朝から雨が降っている。風はまだ強くない。台風24号は沖縄を襲来し、東北へ向かっていると言う。市民のための市民講座を担ってきた大和塾の「メンバーで同窓会を」という声を受けて、10月26日に開催するハガキを出したけれど、まだ4人から返事が来ただけだ。新任で出会った7人の仲間の集いをいつ開こうかとハガキを出したのに、こちらもまだ返事が来ない。
みんな忙しいのか、あるいはどうでもいいのかも知れない。暇な私はただ待つだけ。恋しい恋しいと熱烈に思い続けていても、相手はそれほどでもなく、こちらの思いは伝わらないのが常だ。人種差別を扱ったフォークナーの『八月の光』、ボリス・ヴィアンの『お前らの墓につばを吐いてやる』を読んで、日本人作家の小説を読んでみたくなった。社会性よりも人の内面にあるものを描き、ノーベル賞作家となった川端康成氏の作品をと思ったが、我が家には『眠れる美女』しか見当たらない。
初めて読んだ時は、官能小説のように思った。老人と裸で眠らされている若い女性と怪しげな館の女しか登場してこない。裸の女性の指や髪や首、乳房や乳首あるいは肌の艶などの描写はあるが、それだけだ。それだけで充分に官能的な妄想に包まれてしまう。でも、川端氏がなぜこのような小説を書いたのか、私には理解できない。もちろん、主人公の老人は67歳だから、それよりも7歳も年上の私は男としては更に枯れているから、老人の欲望はよく理解できるが、年老いた男の悲哀を書いて何が生まれるのだろうと思ってしまう。
『眠れる美女』は昭和35年1月号の「新潮」に掲載された。川端氏は61歳である。そんな若い時に年老いた男の執念が本当に描けたのかと感心する。既に有名作家であったから、美しい女性たちを数多く知っていたことだろう。交わった女性も少なくなかったかも知れないが、そんなことを妄想させるのもやはり描写が克明で、読み手が勝手に想像していくからだろう。台風の来襲前なのに妙な静けさのこんな日は、川端作品を読むのにいいのかも知れない。