常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

夕焼け

2019年08月27日 | 芭蕉

今月になってきれいな夕焼けを見たのは2度目である。童謡に「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」というのがあるが、昔の感傷はもうない。ただ、赤く染まった空に、じっと視線をこらすだけである。俳句の歳時記を開いてみる。

子の帰省明日となりをり大夕焼け 細谷 鳩舎

そういえば、わが家でも、娘がとっくにお盆が過ぎたというのに帰省する。春に義母の葬式で会ったが、娘には自分の生活があって、頻繁に帰省もかなわない。所要が済めば、一泊でトンボ帰りとなる。

夕焼けて遠山雲の意にそへり 飯田 龍太

夕焼けは夏に限ったことではないが、歳時記では盛夏に分類されている。燃えるような太陽が沈んで、青空に浮かぶ雲が赤く染まるのがやはり似合っている。つい先週まで、暑い、暑い、熱中症に気をつけてと言ったのが、もうずいぶん以前のことのような気がする。朝夕はめっきり涼しくなり、タオルケットでは心もとない夜になった。

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木槿

2019年07月28日 | 芭蕉

道のべの木槿は馬にくはれけり 芭蕉

芭蕉がこの句を詠んだとき、利休が秀吉を待合で茶会に招いたときの故事が、念頭にあった。その待合の庭には見事な蕣(アサガオと読むが木槿のことをさしている)が咲いていた。秀吉がその待合にやってくると、咲いている筈の木槿がひとつもない。どうしたことか、と訝しんで茶室に入ると、一輪だけの木槿が、床の間に活けてある。本来であれば、庭の大木にいっぱいの木槿が、茶室にたった一輪飾られている。その落差に驚きもし、一輪の美しさに秀吉は感動を覚えた。

利休の美意識の一端を示す故事である。そのことを念頭に、芭蕉は「馬上にて」と題して冒頭の句を詠んだ。秋の気配を語るはずの木槿は、繋がれた馬に食われてしまった、そこに芭蕉の句のおかしみがある。そもそも、木槿は一日花である。朝咲いて、夕方には萎んでしまう。なぜ、秀吉は利休に死を賜ったか、多くの史家が解明しようとしてなお解けぬ謎である。利休が一日の栄の花をシンボルとして、秀吉に自らの栄華の短さに譬えて見せたと深読みするのは、後世の徒の邪推というものであろう

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春霞

2019年02月28日 | 芭蕉

写真家の写真集を見ていて、いつも憧れる風景がある。朝、立ちこめる霞の向こうに、連山にグラデーションがかかって見える風景だ。いつか、そんな写真の撮ってみたい、といつも思う。今朝は、高い雲か霞か、判別はつかないが、山の姿はそんなイメージだ。実際にとってみると、山の濃淡がもう少しはっきりしたものであって欲しい。しかし、じっと見ていると、春の風景がそこにある。芭蕉の句を、ふと思い出す。

春なれや名もなき山の薄霞 芭蕉

貞享2年、「野ざらし紀行」の旅で詠んだ句である。この旅の目的は、奈良のお水取りと薪能を見るためである。初稿は「朝霞」であった。これを、薄霞と変更した理由は何か。安東次男の考証がある。芭蕉は紀行の途次、その土地の俳人と連句の興行をしている。客として芭蕉は、その土地で先ず最初に詠むのが、挨拶の句である。興行を主宰する亭主が、その挨拶に脇をつける。この霞を、朝にするか、夕べにするか、そこは亭主の裁量に任される。朝霞とやってしまっては、亭主の裁量つまり楽しみを奪ってしまう。そこで、はばを持たせたのが薄霞であった。

名もなき山と詠んでいるのも、面白い。当然のことに、そこに住んでいる人にとっては見なれた山であろう。客人にあの山は何、この山は何、と説明する余地を残している。私などは、名があるかどうかも、定かではない。

 

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花だより

2019年02月23日 | 芭蕉

春一番の花だよりはテレビのブラウン管に写し出される。静岡の河津桜。そのみごとな濃いピンクの花は、土手の辺りの景色を一変させる。もう春が来た、と実感させる瞬間だ。日帰り温泉の玄関には、瓶に投げ込まれたソメイヨシノの切り枝が花を咲かせた。近所の桜はどうかと、足を向けてみた。まだ堅い蕾で、ヒヨドリが空しく飛び回っていた。気象予報士の開花予想も始まっている。それによると、こちらは4月5日ころ、また桜の季節が巡ってくるが、あと何回会えるか、ということが頭のすみをよぎる。

 

芭蕉は「笈の小文」のなかで、吉野の桜を書いている。

よしのの花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめにうばゝれ、西行の枝折にまよひ、かの貞室が是は是はと打なぐりたるに、われいはん言葉もなくて、いたずらに口をとぢたる、いと口をし。

桜の余りのみごとさに、摂政公のながめ、西行の枝折の歌、貞室の句などを思い出し、一日を費やし、自分はついに一句もできなかった、と嘆いている。これは、芭蕉の感動を表現する常套句で、松島の景色を見たときも、同じような感懐を漏らしている。

 

摂政公は、藤原良経。その桜の歌は、むかしたれかゝる桜のたねをうゑて吉野を春の山となしけむ であり、また西行の枝折とは、吉野山こぞのしおりの道かへてまだみぬかたの花を尋ねん。昨年は、ここまで見たしるしに、枝を折っておいたということらしい。貞室の句は、これはこれはとばかり花の芳野山 でどのそれぞれ詩人の個性が出た歌句である。

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しら魚

2019年01月28日 | 芭蕉

明ぼのやしら魚しろきこと一寸 芭蕉 

白魚を初めて食べたのは、50年も前

秋田へ旅した時で、男鹿の宿で踊り食い

というものが出た。目が大きく見え、

勢いよく跳ねるのを見て食べることが

できなかった。今思えば惜しいことだ。

 

芭蕉がこの句を詠んだのは、秋10月

桑名の浜で舟遊びをして、白魚を

掬ってとった時のことである。

白魚の成魚は二寸、季語は春だが、

一寸と詠むことで、時期が秋であること

を示している。つまり白魚がまだ成魚に

なる前の命のはかなさが主眼である。


芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で帰郷し

たのは、亡くなった母の追善のためで

あった。老いた母の白髪を思い、その

命のはかなさと小さな白魚の命を重ねた

ところに句の意味がある。

 

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