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島尾敏雄『離脱』その3

2019-06-24 13:35:00 | ノンジャンル
 八日めの朝、眠りからときはなたれ、昼のなかにはいるのをおそれながらそっと目をあけると、じっとぼくを見ている妻のかわいた目にぶつかった。(中略)こどもたちも目をさまし、父と母がすぐそばに寝ているのがうれしいのか、しさいぶって伸一など、両ひじを立ててあごを支えるかっこうできいていたが、「おかあさん、ぼうやも、ゆめをみちゃった」と言う。「ほう、ぼうや、もう夢をみるのかねえ。どんな夢だったい」とぼくは救われたように妻の気分をそちらに向けようとこころみる。
「玉のお墓がうごきだしたんだよ。そうしたらね。玉が生きかえっちゃった」
と伸一はいきをはずませて、じぶんのみた夢を親たちに報告したが、それは夢のはなしとしてはいっそう悪い。玉は妻が寂寥をまぎらすために飼ったねこだが、先ごろ死んで、庭のすみにうめた。玉のことを言えば、かわいがったそのねこのことばかりでなく、それに重なってそのころの夫の姿態がぶつぶつふきあがってくるのだ。(中略)
 きのうの日の昼すぎ、ぼくは映画を見たくなったから妻にそう言った「すこうししんぱいだ。やめようか」ときめかねていると、「だいじょうぶよ、おとうさん。見ておいでなさい。またなにか仕事のやくにたつかも分らないでしょ」と言われて、踏切をこえた向うの映画館に行った。(中略)外に出ると、すっかり日が暮れていた。(中略)不安がのどもとまでふきあげ、下駄の音をきしらせてぼくは家まで走り帰った。(中略)
「ごめんなさい。おそくなっちゃった。すんで外に出たら、もうくらくなっているので、びっくりして走ってきた」といきをきらせて言っても、妻はだまっている。その暗い顔つきは家じゅうを凍りつかせる。(中略)

 その事実をどう説明することもできないが、朝方の妻の夢見にはひとつの予兆のにおいがあった。おそれている「こと」はひとつせず確実にやって来る。(中略)
 なぜか、なにげなく垣根の外に目をやるときについ配達人の制服や帽子を見てしまうが、ぼくに見られた配達人が門に近よって行ったあとで、郵便受に、ことん、と音がする。するとその音をマキがききのがさないのがふしぎだ。(中略)「あなた、きたわよ」という妻のたかぶりをむりにおさえた声だ。ぼくはいきなり汗をびっしょりかく。「いっしょに読む約束よ」そう言って妻が封をきる。さいしょ読んでだまってぼくによこす。見なれた字が目にはいる。(中略)妻はそれをもって便所にはいった。
 そのときこどもはふたりとも手紙をとり出してから便所にはいるまでの母親のようすをじっとだまって追っていた。便所にはいったとき、マヤはおびえるように顔をしかめて、「マヤ、ミタクナイ」とぽつんとひとりごとを言い、伸一は母親がでてくると、「べんじょに、おてまぎをすてたの?」ときいた。「紙よ」と妻が返事をする。
「てまぎの紙?」ともういちど伸一はきく。
「ただの紙」妻がそうにげると、
「うそつけ」
 伸一ははきだすようにそう言った。でもそのときは妻にはなんの変化もなかった。(中略)それはひとまず安心だが、伸一のなげつけるように言ったことばは気にかかる。

 たとえ家の中がどんなにかたまらなくてもこのままでは餓死してしまうほかない。朝夕がことのほか冷えこみ、もう、はっきりと夏が過ぎ去ったことが分った。(中略)マヤがじぶんだけで人形あそびをしながらひとりごとを言う。オトウシャンハバカダカラ、オウチガイヤクナッテ、ヨショノオウチニイッチャッタノ。ぼくたちはきっかけのある度に、坐りこんではなしこむ。(中略)それは結婚いらいのことなのだ。そういう姿勢にも少しずつなれて行くのか。でも妻の暗い顔つきはいっこうに消えそうでないのが気にかかる。(中略)妻の方に寄り添おうとすると過去の体臭がたちのぼってきて気持が分離してしまう。妻の方もときにうかがうように仕事部屋にやってきてつきさす目でにらみつけ「あなたがねえ」などと言ってぼくの顔をまじまじと眺めたりする。(中略)別なときにはばたばたと走りこんできたかと思うと、いきなり、「すきだ、すきだ、すきだ」と目に涙をためて言い、「すみません、すみません、ゆるしてください。こんなすがたをみせて、はずかしい」と言う。(中略)「オトウシャン、ワルモノジャナイネ」とマヤが言って、思わずふたりで笑い出してしまったことがあった。だから少しずつはよいほうに向ってかたまって行くのだろうと思っていた。じぶんではつい一寸先も分りはしない。
(了)

 文句なしの傑作で、あっと言う間に読めてしまいました。雑誌として売られたものはもう手に入らないようですが、アマゾンで「群像短篇名作選 1946~1969(講談社文芸文庫)」(定価税込み2484円)を買えば読めると思います。

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