三百年の歴史を持つと言う沖縄の陶器に有って、線彫りの魚や海老の模様で躍動感あふれる作品を作り
「琉球陶器」で沖縄初の国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に成った陶芸家に、金城次郎氏がいます
1) 金城 次郎(きんじょう じろう) : 1912年(大正元年) ~ 2004年(平成16年) 享年92歳
① 経歴
) 那覇市与儀で、金城宮清の長男として生まれます。
父は陶土踏みを専門とする職人(ンチャクナーサーと言う)で、那覇市壺屋の各製陶所を
廻っていました。
) 1924年 陶器見習工として、新垣栄徳の製作所で働きながら、轆轤挽きなどの陶器の製法を
学びます。
この頃、柳宗悦を団長とする、濱田庄司や河井寛次郎ら民藝関係者が大挙して、沖縄を
訪れ、壺屋陶器の素晴しさ当地の人々に認識させます。
その後、浜田庄司、河井寛次郎らに師事する様になります。
) 1945年 沖縄戦終結と共に、壺屋も開放され窯業の復興が始まります。
壺屋地区は幸いにも戦火を免れます。翌年、壺屋に窯を築きます。
生活必需品の碗(マカイ)や皿(ケーウチ)などが再び作られ始めます。
) 1954年 第六回沖縄展に工芸部門が新設され、毎年出品する様になります。
1955年 国画会展に初入選を果たし、翌年には第三十回国展で新人賞を受賞します。
1958年 「抱瓶(だちびん)」「漁文皿」がルーマニア国立民藝博物館に永久展示と成ります。
1967年 第一回沖縄タイムス芸術選奨大賞を受賞し、同年日本民藝館展で入選を果します。
その後も、個展(広島市、富山市、岡山市など)や、日本陶芸展、沖縄の工芸展
(京都国立近代美術館主催)など、多くの展示会に出品し、数々の賞を受賞しています。
) 1972年 那覇の壺屋から、読谷村(よみたんそん)座喜味に移り住み、本格的な登窯を築き
読谷壺屋と命名します。
移転の背景には、那覇市の都市化に伴う公害問題などの不都合が生じた為です。
② 金城次郎の陶芸
昔より沖縄の壺屋には、中国、朝鮮、東南アジア等から様々な技法が流入し、それらを
咀嚼し発展した、「琉球陶器」と言われる焼物(やちむん)があります。
それらの技法には、刷毛目、イッチン、飛鉋、貼付文、印押それに、線彫りながあります。
) 線彫り: 金城次郎は特にこの技法を得意にしていた様です。
特に好んで描いた図案に、魚文と海老文があります。これは周囲を海に囲まれた沖縄では、
海の生物は身近に観察できる状態であった為と思われます。
a) 轆轤挽きした作品は、削り作業の後、白化粧掛けします。
(沖縄の土は鉄分が多く黒くなる為です。3~5種類の土をブレンドしているそうです。)
b) 次に箆(へら)や、線彫筆で線彫りを施します。尚、下書きはしない様です。
c) 色指し: 藍色や飴色に発色する、琉球陶器特有の絵の具で文様に色を指します。
d) 透明系の施を塗る: 作品の地肌に、装飾と水分の吸収防止を兼ねた釉を掛けます。
尚、素焼きはしません。この釉は珊瑚石灰と籾殻を焼いた灰と、珪石を調合した物です。
e) 窯詰め、焼成 : 焼成は六室の登窯で、約1250℃で約三日間焼き続けるそうです。
) 壷屋焼きは荒焼(無釉焼締め)と、施釉した上焼に大別されます。
荒焼は水甕(かめ)、味噌甕、酒甕など大きな作品で、上焼は線彫り、施釉、絵付けを施した、
食器、花器、茶碗、急須、抱瓶などの作品が多いです。
これらは常に沖縄の人々の暮らしと共にあり、生活を支えてきた雑器です。
) 金城氏の作品も多肢に渡っています。
抱瓶、嘉瓶(ゆうびん=瓢に似た形)、花瓶、蓋物、土瓶、大鉢、徳利、酒注、酒器、茶碗、傘立
などで、唐草文、指掻(ゆびかき)、イッチン、白(黒)流し釉などで装飾を行っています。
) 代表的な作品は、「線彫海老文抱瓶」(1948)「線彫魚文花瓶」(1949)「筒描魚海老文大皿」(1955)
以上日本民藝館沖縄分室蔵、
「白掛飛鉋嘉瓶」(1979)「白掛飛鉋彩差蓋壺」(1961)[「三彩差厨子甕」(1950)、以上日本民藝館蔵
尚 金城次郎氏の生誕100周年に当たり、2012年1月6日~2月29日まで那覇市立壺屋焼物博物館にて
「笑う魚 金城次郎生誕100年祭」が開催されました。
金城次郎氏の跡を継ぎ、長男の金城敏男(としを)氏が、特徴ある魚文の作品を彫り続けています。
次回(宗像亮一氏)に続きます。
「琉球陶器」で沖縄初の国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に成った陶芸家に、金城次郎氏がいます
1) 金城 次郎(きんじょう じろう) : 1912年(大正元年) ~ 2004年(平成16年) 享年92歳
① 経歴
) 那覇市与儀で、金城宮清の長男として生まれます。
父は陶土踏みを専門とする職人(ンチャクナーサーと言う)で、那覇市壺屋の各製陶所を
廻っていました。
) 1924年 陶器見習工として、新垣栄徳の製作所で働きながら、轆轤挽きなどの陶器の製法を
学びます。
この頃、柳宗悦を団長とする、濱田庄司や河井寛次郎ら民藝関係者が大挙して、沖縄を
訪れ、壺屋陶器の素晴しさ当地の人々に認識させます。
その後、浜田庄司、河井寛次郎らに師事する様になります。
) 1945年 沖縄戦終結と共に、壺屋も開放され窯業の復興が始まります。
壺屋地区は幸いにも戦火を免れます。翌年、壺屋に窯を築きます。
生活必需品の碗(マカイ)や皿(ケーウチ)などが再び作られ始めます。
) 1954年 第六回沖縄展に工芸部門が新設され、毎年出品する様になります。
1955年 国画会展に初入選を果たし、翌年には第三十回国展で新人賞を受賞します。
1958年 「抱瓶(だちびん)」「漁文皿」がルーマニア国立民藝博物館に永久展示と成ります。
1967年 第一回沖縄タイムス芸術選奨大賞を受賞し、同年日本民藝館展で入選を果します。
その後も、個展(広島市、富山市、岡山市など)や、日本陶芸展、沖縄の工芸展
(京都国立近代美術館主催)など、多くの展示会に出品し、数々の賞を受賞しています。
) 1972年 那覇の壺屋から、読谷村(よみたんそん)座喜味に移り住み、本格的な登窯を築き
読谷壺屋と命名します。
移転の背景には、那覇市の都市化に伴う公害問題などの不都合が生じた為です。
② 金城次郎の陶芸
昔より沖縄の壺屋には、中国、朝鮮、東南アジア等から様々な技法が流入し、それらを
咀嚼し発展した、「琉球陶器」と言われる焼物(やちむん)があります。
それらの技法には、刷毛目、イッチン、飛鉋、貼付文、印押それに、線彫りながあります。
) 線彫り: 金城次郎は特にこの技法を得意にしていた様です。
特に好んで描いた図案に、魚文と海老文があります。これは周囲を海に囲まれた沖縄では、
海の生物は身近に観察できる状態であった為と思われます。
a) 轆轤挽きした作品は、削り作業の後、白化粧掛けします。
(沖縄の土は鉄分が多く黒くなる為です。3~5種類の土をブレンドしているそうです。)
b) 次に箆(へら)や、線彫筆で線彫りを施します。尚、下書きはしない様です。
c) 色指し: 藍色や飴色に発色する、琉球陶器特有の絵の具で文様に色を指します。
d) 透明系の施を塗る: 作品の地肌に、装飾と水分の吸収防止を兼ねた釉を掛けます。
尚、素焼きはしません。この釉は珊瑚石灰と籾殻を焼いた灰と、珪石を調合した物です。
e) 窯詰め、焼成 : 焼成は六室の登窯で、約1250℃で約三日間焼き続けるそうです。
) 壷屋焼きは荒焼(無釉焼締め)と、施釉した上焼に大別されます。
荒焼は水甕(かめ)、味噌甕、酒甕など大きな作品で、上焼は線彫り、施釉、絵付けを施した、
食器、花器、茶碗、急須、抱瓶などの作品が多いです。
これらは常に沖縄の人々の暮らしと共にあり、生活を支えてきた雑器です。
) 金城氏の作品も多肢に渡っています。
抱瓶、嘉瓶(ゆうびん=瓢に似た形)、花瓶、蓋物、土瓶、大鉢、徳利、酒注、酒器、茶碗、傘立
などで、唐草文、指掻(ゆびかき)、イッチン、白(黒)流し釉などで装飾を行っています。
) 代表的な作品は、「線彫海老文抱瓶」(1948)「線彫魚文花瓶」(1949)「筒描魚海老文大皿」(1955)
以上日本民藝館沖縄分室蔵、
「白掛飛鉋嘉瓶」(1979)「白掛飛鉋彩差蓋壺」(1961)[「三彩差厨子甕」(1950)、以上日本民藝館蔵
尚 金城次郎氏の生誕100周年に当たり、2012年1月6日~2月29日まで那覇市立壺屋焼物博物館にて
「笑う魚 金城次郎生誕100年祭」が開催されました。
金城次郎氏の跡を継ぎ、長男の金城敏男(としを)氏が、特徴ある魚文の作品を彫り続けています。
次回(宗像亮一氏)に続きます。