ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

2010年06月07日 | 家族とわたし
「なあ、いっぺんおとうの墓参りに行く?」
日本に行く、とメールをすると、こんな返事が返ってきた。
「うんうん!行く行く!」
すぐさま返信した。

幼い頃の弟はよく、酒の入った父から理不尽な怒られ方をした。今だと多分、隣近所の人に通報されているだろう、と思われるようなことも数回あった。
十才の甘え盛りの時に、大好きだった母が突然家を出て行った。
それからは、残った姉のわたしと一緒に、父が次々に見せるとんでもない人生の展開を、ただただ受け入れるしかない毎日が続いた。

わたしはまだいい。親の羽振りが良かった時代に、投資してもらうだけ投資してもらい、小学校から中学校までの間、音楽の英才教育を受けさせてもらった。
結婚などでお金が必要な時に限って、その当時付き合っていた女性がお金持ちだったり、たまたまかたまった身銭が入っていて、いろいろ支払ってもらった。

ところが弟は、彼の進学時の家はとことん悲惨な状態でそれどころではなく、とりあえず手に職をつけようと調理師学校に行くも、そこで板前の男同士の陰惨ないじめに遭い、最後には全く身に覚えのない濡れ衣まで着せられて、そこをやめざるを得なくなった。

その頃の父は、少し危ない、娘のわたしから見てもそれは詐欺ではないのかと疑いたくなるような事を始めていて、妙な輩が頻繁に家を訪れていた。
父はいろんなことに手を出しては失敗し、弟名義でカードを作り、それさえも破綻して、本人の弟が知らない間に、彼をブラックリストに入れてしまった。
それからの弟は、どこに就職したくてもできず、クレジットカードはもちろん作られず、成人する前からすでに、社会の闇に葬られてしまっていた。

同じ親の子として生まれて、こんなふうに不公平なまま大人になって、とわたしは時々弟のことを想う。
そうしていつも、ごめんな、おねえちゃんだけ……と心の中で話しかける。

そんな弟も今年50才。
鶴橋にあるワンルームマンションで、仲良しのFちゃんと一緒に細々と暮らしている。
麻雀屋に勤め、働きぶりを認められてその店の店長にまでになったのに、阪神大震災でビルが倒れ、当時働き手が何人いても足りなかった建築屋で働き始めた。
やはり仕事を真面目にやるので、何年か経つうちに親方のような立場になり、それなりに収入も増えた時期があったが、この不況で今はかなり厳しい。
年をとっても続けられる仕事ではないので、最近、重機を操れるよう免許を取った。

10年前に、突然父が末期ガンで倒れ、亡くなるまでの三ヶ月半、彼は一日も欠かさず父を見舞い、父はそのことをとても喜んでいた。
亡くなる数日前、モルヒネでかなり意識が朦朧としていた父が、広告の裏に墓石の絵を描いた。
その墓石の上の方に、父、母と書いてあり、その墓石のてっぺんを指し示す(→)印が、一段と濃く太い線で描かれていた。
わたしと弟、そして親戚の誰もが、父は自分の両親が眠る墓に骨を納めて欲しいのだな、と解釈した。
けれども、倒れる半年前に突然、妻が経営する会社のためだ、とか言って養子縁組をした父は、戸籍上、旧姓の墓に戻ることはできなくなっていた。
そんなこともあって、父方の親戚連中と父の妻の関係は、もとから良く無かったが、父の死が間近になるにつれ、決定的に悪くなった。
そんな中も、弟は淡々と、ただ毎晩、仕事の帰りに父を訪ね、話をしたりしなかったり、とにかく父を見舞った。
亡くなる前日に、わたしと弟と3人だけだった病室で、父は突然、「許してくれよ。すまんかった。ろくなことしてやれんかった」と涙ぐんで言った。
弟は黙っていた。顔を見たけれど、そこにはなんの表情も現れていなかった。

父が亡くなり、それから二ヶ月ほど経った春に、今度はたったひとりの姉のわたしがアメリカに移住してしまった。
「俺、とうとう天涯孤独になってしもた……」

「姉ちゃんを見送った後、Yさん、お酒飲みながらポツリとそう言うてました」と、今回日本に行った時、Fちゃんから教えてもらった。
旦那のアイディアで、35年間音信不通のままの母と弟を逢わせようと、わたしを訪ねるためのアメリカ旅行ふたり旅(9年前)を企てた。
その旅行から後、弟と母との交流が始まった。
わたしは3年に一度ぐらいしか日本に行かなかったので、弟と逢うチャンスはとても少なく、逢えても数時間から多くて1日ぐらい、というのが続いていた。
今回こそはもう少し時間を作ろうと思い、彼のマンションで二泊させてもらうことにした。
弟のマンションはとても狭く、Fちゃんとふたりしてタバコをスパスパ吸うので、部屋の中に居る間は正直言ってかなり息苦しい。
けれども、そんなことはどうでもいい。わたしは弟と少しでも長く時間を過ごしたい。そう思っていた。

出発する前にメールで何度も予定を伝え合い、金曜日の午後6時以降に、弟のマンションに行くことに決めた。
わたしはその前日の晩に大阪に入り、ブログで知り合った人達と初顔合わせをするように予定を組んだ。
ところが、大阪に入る直前に寄った、三重県に住む伯母の家に、連絡先を細々と書いた紙を置いてきてしまった。
わたしはブログ仲間との初顔合わせのことを、弟にも伯母にも内緒にしていた。
親戚の中でもわたしは『変わり者』で『突拍子も無いことを平気でする』とずっと言われ続けていたので、
インターネットで知り合っただけの見知らぬ人達と逢うばかりか、泊まるやなんて……と、またいらぬ心配をかけるのがイヤだった。
父が亡くなってから以降、実に十年もの間、音信不通だった伯母からの電話を受けた弟は、何事が起こったのかと驚いた。
「今日あんたのお姉ちゃんがうちに来てくれてんけど、その時大事な紙を忘れていってん。これ、行く先の連絡帳やと思うねん。こんなん無くして、今頃困ってたらあかん思て。確か、これから大阪に行く言うてたで。あんたのとこやろ?」と言って、弟にファックスで送ってくれた。
えらいこっちゃ!おねえのこっちゃ、大阪に来る予定を早めて出て来たんかもしれん。ほんで、俺の電話番号わからんと、今頃大阪のどっかで迷てしもて困り果ててるんかもしれん!
血相を変えて、その用紙に書かれた番号に手当たり次第に電話をかける弟を横で見ていたFちゃんは、その時の彼がどんなに必死だったかを後で教えてくれた。
その頃わたしは、仁ちゃんとchi-koちゃん、そしてrobaちゃんと4人で、北新地から喫茶店に移動し、『エキサイティング大阪』の締めを楽しんでいた。
知らない番号から何度も電話がかかっているのを見つけたchi-koちゃんが、もしかしたらわたしの関係の人かもしれないからと、携帯を貸してくれた。

「おまえ、今どこでおんねん?」
「え?大阪」
「大阪でなにしてんねん?」
「こっちの友達と逢うてるねん」
「おまえ、おばちゃんのとこに紙忘れて行ったやろ」
「え?」
「連絡先をいっぱい書いた紙」
「あ……」
「おばちゃんが、まうみが大阪に行く言うてたのに、これ無くして迷てたらあかんから言うて、俺とこに連絡してくれたんや」
「そりゃ悪かった、ごめん」
「もうええんやな。ちゃんと逢えてるんやな」
「うん、もうええねん。すごく楽しんでる。ありがとう」

かなり怒ってる様子。
恐ろしくて、次の日の夕方まで電話をかけられなかった。
なにわの湯から、またまたchi-koちゃんの携帯を借りて電話をかけると、Fちゃんが出た。
「姉ちゃん、Yさん、今日ちょっとまだ態度悪いかもしれんけど、許したってね。昨日はほんま、姉ちゃんのことめちゃくちゃ心配して、必死で探してはってん。Yさん、今回姉ちゃんが来てくれるの、ほんまのほんまに楽しみにしてはってん。ほんまに嬉しそうやってん。そやし、余計に腹立たはったんやろと思うねん。Yさんのことやから、機嫌はすぐに直ると思うから、あんまり気にせんとってね」
「あ、それと、Yさん、ファックスで送ってもろたあの紙、ビリビリに破いてほかしてしまいはったみたい。それもかんにんしたってね」
Fちゃん、ごめん!愚かな姉をかんにんしておくれ!
今回こそはミスの無い、完璧な旅をするぞ~!と意気込んでいたのに、やっぱりボケが出てこの有様。そりゃまあ信用してって言う方が無理か。

翌日、今回の旅のメインイベントのひとつ、父の墓参りに出かけた。
父の墓については、またいろいろと紆余曲折があって、結局お骨が納められたのは亡くなってからかなり時間が経ってからだった。
そしてその場所も、葬式の後、父の最後の妻である女性とわたし達がプツンと関係を絶ってしまったので、長い間知らされることはなかった。
突然、一度墓参りを一緒にしないか、という連絡がその女性から入り、その時一度だけ、弟とFちゃんがお墓を参りに行った。
その時の記憶だけを頼りに、今回のお墓参りを敢行しようというのだ。果たしてうまくいくのだろうか。
阪急電車の、三宮の少し手前の駅名が、その霊園の名前と一緒だったと、それだけはふたりの記憶がきっちり合っているので、まずはその駅で降りることにした。
てくてく歩いて行くと、弟の記憶通り、ほんの数分でその霊園に着いた。
ところが、「あれ?道沿いにこんなふうに線路なんかなかった」「こんな立派な門は無かった」「学校が横には無かった」と、無かった尽くめ。
けれども、霊園の名前は同じ。そして、園内は急な傾斜があって、山を背に拝んだという記憶にぴったりの墓石も見つかった。
問題は、どの墓石も名前が違う、ということだった。
二手に別れ、霊園の隅から隅まで探し歩いた。けれども一向に見つからない。
日が暮れてきたので、仕方なく、墓守さんが居る待合所のような建物に入って行った。
「どないしはりましたん?」
「お参りに来たのですけど、お墓がどうしても見つけられないんです」
「見つけられへんって……前にも来はったんでっしゃろ?」
「弟が一度。けど、その時の記憶を辿って行ってみても、違うお名前のお墓しか無くて」
「どなたが管理をしてはるんやろ?」
「それが……いろいろと事情がありまして……はっきりとしたことがわからないんです」
「そんな……わからへんて……よほどのいろいろなんやろねえ、いや、お尋ねはしませんけどね」
「はあ……」
「ほな、何々家のっていうのはわかりますやろ?」
「はい、Y家です」
「ああ、その名字は多いかもしれんなあ……。ちょっと台帳で見てみはります?」
Y家と墓の敷地番号をメモして、また探しに出かけることにした。
「おとうさん、きっと、呼んではるんやと思いまっせ。喜びはるやろさかい、見つけたっておくれなぁ」
「はい、きっと見つけます。ありがとうございました」

心の中で父を呼んだ。心の声が枯れるほど呼び続けながらあちこちをくまなく回ったけれど、とうとう父は見つからなかった。
管理費の支払いを三年怠ると、墓石は撤去され、お骨は無縁仏の供養場に納められるそうだ。
父が入ったお墓を購入した当の本人は、ずいぶん前に会社が破綻し、その後、海外に姿を消してしまっている。
だから、こんなお墓の管理費など、もうとっくに忘れた事なのかもしれない。
弟とふたりして、無縁仏の大きな仏様の像の前に立ち、お線香を手向け、手を合わせて拝んだ。

弟は50才。
「ボクはいっつもお姉ちゃんといっしょやもん」
ポツンと、けれどもどこか必死な声色でそう言った、10才だった弟の可愛らしいボーイソプラノの声が、耳の奥で生き続けている。
その晩、行きつけの、美味しい広島焼きを食べさせてくれる店と、カラオケバーに連れてってくれた。
とてもすてきなママさんの小さな店で、客はわたし達3人だけだった。
そこでしこたま飲んで、かなり酔っぱらったFちゃんが、何度も何度もくり返して言った。
「あんな~ママ、Yさんとお姉ちゃん、ごっつぅ仲ええねん。仲良っしゃねん。仲良過ぎてよう喧嘩するねん。けど、ほんま、仲ええねんな~Yさん!」
弟はにこりともしないで黙っていた。ビールの量も少なかった。歌も歌わなかった。やっぱりまだ、ほんとは怒ってたのかもしれない。

弟が別れ際に手渡してくれた、すごい量の日本のテレビからの録画が入ったDVDと三輪素麺を見ていると、今も少し胸の奥の方が切なくなる。









コメント (14)
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