀬平)の景色をそれぞれ詠んだものだ。ちょうど雲が晴れてきて、さすがに南の島々は見えないが九州の果てに来た実感がする。

この先、開聞岳に近づく。枕崎に向かうのにあえて反対方向にクルマを走らせているのは、そう、あの駅の再訪である。

着いたのは日本最南端の駅・西大山。

このブログでも何度か言及しているが、前回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐり、鹿児島でのプロ野球が雨天中止になったことを受けて、予定を変更して鹿児島中央から指宿枕崎線で枕崎まで往復しようとした。その際、途中サービスで少し停車する西大山で車両から外に出たのはいいが、そのまま列車が発車してしまい積み残された。思わぬ形で西大山に列車で「降り立った」が、急遽タクシーを呼び、車内に置きっぱなしの荷物を取り戻すべく枕崎まで飛ばし、結局タクシー代が1万円かかったという出来事。

その西大山駅に再訪である。今回はレンタカーだから列車の時間を気にすることもないし、開聞岳の頂上には雲がかかっているが雨も降っていない。

駐車場には多くのクルマが停まり、観光客の姿も見える。また、日本最南端の駅の標識と開聞岳を組み合わせた写真を撮ろうと場所取りする人もいる。時刻表を見ると、この数分後、11時54分発の枕崎行きの列車がある。

・・しかし、時間が過ぎても列車が来る様子はない。踏切の警報音も鳴らない。「遅れてるのかな?」という会話がある中、スマホを見ていた人が「列車運休らしいですよ!」と口にする。

前日鹿児島入りした際、その前の大雨の影響で鹿児島エリアの在来線は全線運転を見合わせていた。今回は在来線に乗る予定はないので列車の運行情報もそれほど気にしていなかったが、指宿枕崎線は土砂災害があったようで前日、そして本日も運転見合わせとのこと。ちょうど前回指宿枕崎線の復路に乗車した際、途中区間が大雨のため速度規制がかかり列車が遅れたのだが、その区間のようだ。その後数日運休したという。

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりにおいて、指宿枕崎線への乗車は必須として組み入れていたが、前回、野球の雨天中止の代替で乗っておいてよかった。もし今回の旅で乗る予定にしていたら、「指宿のたまて箱」ともども運転見合わせの憂き目にあっていたところだ。そう考えれば、前回乗っておいてよかったと思う。

クルマで来ていた人の多くはこの列車目当てだったようで、列車が来ないとなるとさっさと駅を後にしていた。その一方でタクシーが2台乗りつけられていた。列車は運休だがせめて西大山駅を見ようと、指宿あたりから乗って来たのかな。この後売店に入り、日本最南端の駅の到達証明書をいただく。

さて、西大山駅から枕崎に向かう。前回はタクシーで、雨の中、そして車内に取り残された荷物が気がかりな中走っていたので、車窓を楽しむ余裕はなかった。今回はレンタカーだが、晴天の下、この先の札所めぐりとかつお料理が楽しみな中、車窓も楽しみ、先ほどの瀬平公園も過ぎる。こういうスポットがあったのだなと改めて感心する。

タクシーの運転手とさまざま鹿児島事情や鉄道の話をしたのを思い出しながらのドライブである。「さつま白波」の醸造場の横を通った時は、この辺りの若者は高校を卒業するとほとんど外に出るとぼやいていたな(地元の工場とかには就職しないのか?との問いに対する答えとして)。

札所の前にもう1ヶ所くらい立ち寄ってみよう。そこで目に留まったのが番所鼻(ばんどころばな)。江戸時代に薩摩藩の番所があったところ。そして、日本地図作成のために立ち寄った伊能忠敬が「天下の絶景なり」と称賛したところだ。

海岸に出る。「伊能忠敬先生絶讃の地」の石碑は鳩山一郎の揮毫。

遠くにはまだ頂上が雲に覆われている開聞岳。海岸沿いには海水をプールのように囲む歩道が出来ており、少し先まで行けそうな感じである。ただこれも潮の干満によるようで、あまり深入りすると海水に隠れてしまいそうだ。

驚きなのは、この遊歩道、プールに見えるところは、11万年前に起きた巨大噴火で噴出した火砕流の溶結凝灰岩からできたものだという。

そろそろ枕崎市に入り、目指すのは第97番・大国寺。市街地を前に国道226号線から横道に入り、再び茶畑が広がる中、高度を上げていく・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~特攻基地・知覧へ

2024年07月06日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

6月30日、日曜日。鹿児島の朝は「さつま狂句」から始まる(始まるというのも変だが)。今月の入選の句の紹介だが、文字で見るから一句の意味がわかるが、これ、選者の先生の鹿児島弁でのコメントも含め、耳で聞いたらさっぱりわからないぞ。

前日の夕方、夜、そして今朝と地下の大浴場に計3回入り、バイキング形式の朝食をいただく。こちらも地元のものを含めて種類は豊富である。

身支度を整えてチェックアウト。この日はトヨタレンタカーのお世話になる。同じ県内、一定のエリア内であれば乗り捨て無料ということで、夕方に川内駅前での返却である。乗るのはコンパクトカーのヤリス。8時半に出発。

これから目指す札所があるのは本土の端の枕崎だが、せっかくの薩摩半島なのでいくつかのスポットに立ち寄りながらである。指宿温泉は前回に札所と合わせて訪ねており、また指宿枕崎線にも(いろいろハプニングはあったが)乗車している。そこでまず向かうのは半島の中央にある知覧。

市電と並走し、鹿児島大学の横を過ぎる。もう少し海側に行けば鴨池公園があり、前回の九州めぐりで残念ながら雨天中止となった鴨池公園の中央リース野球場がある。かつてロッテが長くキャンプ地としていたところだ。

市電の線路と別れ、国道225号線に入る。そして市街地が途切れる五位野あたりから、薩摩半島を斜めに横切るルートに入る。ちょっとした峠越えもある。

無料の南薩縦貫道に入る。こういうところにも自動車専用道があるとは、そりゃ、指宿枕崎線も苦戦するだろう。

文化会館、ミュージアム知覧、そして今回立ち寄りスポットとした知覧特攻平和会館がある知覧平和公園に到着する。

知覧は中世から島津氏の分家である佐多氏が所領とした地で、かつては山城も存在していた。江戸時代にはそのまま薩摩藩の外城の一つとして、上級武士の住居と外敵からの守りのため武家屋敷が築かれ、現在も歴史的な町並みとして残されている。明治維新後は佐多島津氏から払い下げられた山林を開き、茶の栽培が広まり、現在のブランド・知覧茶につながる。

その一方、太平洋戦争が始まると、福岡の大刀洗飛行学校の分校として、知覧には飛行場が造られた。今いる公園、そして野球場はかつての滑走路の跡地である。知覧に飛行場が造られたのは風向き、地質条件がよく、道路や鉄道も通じていたからとされる。鉄道?と思うが、当時鹿児島交通知覧線というのが走っていたそうだ。もっとも、知覧に飛行場が造られた当初の目的は基地というより、パイロットの養成、訓練のためだったという。

しかしその後、戦況の悪化とともに本土の最前線である沖縄を守るべく、最後の手段として爆弾を搭載した戦闘機で米軍の艦船に体当たり攻撃する特攻作戦が始まった。この特攻作戦では九州各地、そして当時統治していた台湾の飛行場から計1036名の若者が飛び立ったが、本土最南端ということもあり、約半数の439名がここ知覧から出撃した。

公園には「とこしえに」と名付けられた特攻隊員の像、そして戦闘機が並ぶ。その一方で、その隊員を木の陰からそっと見守るかのような母親像もある。

周りにはさまざまな慰霊碑、灯籠が並ぶ。若くして南の海に散った隊員たちを悼む感情は人として当然だが、ともすれば必要以上の美談にもつながりかねないというのが私の思いである。あちこちの神社仏閣その他で「忠魂碑」があるが、ちょっと敬遠してしまうな・・。

これらを抜けた先に特攻平和観音堂が建つ。法隆寺夢殿の「夢ちがい観音」を模したもので、特攻勇士の愛国精神を顕彰し、世界の恒久平和を願うとある。こうした祈りに似合うのは仰々しい神格化より観音菩薩である。ここで静かに手を合わせる。

この後、隊員たちが出撃までの一時を過ごした三角兵舎(復元)を通る。この中で日の丸への寄せ書きや、故郷への手紙(遺書)をしたためたという。

順番が逆になったかもしれないが、ここでようやく知覧特攻平和会館の中に入る。午前中から多くの見学者が訪ねている。

まず目についたのが零式艦上戦闘機の展示。実際に特攻機として飛び立ったが、途中の海上に落下した機体を引き揚げたものだという。先ほどの屋外にあった機体も含めて、よくこんな小ぶりな戦闘機で、数百キロも離れた米軍の艦船に突撃しようとしたものだと思う。この後、展示室内で出撃の様子、艦船に衝撃を与えて見事に(?)任務を遂げた様子の映像も見たが、実際は艦船に体当たりする前に迎撃されたとか、故障で墜落してしまった機体が多かったともいう。

企画展で「女学生が見た戦争 知覧高女性と特攻隊員」というのがあった。知覧にあった高等女学校に通っていた生徒たちも「なでしこ隊」として戦争末期には軍需工場に従事したり、知覧飛行場で特攻隊員への奉仕活動を行っていた。その当時の日記や証言映像が紹介されている。

視聴覚室でビデオ上映があるというので行ってみる。30分ほどの作品だが、特攻作戦への経緯、隊員たちの明るい表情、世話をする地元の人たちの様子、そして母親への遺書、子どもたちへの遺書が淡々と紹介される・・・。周りからはすすり泣きも起こる。

出撃の前日に撮った笑顔の写真がある。いずれも17~19歳の若者。お国のために出撃することは光栄なこと、やってやるぜといったところだろうが、本当の本心はどうだったのかなと思う。遺書や手紙にもお国のために命を捧げるのは名誉なこと・・と綴られているが、いくら国の危機に立ち向かうとはいえ、一人の人間として、こういう形で死にたくないという気持ちはあったことだろう。それでも笑顔というのは、国家による教育というのか何というのか・・。

そして、零戦の周りに、犠牲となった一人一人の遺影、遺書や寄せ書きなどがこれでもかと展示されるメインの資料コーナーへ。特攻隊として亡くなった若者たちは「英霊」となったか、「犬死に」となったか、それぞれの胸のうちはあるだろうが、少なくともここに並ぶのは純粋な表情である。

その一方、こうした無謀な作戦を考案した現場の指揮官、そもそも勝てる見込みのない戦争を始め、引っ込みがつかず多くの犠牲を払った末に逃げ出した軍部、そして戦争への流れを止められなかった政治家・・・の罪は重い。

さまざまな展示を見るうちに時間が過ぎ、そろそろ次に向かう。この先のコースを考え、残念だが武家屋敷群は割愛し、南に向かうことにする。

途中に広がる緑、田んぼかと思うが茶畑である。シラス台地は稲作には不適だが、水はけがおく火山灰からのミネラルを多く含むということで茶の栽培に適しているという。

この先いったん枕崎とは逆に南東方向に向かう。訪ねるのは再びのあの駅・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~鹿児島駅前にて癒しの一時

2024年07月05日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは前回5月に続き鹿児島に宿泊。そしてホテルも前回と同じ「ホテルタイセイアネックス」である。

今回は部屋おまかせプランで予約していたが、何とツインルーム。もっとも、部屋の広さじたいはシングルルームとさほど変わらないように見える。テーブルをテレビ台と切り離した小ぶりなものとして、ベッドの向きを変えることで2台収めたのかな。

荷物を置き、部屋着に着替えて、早速地下のサウナ・大浴場に向かう。今回もこのホテルを選んだのはこの大浴場目当てである。本来は地階で別途24時間営業しているサウナ・カプセルホテルの設備だが、アネックスの宿泊者は無料で利用できる。部屋着のままで行けるのもありがたい。

先ほど大雨に濡れたこともあり、早速の入浴はありがたい。普段は入らないサウナも試してみる。さっぱりした。

入浴後はそのままリラックスルームに向かう。リクライニングシート備え付けのテレビでは、BSでエスコンフィールドのファイターズ対ホークス戦、そして東京ドームでのジャイアンツ対カープ戦が流れる。エスコンフィールドは屋根を開けての試合のようで、この時季の北海道、最高だろうなと思う。一度行ってみたいのだが、広島から北海道は遠い・・・。なお試合はホークスが7対1と快勝。

一方の東京ドームでは接戦。カープが1対0とリードして迎えた8回裏、ジャイアンツが同点に追いつく。だが9回表、カープは菊池が体を泳がせる体勢からの本塁打が出て2対1。最後は栗林が締めて試合終了。

ちなみに、この日のバファローズは千葉でナイトゲームである・・。

さて、この日の一献としよう。前回は天文館まで出向いたが、今回は駅前の店に入るとする。それもあって先ほど天文館界隈をめぐり、昼食は「鹿児島王将」で町中華とした。

向かったのは、「ホテルタイセイアネックス」から市電の線路をまたぎ少し行ったところの「ホテルガストフ」。その地下にある「うおとり」である。それなら「ホテルガストフ」に泊まったほうがよさそうなものだが、そこはね・・。

店は全室個室で、おひとり様でも2~3人用の個室を用意してくれる。予約時にはなかったが、ひとりでも2000円で単品飲み放題が利用できる。そのおかわりも含め、飲み物、食べ物はQRコードを読み込んでスマホから注文するシステム。特に個室だとこういうシステムはお互い煩わしくない。

最初はプレミアムモルツ、突き出しは豚の角煮である。

やはり同じようなラインナップになるな・・。まずは薩摩地鶏の刺身。

魚の部では、カツオのたたき。

きびなごは刺身ではなくフライ。小魚の味わいというのかな。

その他には小鉢類もあったが、飲み物はともかく食べ物は一品一品がボリュームあるように感じて、品数を頼めないのが残念である。いや、「鹿児島王将」でいろいろいただいてからそれほど時間が経っていないだけか・・。

飲み物だが、モルツのあとはタコハイ(ジョッキがジンビームハイボールなのはご愛嬌)。

・・・さてここで、普段は苦手でいただかない芋焼酎に挑戦だ。鹿児島まで来たこともあるし、やはりどこかで踏ん切りをつかなければならない。飲み放題の中だし、飲めなければ別のものを頼めばよい。その中、個室の壁に貼られていたのは「こいごいとした焼酎です。南之方」。「南之方(みなんかた)」は枕崎の薩摩酒造によるもので(「白波」と同じメーカー)、「こいごいとした」というのは薩摩言葉で「とても濃い」という意味。じゃあ、こちらをロックでいただこう。

やって来たのはこちら、おそるおそる口にする。芋臭さというのはないが、それでも濃いものが凝縮された感じ。ほぉ~っとなる。

「こいごいとした」というキャッチコピーを目にして頭に浮かんだのが、「たっすいがは、いかん!」。これはキリンビール高知支社のキャッチコピーだが、「南之方」は昔ながらの無濾過製法で仕上げたとあり、相通じるものがあるかもしれない。

ならば、飲み放題メニューの他の銘柄も行こう。その一つ「赤猿」だが、検索して出た醸造元に驚いた。前回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりで先行して訪れた日置市の剣山寺のすぐ近くにある小正醸造がそれである。その時は焼酎を飲もうという思いは全くなかったのだが、鹿児島中央で思わぬ形で出会うことになった。しっかりいただこう。

もう一つは「黒伊佐錦」。こちらは北薩の大口酒造によるもので、次回の北薩シリーズでも出会えるか。

単品飲み放題の元は十分に取れ、「うおとり」を後にする。そして「ホテルタイセイアネックス」に戻り、再びの地下サウナ・大浴場である。さすがに飲んだ後なのでサウナは無理だが・・。

そして再びのリラックスルーム。今度はBSで「麺鉄」という番組をやっていた。不定期放送のようだが、こういう番組があるとは知らなかった。私が見たのは番組の後半のようで、鉄道ファンとして知られるモデル・タレントの市川紗椰さんが下関から山陽線~山口線~山陰線をたどるというものだった(この画像のシーンは、下関からの車両が115系であることに市川さんが興奮しているところ)。

部屋に戻る。翌30日は鹿児島中央からレンタカーで知覧を経て第97番・大国寺に向かい、枕崎から薩摩半島の西側をたどり、川内で乗り捨てる。これで九州一周のコマも先に進むことに・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~再びの鹿児島王将、鹿児島知事選挙、そして豪雨・・

2024年07月04日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは鹿児島市内。第45番・大歓寺から城山公園、黎明館と回り、そのまま天文館までやってきた。そして少し遅めの昼食として、鹿児島王将・中町店に向かう。

前回5月に鹿児島を訪ねた時は、夜の天文館で一献の後、ひとり二次会として入ったのだが今回は昼食、いや、町中華での一献である。公共交通機関での札所めぐりならではの楽しみである。

全国チェーンの「餃子の王将」(いわゆる「京都王将」)から、あの稲盛和夫の仲介によりのれん分けが許された「鹿児島王将」。その1号店は繁華街から1本入ったところで、町中華の風情がある。「餃子の王将」だが、ある意味郷土料理の店といえる。

テーブル上の伝票に鉛筆で数字を入れて注文する独特のスタイル。厨房から対応するスタッフはすべて男性で、「鹿児島=男性社会」というのを体現しているように思う(別にジェンダーどうのこうのいうのではないが)。

やはり、餃子である。そして瓶ビール。餃子にビールのどこが郷土料理やねんというところだが、遅めのランチタイムとはいえ客が次々やってくる地元の人気店。そこにちょっとだけ溶け込んだ気分である。

からあげもいきましょう・・・今回は「小」だが、それでもボリューム感ある。

鹿児島王将の人気メニューは天津飯。鹿児島らしく黒酢ベースの餡がかかる一品だが、前回いただいた時は(二次会だったこともあり)ちょっときつく感じた。同じものをいただいてリベンジも考えたが、あえて変化球をということで目に留まった塩ダレ天津飯を選択。シンプルな味で、中のご飯ともよく合っていた。黒酢ベースだとメイン料理、塩ダレだと締め料理の味がする。それぞれのよさ。

王将を後にしてアーケード街を歩くうち、人の動き、そしてテレビクルーの姿が見える。7月7日投開票の鹿児島県知事の候補者が天文館に来たようで、候補者本人と支持者が沿道に向けて手を振る。スタッフの人から候補者のビラを向けられたが、鹿児島県民でない私が受け取っても仕方ないことである。

直前に鹿児島県全体の歴史文化を紹介する黎明館を訪ねた時の印象の一つに「鹿児島県は南北に長い」というのがあった。その距離は鹿児島~大阪間に相当する。距離が長いのは種子島・屋久島~奄美大島~与論島といった島嶼部によるものだが、そうした地域も含めて投票を訴える候補者も大変だろう。とはいえ、人口バランスからして鹿児島市内を制した候補者が当選するだろうから、週末の天文館では力が入ることだろう。7日の「鹿児島の七夕決戦」はどうなるかな・・。

アーケード街を抜け、照国神社に向かう。その鳥居前の交差点は国道3号線、国道10号線の終点であるとともに、沖縄に向かう国道58号線の起点である。

照国神社はかつては鶴丸城の一角で、祭神は島津斉彬。この人物も明治維新に多大に貢献したとして鹿児島のあちらこちらで顕彰されている。照国神社に向かったのは、ホテルにチェックインする前に立ち寄ろうという程度のことだったが(最初から目的地にしていれば、鶴丸城~西郷隆盛像を経てそのまま直進)・・。

境内は工事中、そして水たまりがあちこちできている中、拝殿に向かう。拝殿の前に茅の輪くぐりが設けられていたのだが、ちょうど拝殿を前にした瞬間、雨粒が強くなった。この状態で照国神社に手を合わせた時の私の願いは・・「この豪雨を鎮めてください」という、何とも場当たり的なものだった・・。

この豪雨のままアーケード街まで戻り、路面電車で鹿児島中央駅前に戻った。まだ16時にもなっていないが、この日はもういいでしょう、ゆっくりしましょう・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~鹿児島・黎明館

2024年07月03日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

6月29日、鹿児島市内めぐりの続きである。城山公園から遊歩道を下って着いたのは鶴丸城跡。関ヶ原の戦いの後、薩摩藩初代藩主となった島津家久により築城された。それまでは島津氏の本拠地は鹿児島市内でも少し奥まった内城だったが(その近くに、九州八十八ヶ所百八霊場の第44番・不動寺がある)、関ヶ原で勝利した徳川氏の脅威に対抗すべく、錦江湾を前に、城山を後ろにするこの地に強固な城を建てた形である。

その後、徳川氏が鹿児島まで攻めてくることはなかったが、幕末の薩英戦争の時には海岸から近かったことでイギリス軍の砲弾を受け、明治の西南戦争では政府軍の攻撃の末、西郷隆盛が城山で自刃するという歴史が繰り広げられた。

正面には2020年に復元された御楼門が建つ。周りの堀にはハスの花が開いていて、これも鹿児島の夏の風景だという。

現在の本丸跡には鹿児島県歴史・美術センター「黎明館」が建つ。かなり以前に一度訪ねたことがあり、展示物の多さ、幅の広さが印象的だった。館内には外国人(中でも西洋人)の姿が目立つ。こうした博物館もインバウンドの対象になるとは。

「明治150年」を機にリニューアルされた展示室を回る。ボリュームが多く充実しているがために、このブログでその一つ一つを取り上げるのは無理。各フロアの展示物をそれこそじっくり鑑賞するなら丸1日かかるというくらいである。

全体を通しての私の印象だと、通史でいえば古代の「隼人」に始まり、中世の守護から戦国大名、そして薩摩藩主となった島津氏、そこから長くなるのが明治維新、西郷隆盛・大久保利通、そして新政府の下で西洋文化を吸収し、近代国家の発展に尽くした人々が次々に登場する。

また、鹿児島県全体の長さ、広さを感じることができる。鹿児島県の面積ランキングは九州でもっとも広く、全国10位。それはさておき、南北に長いのである。最北端は天草の向かいにある長島で、薩摩半島・大隅半島、種子島・屋久島・トカラ列島・奄美大島を経て、最南端は与論島。この間およそ600キロ、ちょうど鹿児島から大阪までの距離に相当する。

南北に長い、そして島しょ部を含み、さらに琉球や大陸の影響を受けた歴史もあり、民俗コーナーも多様である。本州の感覚で見るとやはり独特で、これも含めての現在の日本の成り立ちなのだなと学ぶことが多い。その広く長い鹿児島県、エリアとしては大きく薩摩、大隅、種子島、奄美に分けられているようで、ライブラリでは各エリアごとの挨拶、台風後、家族の話題・・についての会話の映像を観ることができる。それぞれ、字幕がなければ何が何やら。特に奄美となると、完全に外国語である。これらの映像は20~30年前に制作されたと思われるが、さすがに現在はメディア、ネットの広がりもあって方言の差も少なくなっているし、出演されたご年配の方もあの世に行かれただろうから、こうした方言も「史料」に分類されることだろう。

あ、でも鹿児島の文化といえば「廃仏毀釈」が徹底的に行われたことも忘れてはならない。江戸時代の浄土真宗門徒の「かくし念仏」とセットで紹介されている。島津氏は一向一揆を恐れて浄土真宗を禁じたが、その後を受けた薩摩閥の明治政府が仏教そのものを否定し、島津氏の菩提寺さえも破壊しつくしたというのは、私としては鹿児島に対するマイナスイメージである。

企画展として「近世薩摩藩の財政と商人」が開かれている。江戸時代後期、薩摩藩は天文学的ともいわれる多額の負債を抱えていた。そこに登場したのが藩主・島津重豪と、重豪により財政再建を任命された調所広郷。当時500万両にのぼっていた負債を250年かけて返済するという荒業に出た人物である。子どもの頃に歴史まんがで知ったエピソードだが、「この調所を生かすなり殺すなりせよ!」と腹をくくったことで商人たちも「しょうがないですなぁ」と引き下がったと描かれている。

展示での紹介では、調所は薩摩藩内での産業奨励や琉球との交易を通して商人たちが利益を得られるようにしたとあるが、最後は幕府から違法な交易であると目を付けられ、責任をかぶる形で自害した。薩摩藩としては調所の改革で財政が持ち直し、それが維新の原動力の一つにもなったが、現代の「コンプライアンス」という尺度で見ると評価が分かれそうだ・・。

十分満足の黎明館だが、繰り返しになるが展示物をじっくり鑑賞するなら1日いてもいいくらい。ましてこの日のような雨の1日を過ごすにはよいだろう。

敷地には徳川家定に嫁いだ天璋院篤姫の像もある。

黎明館を後にして傘をさしつつ石垣沿いに進み、西郷隆盛像の前に出る。やはり鹿児島といえば「大西郷」なのだろう。

さて遅ればせながらの食事としよう。そのまま歩いて天文館まで向かう。百貨店の山形屋の周りのアーケード街では七夕飾りが訪れる人の目を引いている。

目的地は前回も訪ねた「鹿児島王将」・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第45番「大歓寺」(鹿児島市街から城山へ)

2024年07月02日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

6月29日、九州新幹線で鹿児島中央に到着。第45番・大歓寺まで市営バスで向かうことにする。中草牟田バス停が最寄りのようだ。JR九州の在来線は前日からの大雨で運転見合わせとなっているが、鹿児島市内、この時間は雨も小止みである。

バスの乗車口にはICカードリーダーがあるが、使えるのはラピカという鹿児島市交通局独自のカードのみで、他の全国交通系ICカードには対応していない。出張や旅行で鹿児島に来た人は一見不便で戸惑いそうだが、鹿児島市交通局の市電、市バスではクレジットカードのタッチ決済が導入されている。市バスでは今年の3月から導入されたそうで、車内ポスターによると、1ヶ月の利用金額が市バスの定期運賃に相当する9660円に達するとそれ以降は無料になるとある。考えようによっては、専用のカードを買う必要もなく、チャージの心配もないのでICカードより便利ではないかと思う。

広島でも今年の秋、独自のICカード「PASPY」が廃止され、新たな交通系ICカードのサービスに移行されるが、クレジットカードタッチ決済でもよかったのではと思う。

国道3号線沿いにある中草牟田で下車し、「出会い坂通り」を歩く。何に出会えるのかな・・。

その通りを入ったところに大歓寺の看板が見える。地階が駐車場で建物は2階にある。九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの公式サイトによると開創は1970年とある。外には観音菩薩や波切不動明王などの像が出迎える。

扉を開けて中に入る。こちらの本尊は不動明王で、そのお札を授かった方の中には水害などの危機を間一髪逃れたという霊験談が数多くあるのだとか。外陣、内陣にはさまざまな仏像や仏具が並び、日常的に祈祷なども盛んに行われているようだ。

お勤めを終える頃、内陣の奥から寺の方らしい女性が出て来たので御朱印をお願いする。いったん入口脇のスペースに入り、お接待としてお菓子を持って出て来られる。九州八十八ヶ所の札所、特に南に来るとその傾向があるように感じるが、「どちらから?」と尋ねられる。広島からと答えるとその女性は驚いた様子。一時、広島で暮らしていた時期があったという。市内の町名も出て来たので、これも面白いご縁だなと思う。

さてこの後どうするか。指宿の第47番・光明寺、日置の第49番・剣山寺は前回訪ねており、薩摩半島で残る枕崎の第97番・大国寺は翌30日に行く。ホテルのチェックインまで市街で過ごすことにする。ちょうど行きたいスポットもあるし・・。

地図を見ると、桜島を望む城山公園まで直線距離では近いようだ。もっとも「城山」だから近いといっても上り坂が続くのだが、これも鹿児島の町歩きということでそのまま歩くことにする。幸い、雨もまだ止んでいる。

通り沿いに、7月7日投開票の鹿児島県知事選のポスター看板を見る。7月7日といえば東京都知事選が注目されているが、鹿児島も選挙なのか。現職の男性候補に新人の女性候補2人が挑む構図。「鹿児島初の女性知事を!」との文字も見えるが、私個人のイメージ、予想ではやはり自民党系の現職といえば地方ではまだまだ強いし、鹿児島といえば特に男尊女卑の気風が強く残っている地域ということで、東京都知事選よりもあっさり当確が出るのではないかと思う。まあ逆にいえば、それをひっくり返す展開となるとそれこそ「維新」といえるのでは。

城山団地という結構広い住宅地を抜ける。もちろん、通りの一角には火山灰の集積場も見える。気づくと結構高いところまで到達して、その後で城山公園の遊歩道入口に着く。

そのまま遊歩道を抜け、桜島の展望台に到着。桜島の頂上と中腹に雲がかかっており、帽子をかぶりベルトを巻いたようにも見える。こういう雲のかかり方、桜島ではよくあるのだろうか。雨天ということで桜島が全く見えないことも予想していただけに、よく見えたほうではないかと思う。

この後、遊歩道を下り薩摩義士の碑に出る。城山の麓の薩摩義士とは西南戦争で西郷隆盛に殉じた人たち・・ではなく、江戸時代、徳川幕府から薩摩藩に課せられた尾張・美濃の木曽川、長良川、揖斐川の改修工事に命をかけ犠牲になった人たちの慰霊碑である。犠牲になったといっても、土木作業中に不慮の水害に遭って亡くなったのではなく、幕府の役人と地元民衆とのトラブルに巻き込まれたとか、疫病にかかったとか、何ともいたたまれない事情である。

ここまで来ると鶴丸城跡に入る。ここに建つのは鹿児島県歴史・美術センター黎明館。ここだけで鹿児島県のあらゆる歴史文化に触れることができるとして、この札所めぐりではぜひ訪ねようと考えたスポットである・・・。

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第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~今年もまた大雨の時季がやって来た

2024年07月01日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

今年もまた線状降水帯が発生する季節となった。このところ毎年どこかの地域でまるで当番にでも当たるがごとく被害が出ている。7月に入り、広島県内は前夜から大雨が続き、幸い大きな被害はないようだがそれでも気がかり。またこの直前には南九州が大雨だった。

さて、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりである。前回は5月中旬、鹿児島で行われるホークス対バファローズの試合観戦と組み合わせてのものだったが、残念ながら雨天中止。代わりに、日置市にある第49番・剣山寺に先に参詣した後、午後の時間を指宿枕崎線の乗り鉄に充てたのだが、途中停車の日本最南端の駅・西大山でのわずかな停車時間にホームに出てそのまま列車に置き去りにされるというハプニング。雨の中タクシーで枕崎に向かい、枕崎で車内に置いたままの荷物は回収できたが、帰りの列車は途中大雨のために遅れ、予定していた新幹線に間に合わなかった・・というドタバタだった。

今回のターゲットは鹿児島市内の第45番・大歓寺、そして枕崎にある第97番・大国寺である。これで最南端の薩摩半島を回り終えることになる。当初は遠方の宮崎、鹿児島両県をどう回ろうかと思案したものだったが、1泊2日ずつでも結構広範囲に回ることができ、乗り鉄も楽しめている。

6月29日、30日という今年のちょうど折り返しの週末に出かけることにした。29日は鹿児島入り後、大歓寺を訪ね、その後は鹿児島市内を回ってそのまま宿泊。そして30日はレンタカーで薩摩半島に向かい、その途中、枕崎の大国寺を訪ね、最後は川内駅でレンタカーを返却する。九州一周のコマを進め、この次で北薩の2ヶ所をめぐって鹿児島県の札所をコンプリートする予定である。

広島6時53分発「こだま781号」博多行きで出発。広島から西へ安く向かう時の定番。この先の鹿児島は前日28日から大雨で、この日も雨が続くとある。車内でぼんやり過ごすうちに博多に着き、8時40分発「さくら403号」に乗り継ぐ。この組み合わせ、日本旅行の「バリ得」の定番である。この先、九州新幹線の沿線ではこの組み合わせで安くアクセスすることができ、利用する機会も増えるだろう。

熊本を過ぎたが、この辺りはくもり。右手の車窓奥には雲仙の姿を見ることができる。

出水の手前では不知火海もちらりと見える。今回は新幹線での往復だが、次あたりは不知火海、東シナ海に近いところも走る肥薩おれんじ鉄道にも乗ってみたいものである。

川内を発車し、次は終点・鹿児島中央。車窓を見る限りでは雨はそれほど強く降っていないが、車内案内では、鹿児島エリアの鹿児島線、日豊線、指宿枕崎線、いずれも運転見合わせとあった。幸か不幸か、今回の行程で在来線に乗る予定はないので影響はなさそうだが・・。

これから向かう大歓寺へは駅前からバスで向かう。九州八十八ヶ所百八霊場めぐり公式サイト掲載の案内では、中草牟田が最寄りという。バスの行き先案内を見て、伊敷方面の乗り場に向かう・・。

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