昼間に台風の接近を体験することは滅多になかったので、テレビ情報と共に我が家の居間から見える景色をリアルタイムで見ていた。西側のルーフバルコニーの真ん中で、竜巻のように風が舞っている。午後3時半ごろ、南から強い風を受けて一瞬、直径1メートルはある大きな鉢のディイゴがグラリと揺れゆっくり倒れた。壁際に置いたから大丈夫と思っていた。枝をもう少し刈り込んでおけばよかったと、横倒しになった鉢を眺めてそう思った。
「済んでしまったことを後悔しても始まらない」と先輩なら言うだろうが、人間はなかなかそんなに割り切れない。パワハラを指摘された体操協会の塚原副会長は、告発した宮川選手の発言を「全部ウソ」と言い切ってしまい、それが問題になると、18歳の宮川選手に「言い方が悪かったので謝罪したい」とインタビューに答えていた。言葉がどうこうではなく、協会の重要ポストを夫婦が占めていることが問題なのに。
テレビでこの問題を取り上げていたが、暴力はいけないと言いながら、愛情があるか否かだと言う人もいた。私は大学生になったばかりの頃、高校の時の同級生がオルグに来たことを思い出す。彼は、「武器は人殺しの道具だから悪い奴が持てば凶器だが、いい奴が持てば凶器ではない」と言う。私が「武器は人を殺す凶器でしかない」と言い返すと、「誰が持つかだ」と言い、「アメリカ帝国主義の武器は人民を支配するが、ソ連の武器は人民を解放する」と言うので、「ハンガリーでは市民を殺した」と私が言うと、彼は「革命の暁には、お前は死刑だ」と宣告した。
愛情をもって暴力を振るってもそれは暴力ではないと言うのは愚かである。暴力はどのような下でもダメだとハッキリ言わなくてはならない。暴力によいものと悪いものがあるなどと言うから根絶できないのだ。武器は人殺しの道具なのに、良い人が持てば凶器ではないという考えを根絶しないと地上から武器を無くすことは出来ない。武力を持たずに平和はないという考えを棄てない限り平和はない。