友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

フォークナーとカタツムリ

2018年09月20日 17時11分32秒 | Weblog

 アメリカのノーベル文学賞受賞作家のウィリアム・フォークナーの『八月の光』を読んでいる。光文社文庫の古典新訳で、黒原敏行さんという方が訳しているが、過去と現在が入り乱れ、心の呟きが各処に現れ、文章が長々と続くから、英文法に精通していなければ訳すことも難しいだろうと想像しながら読んでいる。

 ひとつの情景描写が何ページも続くと、読んでいる私の頭は混乱し、いったい何なのだろうと思えてくる。文庫本なのに700ページを超えていて、読み進めていくと前の人物との関係が見えてくる。だから、もっと早く先を読みたくなるのだが、そういえばこの話は確か前のどこかにあったと思い出すから、なかなか先に進めない。

 高校の時の新聞部の友だちで、どういう訳か放浪癖があったのか、カナダに居たことがある男がいる。その彼が「人類の始まりからの壮大な小説を書こうと思っている」と語ったことを思い出した。彼はフォークナーの『八月の光』を読んでいて、触発されたのではないかと思えるような、何代もの人間の生まれが書き刻まれている。

 「新聞部のお前たちには小説は書けない」と指摘した、文芸部の部長だった友だちは大学で英米文学を研究していたから、きっとフォークナーの作品は読んでいるのだろう。私たちが習ったというか、私が読んだことのある数少ない小説は、教科書などで取り上げられていた日本のものは情緒的で、欧米の作品は理屈っぽいように思う。

 まだ読みかけだが、登場してくる人物の誰に自分は近いのだろうなどと、すっかり人物に近寄っている。読み疲れて雨の降る景色を見たら、ガラス窓に1センチほどの小さなカタツムリがいた。いったいどこから来て、どこへ行くつもりなのだろう。(写真の中央)

  

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名古屋市美術館は長蛇の列だった

2018年09月19日 17時17分26秒 | Weblog

  まだ暑さはあるけれど、爽やかな秋の空に引き出されるように、名古屋市美術館で開催されている『至上の印象派展』を見ようと出かけた。ところが公営駐車場の前には入ろうとする車の長い列ができている。仕方ないと諦め、近くの民営の駐車場を探すと15分200円のところに1台空いていた。車を入れて美術館に向かうが、いつもと様子が違う。

 係の男性が「チケットをお持ちでない方は、こちらの列にお並びください」と大声で案内している。ざっと見ても300人近く並んでいる。「今日は特別ですか?」とその男性に話しかけると、「いいえ、このところいつもこんな調子です。コンビニでもチケットは買えますから、まず買ってから来られた方がいいですよ」と教えてくれた。

 ルノワールが描いた少女像『イレーヌ嬢』を見たいと思ったが、並んでまでも見る気がしなくて諦めた。展覧会は24日までしかないためか、いやそもそも日本人は印象派が好きだからか、随分と人気がある。キャンバスに油絵の具で描く絵は、印象派によって完成されたと言っていいと思う。技術だけを見れば職人芸といえる古典派の作品の方が優れている。

 ルネッサンスを経て、絵画や彫刻、音楽や芝居は作者の主張となり、いわゆる芸術となった。今朝のテレビでも、塩で描く絵が取り上げられていたが、表現方法や材料など他人の思いつかないものに変えなければ人々は驚かなくなった。現代アートの先輩は「絵画は終焉した」と言う。だから逆に写真と全く変わらない超写実な絵画が注目されるのもその裏返しだろう。

 係の男性は「午後3時過ぎには空いてきますよ」と親切に言ってくれたが、3時まで待つには時間があり過ぎる。ミリオン座で映画を見て、喫茶店でコーヒーを飲み、頃合いを見計らって美術館を訪れる、若い時ならそんなデートも苦にならないのに、すぐに諦めてしまう。やっぱり歳のせいだろう。

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樹木希林さんが逝去された

2018年09月18日 18時10分38秒 | Weblog

  安室奈美恵さんが引退し、樹木希林さんが亡くなった。ふたりが私の人生に何かの影響を与えたことはないが、安室さんはまだまだこれから先があるから興味深いし、樹木さんは過去の映像で特集が組まれるくらいだから、多くの人の心に届くものがあったことは確かだ。ふたりのように、多くの人の心を揺さぶる人生を送ることのできる人は滅多にいない。

 樹木さんは「周りのみんなが進学や就職で輝いていたので、自分も何かしたいと思って劇団に入った」と話していたから、何が何でも女優になりたいということではなかったのだろう。それでも演技をしてみると、いろいろアイディアが生まれてくるようで、脚本家や監督が思いもつかないセリフや仕草で個性派俳優になっていった。中日新聞には遅筆の向田邦子さんに、「筋だけ書いてよ、後はこっちでなんとかする」と言ってケンカになったエピソードが載っていた。

 筋が分かっていれば、俳優仲間のやり取りで、その場その場の会話や雰囲気の肉付けくらいできるから任せておいてという訳だが、凄い自信だと思う。小説を読んでいると、どういう展開になるのか気になる。登場人物のセリフや情景描写がなるほどと納得させる小説もあるが、ここのセリフはちょっと違うとか、この描写ではよく分からないと思うものもある。当然、前者は引き込まれるように読めるし、後者は飛ばし読みしても大丈夫になる。

 樹木さんは75歳、全身ガンだった。「ガンは着実に死ねるからいいよ」と言った人がいたが、そうであってもやっぱり壮絶な戦いであろう。樹木さんのようにガンであることを公表し、しかもそうであるがための役柄に挑戦する、いわば自分の死に際をみんなに見せる勇気は並大抵ではない。74歳の私としては、樹木さんほどの勇気もないし、生前の罪の重さもあり、苦しんで逝くことになるのだろうと想像してしまう。

 

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今日は敬老の日

2018年09月17日 17時41分47秒 | Weblog

  一日中家に居て、電話もメールもなくて、ずーと本読んで、時々テレビ見て、昼過ぎには横になって、何もしない生活なのに退屈とは感じなくなっている。ときめくものがある人は羨ましい。夢中になるものがある人は幸せだ。評論ものよりも小説を読むようになったのも、物語の世界に自分を置くことができるからだろう。

 男たちが女の話をする時、本人は気付いていないかも知れないが、たいていは自慢話だ。それにしても、よく次々と女に好意を抱けると思う人もいる。けれど本人は真剣に好きになっているのだから、人の気持ちは本人でなければ分からない。いや、本人も目先のことしかわかっていないのかも知れない。

 いつも一途な恋しかできない男がいる。よりによって、自分の娘ほどの女に恋してしまった。お茶目でひょうきんで、どこか間が抜けていて、よく笑う明るさに心惹かれたのだ。恋慕が強まれば当然抱きしめたくなり、自制心が効かなくなって告白してしまった。女は笑って、「私は主婦で、あなたは大黒柱」と言う。男は女を思い、諦めた。

 「今日は敬老の日だから、娘が送ってくれた日本酒を冷やしておいたから、刺身でも買ってきてくれないか」と男が頼むと、カミさんは「あなたが欲しいなら、あなたが買ってくればいいじゃーないですか」と言う。男は黙って、スーパーへ行く。道すがら新聞で見た記事のことを思い出した。夫婦の価値観について調査だ。

 「夫婦はどんなことがあっても離婚しない方がいい」という質問に、30年前は夫が68%妻が60%「はい」と答えたが、今は夫が55%妻が24%とあった。男はどんどん寂しくなる運命にあるようだ。

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気持ちのすれ違い

2018年09月16日 17時23分40秒 | Weblog

  私の知らない人がこのブログを読んでくれていても、いや、私の知っている人であっても、私は相手を想像することができない。「匿名でいいからコメントをください」と言っても、コメントしにくいのか滅多に来ない。一番新しいコメントでも今年の8月14日に、Unknownさんから送られてきた「1年前の記事にコメントするのもどうかと思ったけど、全部gmailね。ソフトバンクなんか使ってないよ」というものだ。

 私のところに送られてくる怪しげなメールについてのコメントである。「お金を受け取って欲しい」という女性からのメールは今も続いているが、送金代行窓口からのメールは途絶えた。ブログにしてもフェイスブックやツイッターにしても、一方通行の発信でやり取りがなければかなり寂しい。そう思ったら、恋愛と似ている気がした。自分の気持ちは大方が欲望だからよく分かるのに、たとえば好意を抱いてくれている相手に気付かない。

 好きで好きでたまらない女に男が、「抱かせてくれ」などと言えば、「何をバカなことを言うの。そんなに女が抱きたければ、お金出して抱かせる所に行けば」と女に怒鳴られるのがオチだ。女にしてみれば、「私をそんな安っぽい女だと思っているの」と腹が立ったのだろう。男はただ正直に自分の気持ちを吐露しただけなのに、気持ちが汲めずに絶交となってしまう。

 私が読んで欲しいとお願いした『さよなら オレンジ』には、男と女の恋愛は全く出てこなかったが、男が女をそして女が男をどう見ているかは描かれている。アフリカ難民の女性が、イタンジの職場監督に抱く淡い感情は恋だと私は思う。けれどふたりは自分の気持ちを現わさないし、現わすには至らないのだろう。相手を知ることで自分に気付くこともあるし、言葉を交わせばもっと理解し合えるのに。

 

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融通の利かない世代の呟き

2018年09月15日 17時36分46秒 | Weblog

 自民党総裁選挙で、安倍首相と石破氏の討論会が行われた。インターネットには、野党が石破氏にエールを送っているとあった。安倍首相が嫌いというだけで、石破氏を応援する神経が私には分からない。これでは、野党に支持が集まらないのは当然だろう。石破氏の主張をよく聞けば、安倍首相よりも「強い」国家観が見て取れる。

 要するに、安倍首相は憲法第9条に自衛隊を書き加えよと、石破氏は第9条の2項を削除し国軍を明記せよと、ふたりの考えにさほどの違いはなく、石破氏の主張はストレートと言える。そんな石破氏を野党が応援しているのだから、野党も憲法改正に同調していることになる。例え支持が少数であっても、正論を貫く政党であって欲しいと私は思うが…。

 沖縄県知事選挙も混沌としている。翁長前知事の意思を受け継ぐ玉城デニー氏は「辺野古に新たな基地は造らせない」と主張するが、自民・公明の支持を受ける佐喜真淳氏は「対立から対話へ」と主張し、辺野古については語らない。国との対立を続けてきた沖縄だが、県民の中に「焦燥」と「嫌気」が蔓延していることもあって、知事選の勝敗は分からない。

 圧倒的な安倍首相よりも勝ち目のない石破氏に共感してしまう野党も、米軍基地を無くして欲しいのに「基地や安全保障の問題は国が決めること」と棚上げにしてしまう沖縄県民も、どこか似ているように思う。「国民主権」なのだから、国の在り方は国民自身が決めるものなのに、「主権」はどこか遠くにある。

 私の市の夏祭りについても、「みんなで考えてみようよ」とはならなかった。台風のために2日間の祭りは1日だけになってしまったが、何事も無く「いつも通りに」終わった。面倒なことに自分がかかわるより、誰かがやってくれればその方が楽になる。そんな風潮が伸びてきている。イライラしているのは「融通の利かない古い世代」だけなのかも知れない。

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長良川鵜飼

2018年09月14日 17時08分53秒 | Weblog

 

 長良川鵜飼は1300年余の伝統がある。風折烏帽子に腰蓑姿の鵜匠は、宮内庁式部職鵜匠に任命され世襲である。篝火を燃やして暗い川を漕ぎながら、10羽の鵜を操る漁法は優雅にさえ見える。鵜飼の観光船で隣の男性から話しかけられた。男性は「今、鵜飼は衰退している」と言う。「観光客が岐阜を通り越して、下呂や高山に行ってしまっている」とも嘆く。

 「鵜飼の伝統を維持するためには、観光客にゆっくりと鵜飼の良さを見てもらう演出と、この周りの鵜飼の背景を整備する必要がある」。「私は子どもの頃から何度も鵜飼を見に来ているが、市はもっと真剣に取り組む必要がある」。「鵜匠は宮内庁の職員で世襲だから、給与も身分も保障されているが、観光船を操る船頭さんはこの仕事が好きでなくては出来ない。オフの時は仕事が無いのだから、市の職員として身分保障しないとなり手がいなくなる」。

 鵜飼をこよなく愛するこの男性はさらに、「今はねえ、ユネスコの文化遺産に登録させることで、起死回生を図ろうとしているが、岐阜市を挙げて、市民全体で、長良川鵜飼を盛り上げないとダメだね」と、お酒のせいもあってどんどん饒舌になる。前に座っている女性もそんな男性の演説をニコニコ顔で聞き入っている。お似合いのふたりだが、夫婦ではないような気配がする。

 下船して別れ際に、「今日はありがとうございました」と私が礼を言うと、男性は「また、会いましょう」と言い握手を求めた。女性の方は終始ニコニコ顔で男性を見つめている。男性はわたしと変わらない歳だろうが、女性は50歳になっていないだろう。小柄で色白な目のパッチとした魅力的な女性だ。男性が「何度も鵜飼を見に来ている」と言っていたのに、女性は「初めて見ました」と言う。物語がありそうな雰囲気が漂ってきた。

 暗い川面の向こうは真っ黒な金華山で、その頂にライトアップされた岐阜城が白く見える。ふたりはどこへ行くのだろう。他人のことなど気にしてはならないのに、ふとそんなことを考えてしまった。

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運動会の行進練習

2018年09月13日 16時05分02秒 | Weblog

  曇り空だったので運動会の練習にはもってこいだった。運動場では朝早くから、全体練習と各学年ごとの練習が繰り返し行われた。運動会の当日、子どもたちが迷わないように、入場から退場まで、先生たちは厳しく指導していた。全体で歌う校歌は相変わらず、「もっと大きな声で、元気よく」と檄が飛ぶ。いい歌なのに、そんなに怒鳴るように歌うことないのにといつも思う。

 行進練習もそうだ。「前へ進め」の掛け声でピタリと動き、先生の吹く笛のリズムに全員がひとつになって動く。ひとりでもぎこちなく動けば、「合っていない」と注意が飛び、何度も繰り返し練習する。停止する時も必ず、「イチ、ニ」で止まる。出来なければもちろんやり直しだ。子どもたちも前を見つめ、声を合わせて真剣そのものだ。

 私は教育実習で小学校へいったことはあるが、運動会の時期ではなかったので、こうした行進練習にどんな教育的効果があるのか知らない。知らないというより懐疑的だ。まるで北朝鮮の軍事パレードみたいと思ってしまう。一糸乱れぬ行進は、「みんなを見に来てくれるお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんにしっかり見てもらおう」と、先生は意味付けしていた。

 「ピッ、ピッ」と自分の吹く笛で、機械のように動かせることに先生は満足かも知れないが、何度も同じことをさせられる子どもたちは気の毒だ。私は小学生の時も、中学生の時も、どうしてこんなに行進練習をしなくてはいけないのかと思ったのに、口には出さず、黙々と従った。高校で生徒会長になって、自分の前をみんなが隊列を組んで行進するのをちょっと得意になって眺めた。

 どうやら人間は高い所に立つと、なぜかエラクなったように思ってしまう。たいしたことのない人間でも、何かの弾みで高い所に祭り上げられると、それだけで格別な存在になったと錯覚してしまう。そんなことを思いながら、先生たちの厳しい檄を聞いていた。運動会はいつ行われるのだろう。

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女優の三田佳子さんの次男

2018年09月12日 17時12分05秒 | Weblog

  スカッと気持ちのよい秋晴れの空が現れないので、こちらが何だか憂鬱になる。女優の三田佳子さんの次男が、覚せい剤使用容疑で4度目の逮捕となった。1度目は18歳の高校生の時で、自宅の地下室で使用し、2度目は20歳の大学生で、同じ地下室で仲間と集まって使用したという。テレビで三田さんが謝罪しているのを見たように思う。

 父親はNHKのプロヂューサーというから、学歴の高い人だろう。高校生で覚せい剤使用とは驚く。長男は問題を起こしていないのだから、次男に対しては明らかに育て方を間違えたと思う。自宅の地下室をパーティー会場に使われていたのに、気が付かなかったことに顕著に表れている。大学生に月に30万円もの小遣いを与えている感覚が異常だ。

 もうすぐ40歳になろうとする次男は、男の子の父親でもある。「どうしたら、彼を救えるのでしょう」と三田さんは言っていたが、孫の男の子を救うことは出来ても、次男を救うことは無理ではないだろうか。刑務所とその後は厚生施設で過ごす以外ない。親としてはやりきれない気持ちだろうが、もう今更どうすることも出来ないだろう。孫をきちんと育てるために、みんながスクラムを組む他ない。

 犯罪を犯すと必ず、親はどんな子育てをしたのかと問題視される。当然のことだ。子どもは親の血を受け、親の考えの下で育てられる。思春期になって、初めて自分と向き合うようになるが、それは同時に家族と向き合うことでもある。そして20歳に過ぎれば、もう責任ある個人で、親がどうこう出来る存在ではない。親子であっても、個人と個人なのだ。

 だから逆に、親が何かしでかしたとしても、当然だが子に責任など無い。親子であることは何も変わらないが、個々の人間なのだと考える方がいい。家族で仲良く暮らしてきても、子はいつか巣立っていくし、親もいつまでも元気でいる訳ではない。「生まれ」と「別れ」は一体のものなのだから。

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SNSの世界に期待する

2018年09月11日 17時21分48秒 | Weblog

  街の写真屋さんは若いのに面白い人だ。フィルムを扱う写真屋さんが無くなったので、彼はひとりで朝から晩まで現像とプリントに追われている。一日中ひとりでいるせいか、私が顔を出すといろいろと話しかけてくる。プリントした写真を袋詰めしながら、写真の主の話をし始めた。

 私と同じくらいの歳のその依頼主は、息子からタブレッドを与えられ、「息子さんや娘さん、孫たちからたくさんの写真が送られてくるが、『どうしてもプリントして見たい』と持ってみえる」と話す。私も同じでタブレッドで見ても、いいねと思うものはプリントしておきたくなる。

 「この頃はみんな持ってるじゃーないですか。下向いて画面しか見てない。ここでは顔と顔を見て話すようにしているんです」と言う。誰もが発信者になれる。台風の時の凄まじい映像がテレビで流されたが、多くは素人が写してSNSで発信したものだ。新聞はたくさんの記者・カメラマン・校閲者・編集者がいて、さらに印刷するから資金がなければ発行できない。

 SNSの世界では、資格も中身の正確さも全く関係ない。トランプ大統領が「新聞やテレビは嘘つき」とツイッターで発信し、支持を集めているがうまい手だと思う。SNSを規制すべきだと言う人もいるが、私は反対だ。どんなデマや誹謗中傷であっても、発信することを規制すべきではない。人間はいつか、何が正しくて何が間違っているか、受け取る側がまず判断できるようになること、そうすれば発信する側は自らを高めていくことになる。

 誰もが発信者になれるのは人類史上初めてのことだ。この画期的な権利を活かせないのであれば人類は滅びの道を進むしかない。ルーフバルコニーの鉢のどこからか、虫の音が聞こえる。地上30メートルはあるこのバルコニーにどうやってやって来たのか不思議だが、やっぱり秋になってきたと実感する。

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