友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

子どもを思う親の気持ち

2010年05月26日 22時55分13秒 | Weblog
 子どもを思う親の気持ちは大変なものがある。親なら誰でも自分の子どもの幸せとか将来とかに思いを寄せて当たり前だろう。その思いが自分勝手なものでなければ美しいし、たとえ自分勝手なものであったとしても、子どもへの思いがそうさせているからと理解できる。けれども、他人事ではなく自分自身の事であれば、多くの親は自分が出過ぎないように遠慮するものだ。そうしてバランスは保たれ、共同の中で生きていられる。

 けれども最近の学校では、運動会ではあれほど「競技場内に入らないでください」と放送されているにもかかわらず、わが子の姿を撮影したい親の勝手な振る舞いが目立つ。ひとりがすれば、それなら私もとみんなが勝手な行動に出てしまう。ルールに従うことが馬鹿らしいことになる。そもそもルールなんてものは誰が何時決めたのか、親が子のために行なうことに誰が制限できるのか、と思っているようなところがある。

 私たちの世代はきっと、親が子のために行なうことなのにと思っていたとしても、世間体を考えて何も言わずにルールに従ってきた。しかし、私たちの子どもの世代は明らかに個人が先に立っている。私自身の感覚からすると、それは望むところであるけれど、それでもなぜかやり過ぎている感じもする。私のような個人主義的な感覚が自己中心主義というか自分勝手主義に様変わりしているように思う。

 電車に乗る時、私はまず並ぶ。むしろ後から乗る。乗っても席に座るよりも立っている。自動車の運転でも、割り込みたい車は入れてあげる。自分が少し我慢すればすむことなら、それを受け入れる。真っ先に乗り込み席を独占する。あるいは行列の中に無理やり割り込む。そういう人たちを嫌な人だと思うけれど、何が何でも許さないというような強い正義感はもう持っていない。誰よりも自分が可愛いのだろうけれど、それを他の人に押しつけてまで貫き通す意地はない。

 台湾旅行で私たちのグループはガイドさんの近く、つまり観光バスの前の方に陣取った。それはそれで良いと思うけれど、順番に後に移動し、みんながガイドさんの側にこられるようにすることが公平だと思う。ところが2日間も同じ席に留まっていたから、足の悪い姉には申し訳なかったけれど、後の席に着くようにお願いした。姉は納得できなかったかもしれないがそれがルールだと思う。しかし、私たちのグループもみんなが私のように考えたわけではなかった。

 「気を遣いすぎ」とか「そんなことは気にすることはない」というのが一般的なのかも知れないが、私には納得できない。他の人が気持ちよく過ごせるようにすることの方が大事なことだと思っている。「人には優しく、自分には厳しく」。そう子どもたちに言い聞かせてきた自分が、人の気持ちが汲めないような行為は出来ない。自分としては謙虚に生きているつもりでも、人から見れば誠に自分勝手に生きていることだろう。まあそれは、私自身が自分に誠実に生きているが故のことだと理解していただきたい。
コメント (2)
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