わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸74(江崎一生)

2012-03-18 16:34:42 | 現代陶芸と工芸家達
愛知県常滑市は、瀬戸、備前、越前、丹波、信楽と並び、日本六古窯のひとつで、千年近い歴史をもつ

焼き物の産地です。しかし常滑も他の窯と同様に、衰退を続け、生活用品を焼く一地方の窯場でした。

江崎一生は、常滑の古陶の研究や、技法の再現を通して、独自の現代風を確立し、常滑再興の祖と

言われた陶芸家です。

1) 江崎一生(えざき いっせい) : 1918年(大正7) ~ 1992年(平成4)

 ① 経歴

  ) 愛知県常滑に生まれる。

     常滑陶器学校卒業後、肥田製陶所に入所し、轆轤による大火鉢を作っていた様です。

    1952年 常滑古窯調査会という組織が、地元の有識者や学生を動員して古窯を調査し始めす。
 
    江崎氏はこの調査に加わり、「古常滑」と出会う事になります。

    1956年 独立し、古窯跡の高坂に築窯。

    1960年 金重陶陽宅に一晩泊り、教えを受ける事になります。

    1961年 常滑陶芸研究所が開設され、所員であった江崎氏は、技術家として参加します。

    ここでは古窯から出土した古常滑の展示と研究、そして、その今日的な活用が計られました。

    同年「古常滑」を再現すべく半地上式穴窯を築き、古常滑風の灰釉を完成させます。

    1963年 第十回日本伝統工芸展で自然釉の「常滑花器」が初入選し、最優秀賞を受賞します。

    翌年には「天平の須恵器」の黒い壷が文化庁の買上げとなっります。

    1969年 日本伝統工芸展で、灰釉の大皿が文部大臣賞を受賞しました。

  ) その他、中日美術展奨励賞、日本伝統工芸展文部大臣賞、日本陶磁協会賞などを受賞し、

    現代日本工芸展、日展などでも入選を果たしています。

    日本工芸展、朝日陶芸展、中日国際陶芸展などの審査員や評議委員を務めています。

    日本工芸会正会員。名鉄、丸栄などで個展を開催しています。

 ②  江崎氏の陶芸

  ) 当初、常滑の鉄分の多い粘土で、備前風の作品を制作していた江崎氏は、1958年名古屋の

    名鉄百貨店で開催された『備前金重陶陽展』を観に行きます。

    二年後、名鉄の富田部長の紹介で、江崎は備前の陶陽宅を訪ねます。

    更に、一晩陶陽邸に泊め貰います。その際「古常滑の現代版に取り組むべき」と教唆を

    受けます。「常滑には国宝の秋草文の壷があるのに、なぜその常滑を目指さず、備前を

    やるのだ。 職人にとって作家と二股かけずに、 天職だと思って、古常滑の再現を目指した

    方がいい」と、 江崎に陶陽は苦言を呈したとの事です。

  ) 「古常滑」とは、鎌倉期から室町期にかけて焼成された、灰釉陶器の事で、江崎氏は

    「古常滑」の復元を目指して常滑の古窯祉を片ぱしから発掘調査し、陶片や窯道具を調べます。

  ) 江崎が古窯の構造を研究し、考案したのが今日常滑で一般に窖窯と呼ばれる構造の地上式の

     窯です。一種の横焔式薪窯で、倒焔式に比べて効率は悪いものの、自然釉の流れた作品が

     火前の部分で取れるそうです。 この窯は、灰被りを焼く為の構造と言えます。

     尚、常滑は明治末年頃から、石炭焚きによえう倒焔式が主流であった様です。

  ) 古常滑は還元で焼成されていた様です。 当時、常滑では酸化炎の窯ばかり、還元炎の焚き方で

    苦労されたとの事です。 この初窯で常滑独特の灰釉作品が五点ばかりとれます。

    得意の二種の灰釉を流し掛けした灰釉鉢、三筋壺は古常滑とそっくで、日本伝統工芸展では、

    「常滑花器」が初入選し、最優秀賞を受賞します。(1963年)

    1969年には灰釉の大皿(径56cm)が文部大臣賞を受賞します。

    その灰釉の透明感のある緑が美しく、中心部に藁灰が施釉されて薄紫の窯変が見事で、

    彼の代表作品であり、近代美術館の買上となります。

  ) 「古常滑」では作品が出来てすぐ、乾燥させずに窯に入れるそうです。

    理由は、作品を乾燥させると、窯の湿気で水滴が出て、作品の上に落ちると作品に傷が

    出来る為で、焼きながら徐々に熱で乾燥させると湿気も取れるそうです。

    更に、作品を窯に入れてから、窯の天井を作った事まで研究を重ねています。

  ) 江崎氏の作品は、轆轤挽きによる大物が多く、釉は灰釉一筋でした。

    又、多くの後輩達に、窯の築き方などを包み隠さず、伝授しています。

次回(山本出氏)に続きましす。
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現代陶芸73(梶原 藤徳)

2012-03-17 17:23:58 | 現代陶芸と工芸家達
九州の小石原に在って、太田熊雄氏の後継者として新しい展開を開いた陶芸家に梶原 藤徳氏がいます

1) 梶原 藤徳(かじわら ふじのり): 1937年(昭和12) ~

  ①  経歴

   )  福岡県朝倉郡小石原村皿山の窯元 梶原藤助の長男として生まれます。

   ) 1955年 太田熊雄 氏に師事して、轆轤技術を学び、家業を受け継ぎます。

   ) 1957年 福岡県美術展で、朝日新聞社賞を受賞します。

      1959年 共同窯の経営分裂により、五袋の個人用の登窯を築きます。

      1969年 陶芸技術伝承者養成会(九州ブロック)で、小山富士夫氏と濱田庄司氏の講演を聞き

      更に同年、第十一回日本民藝展に出品し、通産大臣特別賞を受賞します。

   ) 1970年 日本民藝館に出品し、民藝館奨励賞を受賞します。

      同年 日本伝統工芸展で「水鉢」が入選します。

      以後、日本民藝展、日本工芸展、日本伝統工芸展などに出品し、数々の賞を受賞します。

   ) 1977年 自宅工房の脇に資料館を建設し、小石原や小鹿田の古陶を陳列公開します。

      1965年以来、福岡岩田屋を中心に多数の個展を開催しています。

  ②) 梶原氏の陶芸

    大物造りの先輩の太田熊雄氏と同様に、蹴轆轤を使い紐作り(練付け)の方法で、大皿や大壺を

    好んで製作しています。

   ) 彼の作品は、男性的な豪快な造りで、量感溢れる作品になっています。

   ) 飛鉋(とびかんな)は中国宋代の磁州窯に始まる技法で、大正末頃、隣の小鹿田窯から

      もたらされたもので、器の表面に白化粧土を掛け、半乾きの状態で、弾力のある薄い鋼の

      刃を持つ「鉋」と呼ぶ道具を用いて、轆轤の回転に合わせ削り作業を行うと、点々と

      細かい連続文様が現れます。胎土の黒い小石原や小鹿田焼には効果的な装飾方法です。

      作品に「飛鉋打掛蓋付大壺」(1978)「飛鉋打掛大鉢」(1982)等があります。

   ) 飛鉋や櫛目の技法に、象嵌技法を取り入れます。

      上記の飛鉋では、白地に黒い斑点を出しますが、象嵌技法では、黒地に白い櫛目や飛鉋痕を

      残す方法です。即ち作品に飛鉋や櫛目を付けた後、白化粧土を全面に塗り、半乾燥後に

      表面を削り取る事により、飛鉋痕や櫛目文様に白化粧土が入り、白黒が逆転します。

      作品に「櫛目象嵌焼締壺」(1961))「灰釉櫛目象嵌深鉢」(1971)「櫛目象嵌大鉢」(1974)等が

      あります。

   ) 小石原焼は大皿造りの技法が無く、島根県の石見の陶工たちによって昭和の頃に、

      技術が伝わったと言われています。

      小石原の大皿の特徴は高台が広い点です。高台を狭くすると、分厚く挽いた土が縁から

      重さで下に落ちます(「へたる」と言う)。それ故、高台を広く取りますが、余り広く

      取り過ぎると、皿の真ん中に力が加わり落ます。その為、高台を幅広に取り縁が落ちない様に

      しています。この製法ができれば1尺8寸(約55cm)の大きな皿も挽けるそうです

      即ち、削り出しの製法で作品を作ります。先ず全体を厚く挽き、乾燥ご裏返して鉋で

      削り落として整え、高台の幅を広く取ります。

     a)  大皿を作るに当たって、多くの陶芸家は、高台中央の落込みや、口縁の「へたり」に

       苦労しているはずです。(鉢の場合はさほど問題に成りません)

       基本的には轆轤挽き時に、底を広くする事で、口縁の「へたり」を防ぎます。

       そして十分乾燥後に、削り作業で高台径を狭くします。

     b)  焼成時に皿の中央が落ち易くなりので、色々工夫しています。

        (勿論、土の耐火度や焼成温度などを選ぶ事により、解決している方も多いです。)

       例えば、中心付近に高台を作り、二重にしする方法や、焼成時に中央部を何かで支える

       事です。それ故、高台裏を見れば、どの様な細工がなされているかが、見えてきます。

次回(江崎一生)に続きます。
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現代陶芸72(太田熊雄)

2012-03-15 21:33:45 | 現代陶芸と工芸家達
柳宗悦が提唱した「民藝」運動は全国に広がります。九州の小石原焼も大きな影響を受けた窯場です。

宗悦氏が小石原を訪問した事で、衰退していた陶磁器生産が飛躍的に増大する切っ掛けに成ります。

太田 熊雄氏は、いち早くこの運動に参加する事により、活躍の場を作る事が出来た陶芸家の一人です。

1) 太田熊雄(おおた くまお) :   1912年(明治45年)~ 1992年(平成4年)

 ① 経歴

   ) 福岡県朝倉郡小石原村皿山で、窯元の太田代吉の五男として生まれます。

   ) 父や長兄の富次郎氏を助けながら、得意の轆轤作業で家業に従事します。

   ) 1931年 知人より雑誌「工藝」を借りれ読み、柳宗悦の民藝論に目覚めます。

      当時の小松原では、不況の為ほとんど開店休業の状態であったそうです。

   ) 1938年 生家を出て独立し、廻り職人として皿山で生計をたてます。

   ) 1941年 第一回九州沖縄民藝展で奨励会賞を受賞します。

   ) 1951年 柳宗悦が始めて小石原を来訪し、1954年には、河井寛次郎、濱田庄司氏が訪れ

      「虚無僧蓋茶壺」などを賞賛しています。

      その後、日本民藝協会全国大会に出席し、日本民藝館を訪れます。

      同年 福岡県美術展で、文部大臣賞を受賞します。

      1956年 現代日本工藝展に入賞し、ソ連政府の買い上げとなります。

      1959年 ベルギー・ブリュッセル万国博覧会でグランプリを受賞します。

      同年 個人用の窯を築きます。

   ) 以後、日本民藝館展委員をしながら、大阪万博や日本陶芸展、西武伝統工芸展などに

      出品し各種の賞を受賞しています。

  ② 小石原焼(こいしわらやき)

    天和二年(1682年)に黒田三代藩主光之が、肥前伊万里の陶工を招き、福岡県朝倉郡東峰村にて

    焼かせた陶磁器で、主に生活雑器が焼かれるていました。筑豊地方で最初の焼き物産地です。

   ) 小石原では、蹴轆轤による紐作りで、大物を制作していました。

     更に分業制が取られ、窯元と職人は区別され、職人は常雇では無く、幾つかの窯元を回る

     廻り(めぐり)職人でした。(太田氏もその様な待遇であった様です。)

   ) 昭和十年代には、窯元は9軒で登り窯の共同窯が二基あった様ですが、不況のあおりで、

      窯を焚く回数も、極端に少なかったとの事です。

   ) 1957年頃から、民藝ブームが巻き起こり急激な需要増になる、共同窯より個人窯に変化

      してゆきます。

  ③  太田熊雄氏の陶芸

   小石原の土は可塑性に富、砂気があり高い耐火度を持つ、作りやすい土です。

   その為、大きな作品を作るのに向いています。太田氏も大壺、大甕(かめ)、捏鉢(こねばち)

   等を得意にしています。特に「虚無僧蓋茶壺」は好評で数も多く作っています。

  ) 打掛釉は、流れ易い釉を柄杓や盃などで、器面に三日月形に広げて流し掛ける方法です。

    この作業は一発勝負となり、やり直しが出来ませんので、迷わず一気行います。

    飴釉に白い釉を流した作品が多いです。「飴釉白打掛虚無僧蓋茶壺」「飴釉白流深鉢」

    「飴釉白打掛茶壺」などの作品があります。

  ) 指描き: 黒い胎土の小石原のに白化粧を施し、白土が乾かない内に、轆轤の回転を利用して、

     指で掻き取り渦巻文や波紋を施します。「飴釉指描大皿」「刷毛目指掻模様蓋付長型壺」などの

     作品があります。

  ) いちん文: 器面に盛り上がる様にして文様を描く事です。

     今日では、スポイトを使う事が多く、スポイト掛けともいいます。

  ) 小石原焼の特徴に、飛鉋(とびかんな)の技法があります。

     太田氏も飛鉋の作品を残していますが、次回お話する「梶原 藤徳」氏でお話したいと思います。

次回(「梶原 藤徳」氏)に続きます。

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現代陶芸71(島岡達三)

2012-03-13 22:08:48 | 現代陶芸と工芸家達
栃木県益子町に窯を築き、縄文象嵌(じょうもんぞうがん)の手法で、独自の世界を確立し、

1996年(平成8)に、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された陶芸家が、島岡達三氏です。

1) 島岡 達三(しまおか たつぞう): 1919年(大正8)~ 2007年(平成19) 享年 88歳。

 ① 益子焼き: 今日関東一円で最も盛んな窯場が栃木県の益子焼で、多くの陶芸家が住み着いて

   います。益子焼の名を有名にしたのは、民藝の濱田庄司が益子に窯を築いた事によります。

   窯場としての歴史は意外と浅く、1853年頃からと言われています。作品も地元で消費する 土瓶、

   甕(かめ)、擂鉢(するりばち)、捏鉢(こねばち)などで、無名の一地方の窯場であった様です。   

 ② 経歴

  ) 東京都港区愛宕に3代続いた組紐師、島岡 米吉の長男として生まれます。

  ) 1938年 府立高等学校 (旧制)在学中に、初めて日本民藝館を訪れ民藝の美を知る事になります

     1939年 現在の国立東京工業大学窯業学科に入学し、夏には岐阜県土岐市駄知(だち)町に

     滞在し轆轤の勉強を始めます。(本来ならば組紐師の4代目を継ぐべきところ両親の許しで

     陶芸の道を歩む事が出来る様に成ったとの事です。)

     1940年の夏、益子に大学の先輩である濱田庄司氏を訪ね、卒業後の入門を許され、幸運にも

     一夏滞在を勧められ、浜田氏の下で陶芸の実習を行います。

     1942年 太平洋戦争の為出征しますが、終戦と共にタイの捕虜収容所に入ります。

     1946年 6月に復員し、その後すぐに濱田庄司門下生となります。

  ) 1950年 栃木県窯業指導所に勤務し、白崎俊次の古代土器標本複製の仕事に協力しています。

     この事が、後の作品に大きく影響する事になります。

     1953年 益子に住居と窯を設け独立します。

     翌年には、初窯を焚き、東京「いずみ工藝店」で初個展を開催します。(以後連続5回)

     1960年 東京丸ビルの中央公論社画廊にて個展、その後大阪梅田阪急百貨店、広島福屋、

     東京銀座松屋、大阪三越、名古屋松坂屋、横浜高島屋など各地で個展を開催しています。

  ) 1972年 豪州を歴訪したのを始めとし、中国、米国、カナダ、韓国、ドイツ、英国

     その他、トルコ、ギリシャも訪ね、当地の美術館や博物館などで作品展示をしています。

  ) 1962年 日本民藝館新作展にて日本民藝館賞を受賞。1994年 日本陶磁協会賞金賞を受賞。

      1996年(平成8) 民芸陶器(縄文象嵌)で国指定の重要無形文化財保持者(人間国宝)に

      認定されます。

  ③  島岡達三の陶芸

   ) 島岡氏の最大の特徴は、縄文象嵌技法にあります。縄文土器には縄目状の文様が施されて

      いる物が多いです。これは、紐や縄を丸い棒に巻き付け、土器制作時に転がして凹凸のある

      連続文様を付ける方法です。この様に付けた文様に、化粧土(色土)を塗り付け、

      更に掻き落して象嵌文様にする方法が縄文象嵌です。

   ) この技法を思いついた切っ掛けは、白崎俊次氏が学校教材として、縄文や弥生式土器を

      領布する為、その原型を濱田氏に依頼し、その仕事(石膏型抜、素焼など)が

      窯業指導所勤務する島岡氏に、回ってきたのが発端です。

   ) この仕事の為、明治大学や東京大学の考古学教室に通い、古代の土器に付いて学びます。

      更に、東京大学人類学教授の山内清男氏より、紐による縄文のつけ方を詳しく学びます。

      尚、島岡氏は縄文土器には興味は無く、単に縄目の転がし方を学んだそうです。

   ) 縄文の文様は無数にあるそうです。紐は撚(より)紐でその撚方(右、左)、本数や、

      心棒の種類、太さ、巻き付ける方向、巻き付けの荒さなど、限り無く存在します。

      その中で、なるべく簡単な基本形の撚紐を3~4種類に限定し、あとは大中小と大きさを

      変えたものを使用しているそうです。

   ) 島岡氏の生家が、羽織など和服や袋物に使う組紐屋で有った事で、父親の仕事を見て

      育った事も、影響していると思われます。

      又、父親から何らかの助言を受けていたのかも知れません。

   ) 代表的な作品に「象嵌縄文三筋大丸壷」(1955、日本民藝館)、「象嵌木理(もくめ)文扁壷」

      「窯変象嵌縄文壷」「地釉象嵌流文壷」「地釉象嵌印文壷」(1982)等があります。

      その他に、「地釉象嵌縄文コーヒー碗セット」などの食器も作っています。

   ) 島岡氏は朝鮮の三島の焼物に、強く引かれた様です。三島の技法は「印花」「刷毛目」

     「彫三島」の三技法があります。縄文象嵌は「印花」の応用であり、掻落は「彫三島」の応用です。

      彼は刷毛目の作品も作っています。

      作品として「刷毛目竹文方壺」「刷毛目櫛目文壺」「白釉象嵌流文壺」「鉄砂抜絵壺」

      などがあります。

   ) 更に、塩釉(しをぐすり)の作品も作っています。

次回(太田熊雄氏)に続きます。
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現代陶芸70(大谷司朗)

2012-03-12 21:32:29 | 現代陶芸と工芸家達
1) 大谷 司朗 (おおたに しろう) : 1936年(昭和11)~  : 内裏野窯(だいりのがま)

  ① 経歴

   ) 滋賀県甲賀郡信楽町に生まれます。

   ) 滋賀県立甲南高等学校窯業科を卒業後、信楽の森岡弥太郎氏の下で陶器の絵付けを学びます

     1960年 京都市立工芸指導所、陶磁器技能養成所に入所し、清水九兵衛 氏らの指導を受けます。

     翌年同所を修了し、信楽陶器工業協同組合デザイン部に勤務し、デザインと絵付けを研究します。

     同所には、1963年まで勤務しています。

   ) 1962年 滋賀県美術展で知事賞を受賞します。

      1964年 第二回朝日陶芸展に初入選を果たし、以後連続入選しています。

      1969年 第十六回日本伝統工芸展で初入選を果たし、以後20、23~27回まで連続入選します。

     1973年 信楽町黄瀬内裏野に、登窯と窖窯(あながま)を築き、転居します。

      1300年の歴史のある信楽では、薪窯には煙突が付いていないそうです。

      しかし、大谷氏の窯には両方に共用の煙突を付けています。

      同年に清水卯一 氏に師事します。

      1975年 東京池袋西武で個展を開催し、以後大阪三越、岡山、大阪、東京日本橋高島屋などで

      次々と個展を開催しています。

  ②  大谷司朗氏の陶芸

    作品は「まろやかな器形」と、「明るい緋色」が器面に表現されています。

    (尚、この緋色は、信楽では生焼の際に出る為、タブー視されていたとの事です)

    彼の作品は、無釉焼締による緋色の発色を出すものと、降灰による自然釉と緋色の色調の物に

    大別されます。いずれも1250℃で赤松による薪を使い、100~120時間で酸化焼成しています。

   ) 土は黄瀬で取れた土(黄瀬土)で、蛙目粘土や白絵土、木節粘土を使ていましたが、 

     現在ではほとんど、掘り尽されてしまい、山から採取した白土に木節粘土と砂を混ぜて

     使っているそうです。砂に含まれる硫化鉄が、緋色の発色を助けると言われています。

     黄瀬土は長石、石英粒の混じった粗い信楽の土で、火色、灰被り、焦げ、ビートロ釉、石ハゼ

     などの景色が良く表れることから、中世以降、特に陶芸家に愛用されています。

   ) 珪石粒を含む黄瀬土は、「ざっくり」した手触りで、土が伸びない為、轆轤挽きには

     不向きと言われています。一般には紐状の土を積み上げ、轆轤挽きします。

     又、荒い粒子は手を傷つける恐れがありますので、布や皮を両手に持ち轆轤挽きします。

   ) 細長い筒型の花瓶は、粘土押出機で、押出した土に底を付けて花瓶に仕上げています。

   ) 大谷氏は大きな「破袋(やぶれぶくろ)」を作っています。

      注: 桃山時代に作られた古伊賀を代表する「破袋」は特に著名な水指で、ビードロド釉が

         美しい作品です。(五島美術館蔵)

      大谷氏の「信楽流釉器ー破袋」は、古伊賀の水指を現代風に表現した作品です。

      大壷制作途中の下部にタタラを積む方法がとられています。

      口縁を大きく開いたり、複雑な形に切り取って形を作っています。

   ) 磁土と陶土を組み合わせた、「陶磁器・土と石の器」(1982)と呼ぶ大皿や鉢も作ります。

      当然無理が生じ、大きな亀裂が入りますが、彼はむしろ意図的な表現として捕らえて

      いる様です。

   ) 代表的な作品には、「信楽陽色花器」(1979) 「信楽花器」(1978) 「信楽壷」(1983)、

      「焼締壷」(1981米国にて)、「信楽叩紋大壷」「信楽線刻紋花器」、「信楽茶碗」(1983) 

      その他に「陶磁器・土と石の器」(1982)、「窯変角皿」(1981)などがあります。


   尚、大谷氏は、緋色を「陽色」と言う言葉で現しています。:信楽陽色

次回(島岡達三氏)に続きます。
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現代陶芸69(伊藤東彦)

2012-03-11 20:44:45 | 現代陶芸と工芸家達

1) 伊藤 東彦(いとう もとひこ): 1939年(昭和14) ~

  ①  経歴

   ) 福岡県大牟田市で伊藤一郎氏の次男として生まれます。

   ) 福岡の県立高校を卒業後、1960年 東京藝術大学美術部工芸科に入学し、1961年同

      大学院陶芸専攻科を修了します。在学中に、加藤土師萌、藤本能道氏などに師事します。

   ) 卒業と同時にいわき市の「常盤窯業」に入社し、陶器の研究をしながら、「現代工芸展」に

      応募し入選を果たします。一年後に退社し、活動の拠点を笠間に移ます。

      一時、松井康成氏(人間国宝)に師事した後、茨城県窯業指導所の研修生となるが、

      まもなく笠間市内に築窯して独立、本格的な作陶活動を展開し現在に至っています。

   ) 1973年 第二十回日本伝統工芸展で「布目唐草紋大皿」が初入選を果たします。

      1974年 第二十一回日本伝統工芸展出品「すすき紋大皿」で、東京都教育委員会賞を

      受賞し、これ以降、布目技法による作品に専念します。尚、「すすき紋大皿」は布目と蝋抜き

      の鉄絵との組み合わせ作品です。 同年 日本工芸会正会員となる。

 ②  伊藤 東彦氏の布目技法

  ) 布目とは、タタラ(板)造りや石膏型を使って成形をする際、型から離し易くする為に、

     敷いた布の跡が土の肌に残された物です。 

  ) 布として蚊帳(かや)を使う事が多く、細かい格子状の跡が残る蚊帳目が有名です。

     布であれば、タオルであっても、レースであっても、模様があればその模様を付ける事が

     可能です。粘土には凹んだ布目が残ります。

  )  一般に柔かい粘土に押し付ける事により、布の跡を付けますが伊藤氏の場合は、別の

    方法を採用しています。即ち、素焼き後に布目を付ける方法です。

  ) 素焼き後に布目を付ける事は、粘土に布を強く押し付ける事も無く、又平面でない曲面を 

     轆轤挽きした作品にも、布目を付ける事が可能になります。

  ) 伊藤氏の布目技法は次の様にして行われます。

    a) 作品を成形します。前述の様に成形手段は選びません。

    b) 作品を素焼きします。素焼き後、粗目の布やすり(サンドペーパー)で、次いで細めの

      布やすりで作品の表面を、滑らかに仕上げます。表面には土の粉が残っていますので、

      コンプレサーなどで吹き取ります。(強い水流で流し去ることでも可能です)

      伊藤氏は蚊帳を使っていますので、蚊帳を適当に切った切れ端を用意します。

    c) 濡らした蚊帳布を作品に、皺が寄らない様に貼り付けます。水に付け強く絞った蚊帳布は、

      柔軟性が出て、皺の発生を防ぎます。

    d) 白化粧土を用意し、蚊帳布の上から刷毛(筆)を使って、蚊帳の網目の中に入る様にし

      刷毛を置く様にして化粧土を塗ります。

      注意点は、作品全体に布目を付けると、繋ぎ目(境)が出来る事です。この部分が塗り

      残し易い事と、繋ぎ目が解からない様に処理する事です。

    e) 化粧土が乾いた頃に、蚊帳布を徐々に剥がします。作品はもう一度素焼きをします。

      布目文様は凸状に残ります。尚、蚊帳布は、水洗いすれば5~6回は使えるとの事です。

    f) 次に下絵を施します。伊藤氏の絵柄は、周囲にある自然界より題材を得ています。

      即ち、梅、桜、椿、千鳥、蓮、萱、篠竹、葱坊主、春山、紅葉、枯葉など多彩です。

    g) 透明系の釉を薄く吹掛し焼成します。酸化焼成すると明るく仕上り、還元では詫びた

      渋い色に仕上りますが、赤、紫、オレンジなどの明るい色は、発色しません。

      明るい色を出す為に、上絵付を行います。 焼成温度は、本焼き1250℃、上絵で850℃

      との事です。

  ) 伊藤作品の一つの特徴である色で画面を分割する手法は、1984年 第31回日本伝統工芸

     展に出品した「布目篠文大鉢」によって朝日新聞社賞を受賞した頃から始まった様です。

  ) 代表的な作品として、「山帰来文花瓶」「布目三ツ丸紋皿」(1973)、「布目すすき文花瓶」

    (1987)、「布目唐草紋大皿」「布目椿文大皿」「布目蜻蛉文花瓶」「布目枯葉文鉢」

     「布目春山文花瓶」「布目紅葉文花瓶」などがあります。

 ③  トルソと陶壁画

   1999年 突如「トルソ」を発表します。「トルソ」: 彫刻用語で胴部像のこと(イタリア語)

   人体の胴、美術上は胴体部分のみの彫像です。

  ) 伊藤の初期の作品は、八木一夫たちが創設した「走泥社」の前衛芸術を指向した影響が

     強く見られる作品を製作しています。「軟体動物」「なまけもの」「GEBAGEBAI」など

     クラフト(オブジェ)的な作品群です。

  ) それ故、「トルソ」を作る事に関しては、ほとんど抵抗がなかったのかも知れません。

  ) 陶壁画

    平成10年(1998)茨城県議会議事堂内に、陶壁画「春夏秋冬」が設置されます。

    尾形光淋を彷彿とさせる屏風絵の様な構図の中に、椿、松、蓮、無花果、杉山などが描かれて

    います。画面を斜めに横切る川の様な部分は、布目とは異なる機械の部品の様な物で表現

    されています。  余談ですが3・11の震災で陶壁が少し壊れ、修理したそうです。

次回(大谷司朗氏)に続きます。

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現代陶芸68(森陶岳)

2012-03-10 17:23:38 | 現代陶芸と工芸家達
古備前の魅力に挽かれ、当時と同じ大窯で焼成する為、次々に長大な窯を造り続け、今尚、挑戦し

続けている陶芸家に備前の森陶岳氏がいます。

1)   森陶岳(もり とうがく)本名は才蔵(さいぞう) : 1937年(昭和11) ~

 ① 経歴

  ) 岡山県備前市伊部で、備前焼窯元の森秀次氏の長男として生まれます。

  ) 1959年 岡山大学教育学部特設美術科を卒業し、兵庫県の公立中学校に赴任します。

     三年後の1962年に教師を辞め、郷里にて作陶活動を始めます。

  ) 1963年 第十回日本伝統工芸展で「備前大窯」が初入選を果たします。

     以来入選を続け、1966年には日本工芸会正会員となります。

     同年「瀬戸と備前新鋭十人展」に出品した「備前大壷」が京都国立近代美術館の買上となります。

     1968年度日本陶磁協会賞を32歳の若さで受賞されました。

  ) 1969年 東京で開催した「江崎一生・加守田章二・森陶岳三人展」に出品した「筒型砂器」が

     東京国立近代美術館の買上となります。(1970、1971年にも三人展を開催しています。)

     同年 砂壷、彩文土器などが評価され、日本陶磁協会賞を受賞します。

  ) 大窯で焼かれた古備前の作品に感動し、大窯に取り組む様になります。、

     1972年 兵庫県相生郡西後明に大窯を築窯します。

     1976年には兵庫県相生市の山中に築窯した、8mの登り窯(大窯の雛型)に初めて火を入れます。

     80年には46m(大窯で初の窯焚き)、85年には岡山県牛窓町寒風に築窯した53mの大窯で焼成を

     重ねます。 以後、89年、94年、99年と、4、5年おきに大窯の製作に挑戦しいます。

     そして、2008年には90mの大窯に挑戦すべく、今築窯を進めています。

  ② 森氏の陶芸

   ) 古備前とは、室町期から桃山、江戸初期にかけ大窯(共同窯)が築かれ、数々の名品が

      生み出さた作品です。特に室町末期から桃山時代に名品が多いです。

      (古備前を焼いた国史跡・伊部南大窯跡が備前市伊部にあります、全長53m)

   ) 古備前と比べて、自分の作品が見劣りすると感じた森氏は、その違いが、昔と同じような

      土造り、成形、そして小さな窯では「古備前の魅力」が出ないと悟り、大窯で焚く必要が

      あると言う結論に達しましす。

    a) 昔の窯の姿を求め、備前市の古窯跡発掘調査に加わり、その仕組みの解明に努めます。

    b) 発掘調査で、約17度の山の斜面に、半地下式の50m級の巨大窯でる事が判明します。

      窯跡の破片から、大甕や、すり鉢、壷などが出土します。更に文献なども調べ古備前の

      輪郭を解明して行きます。

   ) 窯(半地下直炎式登り窯)の規模を徐々に大きくして行きますが、1997年からは、

      「寒風新大窯」(全長85m・幅6m・高さ3m)の築窯に着手します。

      次々に新しい窯を作る理由の一つは、窯を築く土地を期限付きで地主から借りていた為、

      期限後には、更地にして返却する必要があった為とも言われています。
     
    a) 大窯の集大成として1994年、全長90mを越す新大窯の築造に着手し、弟子達と建設工事

      並みの大事業を進め、着々と完成に近付いているそうです。

    b) 耐火レンガが約600トン、窯壁は厚さも50cmを超える。幅6m、高さ3mと両側に100個

      ずつも並ぶ横口など、桁外れのスケールです。

   ) 初期の作品は「広口砂壷」(1969、東京国立近代美術館蔵)や、彩文土器(1971、72京都国立

      近代美術館蔵)などの代表的な作品があります。

      これらは、轆轤を使わずに、手捻りの作品で、川砂を多量に混ぜたり、異なる色土を使う、

      象眼技法を採り入れた焼き締めで、独自の造形を生み出しています。

   ) 大窯では、窯を一杯にする為に大量の作品が必要に成る為、 3~4石(こく)=約720ℓ)の

      大甕(かめ)220個は、紐造り(輪積)の方法で大量に作っています。

      (尚、1石=10斗=100升=180ℓです)

   ) 備前焼の土は耐火度が弱く、急激な温度変化を受けると破損しやすい為、窯焚きには、

      念入りに時間をかけ、少しずつ温度を上げていきます。(燃料は当然薪です)

      無釉(自然釉)、高温(1200℃)、長時間(数十日間)の焼成といった特徴から、桟切、

      胡麻、玉たれ、青備前(灰被り)、榎肌、牡丹餅、緋襷などの窯変が生まれます。

   ) 備前五石大甕、大壷、擂鉢、花入、茶碗、茶入、酒器、水指、彩文土器、折目角鉢、扁壷、

      大皿、俎板(まないた)皿などの作品があり、国内神社(伊勢神宮、厳島神社、出雲大社、

      東大寺)や 国内外の美術館(メトロポリタン、ボストン、東京国立近代、京都国立近代)

      などに多数収蔵されています。

  ・ こうした長年の功績に対し、日本陶磁協会から2002年に金賞が贈られています。

次回(伊藤東彦氏)に続きます。
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現代陶芸67(江口勝美)

2012-03-08 22:16:24 | 現代陶芸と工芸家達
有田の量産陶磁器の絵付けの方法に「ヒント」を得て、独自の「和紙染」の技法を作り出し、「日展」や

「日本伝統工芸展」で活躍したのが、佐賀県の江口勝美氏です。

1) 江口 勝美(えぐち かつみ): 1935年(昭和11)~

 ① 経歴

  ) 佐賀県藤津郡塩田町で、轆轤の名手であった、陶工の江口 春次の次男として生まれます。

  ) 1952年 武雄高等学校卒業後、佐賀県窯業指導所へ勤務し、以後1969年まで勤務を続けます。

    ここでの仕事は、陶磁器の技術やデザインの研究でしたが、この経験が後々役にたちます。

  ) 1957年 現代日本陶芸展(朝日展)に初入選を果たします。
    
     1961年 日展に入選(初入選)し、以後毎年の様に入選を果たしています。

     1970年 第十七回日本伝統工芸展で入選(初出品)を果たします。以後連続40回入選。

     1972年 日本工芸会正会員に推挙され、1981年 日本伝統工芸展鑑査委員に就任します。

  ) 各地の陶芸展示で、多くの賞を受賞しています。

   a) 全国県展選抜展で文部大臣賞受賞、九州山口陶磁展 一席、日本現代工芸展入選、

   b) 日展入選品の外務省買上げ(1964、1965、1966、1973)、文化庁買上げ(1951)

   c) 国外でも、豪州、米国、北京、西安、南京、上海、ブラジル、ポルトガルなど多くの国の

     陶芸展に出品しています。

   d) 個展も、東京青山グリーンギャラリー、福岡・佐賀・京都・東京個展など多数開催しています。

  ② 江口 勝美の陶芸

   彼は、最初は磁器で製作していましたが、やがて陶器も扱う様になります。

   ) 和紙染の創案

    a) 江口氏が世に出る切っ掛けに成ったのは、1961年の日展入選作品の「和紙染花文飾鉢」に

      よってです。

    b) 和紙染めとは、下絵付けの方法で、素焼きした器面に紙片を貼り、絵の具の呉須等で、

     太い筆を使って紙の上から染込ませて、模様を写し取る方法です。

    c) 紙は腰が強く、吸水性に富んだ和紙を使います。江口氏は肥前の東名尾の「楮(こうぞ)」

      和紙を使用しているそうです。

    d) 和紙染の特徴は、暖かく柔かい表現に成る事です。

      和紙をハサミで切ったり、手で千切る事によって、細かい形の変化を与える事が出来ます。

      又、同じ和紙を使えば、同じパターンで、反復繰り返し文様が簡単に表現できます。

      更に、絵の具の濃淡でも色の変化が可能なのは勿論、重ねて染付ける事により、複雑な

      濃淡を付ける事が可能になります。

    e) 代表的な作品に「和紙染丸地文鉢」(1962)、「和紙染花文蓋物」(1976)、「和紙染八角飾鉢」

      (1981)、「和紙染蝶文蓋物」(1973)、尚「和紙染花文盛器」は皇太子、妃両殿下への

      献上品と成っています。。

  ) 「刳貫(くりぬき)」技法の確立

    江口氏のもう一つの作品群に、「刳貫陶筥(くりぬきとうばこ)」があります。

   a) 大きな土の塊から、鑿(のみ)を使って掘り込み刳貫いて成形する技法です。

   b) 粘土の塊を良く叩き締め、良く乾燥させてから、鑿によって内側を刳貫き、外側はカンナで

     削り出します。(大きな作品では一塊の粘土の量は、数十Kg使用するそうです。)

   c) この技法の難しさは、先ず土を均等に乾燥させる事です。

     大きな塊の土を内部まで均等に乾燥させる為には、二ヶ月程掛かるそうです。

     次いで、内側を鑿で少しづつ刳貫いて行きます。粘土は磁土よりも肌理が粗く作業が困難

     との事です。更に、急激な乾燥では亀裂が入り易く、細心の注意が必要です。

     その為、作品を仕上げるのに半年掛かる事も稀ではないとの事です。

   d) 粘土の場合には、肌を白くする為、白化粧掛けを施してから素焼きします。

     ほとんどの陶筥には、和紙染による文様が付けてられています。

   e) 作品としては、「和紙染紺絣(こんかすり)刳貫陶筥」(1979):文化庁買上。

     「和紙染刳貫花陶筥」(1980)、「蝋抜吹墨更紗刳貫陶筥」(1980)、「和紙染更紗刳貫陶筥」(1982)

     などがあります。

  ) 古唐津の名品を生み出した「小山路(おやまじ)窯」を再興し、登窯を築きます。

     主に絵唐津が中心で有った藩窯の武雄古唐津系、小山路窯(東川登町内田皿屋)を再興し
 
     武雄陶芸協会を創設します。更に武雄古唐津の技術記録も保存作成しています。


次回(森陶岳氏)に続きます。
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現代陶芸66(三代山田常山2、谷川 菁山)

2012-03-07 21:06:48 | 現代陶芸と工芸家達
前回に続き、山田常山氏の話を続けます。

 ③ 三代常山の陶芸

  ) 常山の急須の形は、「鎌倉形」と言い、鎌倉時代の常滑焼の大壷は、肩が大きく張った

     緊張感のある形をしています。その形に倣って作られた常山独特の形と成っています。

     又、注ぎ口や把っ手の付け根に、わざと指跡を残し、柔らか味を出していますし、

     急須の蓋にも「林檎のへた」を模倣したりして、色々面白い工夫がしてあります。

     尚、「常滑燻し茶器」は焼成した茶器を、もう一度窯で焼いて色を出したものです。

  ) 急須以外にも、抹茶茶碗、水指、花入、大皿、大壷や、鉢、酒盃なども作っています。

     酒盃などや茶碗は煎茶の色を楽しめるように、内側に白泥を塗ってあります。

     作品としては、「紫泥つる首花入」「梨皮紫泥組鉢」「梨皮鳥泥水柱」などがあります。

  ) 登窯による真焼(まやけ)について

     当初は常滑市前田の共同窯の登窯を使っていましたが、公害問題で廃止になります。

     そこで夏敷に自宅兼工房を移し、同時に登窯を築きます。ここで「真焼」と呼ぶ自然釉の

     焼き締の作品を作る様になります。

     自然釉の作品には、燃料の薪に竹を混ぜる事で、青みがかった金属的な色合いの出ている物も

     あります。

  ) 急須造りの際、各部品を組み立てる際に、注意する事があります。

    a) 注ぎ口の取り付け角度と高さに注意する事。

      高さが低過ぎると、急須の容積が少なく成ってしまい、高過ぎると、お茶を注ぐ際、

      注ぎ口からではなく、本体から流れ出してしまいます。

    b) 把っ手が横方向に付く場合、注ぎ口と直角(90度)ではなく、やや鋭角(80度程度)に

      すると、使い易いです。又、バランス良く組み立てられているかを確認する方法に

      把っ手を垂直に立て、静止できればバランスが取れている事に成ります。

    c) 一般に急須は右利き用に造られています。左利きの方には使い難いです。

      それ故、左利き用の急須を作る事も一考かと思います。

  ) 絞り出し茶注「宝瓶(ほうびん)」は、轆轤挽きでなく、手捻りの作品を良く見かけます。

     轆轤挽きによる硬さが無く、手捻り特有の温かさがあります。
      
  尚、出光美術館では、常山氏の作品を購入し続けており、そのコレクションを披露しています。

    三代没後は四代常山(想)に引き継がれます。


2) 谷川 菁山(たにがわ せいざん):1940年(昭和15)~ 2011年(平成23) 享年72歳

   山田常山氏と同様に、常滑で急須を作っている陶芸家に、谷川 菁山氏がいます。

 ① 経歴

  ) 愛知県常滑市に生まれ、常滑高校窯業科を卒業します。

     祖父は轆轤挽きで、急須を作っていたようです。高校卒業後、一時兄に学んだが、ほとんど

     独学で轆轤技術を習得したと言われています。

  ) 月に千個もの急須を、十年間轆轤挽きし続け、紙の様に薄い肉厚の作品が作れる様に成ります。

     但し、谷川氏の二十代半ば頃までは、急須は余り売れなかった様です。

     東海道新幹線が開業した昭和39年頃より、需要が増え注文も増えて来たとの事です。

  ) 1981年 第二十九回日本伝統工芸展で「窯変梨地茶注」が初入選を果たし、以後20回余り

     入選しています。1982年の伝統工芸展では、「常滑窯変盤」が奨励賞を受賞します。

     日本工芸会 正会員に成っています。

 ② 谷川 菁山氏の陶芸

  ) 作品は朱泥、紫泥、梨皮、窯変、藻掛等の急須が多いです。

    藻掛は、器の表面に海藻を掛けて焼き締めたものです。これは備前焼の緋襷が藁を使うのに

    ヒントを得て、海藻を使って同じ効果をもたらすものです。

  ) 轆轤挽きでは、底の広い急須は一個挽きで、狭い急須は数挽き(棒挽き)で行っています。

     湯の切れを良くする(尻漏れを防ぐ)為には、注ぎ口の口先内側を金ヘラで薄く削り、

     更に口先の下部を下に向けると良いそうです。

  ) 作品は電動轆轤を用い、ガス窯や電気窯で焼成しています。

    朱泥や紫泥の急須は1100℃、約24時間で酸化焼成するそうです。

    藻掛の急須は、1250℃、約20時間の焼成との事です。尚藻掛用の土は、肌の白い土が効果的に

    発色します。

  ) 1970年代の作品は、緑泥、練り込みの急須等を多く製作しています。

 参考文献: 「陶工房」急須を作る(谷川 菁山の急須づくり)No. 11(誠文堂新校光社)

次回(江口 勝美氏)に続きます。
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現代陶芸65(三代山田常山1)

2012-03-06 21:52:30 | 現代陶芸と工芸家達
愛知県知多半島にある常滑市は、古くから常滑焼陶器の産地で、平安時代より須恵器を焼いています。

現在常滑で、急須一筋に作っているのが山田家で、特に三代常山は人間国宝に認定されています。

1) 三代山田常山(やまだ じょうざん) 本名は稔: 1924年(大正13) ~ 2005年(平成17)

 ① 経歴

  ) 愛知県常滑市に、二代山田常山の子として生まれます。

     初代の祖父、二代の父も常滑焼の急須作りの名匠と言われた方達です。

  ) 1941年 愛知県立常滑工業学校窯業科卒業します。在学中より初代山田常山や二代に師事し、

     急須造りを中心に陶芸全般を習います。

  ) 1958年 第5回日本伝統工芸展で初入選を果たします。以後毎年の様に出品を繰り返します。

     同時に、ブリュッセル万国博覧会にてグランプリを受賞しています。

     1959年 第7回生活工芸展 第一席 朝日賞受賞。

     1961年 三代 山田常山を襲名します。

     1963年 日本工芸会正会員になります。

  ) 1973年 フランス 第3回ビエンナーレ国際陶芸展名誉最高大賞を受賞。

     1975年 常滑「手造り急須」の会、会長に就任しています。

     1993年 日本陶磁協会賞受賞。

     1994年 愛知県指定「朱泥急須」で無形文化財保持者に認定されます。

     1998年 常滑焼(急須)で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。

  ② 常滑焼の急須について

   ) 急須の基本形は茶銚(ちゃちょう)、茶注(ちゃちゅう)、絞り出し茶注(宝瓶)の

      3種類があります。

    a) 茶銚は、中国以来の伝統的な形で、注ぎ口と把っ手(とって)が一直線になっています。

      即ち、持ち手が後ろに付く後手の急須です。

    b) 茶注は、把っ手を横に付く横手や、上に付く形の物で土瓶型や薬缶風の形をしています。

      和風の感じになります。

    c) 絞り出し茶注(宝瓶=ほうびん)は、把手と茶漉しを省略した、玉露用の急須です。

    d) その他お湯を冷ます「湯冷まし」も造られています。形は玉露用の急須に似ています。

   ) 煎茶の習慣は、江戸前期に来日した、隠元禅師によってもたらされたと言われています。

      煎茶用の朱泥の茶器や急須は、明代の中国江蘇省の宜興窯(ぎこうよう)で盛んに

      作られました。作品は、茶壷、茶注、火鉢、植木鉢などが焼かれていた様です。

      土は、赤い色の朱泥(しゅでい)の他、紫泥(しでい)、烏泥(うでい)、梨皮泥(りひでい)

      白泥など、色や器肌が異なる物があります。

     a) 紫泥は金属成分を加えて、茶色に発色させた物で、烏泥はその量を多くして、黒い色を

       出しています。

     b) 梨皮は朱泥に砂礫や、異なる色の土を練り込み、梨の皮の様にザラザラした手触りに

      成ります。

   ) 我が国で朱泥が完成したのは、安政元年(1854年)に常滑の杉江寿門によります。

      初期の朱泥は、田土を使い鉄分の多い山土を25%混ぜ、水簸(すいひ)して使った様です。

      焼き肌が滑らかに成る様に、水漉しを繰り返し、粘りを出す為に甕に入れて寝かせてから

      使用します。 1950年頃からは、木節粘土に弁柄を加え、更に細かくした長石を混ぜ合わせて

      土を作っています。

   ) 明治11年に「宜興窯」から招かれた、中国の文人の金子恆氏が、常滑に数ヶ月滞在し、

    朱泥茶注の製法と印刻文の装飾技術を、杉江寿門らに教えます。

    初代、二代常山は、杉江寿門の流れを汲み、この宜興窯に倣った作品を作っています。

  ③ 三代常山の陶芸

    初代と二代常山の元で轆轤挽きによる、朱泥急須を中心とした伝統技法を修行します。

    その後、朱泥、烏泥、梨皮泥等の多彩な素地の用法に応じ、水簸(すいひ)による坯土の

    調整から轆轤による繊細な成形工程を経て、焼成、仕上げに至る一貫制作の全ての工程に

    精通していきます。

    彼は伝統に基きながら、土の色、形など様々な工夫を凝らし、新しい作品を制作しています。

   ) 轆轤による成形(一般家庭で使われている、常滑の急須は鋳込みによる型成形です。)

     作品は薄造りで轆轤成形して作られています。胴、蓋、注ぎ口、把手を別々に造り、

     バランス良く組み立てます。尚、轆轤や鋳込み方法以外に、手捻りでも作られています。

   ) 道具はほとんど使わず、親指の爪を使って「蓋受けを」作っています。

     「絶対尻漏れしない急須」の造り方は、山田家に代々伝わる秘伝との事です。

   ) 常山氏は急須を中心に制作を続けます。

      作成年代は「昭和50〜60年」が多く、「常滑の茶注」「朱泥急須」「梨皮朱泥茶注」

      「梨皮彩泥水注」「常滑自然釉茶注」「梨皮白泥 茶注」「朱泥燻し焼絞り出し茶注」

      「窯変藻がけ茶注」「紫泥茶注」 「梨皮泥緋襷茶注」「 常滑土瓶」など100種類以上の形や

       色があると言われています。


次回(山田常山2)へ続きます。
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