わたしはこの日を決して忘れることはないでしょう。
あなたは、見知らぬ異国で暮らすわたしを、しかも結婚に失敗して幼い息子ふたりを抱えたわたしを、それはそれは温かく迎え入れてくれました。
あなたの視線の先に座る、あなたの若い息子とわたしの幼い息子達。あなたが父であること、祖父であることが、どれほどに心の支えになったことでしょう。
おとうさん、こうしてあなたの娘でいられることが、どんなに幸せなことか。
ほんとうにありがとう。
父の70回目の誕生日がもうじきやってきます。
父は『父の日』の間近に誕生しているので、毎年贈り物をするのがややっこしいのですが、今年は70回記念だというので特別のお祝いをすることになりました。
去年の師走に、先に70才になった母は、父から盛大なサプライズのお祝いパーティをしてもらいました。
Tの大学の卒業式の日の、あの、大雪の嵐に見舞われた次の日のパーティです。
わたし達が12時間、高速道路上に拘束(シャレか?)された日の夕方、父が役員をしていたハーシーズが経営するホテルで行われ、わたしはそこで、母への感謝の気持ちを込めて、母が一番好きなブラームスの曲を弾くはずでした。
今度は母がお祝いをする番。
父とはまるで正反対のタイプの母は、お金ではなく、人を動かすことで、父へのお祝いをしようと計画しました。
父の家族、親戚全員に、それぞれ自由に、父にまつわる思い出を綴ったページを作って欲しい、というお願いメールが送られてきました。
わたしにとってあの日はやっぱり、特別中の特別な日。だから、古い写真を探し出して、それをスキャンしました。
一銭も持たずに婚家から夜逃げしたわたしと、英語をちまちまと教えていただけの旦那。
だからとてもとても貧しかった。
けれども、わたし達の結婚を祝うために、両親がアメリカからやってきてくれるということになりました。
その頃のわたし達は、自分達がしたことによってたくさんの人々を傷つけたことでとても傷ついており、そんなことをした自分自身を祝うなどということが、とてもじゃないけれどできない気持ちでいました。
息子達を寝かせた後、決まって心が押しつぶされそうになり、しまいには吐いてしまうほど泣いていた頃でした。
けれど、父も母も、そんなあなた達だからこそ、だからこそ自分達を祝いなさい。そうして幸せになることが、悲しい思いをしている人達への償いになるのだからと言って、祝う日を儲けることを勧めてくれました。
一大決心をして、その時期に合わせて披露宴の真似事をしようと決め、新しく生き始めた大津での、できたてホヤホヤの友達、伊賀上野からの友達、そして旦那の京都時代の友達、それから、数少ない、わたしの理解者であったピアノの師匠と母夫婦にお願いして、会費制のお祝い会をしてもらったのでした。
これは、大津の円満院というお寺です。
わたし達の事情を知って、なぜか共感してくれた円満院に働く人達が、いろいろと心配りをしてくださった宴になりました。
座敷を解放し、膳を並べ、その上に素晴らしく美味しい山菜料理を所狭しと並べてくださいました。
わたし達に支払えた金額は、あの日来てくだすった方々からいただいた、確か3500円だった参加費の人数分だけ。絶対にそれ以上の費用がかかっていると思うのに、それだけしか受け取ってくださいませんでした。
本当に、温かなもてなしを受けて、ありがたくてありがたくて、今も胸が熱くなります。
どんなに感謝しても足りないけれど、わたしが心を込めて探した写真と、今だ拙い英語で書いたメッセージなのでした。
あなたは、見知らぬ異国で暮らすわたしを、しかも結婚に失敗して幼い息子ふたりを抱えたわたしを、それはそれは温かく迎え入れてくれました。
あなたの視線の先に座る、あなたの若い息子とわたしの幼い息子達。あなたが父であること、祖父であることが、どれほどに心の支えになったことでしょう。
おとうさん、こうしてあなたの娘でいられることが、どんなに幸せなことか。
ほんとうにありがとう。
父の70回目の誕生日がもうじきやってきます。
父は『父の日』の間近に誕生しているので、毎年贈り物をするのがややっこしいのですが、今年は70回記念だというので特別のお祝いをすることになりました。
去年の師走に、先に70才になった母は、父から盛大なサプライズのお祝いパーティをしてもらいました。
Tの大学の卒業式の日の、あの、大雪の嵐に見舞われた次の日のパーティです。
わたし達が12時間、高速道路上に拘束(シャレか?)された日の夕方、父が役員をしていたハーシーズが経営するホテルで行われ、わたしはそこで、母への感謝の気持ちを込めて、母が一番好きなブラームスの曲を弾くはずでした。
今度は母がお祝いをする番。
父とはまるで正反対のタイプの母は、お金ではなく、人を動かすことで、父へのお祝いをしようと計画しました。
父の家族、親戚全員に、それぞれ自由に、父にまつわる思い出を綴ったページを作って欲しい、というお願いメールが送られてきました。
わたしにとってあの日はやっぱり、特別中の特別な日。だから、古い写真を探し出して、それをスキャンしました。
一銭も持たずに婚家から夜逃げしたわたしと、英語をちまちまと教えていただけの旦那。
だからとてもとても貧しかった。
けれども、わたし達の結婚を祝うために、両親がアメリカからやってきてくれるということになりました。
その頃のわたし達は、自分達がしたことによってたくさんの人々を傷つけたことでとても傷ついており、そんなことをした自分自身を祝うなどということが、とてもじゃないけれどできない気持ちでいました。
息子達を寝かせた後、決まって心が押しつぶされそうになり、しまいには吐いてしまうほど泣いていた頃でした。
けれど、父も母も、そんなあなた達だからこそ、だからこそ自分達を祝いなさい。そうして幸せになることが、悲しい思いをしている人達への償いになるのだからと言って、祝う日を儲けることを勧めてくれました。
一大決心をして、その時期に合わせて披露宴の真似事をしようと決め、新しく生き始めた大津での、できたてホヤホヤの友達、伊賀上野からの友達、そして旦那の京都時代の友達、それから、数少ない、わたしの理解者であったピアノの師匠と母夫婦にお願いして、会費制のお祝い会をしてもらったのでした。
これは、大津の円満院というお寺です。
わたし達の事情を知って、なぜか共感してくれた円満院に働く人達が、いろいろと心配りをしてくださった宴になりました。
座敷を解放し、膳を並べ、その上に素晴らしく美味しい山菜料理を所狭しと並べてくださいました。
わたし達に支払えた金額は、あの日来てくだすった方々からいただいた、確か3500円だった参加費の人数分だけ。絶対にそれ以上の費用がかかっていると思うのに、それだけしか受け取ってくださいませんでした。
本当に、温かなもてなしを受けて、ありがたくてありがたくて、今も胸が熱くなります。
どんなに感謝しても足りないけれど、わたしが心を込めて探した写真と、今だ拙い英語で書いたメッセージなのでした。