河口慧海
2023年06月26日 | 人
河口慧海の『チベット旅行記』を読んでいる。1886年、堺に生まれた慧海は、小学6年で学校を止め、家業である桶樽製造を手伝った。向学心に富み、家業のかたわら夜学や塾にも通った。15歳の時、『釈迦伝』を読んで発心、禁酒、禁肉食、不婬を誓い、26歳からは二食生活に入り、生涯続け通した。以後の学業では、井上円了創設の哲学館で3年間勉学を続け、25歳で得度を受け、慧海仁広の名をもらった。慧海がチベットに行く決心を固めたのは、1893年ころのことであり、その動機は仏教の原典を得たいという求道のためであった。漢籍による仏典に疑問をもち、まやかしでない真正なものに触れたいということであった。
自分がこの存在に気付かされたのは、川喜田二郎の『鳥葬の国』であったように思う。1958年、川喜田二郎を団長とする西北ネパール学術探検隊が、慧海が訪れたネパールのトルボに行っているが、慧海から半世紀経ってのことであった。ここからネパールとチベットの国境を越える苦難の行程が、『チベット旅行記』に記されている。慧海の表現によれば飢餓乾渇の難、渡河瀕死の難、雪峰凍死の難、重荷負戴の難、漠野独行の難、身疲足疵の難。実に水のない砂漠で渇し、身の切られるような冷たい川を幾度も渡り、雪の峰では凍死の危機に会い、身も心もボロボロになった、そうして着いたのがマナサルワ湖である。本には線描きのスケッチが載っている。
ネット時代には、この湖の写真が配信されている。その写真を見ながら、慧海の描写を読むことができるのは幸せである。
「その景色の素晴らしさは実に今眼に見るがごとく豪壮雄大にして清浄霊妙の有様が湖辺に現れて居る。(中略)湖中の水は澄み返って空の碧々たる色と相映じ全く浄玻璃のごとき光を放っている。西北の隅に当ってはマウント・カイラスの霊峰が毅然として碧空に聳え、その周囲には小さな雪峰が幾つも重なり重なって取り巻いている。」
慧海が目にした光景は、海抜4500mの地にあって、曼荼羅をなし、仏教の聖地そのもであった。これを眼にしただけで、ここまでの行脚の疲れも吹き飛び、清々とし、自分を忘れたような境涯に達することができた。