風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ケビン・メアの弁明(前編)

2011-11-05 11:16:45 | たまに文学・歴史・芸術も
 「沖縄人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人」などと差別的な発言をしたことの責任を取ってアメリカ国務省日本部長を辞任したケビン・メア氏(元・沖縄総領事)の「決断できない日本」(文春新書)を読んで、誰がゴースト・ライターだったのだろうかと、つらつら考えていたら、WILL12月号に掲載されている櫻井良子さんとケビン・メア氏の「『決断できない』野田総理」という対談の中で、櫻井さんが、文芸春秋の担当編集者の話によると、この本はメア氏が語ったままの日本語を文字にしたものだ、と言われているのを見て、些か驚かされました。
 確かにメア氏は、日本人の奥様をもち、日本滞在が19年にも及ぶ知日家だそうで、それなりの機微をもって語ったことを文字に起こすのに、それほどの造作は必要なかっただろうと想像されます(それでも、どこまでが本人の発言かの疑問は残りますが)。そして「ゆすり」発言に戻ると、日本に長く住む外国人が、おまけに日本人の妻を娶って、日本のことを悪しざまに言うのは、合理性の観点から、私には俄かに信じられません。それに近い誤解を招くもののいいがあったのは事実でしょうが、残念ながら左翼系のメディア(記者、あるいはその背後の勢力があったかどうか知りませんが)に嵌められた部分はあったのだろうと思われます。
 実際に、沖縄に住んでいない私には、メディアを通して声が大きい人の言葉しか伝わらないので、沖縄の人たちが実際にどう思っているのか分からなくて、軽はずみなことは言えませんし、米軍を、大日本帝国軍から解放したとして今なお感謝する人(本文にかかる記述あり)がどれだけいるのか想像もつきません。複雑な過去をもち、日本の、ひいては北東アジア地域の冷戦構造を日本において今なお凝縮して引き摺っていて、現代の私たちの想像を絶する、というのが正直なところです。それを象徴するエピソードが、普天間基地移設を巡る問題で、目の前にある学校が危険なので日本政府が移転させようとしたところ、当の宜野湾市長が移転に反対するのは、学校を移転したら基地反対を叫べなくなるからだと言う、メア氏はこれこそ革新系地方政治家の正体だと喝破しますが、原発の議論でも出てくるかのような、学校をすら政争の具にする本末転倒の摩訶不思議と言うべきでしょう(注:前・宜野湾市長は、名誉毀損容疑でメア氏を告訴)。
 思えば日本には多くの不作為があり、原発をまともに議論して来なかったのもその一つですし、沖縄に真正面から取り組んでこなかったのもその一つで、日本においては何故か原子力や安全保障論議がタブー視されてしまいます。その不毛さはGDP(当時はGNPだったかも知れない)1%という防衛予算枠が国策だった時期があるところに端的に表れていて、形式的には枠がなくなった今も実質的には変わらなくて、日本が置かれた地政学的な難しさや安全保障の何たるかは多少なりとも然るべきところで議論されているのでしょうが、そこから国防の装備の必要性を考えるのではなく、先ずは予算ありき、まるで家庭の主婦や主夫が、そもそも稼ぎをどうするとかどこに住むとかどういう生活設計をするなどを考えるよりも、とりあえず今の稼ぎで家計をやりくりするのに似た自転車操業的な近視眼性と戦略不在を思わせます。実はこれは日本だけに起因する問題ではなく、太平洋戦争の敗北を機に、歴史観を塗り替え思想的に統制してきた戦後統治の問題でもあります。アメリカの日本に対する戦略的な「意図」は、当然のことながら本書の中では触れられることはほとんどなく、あるのは「トモダチ作戦」をアメリカの善意とのみ記述するだけの偽善です。
 本書の目的は、「ゆすり」発言のメア氏の名誉回復を図ることが先ず第一であり、それ以外にも過去に率直に語ってきたがためにマスコミ(とりわけ地元・沖縄のメディア)が意図的に捻じ曲げてきたメア氏の発言の真意をただすことを主眼にしたもので、それはそのまま、在日米軍を巡るアメリカ側の宣伝臭さはあるものの、国務省や国防総省の「公式」のスタンスを伝えるものであり、その結果として、普段、新聞などではなかなか報道されにくい事実関係に言及されているなど、偏った報道を矯正し、沖縄の基地問題を多少なりとも公平に、かつ多面的に再構成することが出来るという意味での良書にはなっていると思います。
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