日ごとに深みを増す樹々の緑。花よりも緑が好きだ、という人がいる。こんな光景を目にするとそう言う人の気持ちがよくわかる。何故、樹々の芽吹きに人は心を揺さぶられるか、といえば、それは命の再生をそこに見るからだ。秋に葉を落とし、仮死のなかで一冬を過ごす。芽吹きは、死からの蘇りのように人は感じる。人は死んで再び再生することはないが、樹々の再生に、ある種宗教的な神秘を感じているのではないだろうか。ここでは作家、幸田文の見た新緑へのまなざしを見てみる。
「人によると、花より新緑が好きだという。新鮮好み、さわやか好みなのだろう。私は両方とも好きだが、細かくいえば、咲きだそうとする花、ひろがろうとする葉に一番心をひかれる。蕾が花に、芽が葉になろうとする時、彼等は決して手早く咲き、また伸びようとはしない。花はきしむようにしてほころびはじめるし、葉はたゆたいながらほぐれてくる。用心深いとも、懸命な努力ともとれる。その手間取りである。(中略)私は花の、葉の、はじまりというか生れというかが好きだ。(幸田文『木』)
万緑の木々を見て「おいしそうだ」と言った人がいる。見てその美しさに感動する一方で、出たばかりの木の芽を、食べるのも人が生命を保つために、続けてきた風習である。新芽の生命力を体内に取り入れることで元気になることもできる。この季節にだけ楽しめる食生活である。山菜のなかにある一種独特の苦みやきどさを、冬の間にたまった体内の毒消しとして利用してきた。牧野博士が云うように、樹々や植物に囲まれて生きることは、幸福なことである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます