友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ヒガンバナが咲いていた

2018年09月21日 17時05分26秒 | Weblog

 彼岸入りになり、気になっていたマンションの庭を見て来た。やっぱり咲いている。今年の夏は異常に暑かったから、ヒガンバナが咲くのはもっと遅くなるのだろうと勝手に思い込んでいた。いくらこの処、急に涼しさが増したとしても、ヒガンバナが咲く時を間違えないのはどうしてなのだろう。誰が植えたのか分からないが、白いヒガンバナも昨年以上に咲いている。

 私の子どもの頃も、ヒガンバナは必ず彼岸になると土手やお墓に咲いていた。曼殊沙華とか地獄花とか呼ばれていたので、仏さんのために咲く不幸な花のように思っていた。だから土手一面に咲くヒガンバナを「凄くキレイ」とは言えなかった。最近では花屋の店頭で見かけるし、庭に植えている人もいる。

    

 昨日のカタツムリも気になって、もう一度見に行くと、まだガラス窓の端の方にいた。それで気が付いた。窓枠の外に同じくらいの大きさのカタツムリが4匹ジッとしている。いや、本当はかすかに移動しているのだが、私の目には不動に見える。カタツムリは卵から孵化したはずだが、いったいこの地上30メートルの空中にどうやって来たのだろう。全く植えたことのない幼木が鉢で育つことがあるが、大方は鳥が落としていったフンから育ったと推測できる。カタツムリはどこから来たのか?

 安倍首相が自民党の総裁選で当選した。石破氏がよく善戦したとか、石破氏が得た党員票の意味は重いなどと新聞は書いているけれど、それは「自民党は多様な声」と装っているに過ぎない。安倍首相の「念願」である「70年間変えられなかった憲法改正」に着手するためだ。そのためには、消費税の引き上げを延期しても構わない覚悟だろう。「森友・加計問題」にもビクともしなかったのも、国民は「忖度はよくない」程度にしか思っていないためだ。明日も安泰ならそれでいい。それが人の本音だろう。ヒガンバナが毎年同じ時期に咲くように、繰り返すことに慣れているのだ。

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