昨夜は欲張りパーティだった。長女の家は借家だが、小さいながらも庭付きである。アウトドア派のダンナはこの庭を芝生にしている。ここでバーべキューをやるためである。ボーイスカウトで鍛えた野外炊事の腕を生かし、早くも2台の七輪に炭火が起こされていた。テラスに臨時の電灯を設け、バーベキューは始まった。買って来た肉を焼き、いただいたタケノコも炭焼きで食べた。私はビールを飲みながら焼き手を務めたけれど、この時期の屋外バーべキューは寒くもなく暑くもなく、良い機会だった。
欲張りパーティーとなったのは、子どもの日とカミさんの誕生日と母の日の3つを兼ねたからである。洋菓子店では「母の日」ケーキが並べられていたそうだが、孫娘はここに「誕生日の名前も入れてもらっていいですか?」とたずねたのだ。さらに、隣の男の子がケーキにこいのぼりをつけてもらっていたので、「このケーキにもお願いします」と頼んだのだ。ケーキは小さいながらも3つの役割を担ってロウソクに火が点され、この日の主役であるカミさんによって吹き消された。
「食事を共にすることが人の最大のコミュニケーション」という話題から、話はどんどん広がっていった。とはいえ、そんな話題が好きなのは長女のダンナと私だけで、カミさんも娘たちもまたやっているくらいにしか思っていない。「人間が集団で生活をすることで、安全と食料を確保するようになったが、そういう例は猿はもちろんライオンにも見られる。けれど、食事をもてなすのは人間しかない」「集団でいることが合理的だと考え、それでいて個でいる方が有利と考えた奴が一番ずるい」「いや、個ではいられないのが人間じゃないか」「集団に属さない生き方の‥」。
ここまで来ると、どうも酔っ払って話すことではないような次元だ。動物はいつも「求める」。エサであったり、安全であったり、異性であったり。人間もまた動物の仲間だから当然「求める」ものは同じだ。さらに意識的に集団のトップを「求める」者もいる。されは集団を形成して生きている動物の性質なのかもしれない。動物の中で人間だけが決定的に違うのは、「与える」ということだろう。
食事でもてなすことも「与える」行為のひとつのように思う。人は思惑を持っての場合もあるけれど、そういうお駄賃を当てにしない一方的に「与える」ことを行なうことができる唯一の動物なのではないだろうか。人間は考えることができるとか、先を読むことができるとか、他の動物に見られない特性を持っているけれど、一番優れた特性は「与える」ことではないだろうかと私は思い至った。
さてそうなると、私はこれまで「求める」ことばかりだったけれど、時には一度でも「与える」ことが出来たのだろうかと不安になる。ひょっとして、「与える」なんてことは人間の特性なのではないのではないか、そう考える方が楽なようにさえ思えてくる。修行が足りないのか、器が小さいのか。困った。
欲張りパーティーとなったのは、子どもの日とカミさんの誕生日と母の日の3つを兼ねたからである。洋菓子店では「母の日」ケーキが並べられていたそうだが、孫娘はここに「誕生日の名前も入れてもらっていいですか?」とたずねたのだ。さらに、隣の男の子がケーキにこいのぼりをつけてもらっていたので、「このケーキにもお願いします」と頼んだのだ。ケーキは小さいながらも3つの役割を担ってロウソクに火が点され、この日の主役であるカミさんによって吹き消された。
「食事を共にすることが人の最大のコミュニケーション」という話題から、話はどんどん広がっていった。とはいえ、そんな話題が好きなのは長女のダンナと私だけで、カミさんも娘たちもまたやっているくらいにしか思っていない。「人間が集団で生活をすることで、安全と食料を確保するようになったが、そういう例は猿はもちろんライオンにも見られる。けれど、食事をもてなすのは人間しかない」「集団でいることが合理的だと考え、それでいて個でいる方が有利と考えた奴が一番ずるい」「いや、個ではいられないのが人間じゃないか」「集団に属さない生き方の‥」。
ここまで来ると、どうも酔っ払って話すことではないような次元だ。動物はいつも「求める」。エサであったり、安全であったり、異性であったり。人間もまた動物の仲間だから当然「求める」ものは同じだ。さらに意識的に集団のトップを「求める」者もいる。されは集団を形成して生きている動物の性質なのかもしれない。動物の中で人間だけが決定的に違うのは、「与える」ということだろう。
食事でもてなすことも「与える」行為のひとつのように思う。人は思惑を持っての場合もあるけれど、そういうお駄賃を当てにしない一方的に「与える」ことを行なうことができる唯一の動物なのではないだろうか。人間は考えることができるとか、先を読むことができるとか、他の動物に見られない特性を持っているけれど、一番優れた特性は「与える」ことではないだろうかと私は思い至った。
さてそうなると、私はこれまで「求める」ことばかりだったけれど、時には一度でも「与える」ことが出来たのだろうかと不安になる。ひょっとして、「与える」なんてことは人間の特性なのではないのではないか、そう考える方が楽なようにさえ思えてくる。修行が足りないのか、器が小さいのか。困った。