友だちにピアノコンサートに誘われて出かけた。テーマは“Meine Liebe”、演奏者はオランダ出身のピアニスト、ファン・デン・フックさんだ。彼の妻は日本人で、友だちの娘さんの知り合いだそうだ。プログラムに調律師である娘さんの名前が入れてある。長身の彼は顔が小さく見える。しかし、手は大きい。プログラムの最後の曲はリストの『メフィストワルツ第1番』だったけれど、自動車のように超スピードで、驚くばかりの指の動きだった。ピアニストとしては最高の見せ場なのだろう。
ロマン派の作曲家たちの作品による「永遠の愛」をピアノ演奏で表現するコンサートだったけれど、私にはよく分からなかった。音で「愛」を表すことが分からない。激しい旋律、ゆったりとした流れ、テンポの切り替え、音の強弱、そこから連想が生まれるけれど、「愛」となるとさっぱり分からない。演奏家というのは、作曲家が作った曲をただ忠実に再現しているだけじゃーないか、昔はそう思っていた。
けれども、同じ作曲家の曲を演奏する人や楽団で全く表現が違うし、演奏する楽器によっても違う。演奏家は同じ譜面を見ても、感じるものが違うのだろう。自分はこんな風に感じると表現している。けれども、だから何なのかと思ってしまう。絵も小説も芝居も映画も、同じテーマ同じストーリーでもそれぞれに作者によって作品は違う。同じもので競い合うことはまずない。絵の場合なら、他の人が描いていないものを描かなければ模倣になってしまう。
模倣という作品のジャンルもあるけれど、それでもその作品には作者の何かの意図が隠されている。音楽というものはよく分からないが、たとえばビートルズを最初に聴いた時は、古典派・ロマン派という音楽の流れでは最も新しいと感じた。その後、生徒(高校生)に教えられたピンクフロイトを聴き、次世代の音楽だと思った。音楽には絵や小説にはない不思議な力がある。音を聴いただけで、元気付けられたり、希望を感じたり、心が豊かになったり、どうしてこんな現象が起きるのだろう。
さて明日は天候がよければ、また鉢の土の入れ替えを行なおう。ひとり黙々と作業していても頭に音楽は聞こえてこない。これは素養の問題なのかな?