恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。
まず7月10日に掲載された「暴力と言論」と題された前川さんのコラムを全文転載させていただくと、
「街頭演説中の安倍元首相が殺害された。犯人がどんな不満を抱いていたのか知らないが、決して許されない犯罪だ。
暴力と言論は両立しない。僕は官僚を退職後、言論界の隅っこに居場所を得て、安倍政治を批判し続けてきた。無力感を感じることも多いが、発言をやめないのは、政治や社会を変えるのは言論だと信じるからだ。
暴力は暴力を生む。暴力が強まれば、その暴力に対抗する暴力も強まる。テロが広がればテロ対策という名の国家の暴力が強まる。社会の中に暴力が溢(あふ)れると自由な発言が成立する空間が消えていく。言論が消滅すれば民主主義は死ぬ。
日本の近現代史を振り返れば、1930年代初頭に政界や経済界の要人の暗殺が相次いだ。果ては陸海軍の軍人がテロを起こした。それは議会政治の衰退と表裏の関係にあった。ヤジも飛ばさずいきなり発砲した犯人の態度には、「問答無用」と犬養首相を殺害した五・一五事件の海軍将校と重なるものを感じる。
暴力の増長は言論の衰退によって起こる。何も説明しない政治家、空疎な国会審議、権力への批判を忘れたマスメディア。言葉では何も解決しないという思いが人を暴力に走らせる。
言論の衰退と暴力の増長の悪循環を止めるには言論を立て直すしかない。だから今言論が委縮してはいけないのだ。」
また、7月13日に掲載された「遺志を受け継ぐ?」と題された斎藤さんのコラム。
「安倍元首相が銃撃された事件。11日の本欄では宮古あずささんが「自由な言論や民主主義への脅威」として論じられることを疑問視し、12日の特報面では高村薫さんが「『言論封殺』などと報じたのは非常に違和感がある」と述べた。
私の考えもお二人に近い。事件の背景が十分判明していないうちに事件の方向付けを行うのは危ない。五・一五事件や浅沼稲次郎襲撃事件と並べて論じるのも、なんだか連想ゲームである。
一方、単なる連想ゲームとはいえないが、元首相と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との結び付きだ。逮捕された容疑者は、母親が教団にのめり込んで家族が破壊され、教団と安倍氏がつながっている。もしこれが彼の妄想なら、理不尽は逆恨みである。が、教団幹部も元首相が教義に賛意を示し、関連団体にメッセージを送ったことは認めている。信教の自由ですむ話だろうか。
参院選顎の会見で岸田首相は「安倍元総理の遺志を受け継ぎ、拉致問題や憲法改正など、ご自身の手で果たすことができなかった難題に取り組んでいく」と述べた。
これも一種の宗教的なメッセージである。なぜ安倍氏の遺志を受け継がなくてはいけないのか。それを決めるのは主権者だ。政治の場で横行する宗教的な言説。政教分離も原則はどこへ行ったのだろうか。」
そして、7月17日に掲載された「国葬には反対だ」と題された前川さんのコラム。
「なぜ故安倍晋三氏を国葬にするのか、全く納得がいかない。葬儀は弔いの儀式だ。弔いとは死者を悲しみ悼むのは人の心だ。国が葬儀をするということだ。僕は自分の心を動員されたくない。だから国葬には反対だ。特に安倍氏の国葬には大反対だ。憲法を破壊し、日本の立憲政治を堕落させた人だからだ。
岸信介氏も含め歴代首相経験者の葬儀の通例である内閣・自民党合同葬なら、僕の心まで動員されないから、そこまで反対はしない。
岸田首相が挙げた国葬の理由は、どれもこれも理由になっていない。「憲政史上最長」の在任期間が国葬に値するとは言えない。戦前最長だった桂太郎は国葬になっていない。「国内外から幅広い哀悼、追悼の意」というが、多くは社交辞令、外交辞令だ。「日米基軸の外交」は戦後の首相全員に当てはまる。「日本経済の再生」は事実に反する。「暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」というが、安倍氏を追悼することがなぜ民主主義を守る決意表明になるのか。
国葬の本当の理由は、自民党内おきたいというの親安倍勢力を繋(つな)ぎ止めておきたいという党内政治だ。国民を巻き込まないでくれ。」
どれも一読に値する文章だと思います。
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