日本を脱出し、米国に窯を築いて現在も活躍しているのが高鶴 元氏です。
1) 高鶴 元 ( こうづる げん ) :1938年(昭和13)~
① 経歴
) 福岡県田川郡赤池町上野皿山で、高鶴夏山(茂勝)の長男として生まれます。
1957年 佐賀県立有田工業高校窯業科を卒業します。
) 1960年 日展に初入選し、以後2回連続入選します。
1962年 上野(あがの)釜の口の古窯の発掘調査を、弟淳と共に行います。
1965年 福岡県粕屋郡久山町に窯を築き、薪の焼成による自然釉の研究を始めます。
) 1968年 日本伝統工芸展で、初入選を果たし、以後毎回入選を続けます。
作品は文化庁買上や、京都国立近代美術館の買上となっています。
1969年 日本工芸会正会員に成ります。
その後も、東京南青山、東京新宿小田急、福岡岩田屋など各地で個展を開催しています。
) 1980年 米国ハーバート大学の招待もあり、家族と共に渡米し、ボストン郊外に窯を築き
活動の拠点とし、現在でもここに住み作陶を続けています。
1976年にニュージランド、オーストラリア、ドイツ民主共和国での「日本陶芸展」の招待や
1977年の米国、メキシコ、ヨーロッパ、中近東など13ヶ国に渡る調査研究が切っ掛けになり
世界へ向けての飛躍を期したものと思われます。
② 高鶴 元氏の陶芸
) 福岡県の上野(あがの)焼きの窯元の高鶴家は、由緒ある家柄で有ったようです。
当時の上野焼きは銅釉を基本にした作品が作られ、それに疑問を感じた元氏は、親に無断で
上京し、前衛的なオブジェの作品を作る様に成ります。
) やがて前衛的な作品にも疑問を感じ、故郷の上野に帰ります。彼は「古上野」に関心が向く様に
成り弟の淳氏と共に、「釜の口窯」の発掘を始め、各地の窯跡から陶片を収集し釉の研究と
資料蒐集を行います。特に地元に生える色々な植物の灰釉を実験しています。
「古上野釉(こあがのゆ)」と言われる釉は、地元で「ハイドス」(さかきしばの一種)と
呼ばれる灰に、藁灰を混ぜ上野長石と上野鉄錆(さび)で調合したものです。
その他の釉として、鉄釉、萱(かや)釉、白釉による刷毛目などがあります。
これらの成果は、「日本のやきもの15 上野・高取」(講談社)として出版されています。
) 1975~1976年の作品には、「古上野釉紙抜鉢」や「古上野釉鎬鉢」があります。
1978~80年の作品は、「彫文壷」の作品が多いです。丸い壷の表面に幾何学文様を線彫りした
作品群です。「ハイドス灰鎬(しのぎ)壷」(1978)、「藁灰釉彫文壷」「黒釉窯変彫文壷」
「背高泡立草釉鎬文」(1979)、「炭化彫文壷」(1980)等です。
) 米国・ボストン郊外に活動拠点を移した高鶴元氏は、元(げん)から元(はじめ)と読む様にし
心機一転を図ったようです。米国のセント・ヘレンズ火山が噴火した際の火山灰で作ったのが
セント・ヘレンズ火山灰釉です。大皿の作品は黒く沈んだ色調で、真赤や金色、白の文様が
着けられています。「皿・池に映える紅葉」「鉢・イングランドの紅葉」「大皿宇宙」
「大皿・紅葉のハイウエー」(1982)等の作品があります。
・ 渡米後は、作風が劇的に変わります。自然石のフォルムや空間を浮遊する球体などを
原色のカラーで表現し、伝統や国境を越えたアートに成っています。
・ 「渡米後、伝統工芸にはない新分野として開拓したのが野外展示だった。」と述べています。
・ 古希を過ぎても活動意欲は衰えず、2009年には福岡市東区の海の中道海浜公園で、陶柱オブジェ
を飾った 野外陶芸展が開かれました。この陶柱オブジェは、高さ1.6mで長さ100mの直線に
並べられた作品であったそうです。
次回(原 清氏)に続きます。
1) 高鶴 元 ( こうづる げん ) :1938年(昭和13)~
① 経歴
) 福岡県田川郡赤池町上野皿山で、高鶴夏山(茂勝)の長男として生まれます。
1957年 佐賀県立有田工業高校窯業科を卒業します。
) 1960年 日展に初入選し、以後2回連続入選します。
1962年 上野(あがの)釜の口の古窯の発掘調査を、弟淳と共に行います。
1965年 福岡県粕屋郡久山町に窯を築き、薪の焼成による自然釉の研究を始めます。
) 1968年 日本伝統工芸展で、初入選を果たし、以後毎回入選を続けます。
作品は文化庁買上や、京都国立近代美術館の買上となっています。
1969年 日本工芸会正会員に成ります。
その後も、東京南青山、東京新宿小田急、福岡岩田屋など各地で個展を開催しています。
) 1980年 米国ハーバート大学の招待もあり、家族と共に渡米し、ボストン郊外に窯を築き
活動の拠点とし、現在でもここに住み作陶を続けています。
1976年にニュージランド、オーストラリア、ドイツ民主共和国での「日本陶芸展」の招待や
1977年の米国、メキシコ、ヨーロッパ、中近東など13ヶ国に渡る調査研究が切っ掛けになり
世界へ向けての飛躍を期したものと思われます。
② 高鶴 元氏の陶芸
) 福岡県の上野(あがの)焼きの窯元の高鶴家は、由緒ある家柄で有ったようです。
当時の上野焼きは銅釉を基本にした作品が作られ、それに疑問を感じた元氏は、親に無断で
上京し、前衛的なオブジェの作品を作る様に成ります。
) やがて前衛的な作品にも疑問を感じ、故郷の上野に帰ります。彼は「古上野」に関心が向く様に
成り弟の淳氏と共に、「釜の口窯」の発掘を始め、各地の窯跡から陶片を収集し釉の研究と
資料蒐集を行います。特に地元に生える色々な植物の灰釉を実験しています。
「古上野釉(こあがのゆ)」と言われる釉は、地元で「ハイドス」(さかきしばの一種)と
呼ばれる灰に、藁灰を混ぜ上野長石と上野鉄錆(さび)で調合したものです。
その他の釉として、鉄釉、萱(かや)釉、白釉による刷毛目などがあります。
これらの成果は、「日本のやきもの15 上野・高取」(講談社)として出版されています。
) 1975~1976年の作品には、「古上野釉紙抜鉢」や「古上野釉鎬鉢」があります。
1978~80年の作品は、「彫文壷」の作品が多いです。丸い壷の表面に幾何学文様を線彫りした
作品群です。「ハイドス灰鎬(しのぎ)壷」(1978)、「藁灰釉彫文壷」「黒釉窯変彫文壷」
「背高泡立草釉鎬文」(1979)、「炭化彫文壷」(1980)等です。
) 米国・ボストン郊外に活動拠点を移した高鶴元氏は、元(げん)から元(はじめ)と読む様にし
心機一転を図ったようです。米国のセント・ヘレンズ火山が噴火した際の火山灰で作ったのが
セント・ヘレンズ火山灰釉です。大皿の作品は黒く沈んだ色調で、真赤や金色、白の文様が
着けられています。「皿・池に映える紅葉」「鉢・イングランドの紅葉」「大皿宇宙」
「大皿・紅葉のハイウエー」(1982)等の作品があります。
・ 渡米後は、作風が劇的に変わります。自然石のフォルムや空間を浮遊する球体などを
原色のカラーで表現し、伝統や国境を越えたアートに成っています。
・ 「渡米後、伝統工芸にはない新分野として開拓したのが野外展示だった。」と述べています。
・ 古希を過ぎても活動意欲は衰えず、2009年には福岡市東区の海の中道海浜公園で、陶柱オブジェ
を飾った 野外陶芸展が開かれました。この陶柱オブジェは、高さ1.6mで長さ100mの直線に
並べられた作品であったそうです。
次回(原 清氏)に続きます。