何度もお話している様に、作品の製作者は「酒井田柿右衛門」と成りますが、実際の製作は熟練した
職人が仕事を分担し、そのチームの統括者(この場合柿右衛門)が、デザイナーとして表に出たものと
考えた方が実情にあっていると思われます。
但し、十三代、十四代とも、濁手の作品は無銘で、染錦作品には「柿右衛門」の銘が染付けで
記されています。
2) 十四代酒井田柿右衛門 : 1934年(昭和9)~
① 経歴
) 佐賀県西松浦郡有田町南川良で、十三代柿右衛門の長男、正(まさし)として生まれます。
1958年 多摩美術大学日本画科を卒業します。卒業後、帰郷し、祖父と父親に陶画の手ほどきを
受けます。祖父からは絵具の指導を受けます。
1966年 一水会展(油彩、水彩画展)に初出品し、入選を果たし、翌年には一水会会長賞を
受賞します。以後連続入選します。
1968年 第十五回日本伝統工芸展で、「南天文花瓶」が初入選を果たします。
翌年の同展で「紅葉文鉢」を、以降毎回入選を果たし、「草花文花瓶」「魚草文大鉢」
「花弁椿文花瓶」「草花文鉢」「あかしあ文鉢」「秋草文壺」「山躑躅(つつじ)文壺」などの作品を
発表し続けています。
1970年 ヨーロッパ各国の美術館や窯場を視察し見聞を広めます。
特に、オランダ貿易によって欧州にもたらされた、初期柿右衛門の作品に触れる事になります。
1971年 「酒井田正」の名前で日本工芸会会員となり、この後のほぼ10年は本名で公募展や
個展に出品した。個展は東京日本橋三越の他、福岡、大分など各地で開催しています。
1982年 十三代死亡により、十四代酒井田柿右衛門を襲名します。
(尚、襲名とは、裁判所に改名届け出して、本名を変更するとの事です。歌舞伎の世界では、
単に芸名の変更であるのに対し、本名の変更になります。)
翌年 米国のサンフランシスコで、初の海外に出品します。
2001年 重要無形文化財「色絵磁器」の保持者(人間国宝)に認定されます。
又、重要無形文化財「濁手(にごしで)」の技術保持団体である、柿右衛門製陶技術保存会の
会長にも成っています。
② 十四代柿右衛門の陶芸
) 絵具 : 柿右衛門様式では、赤絵や図柄を美しく表現する絵具が命です。
柿右衛門家では、門外不出の「絵具合わせ帖」に従って調合していました。
色は赤、緑(もよぎ)、群青(ぐんじょう)、黄(きび)、黒などです。
戦後の混乱期には、原料の新旧交代が行われ、大量生産に応える為、化学的に精製された
顔料が使われ、従来の色彩と異なり、弱々しいうすぺらな色になってしまいます。
祖父(十二代)は孫と伴に、大阪、京都、岐阜などの古くから取引のある絵具屋を回り良い
顔料を求めます。こうした苦労が実り「昭和の絵具合わせ帖」を作ります。
) 十四代の作品
父と祖父が蘇らせた「濁手」(にごして)の技法などを使い、細やかな筆使いで、新しい独自の
様式を世に示します。
十三代と同様に草花文様(特に躑躅文を好む)を得意とし、絵画的な表現が評価されます。
「山躑躅文壺」(高 26 X 径 34.5cm)(1979年)、「躑躅花瓶」(高 30.4 X 径15.4cm)
(1979年)、「躑躅陶筥」(高 6.7 X 横 13cm)(1979年)、
「小手毬文蓋物」(高 11.2 X 径 21cm)(1979年)、「栗文鉢」(高 12 X 径 42.5cm)
(1979年)、「芙蓉地文花瓶」(高 20.7 X 径 26.7cm)(1980年)、
「躑躅文鉢」(高 9.6 X 径 46.8cm)(1981年)、「苺文花器」(高 24.7 X 径 14.5cm)
(1982年)などの作品があります。
次回(今泉今右衛門)に続きます。