ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

祝・チャンス到来

2010年08月24日 | お家狂想曲
『いいチャンスがやって来たようですね。

頭打って、落ち込んで、悩んで、迷って……ね。

みんなみんな同じ、一生勉強。

フレーフレーまうみ!!!』


T師匠からのメールです。
日本は猛暑。そんな中、毎日わたしのブログを読みながら、いつも見守ってくれているT師匠。

最後の「フレーフレーまうみ!!!」が、師匠の声で聞こえてきて、胸が熱くなってちょっと泣きました。

ありがとうT師匠!
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とりあえずケーキ

2010年08月24日 | 家族とわたし
今日24日は息子Kの22才の誕生日です。
満月が空にぽっかり浮かんでいるはずなのですが、残念ながら今日は一日中雨。今もすっぽり厚い雨雲に包まれてしまっています。
でも、肉眼で見ると、ふわぁ~っと明るい空です。
わたしの古いシンプルデジカメではこれが限界。真っ暗で全然見えません。



なので、ちょっとよそから満月の写真を拝借。



だって誕生日なんだも~ん(←変な言い訳)。

とはいうものの、肝心の本人は友達が祝ってくれるってんで出かけて行きました。
旦那とわたしが「家族として、当日に祝わせてくれ~!」とお願いすると、8時に出かけるのでその前だったらということで、7時半にミニ誕生会!
わたしは今夜は7時過ぎまで仕事があったので、ケーキを買うのは旦那が担当。そして……なぜだか2個も買ってきた。



これ、ちっちゃく見えるんですけど、ひとつひとつが結構デカい。きっと自分が食べたかったんだろうな。
ケーキだけってのもなんなんで、小さなアロエの鉢植えと、Kの好物ホットソース2瓶(ちょっと高め)とポテトチップスを贈り物に。
とりあえず、きちんとお祝いするのは明日の夜、ということにして、今夜はこんなんで済ませました。

母子ともに、あと10分手術が遅れたら多分命が危なかっただろうという、Tの時とはまたひと味違うスリル満点な出産でした。
生まれたすぐの彼の全身は、気味悪い紫色したロウのようなかさぶたに覆われていて、それが全部取れてきれいになるまでけっこう長い時間がかかりました。
目やにも酷くて、毎朝目が覚める頃に、温かいお湯に湿した綿で瞼が合わさっている部分をソッと拭き取ってやらないと開けることもできませんでした。
アレルギーならなんでも御座れだったK。チック症もいろんなのを見せてくれたりと、つい最近まであれやこれやと忙しい子でしたが、やっとすっきり取れてきたようです。

小さい頃は、危ない所や変な所に行ったり潜ったり登ったりするのが好きで、毎晩、ただひたすら、無事に大人になってくれることだけを祈りました。
それが今じゃ、我が家一番の安全運転手。ほんと、世の中、なにがどうなるのかわかりません。

うちの子供に生まれてくれてありがとう。
いろんな楽しいこと、おもしろいことを経験させてくれてありがとう。
優しい気持ちをいっぱい見せてくれてありがとう。

ただひとつ、今日だからこそお願い。タバコ、やめなはれ。
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笑ってください

2010年08月24日 | ひとりごと
わたしは自分のことを、『芸は身を助ける』のお手本のような人間だと思っていた。
わたしは自分のことを、ピアノが上手だからこそ、いろんな場面でいろんな人と出会い、その都度助けてもらったり、道を示してもらえたと思っていた。
そのピアノの土台をしっかり作ってくれたのがT師匠で、そんなわたしのピアノに惚れ込んで、大事な節目節目に救いの手を差し延べてくれたのがH師匠だと思っていた。

「そりゃそうと先生、先生はどうしてまうみを、とんでもない手間や努力を惜しまずに助けようとなさったんですか?」

マンハッタンのレストランの、通りに置かれたテーブルを挟み、ワインを飲み飲みA子が聞いた。
A子にすりゃ、それは本当に、純粋に、どうしてかわからないことだったのだろう。
わたしがすごい才能の持ち主で、素晴らしいピアノを弾く人間だったらわかる。
もしくは、師匠とわたしが立場を超えて、恋愛関係に陥っていた、ということなら話はわかる。
でも、全くそのどちらでもないということが明白なのに、ならどうして?と思うのは当たり前だ。

「もう随分前のことだから、僕はあまり覚えてないのだけれど、そうだねえ……」と、しばし考える師匠。
「多分、これは僕の想像だけど、まうみがその頃働いていたガス会社に電話をかけたのは、まうみのおかあさんから連絡を受けたからだと思う」

えぇ~!!
わたしはそれを聞いて、本当に心の底から仰天した。
その頃わたしはまだやくざから追われていて、13才の時に生き別れた母が再婚した家に隠れさせてもらっていた。
父の借金が絡んだゴタゴタに巻き込まれて、家財もピアノもすべて持ち去られ、自分も借金のカタに売られ、それで逃げていたのだから、音楽への夢なんかとっくの昔に消えていて、とにかくこの世はお金なんだ、お金があれば借金なんかしないし、こんな目に遭わなくても済むんだからと、別にヤケにはなっていなかったけれど、相当に冷めていた。

そんなわたしに、母は何も言わなかった。
「今はとにかく仕事を探してお金を得たい」と言うと、新聞の求人広告を次々に見せてくれた。
ガス会社の臨時募集に応募して、筆記試験を通り、3回の面接試験を次々に突破していくと、我が身のことのように喜んでくれた。
勤め始めてからも、やはり何も言わずに、食事を作って食べさせてくれた。

師匠からの電話を受けたことを、驚きと戸惑いとともに伝えた時も、確か母は何も言わなかったように思う。
ただ、どうしようかと迷っているわたしに、「自分の思うように、ちゃんと考えて返事したらいいのと違う?」と言われたような覚えがある。


「でも師匠、師匠はわたしが高校生だった時、夏の講習会のレッスンで教えてくださって、僕のところにいらっしゃいって言ってくれましたよね」
「ああ、あの時は、まうみの高校の音楽の先生をしていらしたO先生がね、あの子はとても複雑な家庭環境でね、それだけではなくて、事故の後遺症で指にほとんど力が入らなくなってしまっているんだけど、音楽の道に進みたいっていう気持ちが強くて……なので、もしできたら先生のところで見てやってもらえませんかって頼まれたんだよ」
「でも、実際にレッスンしてみると、そういう状態にも関わらずまあまあ良く弾けてたしね、それもあって引き受けようと思ったんです」


わたしはかねがね、自分のことを、お調子者でおっちょこちょいで早合点をする傾向にある人間だと思ってはいた。
けれども、ここまでだとは……。

うぬぼれ屋で、自己陶酔に陥りやすく、奢り高ぶった考えを持ち続けていた。
だから、こんなにも、自分に都合のいいように思い込めた。

O先生も母も、まだこの世に生きてくれていて、本当に本当によかった。
亡くなってからこんな真実を知ったとしたら……どんなに悔やんでも恥んでも遅過ぎる。
自分は、たくさんの人達に支えられ守られ助けられて、今の生活を得ることができたと感謝してきたつもりだったけれど、
まだまだ足りない。まだまだわかっていない。

ごめんなさい。ありがとう。

コメント (8)
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