今日はこどもの日。フジテレビの朝の番組で、子どもたちに大人への言い分を聞いていた。「大人は勝手だ」「言うだけのことをやっていない」というようなことが多かった。至極、当然な答えだと思う。私も子どもの頃の「大人感」はそんなものだった。大人は嘘つきだとまでは思わなかったけれど、勝手が良すぎるとは思っていた。自分たちの尺度でものごとを決め、それを子どもに押し付ける。押し付けておけば、子どもたちはそれに従うと思っているが、それは子どものことを思ってというよりも、自分たちにとって都合が良いためだ。
中学や高校で生徒会の役員をやって、全て大人たちが勝手に決めていると知った。生徒手帳に生徒会規則が載っているが、「これは君たちのための約束だ」と生徒会顧問は言う。いったい、何時、誰が決めたのか。生徒のためのものであるのなら、生徒が自分たちで作り直すことだってかまわないはずだが、「そういうものではない」と言う。生徒会の規則もまた生徒会の行事も、あらゆることが生徒の自由にはならない。それなのに「全ては君たちのためなんだ」と言う。
大人になったなら、そういう勝手な大人にはならないつもりだった。自分の都合だけで子どもに嫌なことを押し付けないつもりだった。しかし、自分が大人になってみると、やはり私が子どもの頃の大人たちとそんなに変わらないことをやっている。私はできるだけ子どもを叱らないようにして育ててきた。「テレビは仕事に疲れた大人が見て楽しむものだから、子どもはそんなに長く見なくてもいい」とか、勝手な理屈で子どもたちを押さえつけてきた。
5月5日と10月10日は、家族でハイキングに行く日と決めつけ、東海自然道など子どもにとってはかなり大変なコースを歩かせた。長女が大きくなると長電話が日常的となった。初めは放っておいたけれど、聞き耳を立てていたわけではないが、聞こえてくる話は全く今話すことが必要と思われないことばかりだ。先ほどまで一緒にいたのに、また同じことを繰り返している。「長電話はやめなさい!」と怒ったことがあったけれど、後から考えてみれば嫉妬からくる怒りだった。自分たちの子どもの頃にはできなかったことをやっている子どもへの嫉妬なのだ。
時代が違うのだから、それを認めなくてはならない。そこで私は、自分の価値観というか自分の考えというか自分の基準みたいなものについて、子どもたちに無理やり聞かせたし見せた。子どもたちに私の考えに従わせようというものではない。受け入れなくてもいい。少なくともあなたたちの父親とはこういう人だったと伝えておきたかった。どうしても生きてきた時代が違うし、考え方や価値観も違う。違って当たり前だ。同じだという方が気味が悪い。
テレビでは「子どもたちが未来に希望が持てない」ことを問題にしていた。毎日、テレビや新聞で、こんなにも未来がないような報道がされているのだから、子どもたちがそう思うのも無理はない。「子どもたちも責任を共有しているとを教えるべきだ」と言う人もいたけれど、子どもたちは大人社会を見ているのだから、大人がどんなに叫ぼうが憂ようが、彼らの時代は彼らしか作れない。だから私たちは自分が生きて見せるしかない。
中学や高校で生徒会の役員をやって、全て大人たちが勝手に決めていると知った。生徒手帳に生徒会規則が載っているが、「これは君たちのための約束だ」と生徒会顧問は言う。いったい、何時、誰が決めたのか。生徒のためのものであるのなら、生徒が自分たちで作り直すことだってかまわないはずだが、「そういうものではない」と言う。生徒会の規則もまた生徒会の行事も、あらゆることが生徒の自由にはならない。それなのに「全ては君たちのためなんだ」と言う。
大人になったなら、そういう勝手な大人にはならないつもりだった。自分の都合だけで子どもに嫌なことを押し付けないつもりだった。しかし、自分が大人になってみると、やはり私が子どもの頃の大人たちとそんなに変わらないことをやっている。私はできるだけ子どもを叱らないようにして育ててきた。「テレビは仕事に疲れた大人が見て楽しむものだから、子どもはそんなに長く見なくてもいい」とか、勝手な理屈で子どもたちを押さえつけてきた。
5月5日と10月10日は、家族でハイキングに行く日と決めつけ、東海自然道など子どもにとってはかなり大変なコースを歩かせた。長女が大きくなると長電話が日常的となった。初めは放っておいたけれど、聞き耳を立てていたわけではないが、聞こえてくる話は全く今話すことが必要と思われないことばかりだ。先ほどまで一緒にいたのに、また同じことを繰り返している。「長電話はやめなさい!」と怒ったことがあったけれど、後から考えてみれば嫉妬からくる怒りだった。自分たちの子どもの頃にはできなかったことをやっている子どもへの嫉妬なのだ。
時代が違うのだから、それを認めなくてはならない。そこで私は、自分の価値観というか自分の考えというか自分の基準みたいなものについて、子どもたちに無理やり聞かせたし見せた。子どもたちに私の考えに従わせようというものではない。受け入れなくてもいい。少なくともあなたたちの父親とはこういう人だったと伝えておきたかった。どうしても生きてきた時代が違うし、考え方や価値観も違う。違って当たり前だ。同じだという方が気味が悪い。
テレビでは「子どもたちが未来に希望が持てない」ことを問題にしていた。毎日、テレビや新聞で、こんなにも未来がないような報道がされているのだから、子どもたちがそう思うのも無理はない。「子どもたちも責任を共有しているとを教えるべきだ」と言う人もいたけれど、子どもたちは大人社会を見ているのだから、大人がどんなに叫ぼうが憂ようが、彼らの時代は彼らしか作れない。だから私たちは自分が生きて見せるしかない。