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山田宏一『永遠の青春映画(ジャック・ロジェ論)』その1

2012-10-14 04:20:00 | ノンジャンル
 ジャック・ロジェのDVD-BOXの解説書に載っていた、山田宏一さんの『永遠の青春映画』と題されたジャック・ロジェに関する文章を読みました。以下、その内容を引用させていただきます。
 ジャック・ロジェはジャン・テュラール編著の「映画辞典 監督篇」では「ヌーヴェル・ヴァーグの最も呪われたシネアスト」と紹介・定義されています。彼は長編処女作『アデュー・フィリピーヌ』が1960年に撮影し、1962年にやっとパリでロードショー公開されたものの、壊滅的な興行成績だったために、その後、映画を撮れずに、ヌーヴェル・ヴァーグから取り残された形となり、ほとんど忘れられた存在になりました。しかし、1959年のカンヌ映画祭における有名な「ヌーヴェル・ヴァーグ勢揃い」の記念撮影には、ジャン=リュック・ゴダールと並ぶ彼の姿があります。
 それは、1958年、ゴダールとロジェの友情ある出会いから始まりました。1958年のトゥール短篇映画祭に出品されたロジェ監督の自主映画『ブルー・ジーンズ』を見た、当時の「カイエ・デュ・シネマ」誌の批評家で自らも短篇映画を撮っていたゴダールが、これこそ明日の「われらのフランス映画」だと叫びます。彼は「カイエ・デュ・シネマ」誌上でロジェの映画を絶賛し、2人は新しいフランス映画をめざして意気投合し、無二の親友となります。ゴダールが28歳、ロジェは32歳の時でした。
 トゥール短篇映画祭で『ブルー・ジーンズ』を見た翌年の1959年、ゴダールは長篇第1作『勝手にしやがれ』を撮ることになりますが、そこでもゴダールはロジェの作品に敬意をこめ、自分がロジェ作品を絶賛した文章の中で引用したアラゴンの詩を映画の中でも引用します。ジャン=ポール・ベルモントとジーン・セバーグがもぐりこむ映画館(バッド・ベティカー監督の1959年の西部劇『決闘ウエストバウンド』を上映中)のスクリーンから聞こえてくる台詞の一部がルイ・アラゴンの詩になっているのです。
 その頃、ロジェは映画学校を出て、すぐにテレビ局に就職していた頃で、まだデレビ局では演出部の助手でしたが、ひまを見つけては『勝手にしやがれ』の撮影を手伝ったり、切羽詰まったときのテレビの「間に合わせ」の早撮りテクニックをゴダールに教えたりしていたそうです。テレビを映画と敵対するものとしてみなすのではなく、そのテクニックを積極的に映画に取り入れて協調関係を成立させようという考えを、ゴダールはこの時にロジェから学んだふしがあります。その点でも、ロジェとゴダールはロッセリーニの後継者と言えるかもしれません。
 『勝手にしやがれ』のすばらしさに驚嘆したロジェは、1960年、ゴダールからの誘いもあって、テレビ局を辞め、ゴダールの長篇第2作『小さな兵隊』の助監督になります。実際には、助監督というより、もっと親密な「監督補」のような感じだったようです。
 ゴダールが既にアンナ・カリーナをヒロインに決めていたのを知らなかったロジェは、アンナ・カリーナのスクリーン・テストをオーディションと思い込み、「この娘はひどい、使いものにならない、やめたほうがいい」とゴダールに耳打ちしていたことをアンナ・カリーナはよく覚えていると言っていました。そして結局、ロジェは途中でスタッフから抜けてしまったのだそうです。
 しかし、ゴダールはロジェを『勝手にしやがれ』のプロデューサー、ジョルジュ・ド・ボールガールに推薦し、とことんバックアップして、ロジェの長篇『アデュー・フィリッピーヌ』の製作に漕ぎ着けます。
 そもそも『勝手にしやがれ』という作品も、すでに『美しきセルジュ』と『いとこ同志』で成功していたシャブロルの「監修」、『大人は判ってくれない』で成功していたトリュフォーの「オリジナル・シナリオ」に支えられて、製作に至ったもので、友情と仲間意識に支えられたヌーヴェル・ヴァーグ方式の映画でした。
 『勝手にしやがれ』は試写のときから大評判で、1960年3月にパリでロードショー公開されるや、大ヒット。評価も高く、その年のジャン・ヴィゴ賞(フランス映画の新しい時代を切り開く最も先鋭的な処女作に与えられる)が授与されます。(明日へ続きます‥‥)

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/