楽天やファーストリテイリングが英語を社内公用語化する方針であることを相次いで発表し、話題になりました。楽天の三木谷社長は、記者会見で、国際事業戦略の説明をわざわざ英語で行うほどの気合いの入れようです。こうした動きに対して、このレベルの英語しか喋れないのに英語を公用語にしようとは「楽天的」と皮肉る声があがったり、社員食堂のメニューでUdonはないだろう(Noodleなら分かるが)と揚げ足とりの声が出たりするなど、感情論を含めて賛否両論が渦巻いています。とりわけ文化多元主義の立場から、また英語至上主義さらには英語帝国主義に反発する気持ちから、否定的な見解が多く見られますが、こうした状況自体が、日本の置かれている特殊な事情を反映していると言えそうです。
確かに楽天が求める基準は、入社3年目程度でTOEICのスコア600点、管理職級で700点、執行役員候補級で750点以上と、それほどハードルが高いわけではありません。柳井さんも、海外で業務ができる最低限の基準としてTOEICのスコア700点を挙げていて、この程度で大丈夫かと却って心配なほどです。しかしアジアで活躍する華人系ビジネス・パーソンを見れば分かるとおり、英語を母国語としない“外国人”の英語として、三木谷さんの英語は十分だと思います。瑣末な話ですがUdonまたはUdon Noodleは海外でも認知が進んでおり、おかしいわけではなく、まさにこの一事に象徴されるように、何でもかんでも英単語に翻訳しなければならなかった50年前の世界ではなく、日本をはじめとするアジアをルーツとするものが海外に広く行き渡り、ある場合には一部の日本語が英語化し、またある場合には英語が崩れて、母国語ではないブロークンな英語が受け入れられやすい、垣根が随分低くなった現代の英語世界に我々は接しているわけです。ビジネスの世界でグローバルたらんとすれば、コミュニケーション・ツールを英語に統一するのはやむを得ない判断であり、先ずは、日本発でそれなりの規模をもった企業が、こうした方針を打ち出す覚悟を決めたことは、画期的であり、敬意を表したいと思います。
問題は、グローバルたり得るためには、言葉にとどまらず、人事などの諸制度や行動様式そのものをグローバルに変えて行くという、日本企業として多大の困難に立ち向かわなければならないところにあります。更にグローバルを推し進めると、実はローカルにきめ細かく対応しなければならないという逆説もありますが、今回は触れません(日本の外資系企業で必ずしも英語が公用語ではないのもそのせいでしょう)。
かつて日本が太平洋戦争で敗北した原因は、政略上および軍略上、さまざまに究明がなされていますが、アジア進出という事業経営の視点で見ても、面白い分析が出来るように思います。それは煎じ詰めると、大航海時代以来のグローバル慣れした欧米との経験の差に行き着くように思います。4月にアメリカ出張した折り、プエルトリコ出身の現地人社員といろいろ話す機会があって、晩飯の時、ふと、プエルトリコではどんな食事をするのかと聞いたら、スペイン料理だと言われて、ハッとしました。グローバリゼーションは、良し悪しの価値判断は別にして、強い文化が弱い文化を淘汰するものだと、あらためて感じるとともに、一方で、世界は、ポルトガルやスペインやオランダやイギリスなどのありように親しさを感じるのも事実だろうと思ったのです。言い換えると、こうした500年以上にわたる歴史を通してグローバル化の行動様式が洗練されたと言うべきか(繰り返しますが、支配された現地にとって良いか悪いかの価値判断は別です)。もっと言えばパックス・ロマーナのDNAすらも受け継がれているかも知れません。
楽天の役員構成は全て日本人ではないかと揶揄する声もありますが、何はともあれ、日本企業であった楽天が世界企業へと脱皮しようと宣言したものと受け止めるべきであり、三木谷社長としては、先ずは社員の意識改革が課題であり重要であると思ったに違いありません。楽天にしろファーストリテイリングにしろ、世界企業としての真価が問われるのは、まだもっと先の話でしょう。
確かに楽天が求める基準は、入社3年目程度でTOEICのスコア600点、管理職級で700点、執行役員候補級で750点以上と、それほどハードルが高いわけではありません。柳井さんも、海外で業務ができる最低限の基準としてTOEICのスコア700点を挙げていて、この程度で大丈夫かと却って心配なほどです。しかしアジアで活躍する華人系ビジネス・パーソンを見れば分かるとおり、英語を母国語としない“外国人”の英語として、三木谷さんの英語は十分だと思います。瑣末な話ですがUdonまたはUdon Noodleは海外でも認知が進んでおり、おかしいわけではなく、まさにこの一事に象徴されるように、何でもかんでも英単語に翻訳しなければならなかった50年前の世界ではなく、日本をはじめとするアジアをルーツとするものが海外に広く行き渡り、ある場合には一部の日本語が英語化し、またある場合には英語が崩れて、母国語ではないブロークンな英語が受け入れられやすい、垣根が随分低くなった現代の英語世界に我々は接しているわけです。ビジネスの世界でグローバルたらんとすれば、コミュニケーション・ツールを英語に統一するのはやむを得ない判断であり、先ずは、日本発でそれなりの規模をもった企業が、こうした方針を打ち出す覚悟を決めたことは、画期的であり、敬意を表したいと思います。
問題は、グローバルたり得るためには、言葉にとどまらず、人事などの諸制度や行動様式そのものをグローバルに変えて行くという、日本企業として多大の困難に立ち向かわなければならないところにあります。更にグローバルを推し進めると、実はローカルにきめ細かく対応しなければならないという逆説もありますが、今回は触れません(日本の外資系企業で必ずしも英語が公用語ではないのもそのせいでしょう)。
かつて日本が太平洋戦争で敗北した原因は、政略上および軍略上、さまざまに究明がなされていますが、アジア進出という事業経営の視点で見ても、面白い分析が出来るように思います。それは煎じ詰めると、大航海時代以来のグローバル慣れした欧米との経験の差に行き着くように思います。4月にアメリカ出張した折り、プエルトリコ出身の現地人社員といろいろ話す機会があって、晩飯の時、ふと、プエルトリコではどんな食事をするのかと聞いたら、スペイン料理だと言われて、ハッとしました。グローバリゼーションは、良し悪しの価値判断は別にして、強い文化が弱い文化を淘汰するものだと、あらためて感じるとともに、一方で、世界は、ポルトガルやスペインやオランダやイギリスなどのありように親しさを感じるのも事実だろうと思ったのです。言い換えると、こうした500年以上にわたる歴史を通してグローバル化の行動様式が洗練されたと言うべきか(繰り返しますが、支配された現地にとって良いか悪いかの価値判断は別です)。もっと言えばパックス・ロマーナのDNAすらも受け継がれているかも知れません。
楽天の役員構成は全て日本人ではないかと揶揄する声もありますが、何はともあれ、日本企業であった楽天が世界企業へと脱皮しようと宣言したものと受け止めるべきであり、三木谷社長としては、先ずは社員の意識改革が課題であり重要であると思ったに違いありません。楽天にしろファーストリテイリングにしろ、世界企業としての真価が問われるのは、まだもっと先の話でしょう。