わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸72(太田熊雄)

2012-03-15 21:33:45 | 現代陶芸と工芸家達
柳宗悦が提唱した「民藝」運動は全国に広がります。九州の小石原焼も大きな影響を受けた窯場です。

宗悦氏が小石原を訪問した事で、衰退していた陶磁器生産が飛躍的に増大する切っ掛けに成ります。

太田 熊雄氏は、いち早くこの運動に参加する事により、活躍の場を作る事が出来た陶芸家の一人です。

1) 太田熊雄(おおた くまお) :   1912年(明治45年)~ 1992年(平成4年)

 ① 経歴

   ) 福岡県朝倉郡小石原村皿山で、窯元の太田代吉の五男として生まれます。

   ) 父や長兄の富次郎氏を助けながら、得意の轆轤作業で家業に従事します。

   ) 1931年 知人より雑誌「工藝」を借りれ読み、柳宗悦の民藝論に目覚めます。

      当時の小松原では、不況の為ほとんど開店休業の状態であったそうです。

   ) 1938年 生家を出て独立し、廻り職人として皿山で生計をたてます。

   ) 1941年 第一回九州沖縄民藝展で奨励会賞を受賞します。

   ) 1951年 柳宗悦が始めて小石原を来訪し、1954年には、河井寛次郎、濱田庄司氏が訪れ

      「虚無僧蓋茶壺」などを賞賛しています。

      その後、日本民藝協会全国大会に出席し、日本民藝館を訪れます。

      同年 福岡県美術展で、文部大臣賞を受賞します。

      1956年 現代日本工藝展に入賞し、ソ連政府の買い上げとなります。

      1959年 ベルギー・ブリュッセル万国博覧会でグランプリを受賞します。

      同年 個人用の窯を築きます。

   ) 以後、日本民藝館展委員をしながら、大阪万博や日本陶芸展、西武伝統工芸展などに

      出品し各種の賞を受賞しています。

  ② 小石原焼(こいしわらやき)

    天和二年(1682年)に黒田三代藩主光之が、肥前伊万里の陶工を招き、福岡県朝倉郡東峰村にて

    焼かせた陶磁器で、主に生活雑器が焼かれるていました。筑豊地方で最初の焼き物産地です。

   ) 小石原では、蹴轆轤による紐作りで、大物を制作していました。

     更に分業制が取られ、窯元と職人は区別され、職人は常雇では無く、幾つかの窯元を回る

     廻り(めぐり)職人でした。(太田氏もその様な待遇であった様です。)

   ) 昭和十年代には、窯元は9軒で登り窯の共同窯が二基あった様ですが、不況のあおりで、

      窯を焚く回数も、極端に少なかったとの事です。

   ) 1957年頃から、民藝ブームが巻き起こり急激な需要増になる、共同窯より個人窯に変化

      してゆきます。

  ③  太田熊雄氏の陶芸

   小石原の土は可塑性に富、砂気があり高い耐火度を持つ、作りやすい土です。

   その為、大きな作品を作るのに向いています。太田氏も大壺、大甕(かめ)、捏鉢(こねばち)

   等を得意にしています。特に「虚無僧蓋茶壺」は好評で数も多く作っています。

  ) 打掛釉は、流れ易い釉を柄杓や盃などで、器面に三日月形に広げて流し掛ける方法です。

    この作業は一発勝負となり、やり直しが出来ませんので、迷わず一気行います。

    飴釉に白い釉を流した作品が多いです。「飴釉白打掛虚無僧蓋茶壺」「飴釉白流深鉢」

    「飴釉白打掛茶壺」などの作品があります。

  ) 指描き: 黒い胎土の小石原のに白化粧を施し、白土が乾かない内に、轆轤の回転を利用して、

     指で掻き取り渦巻文や波紋を施します。「飴釉指描大皿」「刷毛目指掻模様蓋付長型壺」などの

     作品があります。

  ) いちん文: 器面に盛り上がる様にして文様を描く事です。

     今日では、スポイトを使う事が多く、スポイト掛けともいいます。

  ) 小石原焼の特徴に、飛鉋(とびかんな)の技法があります。

     太田氏も飛鉋の作品を残していますが、次回お話する「梶原 藤徳」氏でお話したいと思います。

次回(「梶原 藤徳」氏)に続きます。

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