小学校のクラス会は女7人、男5人だった。女の子は2年前よりも1人減り1人増えたが、男の子は3人も減った。そのうちの1人は亡くなっている。この2年間でもうひとり亡くなっているので、亡くなった人は9人になる。住所が分からなくて連絡できない人も5人いる。これだけ出席者が固定してきたのだから、クラス会ではなくて有志だけでやってもいいのではという意見もあった。返信ハガキには「次回はぜひ出席したい」と書いあったので、私としては連絡できる人には全員案内のハガキを出した方がよいと思う。
「毎回、次回は出ると言っている」と言う人もいたが、それでも出席したいと思っても案内が来なければ出にくい。まあ、そんなに手間がかかるわけではないのだから、案内だけは送っておきたい。今回は、6年の担任だった男の先生が来られなかった。奥さんの話では「出席は無理になってきている」というものであった。2年前は、クラス会の後でカラオケに出かけ、気持ちよさそうに歌ってみえた。先生が小学校の模型を作られたことを先回初めて知った。元気だったし、そんなに年老いたわけではないのに残念だ。
クラス会でみんなの話を聞いていると、どうして私たちの子ども世代はこんなにも結婚しないのだろうと思う。私たちクラスで結婚しなかった人はひとりもいなかったのに、子どもの半数は結婚していない。結婚したくないわけではなく、結婚しないままに40歳前後になってしまったというわけである。結婚が形式だというのであれば、同棲だっていいし、なんなら都合のよいときに付き合うだけでもいいと思うけれど、そもそも異性に対してそんなに強い関心がない。小学校5年生で、担任の女教師のブラウスを見て乳房を連想してしまっていた父親たちとどうしてそんなに差が生まれてしまったのだろう。
街を歩いてみれば、夏に向かっているせいもあるのだろうが、女性たちは極端に短いスカートを身につけている。女性たちがこれほど挑発しているのも男性たちがオスらしい関心を示さないからなのだろうか。素足の女性たちの足を見て、興奮するには年老いた男たちしかいないのだろうか。男性たちが女性に関心を示さないから、当然のように女性たちも仕事に生き甲斐を求める。この相互作用はますます非婚を進めている。
「我々もこの先どうなってしまうのだろう」と心配する友も多い。先のことなど誰にも分からない。九死に一生を得た友が「人生観が変った」と言う。「これからは人のために役に立ちたい」と。そんな仏のような心になるものなのかと感心する。死を直前にすると自己中心になる人と、彼のように他人のために何かをしたいと思う人と2通りになるようだ。私はどうなのだろうか。キリストを崇拝することはできるが、キリストのようには生きられそうにない。
この先がどんな世の中になっていくにしても、人は広い海浜の一粒の砂のような存在かも知れないが、一粒の砂にとっては自分の命は自分にしか存在しない。価値のある人生かどうかではなく、結局どう生きたかに尽きると思う。それを他人はどうこう言うことは出来ない。
「毎回、次回は出ると言っている」と言う人もいたが、それでも出席したいと思っても案内が来なければ出にくい。まあ、そんなに手間がかかるわけではないのだから、案内だけは送っておきたい。今回は、6年の担任だった男の先生が来られなかった。奥さんの話では「出席は無理になってきている」というものであった。2年前は、クラス会の後でカラオケに出かけ、気持ちよさそうに歌ってみえた。先生が小学校の模型を作られたことを先回初めて知った。元気だったし、そんなに年老いたわけではないのに残念だ。
クラス会でみんなの話を聞いていると、どうして私たちの子ども世代はこんなにも結婚しないのだろうと思う。私たちクラスで結婚しなかった人はひとりもいなかったのに、子どもの半数は結婚していない。結婚したくないわけではなく、結婚しないままに40歳前後になってしまったというわけである。結婚が形式だというのであれば、同棲だっていいし、なんなら都合のよいときに付き合うだけでもいいと思うけれど、そもそも異性に対してそんなに強い関心がない。小学校5年生で、担任の女教師のブラウスを見て乳房を連想してしまっていた父親たちとどうしてそんなに差が生まれてしまったのだろう。
街を歩いてみれば、夏に向かっているせいもあるのだろうが、女性たちは極端に短いスカートを身につけている。女性たちがこれほど挑発しているのも男性たちがオスらしい関心を示さないからなのだろうか。素足の女性たちの足を見て、興奮するには年老いた男たちしかいないのだろうか。男性たちが女性に関心を示さないから、当然のように女性たちも仕事に生き甲斐を求める。この相互作用はますます非婚を進めている。
「我々もこの先どうなってしまうのだろう」と心配する友も多い。先のことなど誰にも分からない。九死に一生を得た友が「人生観が変った」と言う。「これからは人のために役に立ちたい」と。そんな仏のような心になるものなのかと感心する。死を直前にすると自己中心になる人と、彼のように他人のために何かをしたいと思う人と2通りになるようだ。私はどうなのだろうか。キリストを崇拝することはできるが、キリストのようには生きられそうにない。
この先がどんな世の中になっていくにしても、人は広い海浜の一粒の砂のような存在かも知れないが、一粒の砂にとっては自分の命は自分にしか存在しない。価値のある人生かどうかではなく、結局どう生きたかに尽きると思う。それを他人はどうこう言うことは出来ない。