友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

病院の待合室で

2013年11月03日 19時11分37秒 | Weblog

 先日、病院の待合室で私と同年くらいの男の人がふたり、同級生なのかご近所の人なのか定かではないが、名前を挙げて近況を教え合っていた。「あいつさ、畑で突然倒れてさ、市民病院に運ばれたんだが知ってる?」。「ああ、カミさんが一緒だったからよかったけど、あいつひとりだったら助からんかったね」。「心臓が悪いなんて言っておったか?」。「知らなんだなあ」。「そういやぁよお、わしんとこの向かえの人も心臓が悪くて、ペースメーカーとかいうのを入れておったけど、この前亡くなったわ」。

 どうやらふたりの知り合いに、不整脈のためにペースメーカーを装着する手術を受けた人がいて、その知っているふたりともが最近亡くなったという話である。ペースメーカーの手術を受けた私としてはちょっと気になる会話だった。こんな会話を聞くと、最近私の心臓が時々痛むのはその前触れなのではないかなどと余計なことを考えてしまう。そんな時、テレビでシニア世代の野球の試合を見たという友だちが、「ペースメーカーを装着した人が全速力で走っていたけれど、平気なんだね」と言う。

 私の担当医者は「何をしても大丈夫ですよ」と言ったけれど、手術直後は何となく気になってじっとしていた。井戸掘りしている時も友だちが気を使って、突発的に力を要するような作業は代わってくれる。けれども、3人が一斉に力を合わせなければならない仕事もある。確かに瞬間的に力が要る時はちょっと息が上がる。時には心臓がチクリとする。「無理しなくてもいいよ」と先輩は声をかけてくれるけれど、甘えてばかりいては仕事にならない。70歳近くまで生きてきたこと自体が不思議で、充分だと思っている。

 日展の賞が割り振られているとか、有名ホテルの食材の偽装とか、つまらないことが多い。日展のことは関係者なら誰でも知っている。芸能の世界では師弟関係がものを言う。医者の世界だって、出身大学で閥が出来るという。人はひとりで生きるよりも仲間が多い方が助かる。グループをつくり、それを梃子に出世していく人もいる。それでも最後は、「あいつさ、死に際は惨めだったぜ」などとウワサになるようなことは嫌だ。何も出来なかったけれど、70歳近くまで生きてきた。それで充分だと思う。

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