ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

父の命日

2009年02月10日 | 家族とわたし
今日は2月10日。父の命日です。
父は日本で亡くなったので、正確に言うと、もうとっくに過ぎてしまっていますが……。
毎年、命日には海老の天婦羅を揚げて、他のおかずと日本酒と一緒にお供えしているのですが、
今日は急な嬉しい予定変更などがあって、その後すぐに仕事、コミュニティバンドの練習が続き、とうとうお供えをすることができませんでした。

父は、悪性で急性のスキルス性胃癌にかかり、体調を崩して病院に救急車で運ばれた時点で、すでに手遅れの状態でした。
結局4ヶ月しか闘病できずに、モルヒネ投与を増やされ、意識が朦朧となったまま亡くなってしまいました。
意識が混濁する直前まで、父は夜になると、「上六の天婦羅食いに行こ」と言い出し、体に入ったチューブを引き抜こうとしました。
仕方がないので、車椅子に乗せ、消灯後の病棟の廊下を何周かしながら、「しっかり治そな。今この辛い時を堪えたら、絶対に天婦羅屋で乾杯しよな」と話しかけたりしました。
けれども、日によっては、そんな誤摩化しがきかず、廊下で大声を出したり愚図ったりする父を、夜勤の医師や看護士が厳しく注意したりしました。
もう口からは食べ物を受け付けられなくなっている、弱り切ってガイコツみたいに痩せ細った父が、目だけをギラギラさせて「天婦羅、天婦羅」とうわ言のように繰り返すのを見ているのは、とても切なく辛いことでした。

なので、命日と誕生日には必ず、天婦羅をお供えしようと決めました。
息を引き取る間際に、綿に湿した日本酒を唇に塗ると、下顎呼吸が始まって苦しい時だったというのに、ニッコリと微笑んだ父。
いっぱい笑わされたり、困らされたり、泣かされたりしたけれど、やっぱり大好きな父でした。わたしを本気で愛してくれた父でした。
たまらなくなって、父の首根っこにしがみついて叫びました。
「パパの娘で楽しかった。幸せやった。ありがとう。もうええよ。こんなに頑張ったんやもん、もうええよ。わたしのパパになってくれてありがとう」

明日、父が時々思い出したように心配していたS子が来てくれるので、S子と一緒に1日遅れのお供えをしようと思っています。
きっと、「ま、そういうことなら待ったるわ」って、父もそう言ってくれると思います。
コメント (12)
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ウィーンからのお客さま

2009年02月10日 | 友達とわたし
S子は、わたしが5才の頃からの幼馴染み。
わたし達は、桜ヶ丘という、坂道の下から上までの両側に、桜の木がぎっしりと植わっている、昭和三十年代の新興住宅地内の近所に住んでいました。

いつも2人一緒、紙を切り抜いて遊ぶ着せ替え人形ごっこをしたり、小さなビニールプールで遊んだり、変わったところでは、音当てごっこをしたり、
2人とも偶然に絶対音感があったので、ヤマハの音楽教室から始まった音楽への道は、大阪の相愛大学が開設していた「子供音楽教室」につながり、
2人はいつも遊びながら、ちょいと競争し合ったりもして、お互いに、無言のうちに、頑張ろうねと励まし合いながら、ピアノや音楽の基礎知識や、耳の訓練に勤しんでいました。

途中、わたしが中学校に進学して間もなく、家庭事情がガラリと変わり、ピアノを続けていくことがとても難しくなってしまいました。
中学三年生の時には、不注意から3階から真っ逆さまに落下してしまい、その事故の怪我と後遺症で、経済だけでなく、身体的にもピアノは無理になりました。
それからどんどん状況は悪化していき、わたしは彼女から離れていきました。
そうしないと、ついつい羨んでしまう自分が情けなかったし、自分に降りかかったどうしようもない運命みたいなものを素直に受け入れられなかったからです。

ずいぶん長い時間が経ちました。
その、ずいぶん長い間、わたしはわたしに与えられた環境を幸せだと思えるように、悪あがきをしたり、たくさんのことを諦めたりしながら生きていました。

離婚して、初めて人より自分を大事にして決めた今の結婚の暮らしが始まってからは、辛いのは貧乏だけになりました。
すると、なぜだか懐かしい人達に逢いたくなりました。
今までの、それまで生きてきた自分全部を、もう一度しっかり抱きしめてやりたくなりました。

S子の、音楽家としての成功を、彼女の試練や苦労に耐え抜いてきた強さも含めて尊敬できるようになりました。
もちろん羨ましいけれど、それは妬みではなく、とても温かな羨みです。
彼女を訪ねてウィーンに2度行きました。1回目は彼女の40才の誕生日に、2回目は彼女の婚約記念パーティに。

そして今、その彼女は、ラブラブのご主人と一緒に、2回目の訪米旅行でブルックリンに滞在しています。
ご主人はアメリカ人の、元テノールオペラ歌手さんで、彼の息子さん家族がブルックリンに住んではるのです。
今日は急に、息子さんの奥さんがニュージャージーに仕事で来るというので、それならついでにS子も車に同乗させてもらい、わたしがそこまで迎えに行くことになりました。

懐かしくて嬉しくて、車の中からしゃべりっ放し
幼馴染みって、どんなに長く時間が過ぎた後でも、逢えばすぐに、まるでいつも遊んでいたあの頃に戻るんですね。話す事柄は現在なのに。
レストランに行こうか、どうしようか。あ、でも、冷凍庫に加ト吉のたこ焼きあったし……。
S子に言うと、「たこ焼き!それ食べたい!」とニコニコ顔。
加ト吉の「冷凍たこ焼き」&Costcoで買った「冷凍薄焼きピザ」&具沢山の豚汁(これだけは手作り)……幼馴染みだからね~これでいいよね~

お互いに、外からしか見られなくなった日本のことや、自分の住む国のこと、そして50代の女性特有の体のこと、旦那のこと、もちろん音楽のこと、
話しても話しても尽きない話をしながら、もちろん食べ物もどんどん放り込みながら、突然の贈り物の楽しい時間を過ごしました。
食後の珈琲(S子のウィーン土産)と一緒に、ビスコッティと薄焼きクッキーを食べている時、どちらもしっかりアーモンドが入っているのを見たS子、
「相変わらずアーモンド好きやねんから……。まうみってさ、相愛に通てた時も(近鉄急行で55分かかりました)電車乗る時必ず、アーモンドチョコと酢昆布買うてたもんな」と、感慨深げにつぶやきました。
明治のアーモンドチョコレートと都の酢昆布。嗚呼!なんて懐かしい
小学生だったS子とわたしが、マーガレットや少女フレンドなどを抱えて電車に乗り込み、窓際にアーモンドチョコを置き、電車の揺れに体をまかせながら、梅図かずおの恐い漫画を、半分閉じるようにして恐々覗き見していたのを思い出しました。

彼女達は明後日、ご主人の実家のあるテキサスに飛びます。
空港が、ここからの方が近いので、明日の昼頃から、今度は夫婦で遊びに来てくれます。
明日はちょっと、手抜きじゃない手料理を食べてもらおうと思っています


コメント (2)
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